Author: 村上 春樹  

Tags: 小説、文学  

Year: 1987

Text
                    ノルウェーの森
村上春樹
第一章
僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大
な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとして
いるところだった。十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備
工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何
もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、またドイ
ツか、と僕は思った。
飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカ ーから小
さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビート
ルズの 『ノルウェイの森』だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱さ
せた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。
僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのま
まじっとしていた。やがてドイツ人のスチュワーデスがやってきて、気分がわるいのかと
英語で訊いた。大丈夫、少し目まいがしただけだと僕は答えた。
「本当に大丈夫」
「大丈夫です、ありがとう」と僕は言った。スチュワーデスはにっこりと笑って行っ
てしまい音楽はビリー・ジョエルの曲に変った。僕は顔を上げて北海の上空に浮か
んだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを
考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。
飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れの中から
バッグやら上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。僕は草
の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。それは一九六九年の秋で、僕は
もうすぐ二十歳になろうとしていた。
前と同じスチュワーデスがやってきて、僕の隣りに腰を下ろし、もう大丈夫か
と訊ねた。
「大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだからIt’s all right now.


Thank you. I only felt lonely, you know.」と僕は言って微笑んだ。 「Well, I feel same way, same thing, once in a while. I know what you mean.そういうこと私にもときどきありますよ。よくわかります」彼女はそう言って首を 振り、席から立ちあがってとても素敵な笑顔を僕に向けてくれた。「I hope you’ll have a nice trip. Auf Wiedersehen!よい御旅行を。さようなら」 「Auf Wiedersehen!」と僕も言った。 十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景を はっきりと思いだすことができる。何日かつづいたやわらかな雨に夏のあいだのほこり をすっかり洗い流された山肌は深く鮮かな青みをたたえ、十月の風はすすきの穂 をあちこちで揺らせ、細長い雲が凍りつくような青い天頂にぴたりとはりついていた。 空は高く、じっと見ていると目が痛くなるほどだった。風は草原をわたり、彼女の髪 をかすかに揺らせて雑木林に抜けていった。梢の葉がさらさらと音を立て、遠くの方 で犬の鳴く声が聞こえた。まるで別の世界の入口から聞こえてくるような小さくかす んだ鳴き声だった。その他にはどんな物音もなかった。どんな物音も我々の耳には 届かなかった。誰一人ともすれ違わなかった。まっ赤な鳥が二羽草原の中から何 かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでいくのを見かけただけだった。歩 きながら直子は僕に井戸の話をしてくれた。 記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていた とき、僕はそんな風景に殆んど注意なんて払わなかった。とくに印象的な風景だと も思わなかったし、十八年後もその風景を細部まで覚えているかもしれないとは 考えつきもしなかった。正直なところ、そのときの僕には風景なんてどうでもいいよう なものだったのだ。僕は僕自身のことを考え、そのときとなりを並んで歩いていた一 人の美しい女のことを考え、僕と彼女とのことを考え、そしてまた僕自身のことを考 えた。それは何を見ても何を感じても何を考えても、結局すべてはブーメランのよう に自分自身の手もとに戻ってくるという年代だったのだ。おまけに僕は恋をしてい て、その恋はひどくややこしい場所に僕を運びこんでいた。まわりの風景に気持を 向ける余裕なんてどこにもなかったのだ。 でも今では僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。草の匂い、 かすかな冷やかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがまず最初に 浮かびあがってくる。とてもくっきりと。それらはあまりにくっきりとしているので、手をの ばせばひとつひとつ指でなぞれそうな気がするくらいだ。しかしその風景の中には人 の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。我々はいったいどこ
に消えてしまったんだろう、と僕は思う。どうしてこんなことが起りうるんだろう、と。あ れほど大事そうに見えたものは、彼女やそのときの僕や僕の世界は、みんなどこに 行ってしまったんだろう、と。そう、僕には直子の顔を今すぐ思いだすことさえできな いのだ。僕が手にしているのは人影のない背景だけなのだ。 もちろん時間さえかければ僕は彼女の顔を思いだすことができる。小さな冷 たい手や、さらりとした手ざわりのまっすぐなきれいな髪や、やわらかな丸い形の耳 たぶやそのすぐ下にある小さなホクロや、冬になるとよく着ていた上品なキャメルの コートや、いつも相手の目をじっとのぞきこみながら質問する癖や、ときどき何かの 加減で震え気味になる声まるで強風の吹く丘の上でしゃべっているみたいだった や、そんなイメージをひとつひとつ積みかさねていくと、ふっと自然に彼女の顔が浮 かびあがってくる。まず横顔が浮かびあがってくる。これはたぶん僕と直子がいつも 並んで歩いていたせいだろう。だから僕が最初に思いだすのはいつも彼女の横顔 なのだ。それから彼女は僕の方を向き、にっこりと笑い、少し首をかしげ、話しか け、僕の目をのぞきこむ。まるで澄んだ泉の底をちらりとよぎる小さな魚の影を探し 求めるみたいに。 でもそんな風に僕の頭の中に直子の顔が浮かんでくるまでには少し時間が かかる。そして年月がたつにつれてそれに要する時間はだんだん長くなってくる。哀 しいことではあるけれど、それは真実なのだ。最初は五秒あれば思いだせたのに、 それが十秒になり三十秒になり一分になる。まるで夕暮の影のようにそれはどんど ん長くなる。そしておそらくやがては夕闇の中に吸いこまれてしまうことになるのだろ う。そう、僕の記憶は直子の立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるのだ。ちょ うど僕がかつての僕自身が立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるように。そし て風景だけが、その十月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシー ンみたいにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。そしてその風景は僕の 頭のある部分を執拗に蹴りつづけている。おい、起きろ、俺はまだここにいるんだ ぞ、起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのかというその理由を。痛 みはない。痛みはまったくない。蹴とばすたびにうつろな音がするだけだ。そしてその 音さえもたぷんいつかは消えてしまうのだろう。他の何もかもが結局は消えてしまっ たように。しかしハンブルク空港のルフトハンザ機の中で、彼らはいつもより長くいつ もより強く僕の頭を蹴りつづけていた。起きろ、理解しろ、と。だからこそ僕はこの文 章を書いている。僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく 理解できないというタイプの人間なのだ。 彼女はそのとき何の話をしていたんだっけ
そうだ、彼女は僕に野井戸の話をしていたのだ。そんな井戸が本当に存在 したのかどうか、僕にはわからない。あるいはそれは彼女の中にしか存在しないイ メージなり記号であったのかもしれない――あの暗い日々に彼女がその頭の中で 紡ぎだした他の数多くの事物と同じように。でも直子がその井戸の話をしてくれた あとでは、僕ほその井戸の姿なしには草原の風景を思いだすことができなくなって しまった。実際に目にしたわけではない井戸の姿が、僕の頭の中では分離すること のできない一部として風景の中にしっかりと焼きつけられているのだ。僕はその井 戸の様子を細かく描写することだってできる。井戸は草原が終って雑木林が始ま るそのちょうど境い目あたりにある。大地にぽっかりと開いた直径一メ ートルばかりの 暗い穴を草が巧妙に覆い隠している。まわりには柵もないし、少し高くなった石囲 いもない。ただその穴が口を開けているだけである。縁石は風雨にさらされて奇妙 な白濁色に変色し、ところどころでひび割れて崩れおちている。小さな緑色のトカ ゲがそんな石のすきまにするするともぐりこむのが見える。身をのりだしてその穴の中 をのぞきこんでみても何も見えない。僕に唯一わかるのはそれがとにかくおそろしく 深いということだけだ。見当もつかないくらい深いのだ。そして穴の中には暗黒が ―― 世の中のあらゆる種類の暗黒を煮つめたような濃密な暗黒が――つまって いる。 「それは本当に――本当に深いのよ」と直子は丁寧に言葉を選びながら 言った。彼女はときどきそんな話し方をした。正確な言葉を探し求めながらとても ゆっくりと話すのだ。「本当に深いの。でもそれが何処にあるかは誰にもわからない の。このへんの何処かにあることは確かなんだけれど」 彼女はそう言うとツイードの上着のポケットに両手をつっこんだまま僕の顔を 見て本当よという風ににっこりと微笑んだ。 「でもそれじゃ危くってしようがないだろう」と僕は言った。「どこかに深い井戸 がある、でもそれが何処にあるかは誰も知らないなんてね。落っこっちゃったらどうし ようもないじゃない か」 「どうしようもないでしょうね。ひゅうううう、ボン、それでおしまいだもの」 「そういうのは実際には起こらないの」 「ときどき起こるの。二年か三年に一度くらいかな。人が急にいなくなっ ちゃって、どれだけ捜してもみつからないの。そうするとこのへんの人は言うの、あれ は野井戸に落っこちたんだって」
「あまり良い死に方じゃなさそうだね」と僕は言った。 「ひどい死に方よ」と彼女は言って、上着についた草の穂を手で払って落と した。「そのまま首の骨でも折ってあっさり死んじゃえばいいけれど、何かの加減で 足をくじくくらいですんじゃったらどうしようもないわね。声を限りに叫んでみても誰に も聞こえないし、誰かがみつけてくれる見込みもないし、まわりにはムカデやクモやら がうようよいるし、そこで死んでいった人たちの白骨があたり一面にちらばっている し、暗くてじめじめしていて。そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さ く小さく浮かんでいるの。そんなところで一人ぼっちでじわじわと死んでいくの」 「考えただけで身の毛がよだつた」と僕が言った。「誰かが見つけて囲いを作 るべきだよ」 「でも誰にもその井戸を見つけることはできないの。だからちゃんとした道を 離れちゃ駄目よ」 「離れないよ」 直子はポケットから左手を出して僕の手を握った。「でも大丈夫よ、あなた は。あなたは何も心配することはないの。あなたは闇夜に盲滅法にこのへんを歩き まわったって絶対に井戸には落ちないの。そしてこうしてあなたにくっついている限 り、私も井戸には落ちないの」 「絶対に」 「絶対に」 「どうしてそんなことがわかるの」 「私にはわかるのよ。ただわかるの」直子は僕の手をしっかりと握ったままそう 言った。そしてしばらく黙って歩きつづけた。「その手のことって私にはすごくよくわかる の。理屈とかそんなのじゃなくて、ただ感じるのね。たとえば今こうしてあなたにしっか りとくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘 おうとはしないのよ」 「じゃあ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか」と僕は言った。
「それ――本気で言ってるの」 「もちろん本気だ」 直子は立ちどまった。僕も立ちどまった。彼女は両手を僕の肩にあてて正 面から、僕の目をじっとのぞきこんだ。彼女の瞳の奥の方ではまっ黒な重い液体が 不思議な図形の渦を描いていた。そんな一対の美しい瞳が長いあいだ僕の中を のぞきこんでいた。それから彼女は背のびをして僕の頬にそっと頬をつけた。それは 一瞬胸がつまってしまうくらいあたたかくて素敵な仕草だった。 「ありがとう」と直子は言った。 「どういたしまして」と僕は言った。 「あなたがそう言ってくれて私とても嬉しいの。本当よ」と彼女は哀しそうに微 笑しながら言った。「でもそれはできないのよ」 「どうして」 「それはいけないことだからよ。それはひどいことだからよ。それは――」と言 いかけて直子はふと口をつぐみ、そのまま歩きつづけた。いろんな思いが彼女の頭 の中でぐるぐるとまわっていることがわかっていたので、僕も口をはさまずにそのとなり を黙って歩いた。 「それは――正しくないことだからよ、あなたにとっても私にとっても」とずいぶ んあとで彼女はそうつづけた。 「どんな風に正しくないんだろう」と僕は静かな声で訊ねてみた。 「だって誰かが誰かをずっと永遠に守りつづけるなんて、そんなこと不可能だ からよ。ねえ、もしよ、もし私があなたと結婚したとするわよね。あなたは会社につと めるわね。するとあなたが会社に行ってるあいだいったい誰が私を守ってくれるのあ なたが出張に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの私は死ぬまであな たにくっついてまわってるの ねえ、そんなの対等じゃないじゃない。そんなの人間関 係とも呼べないでしょう そしてあなたはいつか私にうんざりするのよ。俺の人生って いったい何だったんだこの女のおもりをするだけのことなのかって。私そんなの嫌よ。
それでは私の抱えている問題は解決したことにはならないのよ」 「これが一生つづくわけじゃないんだ」と僕は彼女の背中に手をあてて、言っ た。「いつか終る。終ったところで僕らはもう一度考えなおせばいい。これからどうし ようかってね。そのときはあるいは君の方が僕を助けてくれるかもしれない。僕らは 収支決算表を睨んで生きているわけじゃない。もし君が僕を今必要としているな ら僕を使えばいいんだ。そうだろどうしてそんなに固く物事を考えるんだよねえ、もっ と肩のカを抜きなよ。肩にカが入ってるから、そんな風に構えて物事を見ちゃうん だ。肩のカを抜けばもっと体が軽くなるよ」 「どうしてそんなこと言うの」と直子はおそろしく乾いた声で言った。 彼女の声を聞いて、僕は自分が何か間違ったことを口にしたらしいなと思っ た。 「どうしてよ」と直子はじっと足もとの地面を見つめながら言った。「肩のカを 抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんなこと言ってもらったって 何の役にも立たないのよ。ねえ、いいもし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラに なっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう 風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私 はバラバラになって――どこかに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからな いのそれがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの」 僕は黙っていた。 「私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。暗くて、冷たくて、 混乱していて......ねえ、どうしてあなたあのとき私と寝たりしたのよどうして私を放っ ておいてくれなかったのよ」 我々はひどくしんとした松林の中を歩いていた。道の上には夏の終りに死ん だ蝉の死骸がからからに乾いてちらばっていて、それが靴の下でばりばりという音を 立てた。僕と直子はまるで探しものでもしているみたいに、地面を見ながらゆっくり とその松林の中の道を歩いた。 「ごめんなさい」と直子は言って僕の腕をやさしく握った。そして何度か首を 振った。「あなたを傷つけるつもりはなかったの。私の言ったこと気にしないでね。本 当にごめんなさい。私はただ自分に腹を立てていただけなの」
「たぶん僕は君のことをまだ本当には理解してないんだと思う」と僕は言っ た。「僕は頭の良い人間じゃないし、物事を理解するのに時間がかかる。でももし 時間さえあれば僕は君のことをきちんと理解するし、そうなれば僕は世界中の誰よ りもきちんと理解できると思う」 僕らはそこで立ちどまって静けさの中で耳を澄ませ、僕は靴の先で蝉の死 骸や松ぼっくりを転がしたり、松の枝のあいだから見える空を見あげたりしていた。 直子は上着のポケットに両手をつっこんで何を見るともなくじっと考えごとをしてい た。 「ねえワタナベ君、私のこと好き」 「もちろん」と僕は答えた。 「じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる」 「みっつ聞くよ」 直子は笑って首を振った。「ふたつでいいのよ。ふたつで十分。ひとつはね、 あなたがこうして会いに来てくれたことに対して私はすごく感謝してるんだということ をわかってほしいの。とても嬉しいし、とても――救われるのよ。もしたとえそう見え なかったとしても、そうなのよ」 「また会いにくるよ」と僕は言った。「もうひとつは」 「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいた ことをずっと覚えていてくれる」 「もちろんずっと覚えているよ」と僕は答えた。 彼女はそのまま何も言わずに先に立って歩きはじめた。梢を抜けてくる秋の 光が彼女の上着の肩の上でちらちらと踊っていた。また犬の声が聞こえたが、それ は前よりいくぶん我々の方に近づいているように思えた。直子は小さな丘のように 盛りあがったところを上り、松林の外に出て、なだらかな坂を足速に下った。僕はそ の二、三歩あとをついて歩いた。 「こっちにおいでよ。そのへんに井戸があるかもしれないよ」と僕は彼女の背
中に声をかけた。 直子は立ちどまってにっこりと笑い、僕の腕をそっとつかんだ。そして我々は 残りの道を二人で並んで歩いた。 「本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる」と彼女は小さな囁くよ うな声で訊ねた。 「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。「君のことを忘れられるわけがない よ」 それでも記憶は確実に遠ざかっていくし、僕はあまりに多くのことを既に忘れ てしまった。こうして記憶を辿りながら文章を書いていると、僕はときどきひどく不安 な気持になってしまう。ひょっとして自分はいちばん肝心な部分の記憶を失ってし まっているんじゃないかとふと思うからだ。僕の体の中に記憶の辺土とでも呼ぶべき 暗い場所があって、大事な記憶は全部そこにつもってやわらかい泥と化してしまっ ているのではあるまいか、と。 しかし何はともあれ、今のところはそれが僕の手に入れられるものの全てな のだ。既に薄らいでしまい、そして今も刻一刻と薄らいでいくその不完全な記憶を しっかりと胸に抱きかかえ、骨でもしゃぶるような気持で僕はこの文章を書きつづけ ている。直子との約束を守るためにはこうする以外に何の方法もないのだ。 もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子につい て書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことがで きなかった。その最初の一行さえ出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いてしま えるだろうということはよくわかっていたのだけれど、その一行がどうしても出てこな かったのだ。全てがあまりにもくっきりとしすぎていて、どこから手をつければいいのか がわからなかったのだ。あまりにも克明な地図が、克明にすぎて時として役に立た ないのと同じことだ。でも今はわかる。結局のところ―と僕は思う――文章という不 完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないの だ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く彼 女を理解することができるようになったと思う。何故彼女が僕に向って「私を忘れな いで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたの だ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこ そ彼女は僕に向って訴えかけねばならなかったのだ。「私のことをいつまでも忘れな
いで。私が存在していたことを覚えていて」と。 そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえい なかったからだ。 第二章 昔々、といってもせいぜい二十年ぐらい前のことなのだけれど、僕はある学 生寮に住んでいた。僕は十八で、大学に入ったばかりだった。東京のことなんて何 ひとつ知らなかったし、一人暮しをするのも初めてだったので、親が心配してその寮 をみつけてきてくれた。そこなら食事もついているし、いろんな設備も揃っているし、 世間知らずの十八の少年でもなんとか生きていけるだろうということだった。もちろ ん費用のこともあった。寮の費用は一人暮しのそれに比べて格段に安かった。なに しろ布団と電気スタンドさえあればあとは何ひとつ買い揃える必要がないのだ。僕 としてはできることならアパートを借りて一人で気楽に暮したかったのだが、私立大 学の入学金や授業料や月々の生活費のことを考えるとわがままは言えなかった。 それに僕も結局は住むところなんてどこだっていいやと思っていたのだ。 その寮は都内の見晴しの良い高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコン クリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っ ている。樹齢は少くとも百五十年ということだった。根もとに立って上を見あげると 空はその緑の葉にすっぽりと覆い隠されてしまう。 コンクリートの舗道はそのけやきの巨木を迂回するように曲り、それから再び 長い直線となって中庭を横切っている。中庭の両側には鉄筋コンクリート三階建 ての棟がふたつ、平行に並んでいる。窓の沢山ついた大きな建物で、アパートを 改造した刑務所かあるいは刑務所を改造したアパートみたいな印象を見るものに 与える。しかし決して不潔ではないし、暗い印象もない。開け放しになった窓から はラジオの音が聴こえる。窓のカーテンはどの部屋も同じクリーム色、日焼けがい ちばん目立たない色だ。 舗道をまっすぐ行った正面には二階建ての本部建物がある。一階には食 堂と大きな浴場、二階には講堂といくつかの集会室、それから何に使うのかは知 らないけれど貴賓室まである。本部建物のとなりには三つ目の寮棟がある。これ も三階建てだ。中庭は広く、緑の芝生の中ではスプリンクラーが太陽の光を反射 させながらぐるぐると回っている。本部建物の裏手には野球とサッカーの兼用グラウ
ンドとテニス・コートが六面ある。至れり尽せりだ。 この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さにあった。寮はあるきわ めて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人によって運営されており、 その運営方針は――もちろん僕の目から見ればということだが――かなり奇妙に 歪んだものだった。入寮案内のパンフレットと寮生規則を読めばそのだいたいのとこ ろはわかる。「教育の根幹を窮め国家にとって有為な人材の育成につとめる」、こ れがこの寮創設の精神であり、そしてその精神に賛同した多くの財界人が私財を 投じ......というのが表向きの顔なのだが、その裏のことは例によって曖昧模糊とし ている。正確なところは誰にもわからない。ただの税金対策だと言うものもいるし、 売名行為だと言うものもいるし、寮設立という名目でこの一等地を詐欺同然のや りくちで手に入れたんだと言うものもいる。いや、もっともっと深い読みがあるんだと 言うものもいる。彼の説によればこの寮の出身者で政財界に地下の閥を作ろうと いうのが設立者の目的なのだということであった。たしかに寮には寮生の中のトッ プ・エリートをあつめた特権的なクラブのようなものがあって、僕もくわしいことはよく 知らないけれど、月に何度かその設立者をまじえて研究会のようなものを開いて おり、そのクラブに入っている限り就職の心配はないということであった。そんな説の いったいどれが正しくてどれが間違っているのか僕には判断できないが、それらの説 は「とにかくここはうさん臭いんだ」という点で共通していた。 いずれにせよ一九六八年の春から七〇年の春までの二年間を僕はこのう さん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたのだと訊かれて も答えようがない。日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、 偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。 寮の一日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。もちろん国歌も流れる。ス ポーツ・ニュースからマーチが切り離せないように、国旗掲揚から国歌は切り離せな い。国旗掲揚台は中庭のまん中にあってどの寮棟の窓からも見えるようになってい る。 国旗を掲揚するのは東棟僕の入っている寮だの寮長の役目だった。背が 高くて目つきの鋭い六十前後の男だ。いかにも硬そうな髪にいくらか白髪がまじ り、日焼けした首筋に長い傷あとがある。この人物は陸軍中野学校の出身という 話だったが、これも真偽のほどはわからない。そのとなりにはこの国旗掲揚を手伝う 助手の如き立場の学生が控えている。この学生のことは誰もよく知らない。丸刈 りで、いつも学生服を着ている。名前も知らないし、どの部屋に住んでいるのかも わからない。食堂でも風呂でも一度も顔をあわせたことがない。本当に学生なの
かどうかさえわからない。まあしかし学生服を着ているからにはやはり学生なのだろ う。そうとしか考えようがない。そして中野学校氏とは逆に背が低く、小太りで色が 白い。この不気味きわまりない二人組が毎朝六時に寮の中庭に日の丸をあげる わけだ。 僕は寮に入った当初、もの珍しさからわざわざ六時に起きてよくこの愛国 的儀式を見物したものである。朝の六時、ラジオの時報が鳴るのと殆んど同時に 二人は中庭に姿を見せる。学生服はもちろん、学生服に黒の皮靴、中野学校 はジャンパーに白の運動靴という格好である。学生服は桐の薄い箱を持ってい る。中野学校はソニーのポータブル・テープレコーダーを下げている。中野学校が テープレコーダーを掲揚台の足もとに置く。学生服が桐の箱をあける。箱の中には きちんと折り畳まれた国旗が入っている。学生服が中野学校にうやうやしく旗を差 し出す。中野学校がロープに旗をつける。学生服がテープレコーダーのスイッチを 押す。 君が代。 そして旗がするするとポールを上っていく。 「さざれ石のお――」というあたりで旗はポールのまん中あたり、「まあで ―― 」というところで頂上にのぼりつめる。そして二人は背筋をしゃんとのばして気 をつけの姿勢をとり、国旗をまっすぐに見あげる。空が晴れてうまく風が吹いていれ ば、これはなかなかの光景である。 夕方の国旗降下も儀式としてはだいたい同じような様式でとりおこなわれ る。ただし順序は朝とはまったく逆になる。旗はするすると降り、桐の箱の中に収ま る。夜には国旗は翻らない。 どうして夜のあいだ国旗が降ろされてしまうのか、僕にはその理由がわから なかった。夜のあいだだってちゃんと国家は存続しているし、働いている人だって沢 山いる。線路工夫やタクシーの運転手やバーのホステスや夜勤の消防士やビル の夜警や、そんな夜に働く人々が国家の庇護を受けることができないというのは、 どうも不公平であるような気がした。でもそんなのは本当はそれほどたいしたことで はないのかもしれない。誰もたぶんそんなことは気にもとめないのだろう。気にするの は僕くらいのものなのだろう。それに僕にしたところで何かの折りにふとそう思っただ けで、それを深く追求してみようなんていう気はさらさらなかったのだ。
寮の部屋割は原則として一、二年生が二人部屋、三、四年生が一人部 屋ということになっていた。二人部屋は六畳間をもう少し細長くしたくらいの広さ で、つきあたりの壁にアルミ枠の窓がついていて、窓の前に背中あわせに勉強でき るように机と椅子がセットされている。入口の左手に鉄製の二段ベッドがある。家 具はどれも極端なくらい簡潔でがっしりとしたものだった。机とベッドの他にはロッ カーがふたつ、小さなコーヒ ー・テーブルがひとつ、それに作りつけの棚があった。どう 好意的に見ても詩的な空間とは言えなかった。大抵の部屋の棚にはトランジス タ・ラジオとヘア・ドライヤーと電気ポットと電熱器とインスタント・コーヒ ーとティー・ バッグと角砂糖とインスタント・ラーメンを作るための鍋と簡単な食器がいくつか並 んでいる。しっくいの壁には「平凡パンチ」のビンナップか、どこかからはがしてきたポ ルノ映画のポスターが貼ってある。中には冗談で豚の交尾の写真を貼っているも のもいたが、そういうのは例外中の例外で、殆んど部屋の壁に貼ってあるのは裸の 女か若い女性歌手か女優の写真だった。机の上の本立てには教科書や辞書や 小説なんかが並んでいた。 男ばかりの部屋だから大体はおそろしく汚ない。ごみ箱の底にはかびのはえ たみかんの皮がへばりついているし、灰皿がわりの空缶には吸殻が十センチもつ もっていて、それがくすぶるとコーヒ ーかビールかそんなものをかけて消すものだから、 むっとするすえた匂いを放っている。食器はどれも黒ずんでいるし、いろんなところに わけのわからないものがこびりついているし、床にはインスタント・ラーメンのセロファ ン・ラップやらビールの空瓶やら何かのふたやら何やかやが散乱している。ほうきで 掃いて集めてちりとりを使ってごみ箱に捨てるということを誰も思いつかないのだ。 風が吹くと床からほこりがもうもうと舞いあがる。そしてどの部屋にもひどい匂いが 漂っている。部屋によってその匂いは少しずつ違っているが、匂いを構成するもの はまったく同じである。汗と体臭とごみだ。みんな洗濯物をどんどんベッドの下に放 りこんでおくし、定期的に布団を干す人間なんていないから布団はたっぷりと汗を 吸いこんで救いがたい匂いを放っている。そんなカオスの中からよく致命的な伝染 病が発生しなかったものだと今でも僕は不思議に思っている。 でもそれに比べると僕の部屋は死体安置所のように清潔だった。床にはち りひとつなく、窓ガラスにはくもりひとつなく、布団は週に一度干され、鉛筆はきちん と鉛筆立てに収まり、カーテンさえ月に一回は洗濯された。僕の同居人が病的な までに清潔好きだったからだ。僕は他の連中に「あいつカーテンまで洗うんだぜ」と 言ったが誰もそんなことは信じなかった。カーテンはときどき洗うものだということを誰 も知らなかったのだ。カーテンというのは半永久的に窓にぶらさがっているものだと彼 らは信じていたのだ。「あれ異常性格だよ」と彼らは言った。それからみんなは彼の ことをナチだとか突撃隊だとか呼ぶようになった。
僕の部屋にはピンナップさえ貼られてはいなかった。そのかわりアムステルダ ムの運河の写真が貼ってあった。僕がヌード写真を貼ると「ねえ、ワタナベ君さ、 ぼ、ぼくはこういうのあまり好きじゃないんだよ」と言ってそれをはがし、かわりに運河 の写真を貼ったのだ。僕もとくにヌード写真を貼りたかったわけでもなかったのでべつ に文句は言わなかった。僕の部屋に遊びに来た人間はみんなその運河の写真を 見て「なんだ、これ」と言った。「突撃隊はこれ見ながらマスターベーションするんだ よ」と僕は言った。冗談のつもりで言ったのだが、みんなあっさりとそれを信じてしまっ た。あまりにもあっさりとみんなが信じるのでそのうちに僕も本当にそうなのかもしれ ないと思うようになった。 みんなは突撃隊と同室になっていることで僕に同情してくれたが、僕自身 はそれほど嫌な思いをしたわけではなかった。こちらが身のまわりを清潔にしている 限り、彼は僕に一切干渉しなかったから、僕としてはかえって楽なくらいだった。掃 除は全部彼がやってくれたし、布団も彼が干してくれたし、ゴミも彼がかたづけてく れた。僕が忙しくて三日風呂に入らないとくんくん匂いをかいでから入った方がいい と忠告してくれたし、そろそろ床屋に行けばとか鼻毛切った方がいいねとかも言って くれた。困るのは虫が一匹でもいると部屋の中に殺虫スプレーをまきちらすことで、 そういうとき僕は隣室のカオスの中に退避せざるを得なかった。 突撃隊はある国立大学で地理学を専攻していた。 「僕はね、ち、ち、地図の勉強してるんだよ」と最初に会ったとき、彼は僕に そう言った。 「地図が好きなの」と僕は訊いてみた。 「うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、地図作るんだ」 なるほど世の中にはいろんな希望があり人生の目的があるんだなと僕はあ らためて感心した。それは東京に出てきて僕が最初に感心したことのひとつだっ た。たしかに地図づくりに興味を抱き熱意を持った人間が少しくらいいないことには ―― あまりいっぱいいる必要もないだろうけれど――それは困ったことになってしま う。しかし「地図」という言葉を口にするたびにどもってしまう人間が国土地理院に 入りたがっているというのは何かしら奇妙であった。彼は場合によってどもったりども らなかったりしたが、「地図」という言葉が出てくると百パーセント確実にどもった。
「き、君は何を専攻するの」と彼は訊ねた。 「演劇」と僕は答えた。 「演劇って芝居やるの」 「いや、そういうんじゃなくてね。戯曲を読んだりしてさ、研究するわけさ。ラ シーヌとかイヨネスコとか、シェークスビアとかね」 シェークスビア以外の人の名前は聞いたことないな、と彼は言った。僕だって 殆んど聞いたことはない。講義要項にそう書いてあっただけだ。 「でもとにかくそういうのが好きなんだね」と彼は言った。 「別に好きじゃないよ」と僕は言った。 その答は彼を混乱させた。混乱するとどもりがひどくなった。僕はとても悪い ことをしてしまったような気がした。 「なんでも良かったんだよ、僕の場合は」と僕は説明した。「民族学だって東 洋史だってなんだって良かったんだ。ただたまたま演劇だったんだ、気が向いたの が。それだけ」しかしその説明はもちろん彼を納得させられなかった。 「わからないな」と彼は本当にわからないという顔をして言った。「ぼ、僕の場 合はち、ち、地図が好きだから、ち、ち、ち、地図の勉強してるわけだよね。そのた めにわざわざと、東京の大学に入って、し、仕送りをしてもらってるわけだよ。でも君 はそうじゃないって言うし......」 彼の言っていることの方が正論だった。僕は説明をあきらめた。それから 我々はマッチ棒のくじをひいて二段ベッドの上下を決めた。彼が上段で僕が下段 だった。 彼はいつも白いシャツと黒いズボンと紺のセーターという格好だった。頭は丸 刈りで背が高く、頬骨がはっていた。学校に行くときはいつも学生服を着た。靴も 鞄もまっ黒だった。見るからに右翼学生という格好だったし、だからこそまわりの連 中も突撃隊と呼んでいたわけだが本当のことを言えば彼は政治に対しては百パー セント無関心だった。洋服を選ぶのが面倒なのでいつもそんな格好をしているだけ
の話だった。彼が関心を抱くのは海岸線の変化とか新しい鉄道トンネルの完成と か、そういった種類の出来事に限られていた。そういうことについて話しだすと、彼は どもったりつっかえたりしながら一時間でも二時間でも、こちらが逃げだすか眠って しまうかするまでしゃべりつづけていた。 毎朝六時に「君が代」を目覚し時計がわりにして彼は起床した。あのこれ みよがしの仰々しい国旗掲揚式もまるっきり役に立たないというわけではないの だ。そして服を着て洗面所に行って顔を洗う。顔を洗うのにすごく長い時間がかか る。歯を一本一本取り外して洗っているんじゃないかという気がするくらいだ。部屋 に戻ってくるとパンパンと音を立ってタオルのしわをきちんとのばしてスチームの上に かけて乾かし、歯ブラシと石鹸を棚に戻す。それからラジオをつけてラジオ体操を始 める。 僕はだいたい夜遅くまで本を読み朝は八時くらいまで熟睡するから、彼が 起きだしてごそごそしても、ラジオをつけて体操を始めても、まだぐっすりと眠りこんで いることもある。しかしそんなときでも、ラジオ体操が跳躍の部分にさしかかったとこ ろで必ず目を覚ますことになった。覚まさないわけにはいかなかったのだ。なにしろ 彼が跳躍するたびに――それも実に高く跳躍した――その震動でベッドがどすん どすんと上下したからだ。三日間、僕は我慢した。共同生活においてはある程度 の我慢は必要だと言いきかされていたからだ。しかし四日目の朝、僕はもうこれ以 上は我慢できないという結論に達した。 「悪いけどさ、ラジオ体操は屋上かなんかでやってくれないかな」と僕はきっ ぱりと言った。 「それやられると目が覚めちゃうんだ」 「でももう六時半だよ」と彼は信じられないという顔をして言った。 「知ってるよ、それは。六時半だろ六時半は僕にとってはまだ寝てる時間な んだ。どうしてかは説明できないけどとにかくそうなってるんだよ」 「駄目だよ。屋上でやると三階の人から文句がくるんだ。ここなら下の部屋は 物置きだから誰からも文句はこないし」 「じゃあ中庭でやりなよ。芝の上で」 「それも駄目なんだよ。ぼ、僕のはトランジスタ・ラジオじゃないからさ、で、
電源がないと使えないし、音楽がないとラジオ体操ってできないんだよ」 たしかに彼のラジオはひどく古い型の電源式だったし、一方僕のはトランジ スタだったがFMしか入らない音楽専用のものだった。やれやれ、と僕は思った。 「じゃあ歩み寄ろう」と僕は言った。「ラジオ体操をやってもかまわない。そのか わり跳躍のところだけはやめてくれよ。あれすごくうるさいから。それでいいだろ」 「ちょ、跳躍」と彼はびっくりしたように訊きかえした。「跳躍ってなんだい、そ れ」 「跳躍といえば跳躍だよ。ぴょんぴょん跳ぶやつだよ」 「そんなのないよ」 僕の頭は痛みはじめた。もうどうでもいいやという気もしたが、まあ言いだし たことははっきりさせておこうと思って、僕は実際にNHKラジオ体操第一のメロ ディーを唄いながら床の上でぴょんぴょん跳んだ。 「ほら、これだよ、ちゃんとあるだろう」 「そ、そうだな。たしかにあるな。気がつ、つかなかった」 「だからさ」と僕はベッドの上に腰を下ろして言った。「そこの部分だけを端 折ってほしいんだよ。他のところは全部我慢するから。跳躍のところだけをやめて僕 をぐっすり眠らせてくれないかな」 「駄目だよ」と彼は実にあっさりと言った。「ひとつだけ抜かすってわけにはい かないんだよ。十年も毎日毎日やってるからさ、やり始めると、む、無意識に全部 やっちゃうんだ。ひとつ抜かすとさ、み、み、みんな出来なくなっちゃう」 僕はそれ以上何も言えなかった。いったい何が言えるだろういちばん手っ取 り早いのはそのいまいましいラジオを彼のいないあいだに窓から放りだしてしまうこと だったが、そんなことをしたら地獄のふたをあけたような騒ぎがもちあがるのは目に 見えていた。突撃隊は自分のもち物を極端に大事にする男だったからだ。僕が言 葉を失って空しくベッドに腰かけていると彼はにこにこしながら僕を慰めてくれた。
「ワ、ワタナベ君もさ、一緒に起きて体操するといいのにさ」と彼は言って、そ れから朝食を食べに行ってしまった。 僕が突撃隊と彼のラジオ体操の話をすると、直子はくすくすと笑った。笑い 話のつもりではなかったのだけれど、結局は僕も笑った。彼女の笑顔を見るのは ―― それはほんの一瞬のうちに消えてしまったのだけれど――本当に久しぶりだっ た。 僕と直子は四ッ谷駅で電車を降りて、線路わきの土手を市ヶ谷の方に向 けて歩いていた。五月の半ばの日曜日の午後だった。朝方ばらばらと降ったりやん だりしていた雨も昼前には完全にあがり、低くたれこめていたうっとうしい雨雲は南 からの風に追い払われるように姿を消していた。鮮かな緑色をした桜の葉が風に 揺れ、太陽の光をきらきらと反射させていた。日射しはもう初夏のものだった。すれ ちがう人々はセーターや上着を脱いて肩にかけたり腕にかかえたりしていた。日曜 日の午後のあたたかい日差しの下では、誰もがみんな幸せそうに見えた。土手の 向うに見えるテニス・コートでは若い男がシャツを脱いでショート・ハンツ一枚になっ てラケットを振っていた。並んでペンチに座った二人の修道尼だけがきちんと黒い冬 の制服を身にまとっていて、彼女たちのまわりにだけは夏の光もまだ届いていない ように思えるのだが、それでも二人は満ち足りた顔つきで日なたでの会話を楽しん でいた。 十五分も歩くと背中に汗がにじんできたので、僕は厚い木綿のシャツを脱 いでTシャツ一枚になった。彼女は淡いグレーのトレーナー・シャツの袖を肘の上ま でたくしあげていた。よく洗いこまれたものらしく、ずいぶん感じよく色が褪せていた。 ずっと前にそれと同じシャツを彼女が着ているのを見たことがあるような気がしたが、 はっきりとした記憶があるわけではない。ただそんな気がしただけだった。直子につ いて当時僕はそれほど多くのことを覚えていたわけではなかった。 「共同生活ってどう 他の人たちと一緒に暮すのって楽しい」と直子は訊ね た。 「よくわからないよ。まだ一ヵ月ちょっとしか経ってないからね」と僕は言った。 「でもそれほど悪くはないね。少くとも耐えがたいというようなことはないな」 彼女は水飲み場の前で立ち止まって、ほんのひとくちだけ水を飲み、ズボン のポケットから白いハンカチを出して口を拭いた。それから身をかがめて注意深く靴
の紐をしめなおした。 「ねえ、私にもそういう生活できると思う」 「共同生活のこと」 「そう」と直子は言った。 「どうかな、そういうのって考え方次第だからね。煩わしいことは結構あるとい えばある。規則はうるさいし、下らない奴が威張ってるし、同居人は朝の六時半 にラジオ体操を始めるしね。でもそういうのはどこにいったって同じだと思えば、とりた てて気にはならない。ここで暮らすしかないんだと思えば、それなりに暮せる。そうい うことだよ」 「そうね」と言って彼女は肯き、しばらく何かに思いをめぐらせているようだっ た。そして珍しいものでものぞきこむみたいに僕の目をじっと見た。よく見ると彼女の 目はどきりとするくらい深くすきとおっていた。彼女がそんなすきとおった目をしている ことに僕はそれまで気がつかなかった。考えてみれば直子の目をじっと見るような機 会もなかったのだ。二人きりで歩くのも初めてだし、こんなに長く話をするのも初め てだった。 「寮か何かに入るつもりなの」と僕は訊いてみた。 「ううん、そうじゃないのよ」と直子は言った。「ただ私、ちょっと考えてたのよ。 共同生活をするのってどんなだろうって。そしてそれはつまり......」、直子は唇を噛 みながら適当な言葉なり表現を探していたが、結局それはみつからなかったよう だった。彼女はため息をついて目を伏せた。「よくわからないわ、いいのよ」 それが会話の終りだった。直子は再び東に向って歩きはじめ、僕はその少 しうしろを歩いた。 直子と会ったのは殆んど一年ぶりだった。一年のあいだに直子 は見違えるほどやせていた。特徴的だったふっくらとした頬の肉もあらかた落ち、首 筋もすっかり細くなっていたが、やせたといっても骨ばっているとか不健康とかいった 印象はまるでなかった。彼女のやせ方はとても自然でもの静かに見えた。まるでど こか狭くて細長い場所にそっと身を隠しているうちに体が勝手に細くなってしまった んだという風だった。そして直子は僕がそれまで考えていたよりずっと綺麗だった。僕 はそれについて直子に何か言おうとしたが、どう表現すればいいのかわからなかった ので結局は何も言わなかった。
我々は何かの目的があってここに来たわけではなかった。僕と直子は中央 線の電車の中で偶然出会った。彼女は一人で映画でも見ようかと思って出てき たところで、僕は神田の本屋に行くところだった。べつにどちらもたいした用事がある わけではなかった。降りましょうよと直子が言って、我々は電車を降りた。それがた またま四ツ谷駅だったというだけのことなのだ。もっとも二人きりになってしまうと我々 には話しあうべき話題なんてとくに何もなかった。直子がどうして電車を降りようと 言いだしたのか、僕には全然理解できなかった。話題なんてそもそもの最初からな いのだ。 駅の外に出ると、彼女はどこに行くとも言わずにさっさと歩きはじめた。僕は 仕方なくそのあとを追うように歩いた。直子と僕のあいだには常に一メートルほどの 距離があいていた。もちろんその距離を詰めようと思えば詰めることもできたのだ が、なんとなく気おくれがしてそれができなかった。僕は直子の一メートルほどうしろ を、彼女の背中とまっすぐな黒い髪を見ながら歩いた。彼女は茶色の大きな髪ど めをつけていて、横を向くと小さな白い耳が見えた。時々直子はうしろを振り向い て僕に話しかけた。うまく答えられることもあれば、どう答えればいいのか見当もつか ないようなこともあった。何を言っているのか聞きとれないということもあった。しかし、 僕に聞こえても聞こえなくてもそんなことは彼女にはどちらでもいいみたいだった。直 子は自分の言いたいことだけを言ってしまうと、また前を向いて歩きつづけた。まあ いいや、散歩には良い日和だものな、と僕は思ってあきらめた。 しかし散歩というには直子の歩き方はいささか本格的すぎた。彼女は飯田 橋で右に折れ、お堀ばたに出て、それから神保町の交差点を越えてお茶の水の 坂を上り、そのまま本郷に抜けた。そして都電の線路に沿って駒込まで歩いた。 ちょっとした道のりだ。駒込に着いたときには日はもう沈んでいた。穏かな春の夕暮 だった。 「ここはどこ」と直子がふと気づいたように訊ねた。 「駒込」と僕は言った。「知らなかったの 我々はぐるっと回ったんだよ」 「どうしてこんなところに来たの」 「君が来たんだよ。僕はあとをついてきただけ」 我々は駅の近くのそば屋に入って軽い食事をした。喉が乾いたので僕は一
人でビールを飲んだ。注文してから食べ終るまで我々は一言もロをきかなかった。 僕は歩き疲れていささかぐったりとしていたし、彼女はテーブルの上に両手を置いて また何かを考えこんでいた。TVのニュースが今日の日曜日は行楽地はどこもいっ ぱいでしたと告げていた。そして我々は四ツ谷から駒込まで歩きました、と僕は 思った。 「ずいぶん体が丈夫なんだね」と僕はそばを食べ終ったあとで言った。 「びっくりした」 「うん」 「これでも中学校の頃には長距離の選手で十キロとか十五キロとか走って たのよ。それに父親が山登りが好きだったせいで、小さい頃から日曜日になると山 登りしてたの。ほら、家の裏がもう山でしょだから自然に足腰が丈夫になっちゃった の」 「そうは見えないけどね」と僕は言った。 「そうなの。みんな私のことをすごく華奢な女の子だと思うのね。でも人は見 かけによらないのよ」彼女はそう言ってから付けたすように少しだけ笑った。 「申しわけないけれど僕の方はかなりくたくただよ」 「ごめんなさいね、一日つきあわせちゃって」 「でも君と話ができてよかったよ。だって二人で話をしたことなんて一度もな かったものな」と僕は言ったが、何を話したのか思いだそうとしてもさっぱり思いだせ なかった。 彼女はテーブルの上の灰皿をとくに意味もなくいじりまわしていた。 「ねえ、もしよかったら――もしあなたにとって迷惑じゃなかったらということな んだけど――私たちまた会えるかしらもちろんこんなこと言える筋合じゃないことは よくわかっているんだけど」 「筋合」と僕はびっくりして言った。「筋合じゃないってどういうこと」
彼女は赤くなった。たぷん僕は少しびっくりしすぎたのだろう。 「うまく説明できないのよ」と直子は弁解するように言った。彼女はトレー ナー・シャツの両方の袖を肘の上までひっぱりあげ、それからまたもとに戻した。電 灯がうぶ毛をきれいな黄金色に染めた。「筋合なんて言うつもりはなかったの。もっ と違った風に言うつもりだったの」 直子はテーブルに肘をついて、しばらく壁にかかったカレンダーを見ていた。そ こに何か適当な表現を見つけることができるんじゃないかと期待して見ているように も見えた。でももちろんそんなものは見つからなかった。彼女はため息をついて目を 閉じ、髪どめをいじった。 「かまわないよ」と僕は言った。「君の言おうとしてることはなんとなくわかるか ら。僕にもどう言えばいいのかわからないけどさ」 「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。「ここのところずっとそういう のがつづいてるのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこ ないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しようと すると、もっと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が 何を言おうとしていたのかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分か れていてね、追いかけっこをしてるみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱 が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃ んとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそ れに追いつけないの」 直子は顔を上げて僕の目を見つめた。 「そういうのってわかる」 「多かれ少なかれそういう感じって誰にでもあるものだよ」と僕は言った。「み んな自分を表現しようとして、でも正確に表現できなくてそれでイライラするんだ」 僕がそう言うと、直子は少しがっかりしたみたいだった。 「それとはまた違うの」と直子は言ったが、それ以上は何も説明しなかった。
「会うのは全然かまわないよ」と僕は言った。「どうせ日曜日ならいつも暇で ごろごろしているし、歩くのは健康にいいしね」 我々は山手線に乗り、直子は新宿で中央線に乗りかえた。彼女は国分 寺に小さなアパートを借りて暮していたのだ。 「ねえ、私のしゃべり方って昔と少し変った」と別れ際に直子が訊いた。 「少し変ったような気がするね」と僕は言った。「でも何がどう変ったのかはよく わからないな。正直言って、あの頃はよく顔をあわせていたわりにあまり話をしたとい う記憶がないから」 「そうね」と彼女もそれを認めた。「今度の土曜日に電話かけていいかしら」 「いいよ、もちろん。待っているよ」と僕は言った。 はじめて直子に会ったのは高校二年生の春だった。彼女もやはり二年生 で、ミッション系の品の良い女子校に通つていた。あまり熱心に勉強をすると「品が ない」とうしろ指をさされるくらい品の良い学校だった。僕にはキズキという仲の良い 友人がいて仲が良いというよりは僕の文字どおり唯一の友人だった、直子は彼の 恋人だった。キズキと彼女とは殆んど生まれ落ちた時からの幼ななじみで、家も二 百メートルとは離れていなかった。 多くの幼ななじみのカップルがそうであるように、彼らの閥係は非常にオーブ ンだったし、二人きりでいたいというような願望はそれほどは強くはないようだった。 二人はしょっちゅうお互いの家を訪問しては夕食を相手の家族と一緒に食べた り、麻雀をやったりしていた。僕とダブル・デートしたことも何回かある。直子がクラ ス・メートの女の子をつれてきて、四人で動物園に行ったり、プールに泳ぎに行った り、映画を観に行ったりした。でも正直なところ直子のつれてくる女の子たちは可 愛くはあったけれど、僕には少々上品すぎた。僕としては多少がさつではあるけれ ど気楽に話ができる公立高校のクラス・メートの女の子たちの方が性にあってい た。直子のつれてくる女の子たちがその可愛いらしい頭の中でいったい何を考えて いるのか、僕にはさっぱり理解できなかった。たぶん彼女たちにも僕のことは理解で きなかったんじゃないかと思う。 そんなわけでキズキは僕をダブル・デートに誘うことをあきらめ、我々三人だ けでどこかに出かけたり話をしたりするようになった。キズキと直子と僕の三人だっ
た。考えてみれば変な話だが、結果的にはそれがいちばん気楽だったし、うまくいっ た。四人目が入ると雰囲気がいくぶんぎくしゃくした。三人でいると、それはまるで 僕がゲストであり、キズキが有能なホストであり、直子がアシスタントであるTVの トーク番組みたいだった。いつもキズキが一座の中心にいたし、彼はそういうのが上 手かった。キズキにはたしかに冷笑的な傾向があって他人からは傲慢だと思われ ることも多かったが、本質的には親切で公平な男だった。三人でいると彼は直子 に対しても僕に対しても同じように公平に話しかけ、冗談を言い、誰かがつまらな い思いをしないようにと気を配っていた。どちらかが長く黙っているとそちらにしゃべり かけて相手の話を上手くひきだした。そういうのを見ていると大変だろうなと思ったも のだが、実際はたぶんそれほどたいしたことではなかったのだろう。彼には場の空気 をその瞬間瞬間で見きわめてそれにうまく対応していける能力があった。またそれに 加えて、たいして面白くもない相手の話から面白い部分をいくつもみつけていくこと ができるというちょっと得がたい才能を持っていた。だから彼と話をしていると、僕は 自分がとても面白い人間でとても面白い人生を送っているような気になったもの だった。 もっとも彼は決して社交的な人間ではなかった。彼は学校では僕以外の 誰とも仲良くはならなかった。あれほど頭が切れて座談の才のある男がどうしてそ の能力をもっと広い世界に向けず我々三人だけの小世界に集中させることで満 足していたのか僕には理解できなかった。そしてどうして彼が僕を選んで友だちにし たのか、その理由もわからなかった。僕は一人で本を読んだり音楽を聴いたりする のが好きなどちらかというと平凡な目立たない人間で、キズキがわざわざ注目して 話しかけてくるような他人に抜きんでた何かを持っているわけではなかったからだ。 それでも我々はすぐに気があって仲良くなった。彼の父親は歯科医で、腕の良さと 料金の高さで知られていた。 「今度の日曜日、ダブルデートしないか俺の彼女が女子校なんだけど、可 愛い女の子つれてくるからさ」と知りあってすぐにキズキが言った。いいよ、と僕は 言った。そのようにして僕と直子は出会ったのだ。 僕とキズキと直子はそんな風に何度も一緒に時を過したものだが、それで もキズキが一度席を外して二人きりになってしまうと、僕と直子はうまく話をすること ができなかった。二人ともいったい何について話せばいいのかわからなかったのだ。 実際、僕と直子のあいだには共通する話題なんて何ひとつとしてなかった。だから 仕方なく我々は殆んど何もしゃべらずに水を飲んだりテーブルの上のものをいじりま わしたりしていた。そしてキズキが戻ってくるのを待った。キズキが戻ってくると、また 話が始まった。直子もあまりしゃべる方ではなかったし、僕もどちらかといえば自分
が話すよりは相手の話を聞くのが好きというタイプだったから、彼女と二人きりにな ると僕としてはいささか居心地が悪かった。相性がわるいとかそういうのではなく、た だ単に話すことがないのだ。 キズキの葬式の二週間ばかりあとで、僕と直子は一度だけ顔をあわせた。 ちょっとした用事があって喫茶店で待ちあわせたのだが、用件が済んでしまうとあと はもう何も話すことはなかった。僕はいくつか話題をみつけて彼女に話しかけてみた が、話はいつも途中で途切れてしまった。それに加えて彼女のしゃべり方にはどこと なく角があった。直子は僕に対してなんとなく腹を立てているように見えたが、その 理由は僕にはよくわからなかった。そして僕と直子は別れ、一年後に中央線の電 車でばったりと出会うまで一度も顔を合わせなかった。 あるいは直子が僕に対して腹を立てていたのは、キズキと最後に会って話 をしたのが彼女ではなく僕だったからかもしれない。こういう言い方は良くないとは 思うけれど、彼女の気持はわかるような気がする。僕としてもできることならかわっ てあげたかったと思う。しかし結局のところそれはもう起ってしまったことなのだし、どう 思ったところで仕方ない種類のことなのだ。 その五月の気持の良い昼下がりに、昼食が済むとキズキは僕に午後の授 業はすっぽかして玉でも撞きにいかないかと言った。僕もとくに午後の授業に興味 があるわけではなかったので学校を出てぶらぶらと坂を下って港の方まで行き、ビリ ヤード屋に入って四ゲームほど玉を撞いた。最初のゲームを軽く僕がとると彼は急 に真剣になって残りの三ゲームを全部勝ってしまった。約束どおり僕がゲーム代を 払った。ゲームのあいだ彼は冗談ひとつ言わなかった。これはとても珍しいことだっ た。ゲームが終ると我々は一服して煙草を吸った。 「今日は珍しく真剣だったじゃないか」と僕は訊いてみた。 「今日は負けたくなかったんだよ」とキズキは満足そうに笑いながら言つた。 彼はその夜、自宅のガレージの中で死んだ。N360の排気パイプにゴムホー スをつないで、窓のすきまをガムテープで目ばりしてからエンジンをふかせたのだ。死 ぬまでにどれくらいの時間がかかったのか、僕にはわからない。親戚の病気見舞に でかけていた両親が帰宅してガレージに車を入れようとして扉を開けたとき、彼は もう死んでいた。カー・ラジオがつけっぱなしになって、ワイパーにはガソリン・スタンド の領収書がはさんであった。
遺書もなければ思いあたる動機もなかった。彼に最後に会って話をしたと いう理由で僕は警察に呼ばれて事情聴取された。そんなそぶりはまったくありませ んでした、いつもとまったく同じでした、と僕は取調べの警官に言った。警官は僕に 対してもキズキに対してもあまり良い印象は持たなかったようだった。高校の授業 を抜けて玉撞きに行くような人間なら自殺したってそれほどの不思議はないと彼は 思っているようだった。新聞に小さく記事が載って、それで事件は終った。赤い N360は処分された。教室の彼の机の上にはしばらくのあいだ白い花が飾られてい た。 キズキが死んでから高校を卒業するまでの十ヵ月ほどのあいだ、僕はまわり の世界の中に自分の位置をはっきりと定めることができなかった。僕はある女の子 と仲良くなって彼女と寝たが、結局半年ももたなかった。彼女は僕に対して何ひと つとして訴えかけてこなかったのだ。僕はたいして勉強をしなくても入れそうな東京 の私立大学を選んで受験し、とくに何の感興もなく入学した。その女の子は僕に 東京に行かないでくれと言ったが、僕はどうしても神戸の街を離れたかった。そして 誰も知っている人間がいないところで新しい生活を始めたかったのだ。 「あなたは私ともう寝ちゃつたから、私のことなんかどうでもよくなっちゃったん でしょ」と彼女は言って泣いた。 「そうじゃないよ」と僕は言った。僕はただその町を離れたかっただけなのだ。 でも彼女は理解しなかった。そして我々は別れた。東京に向う新幹線の中で僕 は彼女の良い部分や優れた部分を思いだし、自分がとてもひどいことをしてしまっ たんだと思って後悔したが、とりかえしはつかなかった。そして僕は彼女のことを忘れ ることにした。 東京について寮に入り新しい生活を始めたとき、僕のやるべきことはひとつ しかなかった。あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と 自分のあいだにしかるべき距離を置くこと――それだけだった。僕は緑のフェルトを 貼ったビリヤード台や、赤いN360や机の上の白い花や、そんなものをみんなきれい さっぱり忘れてしまうことにした。火葬場の高い煙突から立ちのぼる煙や、警察の 取調べ室に置いてあったずんぐりした形の文鎮や、そんな何もかもをだ。はじめのう ちはそれでうまく行きそうに見えた。しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中 には何かぼんやりとした空気のかたまりのようなものが残った。そして時が経つにつ れてそのかたまりははっきりとした単純なかたちをとりはじめた。僕はそのかたちを言 葉に置きかえることができる。それはこういうことだった。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。 言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひ とつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤード台の 上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれ をまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。 そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在とし て捉えていた。つまり<死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言え ば死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられることはないのだ>と。それ は僕には至極まともで論理的な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり、 死は向う側にある。僕はこちら側にいて、向う側にはいない。 しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死をそし て生を捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死 は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努 力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキ を捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。 僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送ってい た。でもそれと同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必ずしも 真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。しかしどう考 えてみたところで死は深刻な事実だった。僕はそんな息苦しい背反性の中で、限 りのない堂々めぐりをつづけていた。それは今にして思えばたしかに奇妙な日々 だった。生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。 第三章 次の土曜日に直子は電話をかけてきて、日曜に我々はデートをした。たぶ んデートと呼んでいいのだと思う。それ以外に適当な言葉を思いつけない。 我々は前と同じように街を歩き、どこかの店に入ってコーヒ ーを飲み、また 歩き、夕方に食事をしてさよならと言って別れた。彼女はあいかわらずぽつりぽつり
としか口をきかなかったが、べつに本人はそれでかまわないという風だったし、僕もと くに意識しては話さなかった。気が向くとお互いの生活や大学の話をしたが、どれ もこれも断片的な話で、それが何かにつながっていくというようなことはなかった。そ して我々は過去の話を一切しなかった。我々はだいたいひたすらに町を歩いてい た。ありがたいことに東京の町は広く、どれだけ歩いても歩き尽すということはなかっ た。 我々は殆んど毎週会って、そんな具合に歩きまわっていた。彼女が先に立 ち、僕がその少しうしろを歩いた。直子はいろんなかたちの髪どめを持っていて、い つも右側の耳を見せていた。僕はその頃彼女のうしろ姿ばかり見ていたせいで、そ ういうことだけを今でもよく覚えている。直子は恥かしいときにはよく髪どめを手でい じった。そしてしょっちゅうハンカチで口もとを拭いた。ハンカチで口を拭くのは何か しゃべりたいことがあるときの癖だった。そういうのを見ているうちに、僕は少しずつ直 子に対して好感を抱くようになってきた。 彼女は武蔵野のはずれにある女子大に通っていた。英語の教育で有名 なこぢんまりとした大学だった。彼女のアパートの近くにはきれいな用水が流れてい て、時々我々はそのあたりを散歩した。直子は自分の部屋に僕を入れて食事を 作ってくれたりもしたが、部屋の中で僕と二人きりになっても彼女としてはそんなこと は気にもしていないみたいだった。余計なものが何もないさっぱりとした部屋で、窓 際の隅の方にストッキングが干してなかったら女の子の部屋だとはとても思えないく らいだった。彼女はとても質素に簡潔に暮しており、友だちも殆んどいないようだっ た。そういう生活ぶりは高校時代の彼女からは想像できないことだった。僕が知っ ていたかつての彼女はいつも華やかな服を着て、沢山の友だちに囲まれていた。そ んな部屋を眺めていると、彼女もやはり僕と同じように大学に入って町を離れ、 知っている人が誰もいないところで新しい生活を始めたかったんだろうなという気が した。 「私がここの大学を選んだのは、うちの学校から誰もここに来ないからなの よ」と直子は笑って言った。「だからここに入ったの。私たちみんなもう少しシックな 大学に行くのよ。わかるでしょう」 しかし僕と直子の関係も何ひとつ進歩がないというわけではなかった。少し ずつ少しずつ直子は僕に馴れ、僕は直子に馴れていった。夏休みが終って新しい 学期が始まると直子はごく自然に、まるで当然のことのように、僕のとなりを歩くよう になった。それはたぷん直子が僕を一人の友だちとして認めてくれたしるしだろうと 僕は思ったし、彼女のような美しい娘と肩を並べて歩くというのは悪い気持のする
ものではなかった。我々は二人で東京の町をあてもなく歩きつづけた。坂を上り、 川を渡り、線路を越え、どこまでも歩きつづけた。どこに行きたいという目的など何 もなかった。ただ歩けばよかったのだ。まるで魂を癒すための宗教儀式みたいに、 我々はわきめもふらず歩いた。雨が降れば傘をさして歩いた。 秋がやってきて寮の中庭がけやきの葉で覆い尽された。セーターを着ると新 しい季節の匂いがした。僕は靴を一足はきつぶし、新しいスエードの靴を買った。 その頃我々がどんな話をしていたのか、僕にはどうもうまく思いだせない。た ぶんたいした話はしていなかったのだと思う。あいかわらず我々は過去の話は一切 しなかった。キズキという名前は殆んど我々の話題にはのぼらなかった。我々はあ いかわらずあまり多くはしゃべらなかったし、その頃には二人で黙りこんで喫茶店で 顔をつきあわせていることにもすっかり馴れてしまっていた。 直子は突撃隊の話を聞きたがっていたので、僕はよくその話をした。突撃 隊はクラスの女の子もちろん地理学科の女の子と一度デートしたが夕方になって とてもがっかりした様子で戻ってきた。それが六月の話だった。そして彼は僕に「あ、 あのさ、ワタナベ君さ、お、女の子とさ、どんな話するの、いつも」と質問した。僕が なんと答えたのかは覚えていないが、いずれにせよ彼は質問する相手を完全に間 違えていた。七月に誰かが彼のいないあいだにアムステルダムの運河の写真を外 し、かわりにサンフランシスコのゴールデン・ブリッジの写真を貼っていった。ゴールデ ン・ブリッジを見ながらマスターベーションできるかどうか知りたいというただそれだけの 理由だった。すごく喜んでやってたぜと僕が適当なことを言うと、誰かがそれを今度 は氷山の写真にとりかえた。写真が変るたびに突撃隊はひどく混乱した。 「いったい誰が、こ、こ、こんなことするんだろうね」と彼は言った。 「さあね、でもいいじゃないか。どれも綺麗な写真だもの。誰がやってるにせ よ、ありがたいことじゃない」と僕は慰めた。 「そりゃまあそうだけどさ、気持わるいよね」と彼は言った。 そんな突撃隊の話をすると直子はいつも笑った。彼女が笑うことは少なかっ たので、僕もよく彼の話をしたが、正直言って彼を笑い話のたねにするのはあまり 気持の良いものではなかった。彼はただあまり裕福とはいえない家庭のいささか真 面目すぎる三男坊にすぎなかったのだ。そして地図を作ることだけが彼のささやか な人生のささやかな夢なのだ。誰がそれを笑いものにできるだろう
とはいうものの突撃隊ジョークは寮内ではもう既に欠くことのできない話題の ひとつになっていたし、今になって僕が収めようと思ったところで収まるものではな かった。そして直子の笑顔を目にするのは僕としてもそれなりに嬉しいことではあっ た。だから僕はみんなに突撃隊の話を提供しつづけることになった。 直子は僕に一度だけ好きな女の子はいないのかと訊ねた。僕は別れた女 の子の話をした。良い子だったし、彼女と寝るのは好きだったし、今でもときどきな つかしく思うけれど、どうしてか心が動かされるということがなかったのだと僕は言っ た。たぶん僕の心には固い殻のようなものがあって、そこをつき抜けて中に入ってく るものはとても限られているんだと思う、と僕は言った。だからうまく人を愛することが できないんじゃないかな、と。 「これまで誰かを愛したことはないの」と直子は訊ねた。 「ないよ」と僕は答えた。 彼女はそれ以上何も訊かなかった。 秋が終り冷たい風が町を吹き抜けるようになると、彼女はときどき僕の腕に 体を寄せた。ダッフル・コートの厚い布地をとおして、僕は直子の息づかいをかすか に感じることができた。彼女は僕の腕に腕を絡めたり、僕のコートのポケットに手を つっこんだり、本当に寒いときには僕の腕にしがみついて震えたりもした。でもそれ はただそれだけのことだった。彼女のそんな仕草にはそれ以上の意味は何もなかっ た。僕はコートのポケットに両手をつっこんだまま、いつもと同じように歩きつづけた。 僕も直子もゴム底の靴をはいていたので、二人の足音は殆んど聞こえなかった。 道路に落ちた大きなプラタナスの枯葉を踏むときにだけくしゃくしゃという乾いた音が した。そんな音を聴いていると僕は直子のことが可哀そうになった。彼女の求めて いるのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼女の求めているのは僕の温もりでは なく誰かの温もりなのだ。僕が僕自身であることで、僕はなんだかうしろめたいよう な気持になった。 冬が深まるにつれて彼女の目は前にも増して透明に感じられるようになっ た。それはどこにも行き場のない透明さだった。時々直子はとくにこれといった理由 もなく、何かを探し求めるように僕の目の中をじっとのぞきこんだが、そのたびに僕は 淋しいようなやりきれないような不思議な気持になった。
たぶん彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考えるようになっ た。でも直子はそれをうまく言葉にすることができないのだ、と。いや、言葉にする以 前に自分の中で把握することができないのだ。だからこそ言葉が出てこないのだ。 そして彼女はしょっちゅう髪どめをいじったり、ハンカチで口もとを拭いたり、僕の目を じっと意味もなくのぞきこんだりしているのだ。もしできることなら直子を抱きしめてや りたいと思うこともあったが、いつも迷った末にやめた。ひょっとしたらそのことで直子 が傷つくんじゃないかという気がしたからだ。そんなわけで僕らはあいもかわらず東 京の町を歩きつづけ、直子は虚空の中に言葉を探し求めつづけた。 寮の連中は直子から電話がかかってきたり、日曜の朝に出かけたりすると、 いつも僕を冷やかした。まあ当然といえば当然のことだが、僕に恋人ができたもの とみんな思いこんでいたのだ。説明のしようもないし、する必要もないので、僕はそ のままにしておいた。夕方に戻ってくると必ず誰かがどんな体位でやったかとか彼女 のあそこはどんな具合だったかとか下着は何色だったかとか、そういう下らない質問 をし、僕はそのたびにいい加減に答えておいた。 そのようにして僕は十八から十九になった。日が上り日が沈み、国旗が上っ たり下ったりした。そして日曜日が来ると死んだ友だちの恋人とデートした。いった い自分が今何をしているのか、これから何をしようとしているのかさっぱりわからな かった。大学の授業でクローデルを読み、ラシーヌを読み、エイゼンシュテインを読 んだが、それらの本は僕に殆んど何も訴えかけてこなかった。僕は大学のクラスで は一人も友だちを作らなかったし、寮でのつきあいも通りいっぺんのものだった。寮 の連中はいつも一人で本を読んでいるので僕が作家になりたがっているんだと思 いこんでいるようだったが、僕はべつに作家になんてなりたいとは思わなかった。何 にもなりたいとは思わなかった。 僕はそんな気持を直子に何度か話そうとした。彼女なら僕の考えているこ とをある程度正確にわかってくれるんじゃないかという気がしたからだ。しかしそれを 表現するための言葉がみつからなかった。変なもんだな、と僕は思った。これじゃま るで彼女の言葉探し病が僕の方に移ってしまったみたいじゃないか、と。 土曜の夜になると僕は電話のある玄関ロビーの椅子に座って、直子からの 電話を待った。土曜の夜にはみんなだいたい外に遊びに出ていたから、ロビーはい つもより人も少くしんとしていた。僕はいつもそんな沈黙の空間にちらちらと浮かん でいる光の粒子を見つめながら、自分の心を見定めようと努力してみた。いったい 俺は何を求めてるんだろうそしていったい人は俺に何を求めているんだろうしかし答 らしい答は見つからなかった。僕はときどき空中に漂う光の粒子に向けて手を伸ば
してみたが、その指先は何にも触れなかった。 僕はよく本を読んだが、沢山本を読むという種類の読書家ではなく、気に 入った本を何度も読みかえすことを好んだ。僕が当時好きだったのはトルーマン・カ ポーティ、ジョン・アップダイク、スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・チャンドラーと いった作家たちだったが、クラスでも寮でもそういうタイプの小説を好んで読む人間 は一人も見あたらなかった。彼らが読むのは高橋和巳や大江健三郎や三島由 紀夫、あるいは現代のフランスの作家の小説が多かった。だから当然話もかみあ わなかったし、僕は一人で黙々と本を読みつづけることになった。そして本を何度 も読みかえし、ときどき目を閉じて本の香りを胸に吸いこんだ。その本の香りをか ぎ、ページに手を触れているだけで、僕は幸せな気持になることができた。 十八歳の年の僕にとって最高の書物はジョン・アップダイクの『ケンタウロス』 だったが何度か読みかえすうちにそれは少しずつ最初の輝きを失って、フィッツジェ スラルドの『グレート・ギャツビイ』にベスト・ワンの地位をゆずりわたすことになった。 そして『グレート・ギャツビイ』はその後ずっと僕にとっては最高の小説でありつづけ た。僕は気が向くと書棚から『グレート・ギャツビイ』をとりだし、出鱈目にページを開 き、その部分をひとしきり読むことを習慣にしていたが、ただの一度も失望させられ ることはなかった。一ページとしてつまらないページはなかった。なんて素晴しいんだ ろうと僕は思った。そして人々にその素晴しさを伝えたいと思った。しかし僕のまわり には『グレート・ギャツビイ』を読んだことのある人間なんていなかったし、読んでもい いと思いそうな人間すらいなかった。一九六八年にスコット・フィッツジェラルドを読 むというのは反動とまではいかなくとも、決して推奨される行為ではなかった。 その当時僕のまわりで『グレート・ギャツビイ』を読んだことのある人間はたっ た一人しかいなかったし、僕と彼が親しくなったのもそのせいだった。彼は永沢という 名の東大の法学部の学生で、僕より学年がふたつ上だった。我々は同じ寮に住 んでいて、一応お互い顔だけは知っているという間柄だったのだが、ある日僕が食 堂の日だまりで日なたぼっこをしながら『グレート・ギャツビイ』を読んでいると、となり に座って何を読んでいるのかと訊いた。『グレート・ギャツビイ』だと僕は言った。面 白いかと彼は訊いた。通して読むのは三度めだが読みかえせば読みかえすほど面 白いと感じる部分がふえてくると僕は答えた。 「『グレート・ギャツビイ』を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな」と彼は 自分に言いきかせるように言った。そして我々は友だちになった。十月のことだっ た。 永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。僕は人
生の過程で数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってきたが、彼くら い奇妙な人間にはまだお目にかかったことはない。彼は僕なんかははるかに及ばな いくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手に とろうとはしなかった。そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。 「現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けて ないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短かい」 「永沢さんはどんな作家が好きなんですか」と僕は訊ねてみた。 「バルザック、ダンテ、ジョセフ・コンラッド、ディッケンズ」と彼は即座に答え た。 「あまり今日性のある作家とは言えないですね」 「だから読むのさ。他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかで きなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥かしい ことはしない。なあ知ってるか、ワタナベこの寮で少しでもまともなのは俺とお前だけ だぞ。あとはみんな紙屑みたいなもんだ」 「とうしてそんなことがわかるんですか」と僕はあきれて質問した。 「俺にはわかるんだよ。おでこにしるしがついてるみたいにちゃんとわかるんだ よ、見ただけで。それに俺たち二人とも『グレート・ギャツビイ』を読んでる」 僕は頭の中で計算してみた。「でもスコット・フィッツジェラルドが死んでから まだ二十八年しか経っていませんよ」 「構うもんか、二年くらい」と彼は言った。「スコット・フィッツジェスラルドくらい の立派な作家はアンダー・バーでいいんだよ」 もっとも彼が隠れた古典小説の読書家であることは寮内ではまったく知ら れていなかったし、もし知られたとしても殆んど注目を引くことはなかっただろう。彼 はなんといってもまず第一に頭の良さで知られていた。何の苦もなく東大に入り、 文句のない成績をとり、公務員試験を受けて外務省に入り、外交官になろうとし ていた。父親は名古屋で大きな病院を経営し、兄はやはり東大の医学部を出 て、そのあとを継ぐことになっていた。まったく申しぶんのない一家みたいだった。小
遣いもたっぷり持っていたし、おまけに風釆も良かった。だから誰もが彼に一目置い たし、寮長でさえ永沢さんに対してだけは強いことは言えなかった。彼が誰かに何 かを要求すると、言われた人間は文句ひとつ言わずにそのとおりにした。そうしない わけにはいかなかったのだ。 永沢という人間の中にはごく自然に人をひきつけ従わせる何かが生まれつ き備わっているようだった。人々の上に立って素速く状況を判断し、人々に手際よ く的確な指示を与え、人々を素直に従わせるという能力である。彼の頭上にはそ ういう力が備わっていることを示すオーラが天使の輪のようにぽっかりと浮かんでい て、誰もが一目見ただけで「この男は特別な存在なんだ」と思って恐れいってしまう わけである。だから僕のようなこれといって特徴もない男が永沢さんの個人的な友 人に選ばれたことに対してみんなはひどく驚いたし、そのせいで僕はよく知りもしな い人間からちょっとした敬意を払われまでした。でもみんなにはわかっていなかったよ うだけれど、その理由はとても簡単なことなのだ。永沢さんが僕を好んだのは、僕 が彼に対してちっとも敬服も感心もしなかったせいなのだ。僕は彼の人間性の非 常に奇妙な部分、入りくんだ部分に興味を持ちはしたが、成績の良さだとかオー ラだとか男っぷりだとかには一片の関心も持たなかった。彼としてはそういうのがけっ こう珍しかったのだろうと思う。 永沢さんはいくつかの相反する特質をきわめて極端なかたちであわせ持っ た男だった。彼は時として僕でさえ感動してしまいそうなくらい優しく、それと同時に おそろしく底意地がわるかった。びっくりするほど高貴な精神を持ちあわせていると 同時に、どうしょうもない俗物だった。人々を率いて楽天的にどんどん前に進んで 行きながら、その心は孤独に陰鬱な泥沼の底でのたうっていた。僕はそういう彼の 中の背反性を最初からはっきりと感じとっていだし、他の人々にどうしてそういう彼 の面が見えないのかさっぱり理解できなかった。この男はこの男なりの地獄を抱え て生きているのだ。 しかし原則的には僕は彼に対して好意を抱いていたと思う。彼の最大の美 徳は正直さだった。彼は決して嘘をつかなかったし、自分のあやまちや欠点はいつ もきちんと認めた。自分にとって都合のわるいことを隠したりもしなかった。そして僕 に対しては彼はいつも変ることなく親切だったし、あれこれと面倒をみてくれた。彼 がそうしてくれなかったら、僕の寮での生活はもっとずっとややっこしく不快なものに なっていただろうと思う。それでも僕は彼には一度も心を許したことはなかったし、そ ういう面では僕と彼との関係は僕とキズキとの関係とはまったく違った種類のもの だった。僕は永沢さんが酔払ってある女の子に対しておそろしく意地わるくあたるの を目にして以来、この男にだけは何があっても心を許すまいと決心したのだ。
永沢さんは寮内でいくつかの伝説を持っていた。まずひとつは彼がナメクジ を三匹食べたことがあるというものであり、もうひとつは彼が非常に大きいペニスを 持っていて、これまでに百人は女と寝たというものだった。 ナメクジの話は本当だった。僕が質問すると、彼はああ本当だよ、それ、と 言った。「でかいの三匹飲んだよ」 「どうしてそんなことしたんですか」 「まあいろいろとあってな」と彼は言った。「俺がこの寮に入った年、新入生と 上級生のあいだでちょっとしたごたごたがあったんだ。九月だったな、たしか。それで 俺が新入生の代表格として上級生のところに話をつけに行ったのさ。相手は右翼 で、木刀なんか持っててな、とても話がまとまる雰囲気じゃない。それで俺はわかり ました、俺ですむことならなんでもしましょう、だからそれで話をまとめて下さいって いったよ。そしたらお前ナメクジ飲めって言うんだ。いいですよ、飲みましょうって言っ たよ。それで飲んだんだ。あいつらでかいの三匹もあつめてきやがったんだ」 「どんな気分でした」 「どんな気分も何も、ナメクジを飲むときの気分って、ナメクジを飲んだことの ある人間にしかわからないよな。こうナメクジがヌラッと喉もとをとおって、ツウッと腹の 中に落ちていくのって本当にたまらないぜ、そりゃ。冷たくって、口の中にあと味がの こってさ。思い出してもゾッとするね。ゲエゲエ吐きたいのを死にものぐるいでおさえ たよ、だって吐いたりしたらまた飲みなおしだもんな。そして俺はとうとう三匹全部飲 んだよ」 「飲んじゃってからどうしました」 「もちろん部屋に帰って塩水がぶがぶ飲んださ」と永沢さんは言った。「だっ て他にどうしようがある」 「まあそうですね」と僕も認めた。 「でもそれ以来、誰も俺に対して何も言えなくなったよ。上級生も含めて誰 もだよ。あんなナメクジ三匹も飲める人間なんて俺の他には誰もいないんだ」
「いないでしょうね」と僕は言った。 ペニスの大きさを調べるのは簡単だった。一緒に風呂に入ればいいのだ。た しかにそれはなかなか立派なものだった。百人もの女と寝たというのは誇張だった。 七十五人くらいじゃないかな、と彼はちょっと考えてから言った。よく覚えてないけど 七十はいってるよ、と。僕が一人としか寝てないと言うと、そんなの簡単だよ、お 前、と彼は言った。 「今度俺とやりに行こうよ。大丈夫、すぐやれるから」 僕はそのとき彼の言葉をまったく信じなかったけれど、実際にやってみると本 当に簡単だった。 あまりに簡単すぎて気が抜けるくらいだった。彼と一緒に渋谷か 新宿のバーだかスナックだかに入って店はだいたいいつもきまっていた、適当な女の 子の二人連れをみつけて話をし世界は二人づれの女の子で充ちていた、酒を飲 み、それからホテルに入ってセックスした。とにかく彼は話がうまかった。べつに何かた いしたことを話すわけでもないのだが、彼が話していると女の子たちはみんな大抵 ぼおっと感心して、その話にひきずりこまれ、ついついお酒を飲みすぎて酔払って、 それで彼と寝てしまうことになるのだ。おまけに彼はハンサムで、親切で、よく気が 利いたから、女の子たちは一緒にいるだけでなんだかいい気持になってしまうのだ。 そして、これは僕としてはすごく不思議なのだけれど、彼と一緒にいることで僕まで がどうも魅力的な男のように見えてしまうらしかった。僕が永沢さんにせかされて何 かをしゃべると女の子たちは彼に対するのと同じように僕の話にたいしてひどく感心 したり笑ったりしてくれるのである。全部永沢さんの魔力のせいなのである。まったく たいした才能だなあと僕はそのたびに感心した。こんなのに比べれば、キズキの座 談の才なんて子供だましのようなものだった。まるでスケールがちがうのだ。それでも 永沢さんのそんな能力にまきこまれながらも、僕はキズキのことをとても優しく思っ た。キズキは本当に誠実な男だったんだなと僕はあらためて思った。彼は自分のそ んなささやかな才能を僕と直子だけのためにとっておいてくれたのだ。それに比べる と永沢さんはその圧倒的な才能をゲームでもやるみたいにあたりにばらまいてい た。だいたい彼は前にいる女の子たちと本気で寝たがっているというわけではないの だ。彼にとつてはそれはただのゲームにすぎないのだ。 僕自身は知らない女の子と寝るのはそれほど好きではなかった。性欲を処 理する方法としては気楽だったし、女の子と抱きあったり体をさわりあったりしている こと自体は楽しかった。僕が嫌なのは朝の別れ際だった。目がさめるととなりに知ら ない女の子がぐうぐう寝ていて、部屋中に酒の匂いがして、ベッドも照明もカーテン も何もかもがラブ・ホテル特有のけばけばしいもので、僕の頭は二日酔いでぼんや
りしている。やがて女の子が目を覚まして、もそもそと下着を探しまわる。そしてス トッキングをはきながら「ねえ、昨夜ちゃんとアレつけてくれた私ばっちり危い日だった んだから」と言う。そして鏡に向って頭が痛いだの化粧がうまくのらないだのとぶつぶ つ文句を言いながら、口紅を塗ったりまつ毛をつけたりする。そういうのが僕は嫌 だった。だから本当は朝までいなければいいのだけれど、十二時の門限を気にしな がら女の子を口説くわけにもいかないしそんなことは物理的に不可能である、どう しても外泊許可をとってくりだすことになる。そうすると朝までそこにいなければなら ないということになり、自己嫌悪と幻滅を感じながら寮に戻ってくるというわけだ。日 の光がひどく眩しく、口の中がざらざらして、頭はなんだか他の誰かの頭みたいに感 じられる。 僕は三回か四回そんな風に女の子と寝たあとで、永沢さんに質問してみ た。こんなことを七十回もつづけていて空しくならないのか、と。 「お前がこういうのを空しいと感じるなら、それはお前がまともな人間である 証拠だし、それは喜ばしいことだ」と彼は言った。「知らない女と寝てまわって得るも のなんて何もない。疲れて、自分が嫌になるだけだ。そりゃ俺だって同じだよ」 「じゃあどうしてあんなに一所懸命やるんですか」 「それを説明するのはむずかしいな。ほら、ドストエフスキーが賭博について 書いたものがあったろうあれと同じだよ。つまりさ、可能性がまわりに充ちているとき に、それをやりすごして通りすぎるというのは大変にむずかしいことなんだ。それ、わ かるか」 「なんとなく」と僕は言った。 「日が暮れる、女の子が町に出てきてそのへんをうろうろして酒を飲んだりし ている。彼女たちは何かを求めていて、俺はその何かを彼女たちに与えることがで きるんだ。それは本当に簡単なことなんだよ。水道の蛇口をひねって水を飲むのと 同じくらい簡単なことなんだ。そんなのアッという間に落とせるし、向うだってそれを 待ってるのさ。それが可能性というものだよ。そういう可能性が目の前に転がってい て、それをみすみすやりすごせるか 自分に能力があって、その能力を発揮できる 場があって、お前は黙って通りすぎるかい」 「そういう立場に立ったことないから僕にはよくわかりませんね。どういうものだ か見当もつかないな」と僕は笑いながら言った。
「ある意味では幸せなんだよ、それ」と永沢さんは言った。 家が裕福でありながら永沢さんが寮に入っているのは、その女遊びが原因 だった。東京に出て一人暮しなんかしたらどうしょうもなく女と遊びまわるんじゃない かと心配した父親が四年間寮暮しをすることを強制したのだ。もっとも永沢さんに とってはそんなものどちらでもいいことで、彼は寮の規則なんかたいして気にしない で好きに暮していた。気が向くと外泊許可をとってガール・ハントにいったり、恋人 のアパートに泊りに行ったりしていた。外泊許可をとるのはけっこう面倒なのだが、 彼の場合は殆んどフリー・パスだったし、彼が口をきいてくれる限り僕のも同様だっ た。 永沢さんには大学に入ったときからつきあっているちゃんとした恋人がいた。 ハツミさんという彼と同じ歳の人で、僕も何度か顔をあわせたことがあるが、とても 感じの良い女性だった。はっと人目を引くような美人ではないし、どちらかというと 平凡といってもいい外見だったからどうして永沢さんのような男がこの程度の女と、 と最初は思うのだけれど、少し話をすると誰もが彼女に好感を持たないわけには いかなかった。彼女はそういうタイプの女性だった。穏かで、理知的で、ユーモアが あって、思いやりがあって、いつも素晴しく上品な服を着ていた。僕は彼女が大好 きだったし、自分にもしこんな恋人がいたら他のつまらない女となんか寝たりしない だろうと思った。彼女も僕のことを気に入ってくれて、僕に彼女のクラブの下級生の 女の子を紹介するから四人でデートしましょうよと熱心に誘ってくれたが、僕は過 去の失敗をくりかえしたくなかったので、適当なことを言っていつも逃げていた。ハツ ミさんの通っている大学はとびっきりのお金持の娘があつまることで有名な女子大 だったし、そんな女の子たちと僕が話があうわけがなかった。 彼女は永沢さんがしょっちゅう他の女の子と寝てまわっていることをだいたい は知っていたが、そのことで彼に文句を言ったことは一度もなかった。彼女は永沢 さんのことを真剣に愛していたが、それでいて彼に何ひとつ押しつけなかった。 「俺にはもったいない女だよ」と永沢さんは言った。そのとおりだと僕も思っ た。 冬に僕は新宿の小さなレコード店でアルバイトの口をみつけた。給料はそ れほど良くはなかったけれど、仕事は楽だったし、過に三回の夜番だけでいいという
のも都合がよかった。レコードも安く買えた。クリスマスに僕は直子の大好きな『ディ ア・ハート』の入ったヘンリー・マンシーニのレコードを買ってプレゼントした。僕が自 分で包装して赤いリボンをかけた。直子は僕に自分で編んだ毛糸の手袋をプレゼ ントしてくれた。親指の部分がいささか短かすぎたが、暖かいことは暖かかった。 「ごめんなさい。私すごく不器用なの」と直子は赤くなって恥かしそうに言つ た。 「大丈夫。ほら、ちゃんと入るよ」と僕は手袋をはめてみせた。 「でもこれでコートのポケットに手をつっこまなくて済むでしょ」と直子は言っ た。 直子はその冬神戸には帰らなかった。僕も年末までアルバイトをしていて、 結局なんとなくそのまま東京にいつづけてしまった。神戸に帰ったところで何か面白 いことがあるわけでもないし、会いたい相手がいるわけでもないのだ。正月のあいだ 寮の食堂は閉ったので僕は彼女のアパートで食事をさせてもらった。二人で餅を 焼いて、簡単な雑煮を作って食べた。 一 九六九年の一月から二月にかけてはけっこういろんなことが起った。 一 月の末に突撃隊が四十度近い熱を出して寝こんだ。おかげで僕は直 子とのデートをすっぼかしてしまうことになった。僕はあるコンサートの招待券を二枚 苦労して手に入れて、直子をそれに誘ったのだ。オーケストラは直子の大好きなブ ラームスの四番のシンフォニーを演奏することになっていて、彼女はそれを楽しみに していた。しかし突撃隊はベッドの上をごろごろ転げまわって今にも死ぬんじゃない かという苦しみようだったし、それを放ったらかして出かけるというわけにもいかなかっ た。僕にかわって彼の看病をやってくれそうな物好きな人間もみつからなかつた。僕 は氷を買ってきて、ビニール袋を何枚かかさねて氷嚢を作り、タオルを冷して汗を 拭き、一時間ごとに熱を測り、シャツまでとりかえてやった。熱はまる一日引かな かった。しかし二日目の朝になると彼はむっくりと起きあがり、何事もなかったように 体操を始めた。体温を測ってみると三十六度二分だった。人間とは思えなかっ た。 「おかしいなあ、これまで熱なんか出したこと一度もなかったんだけどな」と突 撃隊はそれがまるで僕の過失であるような言い方をした。
「でも出たんだよ」と僕は頭に来て言った。そして彼の発熱のおかげでふいに した二枚の切符を見せた。 「でもまあ招待券で良かったよ」と突撃隊は言った。僕は彼のラジオをひっつ かんで窓から放り投げてやろうと思ったが、頭が痛んできたのでまたベッドにもぐりこ んで眠った。 二月には何度か雪が降った。 二月の終り頃に僕はつまらないことで喧嘩をして寮の同じ階に住む上級生 を殴った。相手はコンクリートの壁に頭をぶっつけた。幸いたいした怪我はなかった し、永沢さんがうまく事を収めてくれたのだが、僕は寮長室に呼ばれて注意を受け たし、それ以来寮の住み心地もなんとなく悪くなった。 そのようにして学年が終り、春がやってきた。僕はいくつか単位を落とした。 成続は平凡なものだった。大半がCかDで、Bが少しあるだけだった。直子の方は 単位をひとつも落とすことなく二年生になった。季節がひとまわりしたのだ。 四月半ばに直子は二十歳になった。僕は十一月生まれだから、彼女の方 が約七ヵ月年上ということになる。直子が二十歳になるというのはなんとなく不思 議な気がした。僕にしても直子にしても本当は十八と十九のあいだを行ったり来 たりしている方が正しいんじゃないかという気がした。十八の次が十九で、十九の 次が十八、―それならわかる。でも彼女は二十歳になった。そして秋には僕も二 十歳になるのだ。死者だけがいつまでも十七歳だった。 直子の誕生日は雨だった。僕は学校が終ってから近くでケーキを買って電 車に乗り、彼女のアパートまで行った。一応二十歳になったんだから何かしら祝い のようなことをやろうと僕が言いだしたのだ。もし逆の立場だったら僕だって同じこと を望むだろうという気がしたからだ。一人ぼっちで二十歳の誕生日を過すというの はきっと辛いものだろう。電車は混んでいて、おまけによく揺れた。おかげで直子の 部屋にたどりついたときにはケーキはローマのコロセウムの遺跡みたいな形に崩れて いた。それでも用意した小さなロウソクを二十本立て、マッチで火をつけ、カーテン を閉めて電気を消すと、なんとか誕生日らしくなった。直子がワインを開けた。僕ら はワインを飲み、少しケーキを食べ、簡単な食事をした。 「二十歳になるなんてなんだか馬鹿みたいだわ」と直子が言った。「私、二 十歳になる準備なんて全然できてないのよ。変な気分。なんだかうしろから無理
に押し出されちゃったみたいね」 「僕の方はまだ七ヵ月あるからゆっくり準備するよ」と僕は言って笑った。 「良いわね、まだ十九なんて」と直子はうらやましそうに言った。 食事のあいだ僕は突撃隊が新しいセータ ーを買った話をした。彼はそれま で一枚しかセーターを持っていなかったのだが紺の高校のスクール・セーター、やっと それが二枚になったのだ。新しいのは鹿の編みこみが入った赤と黒の可愛いセー ターで、セータ ー自体は素敵なのだが、彼がそれを着て歩くとみんなが思わず吹き だした。しかし彼にはどうしてみんなが笑うのか全く理解できなかった。 「ワタナベ君、な、何かおかしいところあるのかな」と彼は食堂で僕のとなりに 座ってそう質問した。「顔に何かついてるとか」 「何もついてないし、おかしくないよ」と僕は表情を抑えて言った。「でも良い セーターだね、それ」 「ありがとう」と突撃隊はとても嬉しそうににっこりと笑った。 直子はその話をすると喜んだ。「その人に会ってみたいわ、私。一度でいい から」 「駄目だよ。君、きっと吹きだすもの」と僕は言った。 「本当に吹きだすと思う」 「賭けてもいいね。僕なんか毎日一緒にいたって、ときどきおかしくて我慢で きなくなるんだもの」 食事が終ると二人で食器を片づけ、床に座って音楽を聴きながらワインの 残りを飲んだ。 僕が一杯飲むあいだに彼女は二杯飲んだ。 直子はその日珍しくよくしゃべった。子供の頃のことや、学校のことや、家庭 のことを彼女は話した。どれも長い話で、まるで細密画みたいに克明だった。たい
した記憶力だなと僕はそんな話を聞きながら感心していた。しかしそのうちに僕は 彼女のしゃべり方に含まれている何かがだんだん気になりだした。何かがおかしいの だ。何かが不自然で歪んでいるのだ。ひとつひとつの話はまともでちゃんと筋もと おっているのだが、そのつながり方がどうも奇妙なのだ。Aの話がいつのまにかそれに 含まれるBの話になり、やがてBに含まれるCの話になり、それがどこまでもどこまで もつづいた。終りというものがなかった。僕ははじめのうちは適当に合槌を打ってい たのだが、そのうちにそれもやめた。僕はレコードをかけ、それが終ると針を上げて 次のレコードをかけた。ひととおり全部かけてしまうと、また最初のレコードをかけた。 レコードは全部で六枚くらいしかなく、サイクルの最初は『サージャント・ペパーズ・ロ ンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で、最後はビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』 だった。窓の外では雨が降りつづけていた。時間はゆっくりと流れ、直子は一人で しゃべりつづけていた。 直子の話し方の不自然さは彼女がいくつかのポイントに触れないように気 をつけながら話していることにあるようだった。もちろんキズキのこともそのポイントの ひとつだったが、彼女が避けているのはそれだけではないように僕には感じられた。 彼女は話したくないことをいくつも抱えこみながら、どうでもいいような事柄の細かい 部分についていつまでもいつまでもしゃべりつづけた。でも直子がそんなに夢中に なって話すのは初めてだったし、僕は彼女にずっとしゃべらせておいた。 しかし時計が十一時を指すと僕はさすがに不安になった。直子はもう四時 間以上ノンストップでしゃべりつづけていた。帰りの最終電車のこともあるし、門限 のこともあった。僕は頃合を見はからって、彼女の話に割って入った。 「そろそろ引きあげるよ。電車の時間もあるし」と僕は時計を見ながら言っ た。 でも僕の言葉は直子の耳には届かなかったようだった。あるいは耳には届い ても、その意味が理解できないようだった。彼女は一瞬口をつぐんだが、すぐにまた 話のつづきを始めた。僕はあきらめて座りなおし、二本目のワインの残りを飲んだ。 こうなったら彼女にしゃべりたいだけしゃべらせた方が良さそうだった。最終電車も門 限も、何もかもなりゆきにまかせようと僕は心を決めた。 しかし直子の話は長くはつづかなかった。ふと気がついたとき、直子の話は 既に終っていた。言葉のきれはしが、もぎとられたような格好で空中に浮かんでい た。正確に言えば彼女の話は終ったわけではなかった。どこかでふっと消えてしまっ たのだ。彼女はなんとか話しつづけようとしたが、そこにはもう何もなかった。何かが
損なわれてしまったのだ。あるいはそれを損ったのは僕かもしれなかった。僕が言っ たことがやっと彼女の耳に届き、時間をかけて理解され、そのせいで彼女をしゃべら せ続けていたエネルギーのようなものが狙われてしまったのかもしれない。 直子は唇をかすかに開いたまま、僕の目をぼんやりと見ていた。彼女は作 動している途中で電源を抜かれてしまった機械みたいに見えた。彼女の目はまる で不透明な薄膜をかぶせられているようにかすんでいた。 「邪魔するつもりなかったんだよ」と僕は言った。「ただ時間がもう遅いし、そ れに......」 彼女の目から涙がこぼれて頬をつたい、大きな音を立ててレコード・ジャケッ トの上に落ちた。最初の涙がこぼれてしまうと、あとはもうとめどがなかった。彼女は 両手を床について前かがみになり、まるで吐くような格好で泣いた。僕は誰かがそ んなに激しく泣いたのを見たのははじめてだった。僕はそっと手をのばして彼女の肩 に触れた。肩はぶるぶると小刻みに震えていた。それから僕は殆んど無意識に彼 女の体を抱き寄せた。彼女は僕の腕の中でぶるぶると震えながら声を出さずに泣 いた。涙と熱い息のせいで、僕のシャツは湿り、そしてぐっしょりと濡れた。直子の十 本の指がまるで何かを――かつてそこにあった大切な何かを――探し求めるよう に僕の背中の上を彷徨っていた。僕は左手で直子の体を支え、右手でそのまっす ぐなやわらかい髪を撫でた。僕は長いあいだそのままの姿勢で直子が泣きやむのを 待った。しかし彼女は泣きやまなかった。 その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわから ない。二十年近く経った今でも、やはりそれはわからない。たぶん永遠にわからな いだろうと思う。でもそのときはそうする以外にどうしようもなかったのだ。彼女は気を たかぶらせていたし、混乱していたし、僕にそれを鎮めてもらいたがっていた。僕は 部屋の電気を消し、ゆっくりとやさしく彼女の服を脱がせ、自分の服も脱いだ。そし て抱きあった。暖かい雨の夜で、我々は裸のままでも寒さを感じなかった。僕と直 子は暗闇の中で無言のままお互いの体をさぐりあった。僕は彼女にくちづけし、乳 房をやわらかく手で包んだ。直子は僕の固くなったベニスを握った。彼女のヴァギナ はあたたかく濡れて僕を求めていた。 それでも僕が中に入ると彼女はひどく痛がった。はじめてなのかと訊くと、直 子は肯いた。それで僕はちょっとわけがわからなくなってしまった。僕はずっとキズキと 直子が寝ていたと思っていたからだ。僕はべニスをいちばん奥まで入れて、そのまま 動かさずにじっとして、彼女を長いあいだ抱きしめていた。そして彼女が落ちつきを
見せるとゆっくりと動かし、長い時間をかけて射精した。最後には直子は僕の体を しっかり抱きしめて声をあげた。僕がそれまでに聞いたオルガズムの声の中でいちば ん哀し気な声だった。 全てが終ったあとで僕はどうしてキズキと寝なかったのかと訊いてみた。でも そんなことは訊くべきではなかったのだ。直子は僕の体から手を離し、また声もなく 泣きはじめた。僕は押入れから布団を出して彼女をそこに寝かせた。そして窓の 外や降りつづける四月の雨を見ながら煙草を吸った。 朝になると雨はあがっていた。直子は僕に背中を向けて眠っていた。あるい は彼女は一睡もせずに起きていたのかもしれない。起きているにせよ眠っているに せよ、彼女の唇は一切の言葉を失い、その体は凍りついたように固くなっていた。 僕は何度か話しかけてみたが返事はなかったし、体もぴくりとも動かなかった。僕は 長いあいだじっと彼女の裸の肩を見ていたが、あきらめて起きることにした。 床にはレコード・ジャケットやグラスやワインの瓶や灰皿や、そんなものが昨 夜のままに残っていた。テーブルの上には形の崩れたバースデー・ケーキが半分 残っていた。まるでそこで突然時間が止まって動かなくなってしまったように見えた。 僕は床の上にちらばったものを拾いあつめてかたづけ、流しで水を二杯飲んだ。机 の上には辞書とフランス語の動詞表があった。机の前の壁にはカレンダーが貼って あった。写真も絵も何もない数字だけのカレンダーだった。カレンダーは真白だっ た。書きこみもなければ、しるしもなかった。 僕は床に落ちていた服を拾って着た。シャツの胸はまだ冷たく湿っていた。 顔を近づけると直子の匂いがした。僕は机の上のメモ用紙に、君が落ちついたら ゆっくりと話がしたいので、近いうちに電話をほしい、誕生日おめでとう、と書いた。 そしてもう二度直子の肩を眺め、部屋を出てドアをそっと閉めた。 一 週間たっても電話はかかってこなかった。直子のアパートは電話の取りつ ぎをしてくれなかったので、僕は日曜日の朝に国分寺まで出かけてみた。彼女は いなかったし、ドアについていた名札はとり外されていた。窓はぴたりと雨戸が閉ざ されていた。管理人に訊くと、直子は三日前に越したということだった。どこに越し たのかはちょっとわからないなと管理人は言った。 僕は寮に戻って彼女の神戸の住所にあてて長文の手紙を書いた。直子が どこに越したにせよ、その手紙は直子あてに転送されるはずだった。
僕は自分の感じていることを正直に書いた。僕にはいろんなことがまだよく わからないし、わかろうとは真剣につとめているけれど、それには時間がかかるだろ う。そしてその時間が経ってしまったあとで自分がいったいどこにいるのかは、今の僕 には皆目見当もつかない。だから僕は君に何も約束できないし、何かを要求した り、綺麗な言葉を並べるわけにはいかない。だいいち我々はお互いのことをあまり にも知らなさすぎる。でももし君が僕に時間を与えてくれるなら、僕はベストを尽す し、我々はもっとお互いを知りあうことができるだろう。とにかくもう一度君と会あっ て、ゆっくりと話をしたい。キズキを亡くしてしまったあと、僕は自分の気持を正直に 語ることのできる相手を失ってしまったし、それは君も同じなんじゃないだろうか。た ぶん我々は自分たちが考えていた以上にお互いを求めあっていたんじゃないかと 僕は思う。そしてそのおかげで僕らはずいぶんまわり道をしてしまったし、ある意味 では歪んでしまった。たぶん僕はあんな風にするべきじゃなかったのだとも思う。でも そうするしかなかったのだ。そしてあのとき君に対して感じた親密であたたかい気持 は僕がこれまで一度も感じたことのない種類の感情だった。返事をほしい。どのよ うな返事でもいいからほしい―そんな内容の手紙だった。 返事はこなかった。 体の中の何かが欠落して、そのあとを埋めるものもないまま、それは純粋な 空洞として放置されていた。体は不自然に軽く、音はうつろに響いた。僕は週日 には以前にも増してきちんと大学に通い、講義に出席した。講義は退屈で、クラ スの連中とは話すこともなかったけれど、他にやることもなかった。僕は一人で教室 の最前列の端に座って講義を聞き、誰とも話をせず、一人で食事をし、煙草を 吸うのをやめた。 五月の末に大学がストに入った。彼らは「大学解体」を叫んでいた。結 構、解体するならしてくれよ、と僕は思った。解体してバラバラにして、足で踏みつ けて粉々にしてくれ。全然かまわない。そうすれば僕だってさっぱりするし、あとのこ とは自分でなんとでもする。手助けが必要なら手伝ったっていい。さっさとやってく れ。 大学が封鎖されて講義はなくなったので、僕は運送屋のアルバイトを始め た。運送トラックの助手席に座って荷物の積み下ろしをするのだ。仕事は思ってい たよりきつく、最初のうちは体が痛くて朝起きあがれないほどだったが、給料はその ぶん良かったし、忙しく体を動かしているあいだは自分の中の空洞を意識せずに 済んだ。僕は週に五日、運送屋で昼間働き、三日はレコード屋で夜番をやった。 そして仕事のない夜は部屋でウィスキーを飲みながら本を読んだ。突撃隊は酒が
一滴も飲めず、アルコールの匂いにひどく敏感で、僕がベッドに寝転んで生のウィス キーを飲んでいると、臭くて勉強できないから外で飲んでくれないかなと文句を言っ た。 「お前が出て行けよ」と僕は言った。 「だって、りょ、寮の中で酒飲んじゃいけないのって、き、き、規則だろう」と彼 は言った。 「お前が出ていけ」と僕は繰り返した。 彼はそれ以上何も言わなかった。僕は嫌な気持になって、屋上に行って一 人でウィスキーを飲んだ。 六月になって僕は直子にもう一度長い手紙を書いて、やはり神戸の住所 あてに送った。内容はだいたい前のと同じだった。そして最後に、返事を待っている のはとても辛い、僕は君を傷つけてしまったのかどうかそれだけでも知りたいとつけ 加えた。その手紙をポストに入れてしまうと、僕の心の中の空洞はまた少し大きく なったように感じられた。 六月に二度、僕は永沢さんと一緒に町に出て女の子と寝た。どちらもとて も簡単だった。一人の女の子は僕がホテルのベッドにつれこんで服を脱がせようと すると暴れて抵抗したが、僕が面倒臭くなってベッドの中で一人で本を読んでいる と、そのうちに自分の方から体をすりよせてきた。もう一人の女の子はセックスのあと で僕についてあらゆることを知りたがった。これまで何人くらいの女の子と寝たかだと か、どこの出身かだとか、どこの大学かだとか、どんな音楽が好きかだとか、太宰治 の小説を読んだことがあるかだとか、外国旅行をするならどこに行ってみたいかだと か、私の乳首は他の人のに比べてちょっと大きすぎるとは思わないかだとか、とにか くもうありとあらゆる質問をした。僕は適当に答えて眠ってしまった。目が覚めると 彼女は一緒に朝ごはんが食べたいと言った。僕は彼女と一緒に喫茶店に入って モーニング・サービスのまずいトーストとまずい玉子を食べまずいコーヒ ーを飲んだ。 そしてそのあいだ彼女は僕にずっと質問をしていた。お父さんの職業は何か、高校 時代の成績は良かったか、何月生まれか、蛙を食べたことはあるか、等等。僕は 頭が痛くなってきたので食事が終ると、これからそろそろアルバイトに行かなくちゃい けないからと言った。 「ねえ、もう会えないの?」と彼女は淋しそうに言った。
「またそのうちどこかで会えるよ」と僕は言ってそのまま別れた。そして一人に なってから、やれやれ俺はいったい何をやっているんだろうと思ってうんざりした。こん なことをやっているべきではないんだと僕は思った。でもそうしないわけにはいかな かった。僕の体はひどく飢えて乾いていて、女と寝ることを求めていた。僕は彼女た ちと寝ながらずっと直子のことを考えていた。闇の中に白く浮かびあがっていた直子 の裸体や、その吐息や、雨の音のことを考えていた。そしてそんなことを考えれば 考えるほど僕の体は余計に飢え、そしで乾いた。僕は一人で屋上に上ってウィス キーを飲み、俺はいったい何処に行こうとしているんだろうと思った。 七月の始めに直子から手紙が届いた。短かい手紙だった。 「返事が遅くなってごめんなさい。でも理解して下さい。文章を書けるようにな るまでずいぶん長い時間がかかったのです。そしてこの手紙ももう十回も書きなお しています。文章を書くのは私にとってとても辛いことなのです。 結論から書きます。大学をとりあえず一年間休学することにしました。とりあ えずとは言っても、もう一度大学に戻ることはおそらくないのではないかと思います。 休学というのはあくまで手続上のことです。急な話だとあなたは思うかもしれないけ れど、これは前々からずっと考えていたことなのです。それについてはあなたに何度 か話をしようと思っていたのですが、とうとう切り出せませんでした。口に出しちゃうの がとても怖かったのです。 いろんなことを気にしないで下さい。たとえ何が起っていたとしても、たとえ何 が起っていなかったとしても、結局はこうなっていたんだろうと思います。あるいはこう いう言い方はあなたを傷つけることになるのかもしれません。もしそうだとしたら謝り ます。私の言いたいのは私のことであなたに自分自身を責めたりしないでほしいと いうことなのです。これは本当に私が自分できちんと全部引き受けるべきことなの です。この一年あまり私はそれをのばしのばしにしてきて、そのせいであなたにもず いぶん迷惑をかけてしまったように思います。そしてたぶんこれが限界です。 国分寺のアパートを引き払ったあと、私は神戸の家に戻って、しばらく病院に 通いました。お医者様の話だと京都の山の中に私に向いた療養所があるらしいの で、少しそこに入ってみようかと思います。正確な意味での病院ではなくて、ずっと 自由な療養のための施設です。細かいことについてはまた別の機会に書くことにし ます。今はまだうまく書けないのです。今の私に必要なのは外界と遮断されたどこ か静かなところで神経をやすめることなのです。 あなたが一年間私のそばにいてくれたことについては、私は私なりに感謝し
ています。そのことだけは信じて下さい。あなたが私を傷つけたわけではありません。 私を傷つけたのは私自身です。私はそう思っています。 私は今のところまだあなたに会う準備ができていません。会いたくないという のではなく、会う準備ができていないのです。もし準備ができたと思ったら、私はあ なたにすぐ手紙を書きます。そのときには私たちはもう少しお互いのことを知りあえ るのではないかと思います。あなたが言うように、私たちはお互いのことをもっと知り あうべきなのでしょう。 さようなら」 僕は何百回もこの手紙を読みかえした。そして読みかえすたびにたまらなく哀 しい気持になった。それはちょうど直子にじっと目をのぞきこまれているときに感じる のと同じ種類の哀しみだった。僕はそんなやるせない気持をどこに持っていくこと も、どこにしまいこむこともできなかった。それは体のまわりを吹きすぎていく風のよう に輪郭もなく、重さもなかった。僕はそれを身にまとうことすらできなかった。 風景が僕の前をゆっくりと通りすぎていった。彼らの語る言葉は僕の耳には届 かなかった。 土曜の夜になると僕はあいかわらずロビーの椅子に座って時間を過した。電 話のかかってくるあてはなかったが、他にやることもなかった。僕はいつもTVの野球 中継をつけて、それを見ているふりをしていた。そして僕とTVのあいだに横たわる茫 漠とした空間をふたつに区切り、その区切られた空間をまたふたつに区切った。そ して何度も何度もそれをつづけ、最後には手のひらにのるくらいの小さな空間を作 りあげた。 十時になると僕はTVを消して部屋に戻り、そして眠った。 その月の終りに突撃隊が僕に螢をくれた。 螢はインスタント・コーヒーの瓶に入っていた。瓶の中には草の葉と水が少し 入っていて、ふたには細かい空気穴がいくつか開いていた。あたりはまだ明るかった ので、それは何の変哲もない黒い水辺の虫にしか見えなかったが、突撃隊はそれ は間違いなく螢だと主張した。螢のことはよく知ってるんだ、と彼は言ったし、僕の 方にはとくにそれを否定する理由も根拠もなかった。よろしい、それは螢なのだ。螢 はなんだか眠たそうな顔をしていた。そしてつるつるとしたガラスの壁を上ろうとして はそのたびに下に滑り落ちていた。
「庭にいたんだよ」 「ここの庭に?」と僕はびっくりして訊いた。 「ほら、こ、この近くのホテルで夏になると客寄せに螢を放すだろ?あれがこっ ちに紛れこんできたんだよ」と彼は黒いボストン・バックに衣類やノートを詰めこみな がら言った。 夏休みに入ってからもう何週間も経っていて、寮にまだ残っているのは我々 くらいのものだった。僕の方はあまり神戸に帰りたくなくてアルバイトをつづけていた し、彼の方には実習があったからだ。でもその実習も終り、彼は家に帰ろうとしてい た。突撃隊の家は山梨にあった。 「これね、女の子にあげるといいよ。きっと喜ぶからさ」と彼は言った。 「ありがとう」と僕は言った。 日が暮れると寮はしんとして、まるで廃墟みたいな感じになった。国旗が ポールから降ろされ、食堂の窓に電気が灯った。学生の数が減ったせいで、食堂 の灯はいつもの半分しかついていなかった。右半分は消えて、左半分だけがつい ていた。それでも微かに夕食の匂いが漂っていた。クリーム・シチューの匂いだった。 僕は螢の入ったインスタント・コーヒーの瓶を持って屋上に上った。屋上には 人影はなかった。誰かがとりこみ忘れた白いシャツが洗濯ロープにかかっていて、何 かの脱け殻のように夕暮の風に揺れていた。 僕は屋上の隅にある鉄の梯子を上って給水塔の上に出た。円筒形の給 水タンクは昼のあいだにたっぷりと吸いこんだ熱でまだあたたかかった。狭い空間に 腰を下ろし、手すりにもたれかかると、ほんの少しだけ欠けた白い月が目の前に浮 かんでいた。右手には新宿の街の光が、左手には池袋の街の光が見えた。車の ヘッドライトが鮮かな光の川となって、街から街へと流れていた。様々な音が混じり あったやわらかなうなりが、まるで雲みたいにぼおっと街の上に浮かんでいた。 瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも弱く、その色は あまりにも淡かった。僕が最後に螢を見たのはずっと昔のことだったが、その記憶の 中では螢はもっとくっきりとした鮮かな光を夏の闇の中に放っていた。僕はずっと螢 というのはそういう鮮かな燃えたつような光を放つものと思いこんでいたのだ。
螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何度か軽 く振ってみた。螢はガラスの壁に体を打ちつけ、ほんの少しだけ飛んだ。しかしその 光はあいかわらずぼんやりしていた。 螢を最後に見たのはいつのことだっけなと僕は考えてみた。そしていったい何 処だったのだろう、あれは?僕はその光景を思いだすことはできた。しかし場所と時 間を思いだすことはできなかった。夜の暗い水音が聞こえた。煉瓦づくりの旧式の 水門もあった。ハンドルをぐるぐると回して開け閉めする水門だ。大きな川ではな い。岸辺の水草が川面をあらかた覆い隠しているような小さな流れだ。あたりは真 暗で、懐中電灯を消すと自分の足もとさえ見えないくらいだった。そして水門のた まりの上を何百匹という数の螢が飛んでいた。その光はまるで燃えさかる火の粉の ように水面に照り映えていた。 僕は目を閉じてその記憶の闇の中にしばらく身を沈めた。風の音がいつも よりくっきりと聞こえた。たいして強い風でもないのに、それは不思議なくらい鮮かな 軌跡を残して僕の体のまわりを吹き抜けていった。目を開けると、夏の夜の闇はほ んの少し深まっていた。 僕は瓶のふたを開けて螢をとりだし、三センチばかりつきだした給水塔の縁 の上に置いた。螢は自分の置かれた状況がうまくつかめないようだった。螢はボル トのまわりをよろめきながら一周したり、かさぶたのようにめくれあがったペンキに足を かけたりしていた。しばらく右に進んでそこが行きどまりであることをたしかめてから、 また左に戻った。それから時間をかけてボルトの頭によじのぼり、そこにじっとうずく まった。螢はまるで息絶えてしまったみたいに、そのままぴくりとも動かなかった。 僕は手すりにもたれかかったまま、そんな螢の姿を眺めていた。僕の方も螢 の方も長いあいだ身動きひとつせずにそこにいた。風だけが我々のまわりを吹きす ぎて行った。闇の中でけやきの木がその無数の葉をこすりあわせていた。 僕はいつまでも待ちつづけた。 螢が飛びたったのはずっとあとのことだった。螢は何かを思いついたようにふと 羽を拡げ、その次の瞬間には手すりを越えて淡い闇の中に浮かんでいた。それは まるで失われた時間をとり戻そうとするかのように、給水塔のわきで素速く弧を描い た。そしてその光の線が風ににじむのを見届けるべく少しのあいだそこに留まってか ら、やがて東に向けて飛び去っていった。 螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目 を閉じた分厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のよ
うに、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。 僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。そ の小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。 第四章 夏休みのあいだに大学が機動隊の出動を要請し、機動隊はバリケードを叩 きつぶし、中に籠っていた学生を全員逮捕した。その当時はどこの大学でも同じよ うなことをやっていたし、とくに珍しい出来事ではなかった。大学は解体なんてしな かった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくら いで「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。彼らは大学という 機構のイニシアチブがどうなるかなんてまったくどうでもいいことだった。だからストが 叩きつぶされたところで、とくに何の感慨も持たなかった。 僕は九月になって大学が殆んど廃墟と化していることを期待して行って見た のだが、大学はまったくの無傷だった。図書館の本も掠奪されることなく、教授室 も破壊しつくされることなく、学生課の建物も焼け落ちてはいなかった。あいつら一 体何してたんだと僕は愕然として思った。 ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、一番最初に出席 してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように 教室に出てきてノートを取り、名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話 だった。何故ならスト決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかっ たからだ。大学が機動隊を導入してバリケードを破壊しただけのことで、原理的に はストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議のときには言いたいだけ元 気なことを言って、ストを反対するあるいは疑念を表明する学生を罵倒し、あるい は吊り上げたのだ。僕は彼らのところに行って、どうしてストを続けないで講義に出 てくるのか、と訊いてみた。彼らには答えられなかった。答えられるわけがないのだ。 彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を叫んで いるのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大 声を出したり小さくなったりするのだ。 おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういうやつらがきちんと大 学の単位を取って社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ。 僕はしばらくのあいだ講義には出ても出席をとるときには返事をしないことにし た。そんなことをしたって何の意味のないことはよくわかっていたけれど、そうでもしな いことには気分が悪くて仕方がなかったのだ。しかしそのおかけでクラスの中で僕の 立場はもっと孤立したものになった。名前を呼ばれても僕が黙っていると、教室の 中に居心地の悪い空気が流れた。誰も僕に話かけなかったし、僕も誰にも話しか けなかった。
九月の第二週になっても突撃隊は戻ってこなかった。これは珍しいというより 驚天動地の出来事だった。彼の大学はもう授業が始まっていたし、突撃隊が授 業をすっぽかすなんてことはありえなかったからだ。彼の机やラジオの上にはうっすら とほこりがつもっていた。棚の上にはプラスチックのコップと歯ブラシ、お茶の缶、殺 虫スプレー、そんなものがきちんと整頓されて並んでいた。 突撃隊がいないあいだは僕が部屋の掃除をした。この一年半のあいだに、 部屋を清潔にすることは僕の習性の一部となっているし、突撃隊がいなければ僕 がその清潔さを維持するしかなかった。僕は毎日床を掃き、週に一回布団を干し た。そして突撃隊が帰ってきて「ワ、ワタナベ君。どうしたのすごくきれいじゃないか」 と言って賞めてくれるのを待った。 しかし彼は戻ってこなかった。ある日僕が学校から戻ってみると、彼の荷物が 全部なくなっていた。部屋のドアの名札も外されて、僕のものだけになっていた。僕 は寮長室に行って彼が一体どうなったのか訊いてみた。 「退寮した」と寮長は言った。「しばらくあの部屋はお前一人で暮らせ」 僕は一体どういう事情なのかと質問してみたが、寮長は何も教えてくれな かった。他人には何も教えずに自分一人で物事を管理することに無上の喜びを 感じるタイプの俗物なのだ。 部屋の壁には氷山の写真がまだしばらく貼ってあったが、やがてぼくはそれを はがして、かわりにジム・モリソンとマイケル・ディヴィスの写真を貼った。それで部屋 は少し僕らしくなった。僕はアルバイトで貯めた金を使って小さなステレオ・プレー ヤーを買った。そして夜になると一人で酒を飲みながら音楽を聴いた。ときどき突 撃隊のことを思い出したが、それでも一人暮らしというのはいいものだった。 月曜日の十時から「演劇史II」のエウリビデスについての講義があり、それは 十一時半に終わった。講義のあとで僕は大学から歩いて十分ばかりのところにあ る小さなレストランに行ってオムレツとサラダを食べた。そのレストランはにぎやかな 通りからは離れていたし、値段も学生向きの食堂より少し高かったが、静かで落 ち着けたし、なかなか美味しいオムレツを食べさせてくれた。無口な夫婦とアルバイ トの女の子が三人で働いていた。僕が窓際の席に一人で座って食事をしている と、四人連れの学生が店に入ってきた。男が二人と女が二人で、みんなこさっぱり とした服装をしていた。彼らは入口近くのテーブルに座ってメニューを眺め、しばらく いろいろと検討していたが、やがて一人が注文をまとめ、アルバイトの女の子にそ れを伝えた。 そのうちに僕は女の子の一人が僕の方をちらちらと見ているのに気がついた。 ひどく髪の短い女の子で、濃いサングラスをかけ、白いコットンのミニのワンピースを 着ていた。彼女の顔には見覚えがなかったので僕がそのまま食事をつづけている
と、そのうち彼女はすっと立ち上がって僕の方にやってきた。そしてテーブルの端に 片手をついて僕の名前を呼んだ。 「ワタナベ君、でしょう」 僕は顔を上げてもう一度相手の顔をよく見た。しかし何度見ても見覚えはな かった。彼女はとても目立つ女の子だったし、どこかで会っていたらすぐに思い出せ るはずだった。それに僕の名前を知っている人間がそれほど沢山この大学にいるわ けではない。 「ちょっと座ってもいいかしらそれとも誰か来るの、ここ」 僕はよくわからないままに首を振った。「誰も来ないよ。どうぞ」 彼女はゴトゴトと音を立てて椅子を引き、僕の向かいに座ってサングラスの奥 から僕をじっと眺め、それから僕の皿に視線を移した。 「おいしいそうね、それ」 「美味いよ。マッシュルーム・オムレツとグリーンピースのサラダ」 「ふむ」と彼女は言った。「今度はそれにするわ。今日はもう別の頼んじゃった から」 「何を頼んだの」 「マカロニ・グラタン」 「マカロニ・グラタンも悪くない」と僕は言った。「ところで君とどこで会ったんだっ けなどうしても思い出せないんだけど」 「エウリビデス」と彼女は簡潔に言った。「エレクトラ。『いいえ、神様だって不 幸なものの言うことには耳を貸そうとはなさらないのです』。さっきの授業が終ったば かりでしょう」 僕はまじまじと彼女の顔を見た。彼女はサングラスを外した。それでやっと僕 は思い出した。「演劇史II」のクラスで見かけたことのある一年生の女の子だっ た。ただあまりにもがらりとヘア・スタイルが変わってしまったので、誰のなのかわから なかったのだ。 「だって君、夏休み前まではここまで髪あったろう」と僕は肩から十センチくらい 下のところを手で示した。 「そう。夏にパーマをかけたのよ。ところがぞっとするようなひどい代物でね、こ れが。一度は真剣に死のうと思ったくらいよ。本当にひどかったよ。ワカメが頭に絡 みついて水死体みたいに見えるの。でも死ぬくらいならと思ってやけっぱちで坊主 頭にしちゃったの。涼しいことは涼しいわよ、これ」と彼女は言って、長さ四センチの 髪を手の平でさらさらと撫でた。そして僕に向かってにっこり微笑んだ。 「でも全然悪くないよ、それ」と僕はオムレツの続きを食べながら言った。 「ちょっと横を向いてみてくれないかな」 彼女は横を向いて、五秒くらいそのままじっとしていた。 「うん、とてもよく似合っていると思うな。きっと頭の形が良いんだね。耳もきれ
いに見えるし」と僕は言った。 「そうなのよ。私もそう思うのよ。坊主にしてみてね、うん、これもわるくないじゃ ないかって思ったわけ。でも男の人って誰もそんなことを言ってくれやしない。小学 生みたいだとか、強制収容所だとか、そんなことばかり言うのよ。ねえ、どうして男の 人って髪の長い女の子が上品で心やしくて女らしいと思うのかしら私なんかね、髪 の長い下品の女の子二百五十人くらい知ってるわよ、本当よ」 「僕は今の方が好きだよ」と僕は言った。そしてそれは嘘ではなかった。髪の 長かったときの彼女は、僕の覚えている限りではまあごく普通の可愛い女の子だっ た。でも今僕の前に座っている彼女はまるで春を迎えて世界に飛び出したばかり の小動物のように瑞々しい生命を体中からほとばしらせていた。その瞳はまるで独 立した生命体のように楽し気に動きまわり、笑ったり怒ったりあきれたり諦めたりし ていた。僕はこんな生き生きとした表情を目にしたのは久しぶりだったので、しばらく 感心して彼女の顔を眺めていた。 「本当にそう思う」 僕はサラダを食べながら肯いた。 彼女はもう一度濃いサングラスをかけ、その奥から僕の顔を見た。 「ねえ、あなた嘘つく人じゃないわよね」 「まあできることなら正直な人間でありたいと思っているけれどね」と僕は言っ た。 「ふうん」と彼女は言った。 「どうしてそんな濃いサングラスかけてるの」と僕は訊いてみた。「急に毛が短く なるとものすごく無防備な気がするのよ。まるで裸で人ごみの中に放り出されちゃっ たみたいでね、全然落ち着かないの。だからサングラスかけるわけ」 「なるほど」と僕は言った。そしてオムレツの残りを食べた。彼女は僕がそれを 食べてしまうのを興味深そうな目でじっと見ていた。 「あっちの席に戻らなくていいの」と僕は彼女の連れの三人の方を指して言っ た。 「いいのよ、べつに。料理が来たら戻るから。なんてことないのよ。でもここにい ると食事の邪魔かしら」 「邪魔も何も、もう食べ終っちゃったよ」と僕は言った。そして彼女が自分の テーブルに戻る気配がないので食後のコーヒーを注文した。奥さんが皿を下げて、 そのかわりに砂糖とクリームを置いていた。 「ねえ、どうして今日授業で出席取ったとき返事しなかったのワタナべってあな たの名前でしょうワタナベトオルって」 「そうだよ」 「じゃどうして返事しなかったの」 「今日はあまり返事したくなかったんだ」
彼女はもう一度サングラスを外してテーブルの上に置き、まるで珍しい動物の 入っている檻でも覗きこむような目つきで僕をじっと眺めた。「『今日はあまり返事し たくなかったんだ』」と彼女はくりかえした。「ねえ、あなたってなんだかハンフリー・ボ ガートみたいなしゃべり方するのね。クールでタフで」 「まさか。僕はごく普通の人間だよ。そのへんのどこにでもいる」 奥さんがコーヒ ーを持ってきて僕の前に置いた。僕は砂糖もクリームも入れず にそれをそっとすすった。 「ほらね、やっぱり砂糖もクリームもいれないでしょう」 「ただ単に甘いものが好きじゃないだけだよ」と僕は我慢強く説明した。「君は 何か誤解しているんじゃないかな」 「どうしてそんなに日焼けしているの」 「二週間くらいずっと歩いて旅行してたんだよ。あちこち。リュックと寝袋を担い で。だから日焼けしたんだ」 「どんなところ」 「金沢から能登半島をぐるっとまわってね、新潟まで行った」 「一人で」 「そうだよ」と僕は言った。「ところどころで道連れができるってことはあるけれど ね」 「ロマンスは生まれたりするのかしら旅先でふと女の子と知りあったりして」 「ロマンス」と僕はびっくりして言った。「あのね、やはり君は何か思い違いをし ていると思うね。寝袋担いで髭ぼうぼうで歩きまわっている人間が一体どこでどう やってロマンスなんてものにめぐりあえるんだよ」 「いつもそんな風に一人で旅行するの」 「そうだね」 「孤独が好きなのね」と彼女は頬杖をついて言った。「一人で旅行して、一 人でご飯食べて、授業の時は一人だけぽつんと離れて座っているのが好きなの」 「孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけだよ。そん なことしたってがっかりするだけだもの」と僕は言った。 彼女はサングラスのつるを口にくわえ、もそもそした声で「『孤独が好きな人間 なんていない。失望するのが嫌なだけだ』」と言った。「もしあなたが自叙伝書書く ことになったらそのときはその科白使えるわよ」 「ありがとう」と僕は言った。 「緑色は好き」 「どうして」 「緑色のポロシャツをあなたが着てるからよ。だから緑色は好きなのかって訊 いているの」 「とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ」
「『とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ』」と彼女はまたくりかえし た。「私、あなたのしゃべり方すごく好きよ。きれいに壁土を塗ってるみたいで。これ までにそういわれたことある、他の人から」 ない、と僕は答えた。 「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変で しょう。そんなのひどいと思わないまるでのろわれた人生じゃない、これじゃ。ねえ、 私の姉さん桃子っていうのよ。おかしくない」 「それでお姉さんはピンク似合う」 「それがものすごくよく似合うの。ピンクを着るために生まれてきたような人ね。 ふん、まったく不公平なんだから」 彼女のテーブルに料理が運ばれ、マドラス・チェックの上着を着た男が「おー い、ミドリ、飯だぞお」と呼んだ。彼女はそちらに向かって<わかった>というよに手を あげた。 「ねえ、ワタナベ君、あなた講義のノートをとってる演劇史IIの」 「とってるよ」と僕は言った。 「悪いだけど貸してもらえないかしら私二回休んじゃってるのよ。あのクラスに 私、知っている人しないし」 「もちろん、いいよ」僕は鞄からノートを出して何か余計なものが書かれてい ないことを確かめてから緑に渡した。 「ありがとう。ねえ、ワタナベ君、あさって学校に来る」 「来るよ」 「じゃあ十二時にここにこないノート返してお昼ごちそうするから。別に一人で ごはん食べないと消化不良おこすとか、そういうんじゃないでしょう」 「まさか」と僕は言った。「でもお礼なんていらないよ。ノートを見せるくらいで」 「いいのよ。私、お礼するの好きなの。ねえ、大丈夫手帳に書いとかなくて忘 れない」 「忘れないよ。あさっての十二時に君とここで会う」 向こうの方から「おーい、ミドリ、早く来ないと冷めちゃうぞ」という声が聞こえ た。 「ねえ、昔からそういうしゃべり方してたの」と緑はその声を無視して言った。 「そうだと思うよ。あまり意識したことがないけど」と僕は答えた。しゃべり方が 変わっているなんて言われたのは本当にそれが初めてだったのだ。 彼女は少し何か考えていたが、やがてにっこり笑って席を立ち、自分のテーブ ルに戻っていった。ぼくがそのテーブルのそばを通りすぎたとき緑は僕に向かって手を 上げた。他の三人はちらっと僕の顔を見ただけだった。 水曜日の十二時になっても緑はそのレストランに姿を見せなかった。僕は彼
女が来るまでビールを飲んで待っているつもりだったのだが店が混みはじめたので 仕方なく料理を注文し、一人で食べた。食べ終ったのは十二時三十五分だった が、それでもまだ緑は姿を見せなかった。勘定を払い、外に出て店の向かい側に ある小さな神社の石段に座ってビールの酔いを覚ましながら一時まで彼女を待っ たが、それでも駄目だった。僕はあきらめて大学に戻り、図書館で本を読んだ。そ して二時からのドイツ語の授業に出た。 講義が終ると、僕は学生課に行って講義の登録簿を調べ、「演劇史II」の クラスに彼女の名前を見つけた。ミドリという名前の学生は小林緑ひとりしかいな かった。次にカード式になっている学生名簿を繰って六九年度入学の学生の中か ら「小林緑」を探し出し、住所と電話番号をメモした。住所は豊島区で、家は自 宅だった。僕は電話ボックスに入ってその番号をまわした。 「もしもし、小林書店です」と男の声が言った。小林書店 「申しわけありませんが、緑さんはいらっしゃいますか」と僕は訊いた。 「いや、緑は今いませんねえ」と相手は言った。 「大学に行かれたんでしょうか」 「うん、えーと、病院の方じゃないかなあ。おたくの名前は」 僕は名前は言わず、礼だけ言って電話を切った。病院彼女は怪我をするか あるいは病気にかかるかして病院に行ったのだろうかしかし男の声からはそういう種 類の非日常的な緊迫感はまったく感じられなかった。<うん、えーと、病院の方じゃ ないかなあ>、それはまるで病院が生活の一部であるといわんばかりの口ぶりであっ た。魚屋に魚を買いに行ったよとか、その程度の軽い言い方だった。僕はそれにつ いて少し考えを巡らせてみたが、面倒臭くなったので考えるのをやめて寮に戻り、 ベッドに寝転んで永沢さんに借りていたジョセフ・コンラッドの『ロード・ジム』の残りを 読んでしまった。そして彼のところにそれを返しに行った。 永沢さんは食事に行くところだったので、僕も一緒に食堂に言って夕食を食 べた。 外務省の試験はどうだったんですかと僕は訊いてみた。外務省の上級試験 の第二次が八月にあったのだ。 「普通だよ」と永沢さんは何でもなさそうに答えた。「あんなの普通にやってりゃ 通るんだよ。集団討論だとか面接だとかね。女の子口説くのと変わりゃしない」 「じゃあまあ簡単だったわけね」と僕は言った。「発表はいつなんですか」 「十月のはじめ。もし受かってたら、美味いもの食わしてやるよ」 「ねえ、外務省の上級試験の二次ってどんなですか永沢さんみたいな人ば かりが受けに来るんですか」 「まさか。大体アホだよ。アホじゃなきゃ変質者だ。官僚になろうなんて人間 の九五パーセントまでは屑だもんなあ。これ嘘じゃないぜ。あいつら字だってろくに 読めないんだ」
「じゃあどうして永沢さんは外務省に入るんですか」 「いろいろと理由はあるさ」と永沢さんは言った。「外地勤務が好きだとか、い ろいろな。でも一番の理由は自分の能力をためしてみたいってことだよな。どうせた めすんなら一番でかい入れものの中にためしてみたいのさ。つまりは国家だよ。この 馬鹿でかい官僚機構の中でどこまで自分が上にのぼれるか、どこまで自分が力を 持てるかそういうのを試してみたいんだよ。わかるか」 「なんだがゲームみたいに聞こえますね」 「そうだよ。ゲームみたいなもんさ。俺には権力欲と金銭欲とかいうものは殆ん どない。本当だよ。俺は下らん身勝手な男かもしれないけど、そういうものはびっく りするくらいないんだ。いわば無私無欲の人間だよ。ただ好奇心があるだけなん だ。そして広いタフな世界で自分の力を試してみたいんだ」 「そして理想というようなものも持ちあわせてないでしょうね」 「もちろんない」と彼は言った。「人生にはそんなもの必要ないんだ。必要なも のは理想でしゃなく行動規範だ」 「でも、そうじゃない人生もいっぱいあるんじゃないですかね」と僕は訊いた。 「俺のような人生はすきじゃないか」 「よして下さいよ」と僕は言った。「好き嫌いもありません。だってそうでしょう、 僕は東大に入れるわけでもないし、好きなときに好きな女と寝られるわけでもない し、弁が立つわけでもない。他人から一目おかれているわけでもなきゃ、恋人がい るでもない。二流の私立大学を出たって将来の展望があるわけでもない。僕に何 が言えるんですか」 「じゃあ俺の人生がうらやましいか」 「うらやましかないですね」と僕は言った。「僕はあまり僕自身に馴れすぎてま すからね。それに正直なところ、東大にも外務省にも興味がない。ただひとつうらや ましいのはハツミさんみたいに素敵な恋人を持ってることですね」 彼はしばらく黙って食事をしていた。 「なあ、ワタナベ」と食事が終ってから永沢さんは僕に言った。「俺とお前はここ を出て十年だか二十年だか経ってからまだどこかで出会いそうな気がするんだ。 「そして何かのかたちでかかわりあいそうな気がするんだ」 「まるでディッケンズの小説みたいな話ですね」と言って僕は笑った。 「そうだな」と彼も笑った。「でも俺の予感ってよく当るんだぜ」 食事のあとで僕と永沢さんは二人で近くのスナック・バーに酒を飲みに行っ た。そして九時すぎまでそこで飲んでいた。 「ねえ、永沢さん。ところであなたの人生の行動規範って一体どんなものなん ですか」と僕は訊いてみた。 「お前、きっと笑うよ」と彼は言った。 「笑いませんよ」と僕は言った。
「紳士であることだ」 僕は笑いはしなかったけれどあやうく椅子から転げ落ちそうになった。「紳士っ てあの紳士ですか」 「そうだよ、あの紳士だよ」と彼は言った。 「紳士であることって、どういうことなんですかもし定義があるなら教えてもらえ ませんか」 「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」 「あなたはぼくがこれまで会った人の中で一番変った人ですね」と僕は言っ た。 「お前は俺がこれまで会った人間の中で一番まともな人間だよ」と彼は行っ た。そして勘定を全部払ってくれた。 翌週の月曜日の「演劇史II」の教室にも小林緑の姿は見当らなかった、僕 は教室の中をざっと見まわして彼女がいないことをたしかめてからいつもの最前列 の席に座り、教師が来るまで直子への手紙を書くことにした。僕は夏休みの旅行 のことを書いた。歩いた道筋や、通り過ぎた町々や、出会った人々について書い た。そして夜になるといつも君のことを考えていた、と。君と会えなくなって、僕は自 分がどれくらい君を求めていたかということがわかるようになった。大学は退屈きわま りないが、自己訓練のつもりできちんと出席して勉強している。君がいなくなってか ら、何をしてもつまらなく感じるようになってしまった。一度君に会ってゆっくりと話が したい。もしできることならその君の入っている療養所をたずねて、何時間かでも面 会したいのだがそれは可能だろうかそしてできることならまた前のように二人で並ん で歩いてみたい。迷惑かもしれないけれど、どんな短い手紙でもいいから返事がほ しい。 それだけ書いてしまうと僕はその四枚の便箋をきれいに畳んで用意した封筒 に入れ、直子の実家の住所を書いた。 やがて憂鬱そうな顔をした小柄の教師が入ってきて出欠をとり、ハンカチで額 の汗を拭いた。彼は脚が悪くいつも金属の杖をついていた。「演劇史II」は楽しい とは言えないまでも、一応聴く価値のあるきちんとした講義だった。あいかわらず暑 いですねと言ってから、彼はエウリビデスの戯曲におけるデウス・エクス・マキナの役 割について話しはじめた。エウリビデスにおける神が、アイスキュロスやソフォクレスの それとどう違うかについて彼は語った。十五分ほど経ったところで教室のドアが開い て緑が入ってきた。彼女は濃いブルーのスポーツ・シャツにクリム色の綿のズボンを はいて前と同じサングラスをかけていた。彼女は教師向かって「遅れてごめんなさ い」的な微笑を浮かべてから僕のとなりに座った。そしてショルダー・バッグからノート を出して、僕に渡した。ノートの中には「水曜日、ごめんなさい。怒ってる」と書いた メモが入っていた。
講義が半分ほど進み、教師が黒板にギリシャ劇の舞台装置の絵を描いて いるところに、またドアが開いてヘルメットをかぶった学生が二人入ってきた。まるで 漫才のコンビみたいな二人組だった。一人はひょっろりとして色白で背が高く、もう 一人 は背が低く丸顔で色が黒く、似合わない髭を伸ばしていた。背が高い方がア ジ・ビラを抱えていた。背の低い方が教師のところに行って、授業の後半を討論に あてたいので了承していただきたい。ギリシャ悲劇よりもっと深刻な問題が現在の 世界を覆っているのだと言った。それは要求ではなく、単なる通告だった。ギリシャ 悲劇より深刻な問題が現在の世界に存在するとは私には思えないが、何を言っ ても無駄だろうから好きにしなさい、と教師は言った。そして机のふちをぎゅっとつか んで足を下におこし、杖を取って足をひきずりながら教室を出ていた。 背の高い学生がビラを配っているあいだ、丸顔の学生が壇上に立って演説 をした。ビラにはあのあらゆる事象を単純化する独特の簡潔な書体で「欺瞞的総 長選挙を粉砕し」「あらたなる全学ストへと全力を結集し」「日帝産学協同路線 に鉄槌を加える」と書いてあった。説は立派だったし、内容にとくに異論はなかった が、文章に説得力がなかった。信頼性もなければ、人の心を駆りたてる力もな かった。丸顔の演説も似たりよったりだった。いつもの古い唄だった。メロディーが同 じで、歌詞のてにをはが違うだけだった。この連中の真の敵は国家権力ではなく想 像力の欠如だろうと僕は思った。 「出ましょうよ」と緑は言った。 僕は肯いて立ち上がり、二人で教室を出た。出るときに丸顔の方が僕に何 か言ったが、何を言ってるのかよくわからなかった。緑は「じゃあね」と言って彼にひら ひらと手を振った。 「ねえ、私たち反革命なのかしら」と教室を出てから緑が僕に言った。「革命 が成就したら、私たち電柱に並んで吊るされるのかしら」 「吊るされる前にできたら昼飯を食べておきたいな」と僕は言った。 「そうだ、少し遠くだけれどあなたをつれていきたい店があるの。ちょっと時間が かかってもかまわないかしら」 「いいよ、二時からの授業まではどうせ暇だから」 緑は僕をつれてバスに乗り、四ツ谷まで行った。彼女のつれていってくれた店 は四ツ谷の裏手の少し奥まったところにある弁当屋だった。われわれがテーブルに 座ると、何も言わないうちに朱塗りの四角い容器に入った日替わりの弁当と吸物 の椀が運ばれてきた。たしかにわざわざバスに乗って食べにくる値打のある店だっ た。 「美味いね」 「うん、それに結構安いのよ。だから高校の時からときどきここにお昼食食べに 来てたのよ。ねえ、私の学校このすぐ近くにあったのよ。ものすごく厳しい学校で ね。私たちこっそり隠れて食べに来たもんよ。なにしろ外食してるところを見つかった
だけで停学になる学校なんだもの」 サングラスを外すと、緑はこの前見たときよりいくぶん眠そうな目をしていた。 彼女は左の手首にはめた細い銀のブレスレットをいじったり、小指の先で目のわき をぽりぽりと掻いたりしていた。 「眠いの」と僕は言った。 「ちょっとね。寝不足なのよ。何やかやと忙しくて。でも大丈夫、気にしない で」と彼女は言った。「この前ごめんなさいね。どうしても抜けられない大事な用事 ができちゃったの。それも朝になって急にだから、どうしようもなかったのよ。あのレス トランに電話しようかと思ったんだけど店の名前も覚えてないし、あなたの家の電 話だって知らないし。ずいぶん待った」 「べつにかまわないよ。僕は時間のあり余ってる人間だから」 「そんなに余ってるの」 「僕の時間をすこしあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」 緑は頬杖をついてにっこり笑い、僕の顔を見た。「あなたって親切なのね」 「親切なんじゃなくて、ただ単に暇なのさ」と僕は言った。「ところであの日君の 家に電話したら、家の人が君が病院に行ったって言ってたけど、何かあったの」 「家に」と彼女はちょっと眉のあいだにしわを寄せて言った。「どうして家の電話 番号がわかったの」 「学生課で調べたんだよ。もちろん、誰でも調べられる」 なるほど、という風に彼女は二、三度肯き、まだブレスレットをいじった。「そう ね、そういうの思いつかなかったわ。あなたの電話番号もそうすれば調べられたのに ね。でも、その病院のことだけど、また今度話すわね。今あまり話したくないの。ご めんなさい」 「かまわないよ。なんだか余計なこと聞いちゃったみたいだ」 「ううん、そんなことないのよ。私が今すこし疲れてるだけ。雨に打たれた猿の ように疲れているの」 「家に帰って寝たほうがいいじゃないかな」と僕は言った。 「まだ寝たくないわ。すこし歩きましょうよ」と緑は言った。 彼女は四ツ谷の駅からしばらく歩いたところにある彼女の高校の前に僕をつ れていった。 四ツ谷の駅の前を通りすぎるとき僕はふと直子と、その果てしない歩行のこと を思い出した。そういえばすべてはこの場所から始まったのだ。もしあの五月の日 曜日に中央線の電車の中でたまたま直子に会わなかったら僕の人生も今とずい ぶん違ったものになっていただろうな、と僕はふと思った。そしてそのすぐあとで、いや もしあのとき出会わなかったとしても結局は同じようなことになっていたかもしれない と思い直した。たぶん我々はあのとき会うべくして会ったのだし、もしあのとき会って
いなかったとしても、我々はべつのどこかで会っていただろう。とくに根拠があるわけ ではないのだが、僕はそんな気がした。 僕と小林緑は二人で公園のペンチに座って、彼女の通っていた高校の建物 を眺めた。校舎には蔦がからまり、張り出しには何羽か鳩が止まって羽をやすめて いた。趣きのある古い建物だった。庭には大きな樫の木が生えていて、そのわきか ら白い煙がすうっとまっすぐに立ちのぼっていた。夏の名残りの光が煙を余計にぼん やりと曇らせていた。 「ワタナベ君、あの煙なんだかわかる」突然緑が言った。 わからない、と僕は言った。 「あれは生理ナプキン焼いてるのよ」 「へえ」と僕は言った。それ以外になんと言えばいいのかよくわからなかった。 「生理ナプキン、タンポン、その手のもの」と言って緑はにっこりした。「みんなト イレの汚物入れにそういうの捨てるでしょう、女子校だから。それを用務員のおじさ んが集めてまわって焼却炉で焼くの。それはあの煙なの」 「そう思ってみるとどことなく凄味があるね」と僕は言った。 「うん、私も教室の窓からあの煙を見るたびにそう思ったわよ。凄いなあって。 うちの学校は中学・高校あわせると千人近く女の子がいるでしょう。まあまだ始まっ てない子もいるから九百人として、そのうちの五分の一が生理中として、だいたい 百八十人よね。で、一日に百八十人ぶんの生理ナプキンが汚物入れに捨てられ るわけよね」 「まあそうだろうね。細かい計算はよくわからないけど」 「かなりの量だわよね。百八十人ぶんだもの。そういうの集めてまわって焼く のってどういう気分のものなのかしら」 「さあ、見当りもつかないよ」と僕は言った。どうしてそんなことが僕にわかると いうのだそして我々はしばらく二人でその白い煙を眺めた。 「本当は私あの学校に行きたくなかったの」と緑は言って小さく首を振った。 「私はごく普通の公立の学校に入りたかったの。ごく普通の人が行くごく普通の学 校に。そして楽しくのんびりと青春を過ごしたかったの。でも親の見栄えであそこに 入れられちゃったのよ。ほら小学校の時成績が良いとそういうことあるでしょう先生 がこの子の成績ならあそこ入れますよ、ってね。で、入れられちゃったわけ。六年 通ったけどどうしても好きになれなかったわ。一日も早くここを出て行きたい、一日 も早くここを出て行きたいって、そればかり考えて学校に通ってたの。ねえ、私って 無遅刻・無欠席で表彰までされたのよ。そんなに学校が嫌いだったのに。どうして だかわかる」 「わからない」と僕は言った。 「学校が死ぬほど嫌いだったからよ。だから一度も休まなかったの。負けるも のかと思ったの。一度負けたらおしまいだって思ったの。一度負けたらそのままずる
ずる行っちゃうじゃないかって恐かったのよ。三十九度の熱があるときだって這って 学校に行ったわよ。先生がおい小林具合悪いんじゃないかって言っても、いいえ大 丈夫ですって嘘ついて頑張ったのよ。それで無遅刻・無欠席の表彰状とフランス 語の辞書をもらったの。だからこそ私、大学でドイツ語をとったのよ。だってあの学校 に恩なんか着せられちゃたまらないもの。そんなの冗談じゃないわよ」 「学校のどこが嫌いだったの」 「あなた学校好きだったの」 「好きでもとくに嫌いでもないよ。僕はごく普通の公立高校に通ったけどとくに 気にはしなかったな」 「あの学校ね」と緑が小指で目のわきを掻きながら行った。「エリートの女の子 の集まる学校なのよ。育ちも良きゃ成績も良いって女の子が千人近くあつめられ てるの。ま、金持ちの娘ばかりね。でなきゃやっていけないもの。授業料高いし、寄 附もしょっちゅうあるし、修学旅行っていや京都の高級旅館を借り切って塗りのお 膳で懐石料理食べるし、年に一回ホテル・オークラの食堂でテーブル・マナーの講 習があるし、とにかく普通じゃないのよ。ねえ、知ってる私の学年百六十人の中で 豊島区に住んでる生徒って私だけだったのよ。私一度学生名簿を全部調べてみ たの。みんないったいどんなところに住んでるだろうって。すごかったわねえ、千代田 区三番町、港区元麻布、大田区田園調布、世田谷区成城もうずうっとそんな のばかりよ。一人だけ千葉県柏っていう女の子がいてね、私その子とちょっと仲良く なってみたの。良い子だったわよ。家に遊びにいらっしゃいよ、遠くてわるいけどって 言うからいいわよって行ってみたの。仰天しちゃったわね。なにしろ敷地を一周する のに十五分かかるの。すごい庭があって、小型車ぐらい大きさの犬が二匹いて牛 肉のかたまりをむしゃむしゃ食べてるわけ。それでもその子、自分が千葉に住んでる ことでひけめ感じてたのよ、クラスの中で。遅刻しそうになったらメルセデス・ペンツで 学校近くまで送ってもらうような子がよ。車は運転手つきで、その運転手たるや『グ リーン・ホーネット』に出てくる運転手みたいに帽子かぶって白い手袋はめてるの よ。なのにその子、自分のことを恥ずかしがってるのよ。信じられないわ。信じられ る」 僕は首を振った。 「豊島区北大塚なんて学校中探したって私くらいしかいやしないわよ。おまけ に親の職業欄にはこうあるの、〈書店経営〉ってね。おかげてクラスのみんなは私の ことすごく珍しがってくれたわ。好きな本が好きなだけ読めていいわねえって。冗談 じゃないわよ。みんなが考えてるのは紀伊国屋みたいな大型書店なのよ。あの人 たち本屋っていうとああいうのしか想像できないのね。でもね、実物たるや惨めなも のよ。小林書店。気の毒な小林書店。がらがらと戸をあけると目の前にずらりと雑 誌が並んでいるの。いちばん堅実に売れるのが婦人雑誌、新しい性の技巧・図 解入り四十八手のとじこみ付録のついてるやつよ。近所の奥さんがそういうの買っ
てって、台所のテーブルに座って熟読して、御主人が帰ってきたらちょっとためして みるのね。それけっこうすごいのよね。まったく世間の奥さんって何を考えて生きてい るのかしら。それから漫画。これも売れるわよね。マガジン、サンデー、ジャンプ。そし てもちろん週刊誌。とにかく殆どが雑誌なのよ。少し文庫はあるけれど、たいしたも のないわよ。ミステリーとか、時代もの、風俗もの、そういうのしか売れないから。そし て実用書。碁の打ちかた、盆栽の育てかた、結婚式のスピーチ、これだけは知ら ねばならない性生活、煙草はすぐにやめられる、などなど。それからうちは文房具 まで売ってるのよ。レジの横にボールペンとかそういうの並べてね。それだけ。『戦争 と平和』もないし、『性的人間』もないし、『ライ麦畑』もないの。それは小林書 店。そんなもののいったいどこがうらやましいっていうのよあなたうらやましい」 「情景が目の前に浮かぶね」 「ま、そういう店なのよ。近所の人はみんなうちで本を買いにくるし、配達もす るし、昔からのお客さんも多いし、一家四人は十分食べていけるわよ。借金もな いし、娘を二人大学にやることはできるわよ。でもそれだけ。それ以上に何か特別 なことをやるような余裕はうちにはないのよ。だからあんな学校に私を入れたりする べきじゃなかったのよ。そんなの惨めになるだけだもの。何か寄附があるたびに親に ぶつぶつ文句を言われて、クラスの友だちとどこかに遊びにいっても食事どきになる と高い店に入ってお金が足りなくなるじゃないかってびくびくしてね。そんな人生って 暗いわよ。あなたのお家はお金持ちなの」 「うちうちはごく普通の勤め人だよ。特に金持ちでもないし、とくに貧乏でもな い。子供を東京の私立大学にやるのはけっこう大変だと思うけど、まあ子供は僕 一人だから問題はない。仕送りはそんなに多くないし、だからアルバイトしてる。ごく あたり前の家だよ。小さな庭があって、トヨタ・カローラがあって」 「どんなアルバイトしてるの」 「週に三回新宿のレコード屋で夜働いている。楽な仕事だよ。じっと座って店 番してりゃいんだ」 「ふうん」と緑は言った。「私ね、ワタナベ君ってお金に苦労したことなんかない 人だって思ってたのよ。なんとなく、見かけで」 「苦労したことはないよ、べつに。それほど沢山お金があるわけじゃないってい うだけのことだし、世の中の大抵の人はそうだよ」 「私の通った学校では大抵の人は金持だったのよ」と彼女は膝の上で両方 の手のひらを上に向けて言った。「それが問題だったのよ」 「じゃあこれからはそうじゃない世界をいやっていうくらい見ることになるよ」 「ねえ、お金持であることの最大の利点ってなんだと思う」 「わからないな」 「お金がないって言えることなのよ。たとえば私がクラスの友だちに何かしましょ うよって言うでしょ、すると相手はこう言うの、『私いまお金がないから駄目』って。逆
の立場になったら私とてもそんなこと言えないわ。私がもし『いまお金がない』って 言ったら、それは本当にお金がないっていうことなんだもの。惨めなだけよ。美人の 女の子が『私今日はひどい顔してるから外に出たくないなあ』っていうのと同じね。 ブスの子はそんなこと言ってごらんなさいよ、笑われるだけよ。そういうのが私にとって の世界だったのよ。去年までの六年間」 「そのうちに忘れるよ」と僕は言った。 「早く忘れたいわ。私ね、大学に入って本当にホッとしたのよ。普通の人が いっぱいいて」 彼女はほんの少し唇を曲げて微笑み、短い髪を手のひらで撫でた。 「君は何かアルバイトしてる」 「うん、地図の解説を書いてるの。ほら、地図を買うと小冊子みたいなのがつ いてるでしょう町の説明とか、人口とか、名所とかについていろいろ書いてあるや つ。ここにこういうハイキング・コースがあって、こういう伝説があって、こういう花が咲 いて、こういう鳥がいてとかね。あの原稿を書く仕事なのよ。あんなの本当に簡単 なの。アッという間よ。日比谷図書館に行って一日がかりで本を調べたら一冊書 けちゃうもの。ちょっとしたコツをのみこんだら仕事なんかいくらでもくるし」 「コツって、どんなコツ」 「つまりね、他の人が書かないようなことを盛りこんでおけばいいのよ。すると地 図会社の担当の人は『あの子は文章は書ける』って思ってくれるわけ。すごく感心 してくれたりしてね。仕事をまわしてくれるのよ。べつにたいしたことじゃなくていいの よ。ちょっとしたことでいいの。たとえばね、ダムを作るために村がひとつここで沈んだ が、渡り鳥たちは今でもまだその村のことを覚えていて、季節が来ると鳥たちがその 湖の上をいつまでも飛びまわっている光景が見られる、とかね。そういうエピソードを ひとつ入れておくとね、みんなすごく喜ぶのよ。ほら情景的で情緒的でしょ。普通の アルバイトの子ってそういう工夫をしないのよ、あまり。だから私けっこういいお金とっ てるのよ、その原稿書きで」 「でもよくそういうエピソードがみつかるもんだね、うまく」 「そうねえ」と言ってみどりは少し首をひねった。「見つけようと思えば何とか見 つかるものだし、見つからなきゃ害のない程度に作っちゃえばいいのよ」 「なるほど」と僕は感心して言った。 「ピース」と緑は言った。 彼女は僕の住んでいる寮の話を聞きたがったので、僕は例によって日の丸の 話やら突撃隊のラジオ体操の話やらをした。緑も突撃隊の話で大笑いした。突 撃隊は世界中の人を楽しい気持ちにさせるようだった。緑は面白そうだから一度 是非その寮を見てみたいと言った。見たって面白かないさ、と僕は言った。 「男の学生が何百人うす汚い部屋の中で酒飲んだりマスターぺーションしたり してるだけさ」
「ワタナベ君もするの、そういうの」 「しない人間はいないよ」と僕は説明した。「女の子に生理があるのと同じよう に、男はマスタペーションやるんだ。みんなやる。誰でもやる」 「恋人がいる人もやるかしらつまりセックスの相手がいる人も」 「そういう問題じゃないんだ。僕のとなりの部屋の慶応の学生なんてマスター ぺーションしてからデートに行くよ。その方が落ち着くからって」 「そういうのって私にはよくわからないわね。ずっと女子校だったから」 「そういうことは婦人雑誌の附録に書いてないしね」 「まったく」と言って緑は笑った。「ところでワタナベ君、今度の日曜日は暇あい てる」 「どの日曜日も暇だよ。六時からアルバイトに行かなきゃならないけど」 「よかったら一度うちに遊びに来ない小林書店に。店は閉まってるんだけど、 私夕方まで留守番しなくちゃならないの。ちょっと大事な電話がかかってくるかもし れないから。ねえ、お昼ごはん食べない作ってあげるわよ」 「ありがたいね」と僕は言った。 緑はノートのページを破って家までの道筋を詳しく地図に描いてくれた。そし て赤いボールペンを出して家のあるところに巨大な×印をつけた。 「いやでもわかるわよ。小林書店っていう大きな看板が出てるから。十二時く らいに来てくれるご飯用意してるから」 僕は礼を言ってその地図をポケットにしまった。そしてそろそろ大学に戻って二 時からのドイツ語の授業に出ると言った。緑は行くところがあるからと言って四ツ谷 から電車に乗った。 日曜日の朝、僕は九時に起きて髭を剃り、洗濯をして洗濯ものを屋上に干 した。素晴らしい天気だった。最初の秋の匂いがした。赤とんぼの群れが中庭をぐ るぐると飛びまわり、近所の子供たちが網を持ってそれを追いまわしていた。風はな く、日の丸の旗はだらんと下に垂れていた。僕はきちんとアイロンのかかったシャツを 着て寮を出て都電の駅まで歩いた。日曜日の学生街はまるで死に絶えたように がらんとしていて人影もほとんどなく、大方の店は閉まっていた。町のいろんな物音 はいつもよりずっとくっきりと響きわたっていた。木製のヒールのついたサボをはいた女 の子がからんからんと音をたてながらアスファルトの道路を横切り、都電の車庫の わきでは四、五人の子供たちが空き缶を並べてそれめがけて石を投げていた。花 屋が一軒店を開けていたので、僕はそこで水仙の花を何本が買った。秋に水仙 を買うというのも変なものだったが、僕は昔から水仙の花が好きだった。 日曜日の朝の都電には三人連れのおばあさんしか乗っていなかった。僕は 乗るとおばあさんたちは僕の顔と僕の手にした水仙の花を見比べてにっこり笑っ た。僕もにっこりした。そしていちばんうしろの席に座り、窓のすぐ外を通りすぎていく
古い家並みを眺めていた。電車は家々の軒先すれすれのところを走っていた。あ る家の物干しにはトマトの鉢植が十個もならび、その横で大きな黒猫がひなた ぼっこをしていた。小さな子供が庭でしゃぼん玉をとばしているのも見えた。どこかか らいしだあゆみの唄が聴こえた。カレーの匂いさえ漂っていた。電車はそんな親密 な裏町を縫うようにするすると走っていた。途中の駅で何人か客が乗りこんできた が、三人のおばあさんたちは飽きもせず何かについて熱心にあたまをつき合わせて 話しつづけていた。 大塚駅の近くで僕は都電を降り、あまり見映えのしない大通りを彼女が地 図に描いてくれたとおりに歩いた。道筋に並んでいる商店はどれもこれもあまり繁 盛しているように見えなかった。どの店も建物は旧く、中は暗そうだった。看板の字 が消えかけているものもあった。建物の旧さやスタイルからみて、このあたりが戦争 で爆撃を受けなかったらしいことがわかった。だからこうした家並みがそのままに残さ れているのだ。もちろん建てなおされたものもあったし、どの家も増築されたり部分 的に補修されたりはしていたが、そういうのはまったくの古い家より余計汚ならしく見 えることの方が多かった。 人々の多くは車の多さや空気の悪さや騒音や家賃の高さに音をあげて郊 外に移っていってしまい、あとに残ったのは安アパートか社宅か引越しのむずかしい 商店か、あるいは頑固に昔から住んでいる土地にしがみついている人だけといった 雰囲気の町だった。車の排気ガスのせいで、まるでかすみがかかったみたいに何も かもぼんやりと薄汚れていた。 そんな道を十分ばかり歩いてガソリン・スタンドの角を右に曲がると小さな商 店街があり、まん中あたりに「小林書店」という看板が見えた。たしかに大きな店で はなかったけれど、僕が緑の話しから想像していたほど小さくはなかった。ごく普通 の本屋だった。僕が子供の頃、発売日を待ちかねて少年雑誌を買いに走ってい たのと同じような本屋だった。小林書店の前に立っていると僕はなんとなくなつかし い気分になった。どこの町にもこういう本屋があるのだ。 店はすっかりシャッターを下ろし、シャッターには「週刊文春・毎週木曜日発 売」と書いてあった。十二時にはまだ十五分ほど間があったが、水仙の花を持って 商店街を歩いて時間をつぶすのもあまり気が進まなかったので、僕はシャッターの 脇にあるベルを押し、二、三歩うしろにさがって返事を待った。十五秒くらい待った が返事はなかった。もう一度ベルを押したものかどうか迷っていると、上の方でガラ ガラと窓を開く音がした。見上げると緑が窓から首を出して手を振っていた。 「シャッター開けて入ってらしゃいよ」と彼女はどなった。 「ちょっと早かったけど、いいかな」と僕はどなりかえした。 「かまわないわよ、ちっとも。二階に上ってきてよ。私、今ちょっと手が放せない の」そしてまたガラガラと窓が閉った。 僕はとんでもなく大きい音を立ててシャッターを一メートルほど押し上げ、身を
かがめて中に入り、またシャッターを下ろした。店の中はまっ暗だった。僕はひもで 縛って床においてある返品用の雑誌につまずいて転びそうになりながらようやく店の 奥にたどりつき、手さぐりで靴を脱いで上にあがった。家の中はうすぼんやりと暗かっ た。土間から上ったところは簡単な応接室のようになっていて、ソファー・セットが置 いてあった。それほど広くはない部屋で、窓からは一昔前のポーランド映画みたい なうす暗い光がさしこんでいた。左手には倉庫のような物置のようなスペースがあ り、便所のドアも見えた。右手の急な階段を用心ぶかく上っていくと二階に出た。 二階は一階に比べると格段に明るかったので僕は少ながらずホッとした。 「ねえ、こっち」とどこかで緑の声がした。階段を上ったところの右手に食堂の ような部屋があり、その奥に台所があった。家そのものは旧かったが、台所はつい 最近改築されたらしく、流し台も蛇口も収納棚もぴかぴかに新しかった。そしてそ こで緑が食事の支度をしていた。鍋で何かを煮るぐつぐつという音がして、魚を焼く 匂いがした。 「冷蔵庫にビールが入ってるから、そこに座って飲んでてくれる」と緑はちらっと こちらを見て言った。僕は冷蔵庫からビール出してテーブルに座って飲んだ。ビール は半年くらいそこに入ってたんじゃないかと思えるくらいよく冷えていた。テーブルの 上には小さな白い灰皿と新聞と醤油さしがのっていた。メモ用紙とボールペンも あって、メモ用紙には電話番号と買物の計算らしい数字が書いてあった。 「あと十分くらいでできると思うんだけど、そこで待っててくれる待てる」 「もちろん待ってるよ」と僕は言った。 「待ちながらおなかを減らしておいてよ。けっこう量があるから」 僕は冷たいビールをすすりながら一心不乱に料理を作っている緑のうしろ姿 を眺めていた。彼女は素早く器用に体を動かしながら、一度に四つくらいの料理 のプロセスをこなしていた。こちらで煮るものの味見をしたかと思うと、何かをまな板 の上で素早く刻み、冷蔵庫から何かを出して盛りつけ、使い終わった鍋をさっと 洗った。後ろから見ているとその姿はインドの打楽器奏者を思わせた。あっちのベ ルを鳴らしたかと思うとこっちの板を叩き、そして水牛の骨を打ったり、という具合 だ。ひとつひとつの動作が俊敏で無駄がなく、全体のバランスがすごく良かった。僕 は感心してそれを眺めていた。 「何か手伝うことあったらやるよ」と僕は声をかけてみた。 「大丈夫よ。私一人でやるのに馴れてるから」と緑は言ってちらりとこちらを向 いて笑った。緑は細いブルージーンズの上にネイビ・ブルーのTシャツを着ていた。T シャツの背中にはアップル・レコードのりんごのマークが大きく印刷されていた。うしろ から見ると彼女の腰はびっくりするくらいほっそりとしていた。まるで腰をがっしりと固 めるための成長の一過程が何かの事情でとばされてしまったじゃないかと思えるくら いの華奢な腰だった。そのせいで普通の女の子がスリムのジーンズをはいたときの 姿よりずっと中性的な印象があった。流しの上の窓から入ってくる明るい光が彼女
の体の輪郭にぼんやりとふちどりのようなものをつけていた。 「そんなに立派な食事作ることなかったのに」と僕は言った。 「ぜんぜん立派じゃないわよ」と緑は振る向かずに言った。「昨日は私忙しくて ろくに買い物できなかったし、冷蔵庫のあり合わせのものを使ってさっと作っただけ。 だからぜんぜん気にしないで。本当よ。それにね、客あしらいの良いのはうちの家風 なの。うちの家族ってね、どういうわけだか人をもてなすのが大好きなのよ、根本的 に。もう病気みたいなものよね、これ。べつにとりたて親切な一家というわけでもな いし、別にそのことで人望があるというのでもないんだけれど、とにかくお客があると 何はともあれもてなさないわけにはいかないの。全員がそういう性分なのよ、幸か 不幸か。だからね、うちのお父さんなんか自分じゃ殆どお酒飲まないくせに、うちの 中もうお酒だらけよ。なんでだと思うお客に出すためよ。だからビールどんどん飲ん でね。遠慮なく」 「ありがとう」と僕は言った。 それから突然僕は水仙の花を階下に置き忘れて来たことに気付いた。靴を 脱ぐ時に横においてそのまま忘れてしまったのだ。僕はもう一度降りて薄暗がりの 中に横たわった十本の水仙の白い花をとって戻ってきた。緑は食器棚から長細い グラスを出して、そこに水仙を生けた。 「私、水仙って大好きよ」と緑は言った。「昔ね高校の文化祭で『七つの水 仙』を唄ったことあるのよ。知ってる、『七つの水仙』」 「知ってるよ、もちろん」 「昔フォーク・グループやってたの。ギターを弾いて」 そして彼女は「七つの水仙」を唄いながら料理を皿に盛りつけていった。 緑の料理は僕の想像を遥かに越えて立派だった。鯵の酢の物に、ぽってりと しただしまき玉子、自分で作ったさわらの西京漬、なすの煮物、じゅんさいの吸 物、しめじの御飯、それにたくあんを細かくきざんでゴマをまぶしたものがたっぷりつ いていた。味つけはまったくの関西風の薄味だった。 「すごくおいしい」と僕は感心して言った。 「ねえワタナベ君、正直言って私の料理ってそんなに期待してなかったでしょう 見かけからして」 「まあね」と僕は正直に言った。 「僕のためにわざわざ薄味で作ったの」 「まさか。いくらなんでもそんな面倒なことしないわよ。家はいつもこういう味つ けよ」 「お父さんかお母さんが関西の人なの、じゃあ」 「ううん、お父さんはずっとここの人だし、お母さんは福島の人よ。うちの親戚 中探したって関西の人なんて一人もいないわよ。うちは東京・北関東系の一家な
の」 「よくわからないな」と僕は言った。「じゃあどうしてこんなきちんとした正統的な 関西風の料理が作れるの誰かに習ったわけ」 「まあ、話せば長くなるだけどね」と彼女はだしまき玉子を食べながら言った。 「うちのお母さんというのがなにしろ家事と名のつくものが大嫌いな人でね、料理な んてものは殆ど作らなかったの。それにほら、うちは商売やってるでしょう、だから忙 しいと今日は店屋ものにしちゃおうとか、肉屋でできあいのコロッケ買ってそれで済 ましちゃうとか、そういうことがけっこう多かったのよ。私、そういうのが子供の頃から本 当に嫌だったの。嫌で嫌でしようがなかったの。三日分カレー作って毎日それを食 べてるとかね。それである日、中学校三年生のときだけど、食事はちゃんとしたもの を自分で作ってやると決心したわけ。そして新宿の紀伊国屋に行っていちばん立 派そうな料理の本を買って帰ってきて、そこに書いてあることを隅から隅まで全部マ スターしたの。まな板の選び方、包丁の研ぎ方、魚のおろし方、かつおぶしの削り 方、何もかもよ。そしてその本を書いた人が関西の人だったから私の料理は全部 関西風になっちゃったわけ」 「じゃあこれ、全部本で勉強したの」と僕はびっくりして訊いた。 「あとはお金を貯めてちゃんとした懐石料理を食べに行ったりしてね。それで 味覚を覚えて。私けっこう勘はいいのよ。理論的思考って駄目だけど」 「誰にも教わらずにこれだけ作れるって大したもんだと思うよ、たしかに」 「そりゃ大変だったわよ」と緑はため息をつきながら言った。「なにしろ料理なん てものにまるで理解も関心もない一家でしょう。きちんとした包丁とか鍋とか買いた いって言ってもお金なんて出してくれないのよ。今ので十分だっていうの。冗談じゃ ないわよ。あんなぺらぺらの包丁で魚なんておろせるもんですか。でもそう言うとね、 魚なんておろさなくていいって言われるの。だから仕方ないわよ。せっせとおこづかい 貯めて出刃包丁とか鍋とかザルとか買ったの。ねえ信じられる十五か十六の女の 子が一所懸命爪に火をともすようにお金を貯めてザルやら研石やら天ぷら鍋買っ てるなんて。まわりの友だちはたっぷりおこづかいもらって素敵なドレスやら靴やら 買ってるっていうのによ。可哀そうだと思うでしょう」 僕はじゅんさいの吸物をすすりながら肯いた。 「高校一年生のときに私どうしても玉子焼き器が欲しかったの。だしまき玉子 をつくるための細長い銅のやつ。それで私、新しいブラジャーを買うためのお金使っ てそれを買っちゃったの。おかげでもう大変だったわ。だって私三ヶ月くらいたった一 枚のブラジャーで暮らしたのよ。信じられる夜に洗ってね、一所懸命乾かして、朝 にそれをつけて出て行くの。乾かなかったら悲劇よね、これ。世の中で何が哀しいっ て生乾きのブラジャーをつけるくらい哀しいことないわよ。もう涙がこぼれちゃうわよ。 とくにそれがだしまき玉子焼き器のためだなんて思うとね」 「まあそうだろうね」と僕は笑いながら言った。
「だからお母さんが死んじゃったあとね、まあお母さんには悪いとは思うだけどい ささかホッとしたわね。そして家計費好きなもの買ったの。だから今じゃ料理用具は なかなかちきんとしたもの揃ってるわよ。だってお父さんなんて家計費がどうなってる のが全然知らないんだもの」 「お母さんはいつ亡くなったの」 「二年前」と彼女が短く答えた。「癌よ。脳腫瘍。一年半入院して苦しみに 苦しんで最後には頭がおかしくなって薬づけになって、それでも死ねなくて、殆ど安 楽死みたいな格好で死んだの。なんて言うか、あれ最悪の死に方よね。本人も辛 いし、まわりも大変だし。おかげてうちなんかお金なくなっちゃったわよ。一本二万 円の注射ぽんぽん射つわ、つきそいはつけなきゃいけないわ、なんのかのでね。看 病してたおかげて私は勉強できなくて浪人しちゃうし、踏んだり蹴ったりよ。おまけに ―― 」と彼女は何かを言いかけたが思い直してやめ、箸をおいてため息をついた。 「でもずいぶん暗い話になっちゃったわね。なんでこんな話になったんだっけ」 「ブラジャーのあたりからだね」と僕は言った。 「そのだしまきよ。心して食べてね」と緑は真面目な顔をして言った。 僕は自分のぶんを食べてしまうとおなかがいっぱいになった。緑はそれほどの 量を食べなかった。料理作ってるとね、作ってるだけでもおなかいっぱいになっちゃう のよ、と緑は言った。食事が終わると彼女は食器を片付け、テーブルの上を拭き、 どこかからマルボロの箱を持ってきて一本くわえ、マッチで火をつけた。そして水仙を いけたグラスを手にとってしばらく眺めた。 「このままの方がいいみたいね」と緑は言った。「花瓶に移さなくていいみたい。 こういう風にしてると、今ちょっとそこの水辺で水仙をつんできてとりあえずグラスにさ してあるっていう感じがするもの」 「大塚駅の前の水辺でつんできたんだ」と僕は言った。 緑はくすくす笑った。「あなたって本当に変ってるわね。冗談なんか言わないっ て顔して冗談言うんだもの」 緑は頬杖をついて煙草を半分吸い、灰皿にぎゅっとこすりつけるようにして消 した。煙が目に入ったらしく指で目をこすっていた。 「女の子はもう少し上品に煙草を消すもんだよ」と僕は言った。「それじゃ木 樵女みたいだ。無理に消そうと思わないでね、ゆっくりまわりの方から消していくん だ。そうすればそんなにくしゃくしゃにならないですむ。それじゃちょっとひどすぎる。そ れからどんなことがあっても鼻から煙を出しちゃいけない。男と二人で食事している ときに三ヶ月一枚のブラジャーでとおしたなんていう話もあまりしないね、普通の女 の子は」 「私、木樵女なのよ」と緑は鼻のわきを掻きながら言った。「どうしてもシックに なれないの。ときどき冗談でやるけど身につかないの。他に言いたいことある」 「マルボロは女の子の吸う煙草じゃないね」
「いいのよ、べつに。どうせ何吸ったって同じくらいまずいだもの」と彼女は言っ た。そして手の中でマルボロの赤いハード・パッケージをくるくるとまわした。「先月吸 いはじめたばかりなの。本当はとくに吸いたいわけでもないんだけど、ちょっと吸って みようかなと思ってね、ふと」 「どうしてそう思ったの」 緑はテーブルの上に置いた両手をぴたりと合わせてしばらく考えていた。「どう してもよ。ワタナベ君は煙草吸わないの」 「六月にやめたんだ」 「どうしてやめたの」 「面倒臭かったからだよ。夜中に煙草が切れるときの辛さとか、そういうのが さ。だからやめたんだ。何かにそんな風に縛られるのってす好きじゃないんだよ」 「あなたってわりに物事をきちんと考える性格なのね、きっと」 「まあそうかもしれないな」と僕は言った。「たぶんそのせいで人にあまり好かれ ないだろうね。昔からそうだな」 「それはね、あなたが人に好かれなくったってかまわないと思っているように見え るからよ。だからある種の人は頭にくるんじゃないかしら」と彼女頬杖をつきながらも そもそした声で言った。「でも私あなたと話してるの好きよ。しゃべり方だってすごく 変ってるし。『何かにそんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ』」 僕は彼女が食器を洗うのを手伝った。僕は緑のとなりに立って、彼女の洗う 食器をタオルで拭いて、調理台の上に積んでいった。 「ところで家族の人はみんな何処に行っちゃったの、今日は」と僕は訊いてみ た。 「お母さんはお墓の中よ。二年前に死んだの」 「それ、さっき聞いた」 「お姉さんは婚約者とデートしてるの。どこかドライブに行ったんじゃないかし ら。お姉さんの彼はね自動車会社につとめてるの。だから自動車大好きで。私っ てあんまり車好きじゃないんだけど」 緑はそれから黙って皿を洗い、僕も黙ってそれを拭いた。 「あとはお父さんね」と少しあとで緑は言った。 「そう」 「お父さんは去年の六月にウルグァイに行ったまま戻ってこないの」 「ウルグァイ」と僕はびっくりして言った。「なんでまたウルグァイなんかに」 「ウルグァイに移住しようとしたのよ、あの人。馬鹿みないな話だけど。軍隊の ときの知り合いがウルグァイに農場持ってて、そこに行きゃなんとでもなるって急に言 い出して、そのまま一人で飛行機に乗っていっちゃったの。私たち一所懸命とめた のよ。そんなところ行ったってどうしようもないし、言葉もできないし、だいいちお父さ
ん東京から出たことだってロクにないじゃないのって。でも駄目だったわ。きっとあの 人、お母さんを亡くしたのがものすごくショックだったのね。それで頭のタガが外れ ちゃったのよ。それくらいあの人、お母さんのことを愛してたのよ。本当よ」 僕はうまく相槌が打てなくて、口をあけて緑を眺めていた。 「お母さんが死んだとき。お父さんが私とお姉さんに向かってなんて言ったか 知ってるこう言ったのよ。『俺は今とても悔しい。俺はお母さんを亡くすよりはお前た ち二人を死なせた方がずっとよかった』って。私たちは唖然として口もきけなかった わ。だってそう思うでしょういくらなんでもそんな言い方ってないじゃない。そりゃね、 最愛の伴侶を失った辛さ哀しさ苦しみ、それはわかるわよ。気の毒だと思うわよ。 でも実の娘に向かってお前らがかわりに死にゃあよかったんだってのはないと思わな いそれはちょっとひど過ぎると思わない」 「まあ、そうだな」 「私たちだって傷つくわよ」と緑は首を振った。「とにかくね、うちの家族ってみん なちょっと変わってるのよ。どこか少しずつずれてんの」 「みたいだね」と僕も認めた。 「でも人と人が愛しあうって素敵なことだと思わない娘に向かってお前らがか わりに死にゃ良かっただなんて言えるくらい奥さんを愛せるなんて」 「まあそう言われてみればそうかもしれない」 「そしてウルグァイに行っちゃったの。私たちをひょいと放り捨てて」 僕は黙って皿を拭いた。全部の皿を拭いてしまうと緑は僕が拭いた食器を 棚にきちんとしまった。 「それでお父さんからは連絡ないの」と僕は訊いた。 「一度だけ絵ハガキが来たわ。今年の三月に。でもくわしいことは何も書いて ないの。こっちは暑いだとか、思ったほど果物がうまくないだとか、そんなことだけ。 まったく冗談じゃないわよねえ。下らないロバの写真の絵ハガキで。頭がおかしいの よ。あの人。その友だちだか知りあいだかに会えたかどうかさえ書いてないの。終り の方にもう少し落ち着いたら私とお姉さんを呼び寄せるって書いてあったけど、そ れっきり音信不通。こっちから手紙出しても返事も来やしないし」 「それでもしお父さんがウルグァイに来いって言ったら、君どうするの」 「私は行ってみるわよ。だって面白そうじゃない。お姉さんは絶対に行かないっ て。うちのお姉さんは不潔なものとか不潔な場所とかが大嫌いなの」 「ウルグァイってそんなに不潔なの」 「知らないわよ。でも彼女はそう信じてるの。道はロバのウンコでいっぱいで、 そこに蠅がいっぱい集って、水洗便所の水はろくに流れなくて、トカゲやらサソリやら がうようよいるって。そういう映画をどこかでみたんじゃないかしら。お姉さんって虫も 大嫌いなの。お姉さんの好きなのはちゃらちゃらした車に乗って湘南あたりをドライ ブすることなの」
「ふうん」 「ウルグァイ、いいじゃない。私は行ってもいいわよ」 「それはこのお店は今誰がやってるの」と僕は訊いてみた。 「お姉さんがいやいややってるの。近所に住んでる親戚のおじさんが毎日手 伝ってくれて配達もやってくれるし、私も暇があれば手伝うし、まあ書店というのは それほど重労働じゃないからなんとかかんとかやれてるわよ。どうにもやれなくなった らお店畳んで売っちゃうつもりだけど」 「お父さんのことは好きなの」 緑は首を振った。「とくに好きってわけでもないわね」 「じゃあどうしてウルグァイまでついていくの」 「信用してるからよ」 「信用してる」 「そう、たいして好きなわけじゃないけど信用はしてるのよ、お父さんのことを。 奥さんを亡くしたショックで家も子供も仕事も放りだしてふらっとウルグァイに行っちゃ うような人を私は信用するのよ。わかる」 僕はため息をついた。「わかるような気もするし、わからないような気もするし」 緑はおかしそうに笑って、僕の背中を軽く叩いた。「いいのよ、べつにどっちだっ ていいんだから」と彼女は言った。 その日曜日の午後にはばたばたといろんなことが起った。奇妙な日だった。緑 の家のすぐ近所で火事があって、僕らは三階の物干しにのぼってそれを見物し、そ してなんとなくキスをした。そんな風に言ってしまうと馬鹿みたいだけれど、物事は 実にそのとおりに進行したのだ。 僕らが大学の話をしながら食後のコーヒ ーを飲んでいると、消防自動車のサ イレンの音が聞こえた。サイレンの音はだんだん大きくなり、その数も増えているよう だった。窓の下を大勢の人が走り、何人かは大声で叫んでいた。緑は通りに面し た部屋に行って窓を開けて下を見てから、ちょっとここで待っててねと言ってからどこ かに消えた。とんとんとんと足早に階段を上る音が聞こえた。 僕は一人でコーヒ ーを飲みながらウルグァイっていったいどこにあったんだっけと 考えていた。ブラジルがあそこで、ベネズエラがあそこで、このへんがコロンビアでと ずっと考えていたが、ウルグァイがどのへんにあるのかはどうしても思い出せなかっ た。そのうちに緑が下に下りてきて、ねえ、早く一緒に来てよと言った。僕は彼女の あとを付いて廊下に突き当たりにある狭い急な階段を上り、広い物干し場に出 た。物干し場はまわりの家の屋根よりもひときわ高くなっていて、近所が一望に見 わたせた。三軒か四軒向うからもうもうと黒煙が上がり、微風にのって大通りの方 に流れていた。きな臭い匂いが漂っていた。 「あれは阪本さんのところだわね」と緑は手すりから身をのりだすようにして言っ
た。「阪本さんって以前建具屋さんだったの。今は店じまいして商売してはいない だけど」 僕も手すりから身をのりだしてそちらを眺めてみた。ちょうど三階建てのビルの かげになっていて、くわしい状況はわからなかったけど、消防車が三台か四台あつ まって消火作業をつづけているようだった。もっとも通りが狭いせいで、せいぜい二 台しか中に入れず、あとの車は大通りの方で待機していた。そして通りには例に よって見物人がひしめいていた。 「大事なものがあったらまとめて、ここは避難したほうがいいみたいだな」と僕は 緑に言った。「今は風向きが逆だからいいけど、いつ変わるかもしれないし、すぐそ こがガソリン・スタンドだものね。手伝うから荷物をまとめなよ」 「大事なものなんてないわよ」と緑が言った。 「でも何かあるだろう。預金通帳とか実印とか証書とか、そういうもの。とりあえ ずのお金だてなきゃ困るし」 「大丈夫よ。私逃げないもの」 「ここが燃えても」 「ええ」と緑は言った。「死んだってかまわないもの」 僕は緑の目を見た。緑も僕の目を見た。彼女の言っていることがどこまで本 気なのかどこから冗談なのかさっぱり僕にはわからなかった。僕はしばらく彼女を見 ていたが、そのうちにもうどうでもいいやという気になってきた。 「いいよ、わかったよ。つきあうよ、君に」と僕は言った。 「一緒に死んでくれるの」と緑は目をかがやせて言った。 「まさか。危なくなったら僕は逃げるよ。死にたいなら君が一人で死ねばいい さ」 「冷たいのね」 「昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかないよ。夕食な らともかくさ」 「ふうん、まあいいわ、とにかくここでしばらく成り行きを眺めながら唄でも唄って ましょうよ。まずくなってきたらまたその時に考えればいいもの」 「唄」 緑は下から座布団を二枚と缶ビールを四本とギターを物干し場に運んでき た。そして僕らはもうもうと上る黒煙を眺めつつビールを飲んだ。そして緑はギターを 弾いて唄を唄った。こんなことして近所の顰蹙を買わないのかと僕は緑に訊ねてみ た。近所の火事を見物しながら物干しで酒を飲んで唄を唄うなんてあまりまともな 行為だと思えなかったからだ。 「大丈夫よ、そんなの。私たち近所のことって気にしないことにしてるの」と緑 は言った。 彼女は昔はやったフォーク・ソングを唄った。唄もギターもお世辞にも上手いと
は言えなかったが、本人はとても楽しそうだった。彼女は『レモン・ツリー』だの『五マ イル』だの『花はどこに行った』だの『漕げよマイケル』だのをかたっぱしから唄ってい た。初めのうちは緑は僕に低音パートを教えて二人で合唱しようとしたが、僕の唄 があまりにもひどいのでそれはあきらめ、あとは一人で気のすむまで唄いつづけた。 僕はビールをすすり、彼女の唄を聴きながら、火事の様子を注意深く眺めてい た。煙は急に勢いよくなったかと思うと少し収まりというのをくりかえしていた。人々は 大声で何かを叫んだり命令したりしていた。ばたばたという大きな音をたてて新聞 社のヘリコプターがやってきて写真を撮って帰っていった。我々の姿が写ってなけれ ばいいけれどと僕は思った。警官がラウド・スピーカ ーで野次馬に向ってもっとうしろ に退ってなさいとどなっていた。子供が泣き声で母親を呼んでいた。どこかでガラス の割れた音がした。やがて風が不安定に舞いはじめ、白い燃えさしのようなものが 我々のまわりにもちらほらと舞ってくるようになった。それでも緑はちびちびとビールを 飲みながら気持ち良さそうに唄いつづけていた。知っている唄をひととおり唄ってし まうと、今度は自分で作詞・作曲したという不思議な唄を唄った。 あなたのためにシチューを作りたいのに 私には鍋がない。 あなたのためにマフラーを編みたいのに 私には毛糸がない。 あなたのために詩を書きたいのに 私にはペンがない。 「『何もない』っていう唄なの」と緑は言った。歌詞もひどいし、曲もひどかっ た。 僕はそんな無茶苦茶な唄を聴きながら、もしガソリン・スタンドに引火したら、 この家も吹き飛んじゃうだろうなというようなことを考えていた。緑は唄い疲れるとギ ターを置き、日なたの猫みたいにごろんと僕の肩にもたれかかった。 「私の作った唄どうだった」と緑は訊いた。 「ユニークで独創的で、君の人柄がよく出てる」と僕は注意深く答えた。 「ありがとう」と彼女は言った。「何もない――というのがテーマなの」 「わかるような気がする」と僕は肯いた。 「ねえ、お母さんの死んだときのことなんだけどね」と緑は僕の方を向いて言っ た。 「うん」 「私ちっとも悲しくなかったの」 「うん」 「それからお父さんがいなくなっても全然悲しくないの」
「そう」 「そう。こういうのってひどいと思わない冷たすぎると思わない」 「でもいろいろと事情があるわけだろうそうなるには」 「そうね、まあ、いろいろとね」と緑は言った。「それなりに複雑だったのよ、う ち。でもね、私ずっとこう思ってたのよ。なんのかんのといっても実のお父さん・お母さ んなんだから、死んじゃったり別れちゃったりしたら悲しいだろうって。でも駄目なの ね。なんにも感じないのよ。悲しくもないし、淋しくもないし、辛くもないし、殆んど 思い出しもしないのよ。ときどき夢に出てくるだけ。お母さんが出てきてね、暗闇の 奥からじっと私を睨んでこう非難するのよ、『お前、私が死んで嬉しいんだろう?』っ てね。べつに嬉しかないわよ。お母さんが死んだことは。ただそれほど悲しくないって いうだけのことなの。正直なところ涙一滴出やしなかったわ。子供のとき飼ってた猫 が死んだときは一晩泣いたのにね」 なんだってこんなに煙が出るんだろうと僕は思った。火も見えないし、燃え広 がった様子もない。ただ延々と煙がたちのぼっているのだ。いったいこんなに長いあ いだ何が燃えているんだろうと僕は不思議に思った。 「でもそれは私だけのせいじゃないのよ。そりゃ私も情の薄いところあるわよ。そ れは認めるわ。でもね、もしあの人たちが――お父さんとお母さんが――もう少し 私のことを愛してくれていたとしたら、私だってもっと違った感じ方ができてたと思う の。もっともっと悲しい気持ちになるとかね」 「あまり愛されなかったと思うの」 彼女は首を曲げて僕の顔を見た。そしてこくんと肯いた。「『十分じゃない』と 『全然足りない』の中間くらいね。いつも飢えてたの、私。一度でいいから愛情を たっぷりと受けてみたかったの。もういい、おなかいっぱい、ごちそうさまっていうくら い。一度でいいのよ、たった一度で。でもあの人たちはただの一度も私にそういうの 与えてくれなかったわ。甘えるとつきとばされて、金がかかるって文句ばかり言われ て、ずうっとそうだったのよ。それで私こう思ったの、私のことを年中百パーセント愛し てくれる人を自分でみつけて手に入れてやるって。小学校五年か六年のときにそう 決心したの」 「すごいね」と僕は感心して言った。「それで成果はあがった」 「むずかしいところね」と緑は言った。そして煙を眺めながらしばらく考えてい た。「たぶんあまりに長く待ちすぎたせいね、私すごく完璧なものを求めてるの。だか らむずかしいのよ」 「完璧な愛を」 「違うわよ。いくら私でもそこまでは求めてないわよ。私が求めているのは単な るわがままなの。完璧なわがまま。たとえば今私があなたに向って苺のショート・ ケーキを食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放り出して走ってそれを買 いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて『はいミドリ、苺のショート・ケー
キだよ』って差し出すでしょう、すると私は『ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃっ たわよ』って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうも のなの」 「そんなの愛とは何の関係もないような気がするけどな」と僕はいささか愕然と して言った。 「あるわよ。あなたが知らないだけよ」と緑はいった。「女の子にはね、そういう のがものすごく大切なときがあるのよ」 「苺のショート・ケーキを窓から放り投げることが」 「そうよ。私は相手の男の人にこう言ってほしいのよ。『わかったよ、ミドリ。僕 がわるかった。君が苺のショート・ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべき だった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。おわびにもう一度何かべ つのものを買いに行ってきてあげよう。何がいいチョコレート・ムース、それともチー ズ・ケーキ?』」 「するとどうなる」 「私、そうしてもらったぶんきちんと相手を愛するの」 「ずいぶん理不尽な話みたいに思えるけどな」 「でも私にとってそれが愛なのよ。誰も理解してくれないけれど」と緑は言って 僕の肩の上で小さく首を振った。「ある種の人々によって愛というのはすごくささや かな、あるいは下らないところから始まるのよ。そこからじゃないと始まらないのよ」 「君みたいな考え方をする女の子に会ったのははじめてだな」と僕は言った。 「そう言う人はけっこう多いわね」と彼女は爪の甘皮をいじりながら言った。「で も私、真剣にそういう考え方しかできないのよ。ただ正直に言ってるだけなの。べつ に他人と変った考え方してるなんて思ったこともないし、そんなものを求めてるわけ でもないのよ。でも私が正直に話すと、みんな冗談か演技だと思うの。それでとき どき何もかも面倒臭くなっちゃうけどね」 「そして火事で死んでやろうと思うの」 「あら、これはそういうんじゃないわよ。これはね、ただの好奇心」 「火事で死ぬことが」 「そうじゃなくてあなたがどう反応するかを見てみたかったのよ」と緑は言った。 「でも死ぬこと自体はちっとも怖くないわよ。それは本当。こんなの煙にまかれて気 を失ってそのまま死んじゃうだけだもの、あっという間よ。全然怖くないわ。私の見て きたお母さんやら他の親戚の人の死に方に比べたらね。ねえ、うちの親戚ってみん な大病して苦しみ抜いて死ぬのよ。なんだかどうもそういう血筋らしいの。死ぬまで にすごく時間がかかるわけ。最後の方は生きてるのか死んでるのかそれさえわから ないくらい。残ってる意識と言えば痛みと苦しみだけ」 緑はマルボロをくわえて火をつけた。 「私が怖いのはね、そういうタイプの死なのよ。ゆっくりとゆっくりと死の影が生
命の領域を侵蝕して、気がついたらうす暗くて何も見えなくなっていて、まわりの人 も私のことを生者よりは死者に近いと考えているような、そういう状況なのよ。そん なのって嫌よ。絶対に耐えられないわ、私」 結局それから三十分ほどで火事はおさまった。たいした延焼もなく、怪我人 も出なかったようだった。消防車も一台だけを残して帰路につき、人々もがやがや と話をしながら商店街をひきあげていった。交通を規制するパトカーが残って路上 でライトをぐるぐると回転させていた。どこかからやってきた二羽の鴉が電柱のてっぺ んにとまって地上の様子を眺めていた。 火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたいだった。身体の力を 抜いてぼんやりと遠くの空を眺めていた。そして殆んど口をきかなかった。 「疲れたの」と僕は訊いた。 「そうじゃないのよ」と緑は言った。「久しぶりに力を抜いてただけなの。ぼおっと して」 僕は緑の目を見ると、緑も僕の目を見た。僕は彼女の肩を抱いて、口づけ した。緑はほんの少しだけびくっと肩を動かしたけれど、すぐにまた身体の力を抜い て目を閉じた、五秒か六秒、我々はそっと唇をあわせていた。初秋の太陽が彼女 の頬の上にまつ毛の影を落とし、それが細かく震えているのが見えた。 それはやさしく穏やかで、そして何処に行くあてもない口づけだった。午後の 日だまりの中で物干し場に座ってビールを飲んで火事見物をしていなかったら、僕 はその日緑に口づけなんかしなかっただろうし、その気持ちは彼女の方も同じだっ たと思う。僕らは物干し場からきらきらと光る家々の屋根や赤とんぼやそんなもの をずっと眺めていて、あたたかくて親密な気分になっていて、そのことを何かのかたち で残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づけはそういうタイプの 口づけだった。しかしもちろんあらゆる口づけがそうであるように、ある種の危険が まったく含まれていないと言うわけではなかった。 最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととった。そしてなんだ か言いにくそうに自分にはつきあっている人がいるのだと言った。それはなんとなくわ かってると僕は言った。 「あなたには好きな女の子いるの」 「いるよ」 「でも日曜日はいつも暇なのね」 「とてお複雑なんだ」と僕は言った。 そして僕は初秋の午後の束の間の魔力がもうどこかに消え去っていることを 知った。 五時に僕はアルバイトに行くからと言って緑の家を出た。一緒に外に出て軽
く食事しないかと誘ってみたが、電話がかかってくるかも知れないからと、彼女は 断った。 「一日中家の中にいて電話を待ってなきゃいけないなんて本当に嫌よね。一 人きりでいるとね、身体が少しずつ腐っていくような気がするのよ。だんだん腐って 溶けて最後には緑色のとろっとした液体だけになってね、地底に吸い込まれていく の。そしてあとには服だけが残るの。そんな気がするわね、一日じっと待ってると」 「もしまた電話待ちするようなことがあったら一緒につきあうよ。昼ごはんつき で」と僕は言った。 「いいわよ。ちゃんと食後の火事も用意しておくから」と緑は言った。 翌日の「演劇史II」の講義に緑の姿を見せなかった。講義が終ると学生食 堂に入って一人で冷たくてまずいランチを食べ、それから日なたに座ってまわりの風 景を眺めた。すぐ隣では女子学生の二人でとても長い立ち話をつづけていた。一 人は赤ん坊でも抱くみたいに大事そうにテニス・ラケットを胸に抱え、もう一人は本 を何冊かとレナード・バーンステインのLPを持っていた。二人ともきれいな子で、ひ どく楽しそうに話をしていた。クラブ・ハウスの方からは誰かがベースの音階練習をし ている音が聞こえてきた。ところどころに四、五人の学生のグループがいて、彼らは 何やかやについて好き勝手な意見を表明したり笑ったりどなったりしていた。駐車 場にはスケートボードで遊んでいる連中がいた。革かばんを抱えた教授がスケート ボードをよけるようにしてそこを横切っていた。中庭ではヘルメットをかぶった女子学 生が地面にかがみこむようにして米帝のアジア侵略がどうしたこうしたという立て看 板を書いていた。いつもながらの大学の昼休みの風景だった。しかし久しぶりに改 めてそんな風景を眺めているうちにぼくはふとある事実に気づいた。人々はみんな それぞれに幸せそうに見えるのだ。彼らが本当に幸せなのかあるいはただ単にそう 見えるだけなのかはわからない。でもとにかくその九月の終りの気持ちの良い昼下 がり、人々はみんな幸せそうに見えたし、そのおかげで僕はいつになく淋しい想いを した。僕ひとりだけがその風景に馴染んでいないように思えたからだ。 でも考えて見ればこの何年間のあいだいったいどんな風景に馴染んできたと いうのだと僕は思った。僕が覚えている最後の親密な光景はキズキと二人で玉を 撞いた港の近くのビリヤード場の光景だった。そしてその夜にはキズキはもう死んで しまい、それ以来僕と世界とのあいだには何かしらぎくしゃくとして冷やかな空気が 入り込むことになってしまったのだ。僕にとってキズキという男の存在はいったいなん だっただろうと考えてみた。でもその答えを見つけることはできなかった。僕にわかる のはキズキの死によって僕のアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が完全に永 遠に損なわれてしまったらしいということだけだった。僕はそれははっきりと感じ理解 することができた。しかしそれが何を意味し、どのような結果をもたらすことになるの かということは全く理解の外にあった。
僕は長いあいだそこに座ってキャンパスの風景とそこを往き来する人々を眺め て時間をつぶした。ひょっとして緑に会えるかもしれないと思ったが、結局その日彼 女の姿を見ることはなかった。昼休みが終ると僕は図書館に行ってドイツ語の予 習をした。 その週の土曜日の午後に永沢さんが僕の部屋に来て、よかったら今夜遊び にいかないか、外泊許可はとってやるからと言った。いいですよ、と僕は言った。この 一週間ばかり僕の頭はひどくもやもやとしていて、誰とでもいいから寝てみたいとい う気分だった。 僕は夕方風呂に入って髭を剃り、ポロシャツの上にコットンの上着を着た。そ して永沢さんと二人で食堂で夕食をとり、バスに乗って新宿の町に出た。新宿三 丁目の喧噪の中でバスを降り、そのへんをぶらぶらしてからいつも行く近くのバーに 入って適当な女の子がやってくるのを待った。女同士の客が多いのが特徴の店 だったのだが、その日に限って女の子はまったくと言ってもいいくらい我々のまわりに は近づいてこなかった。僕らは酔わない程度にウィスキー・ソーダをちびちびすすりな がら二時間近くそこにいた。愛想の良さそうな女の子の二人組がカウンターに座っ てギムレットとマルガリータを注文した。早速永沢さんが話しかけに行ったが、二人 は男友だちと待ち合わせていた。それでも僕らはしばらく四人で親しく話しをしてい たのだが、待ち合わせの相手が来ると二人はそっちに行ってしまった。 店を変えようといって永沢さんは僕をもう一軒のバーにつれてった。少し奥まっ たところにある小さな店で、大方の客はもうできあがって騒いでいた。奥のテーブル に三人組の女の子がいたので、我々はそこに入って五人で話をした。雰囲気は 悪くなかった。みんなけっこう良い気分になっていた。しかし店を変えて少し飲まな いかと誘うと、女の子たちは私たちもうそろそろ帰らなくちゃ門限があるんだもの、と 言った。三人ともどこかの女子大の寮暮らしだったのだ。まったくついてない一日 だった。そのあとも店を変えてみたが駄目だった。どういうわけか女の子が寄りつい てくるという気配がまるでないのだ。 十一時半になって今日は駄目だなと永沢さんが言った。 「悪かったな、ひっぱりまわしちゃって」と彼は言った。 「かまいませんよ、僕は。永沢さんにもこういう日があるんだというのがわかった だけでも楽しかったですよ」と僕は言った。 「年に一回くらいあるんだ、こういうの」と彼は言った。 正直な話、僕はもうセックスなんてどうだっていいやと言う気分になっていた。 土曜日の新宿の夜の喧噪の中を三時間半もうろうろして、性欲やらアルコールや らの入り混じったわけのかわらないエネルギーを眺めているうちに、僕自身の性欲 なんてとるに足らない卑小なものであるように思えてきたのだ。 「これからどうする、ワタナベ」と永沢さんが僕に訊いた。
「オールナイトの映画でも観ますよ。しばらく映画なんて観てないから」 「じゃあ僕はハツミのところに行くよ。いいかな」 「いけないわけがないでしょう」と僕は笑って言った。 「もしよかったら泊まらせてくれる女の子の一人くらい紹介してやれるけど、どう だ」 「いや、映画観たいですね、今日は」 「悪かったな。いつか埋め合わせするよ」と彼は言った。そして人混みの中に 消えていった。僕はハンバーガー・スタンドに入ってチーズ・バーガーを食べ、熱い コーヒ ーを飲んで酔いをさましてから近くの二番館で『卒業』を観た。それほど面白 い映画とも思えなかったけれど、他にやることもないので、そのままもう一度くりかえ してその映画を観た。そして映画館を出て午前四時前のひやりとした新宿の町を 考えごとをしながらあてもなくぶらぶらと歩いた。 歩くのに疲れると僕は終夜営業の喫茶店に入ってコーヒ ーを飲んで本を読 みながら始発の電車を待つことにした。しばらくすると店はやはり同じように始発電 車を待つ人々で混みあってきた。ウェイターが僕のところにやってきて、すみません が相席お願いしますと言った。いいですよ、と僕は言った。どうせ僕は本を読んでい るだけだし、前に誰が座ろうが気にもならなかった。 僕と同席したのは二人の女の子だった。たぶん僕と同じくらいの年だろう。ど ちらも美人というわけではないが、感じのわるくない女の子だった。化粧も服装もご くまともで、朝の五時前に歌舞伎町をうろうろしているようなタイプには見えなかっ た。きっと何かの事情で終電に乗り遅れるか何かしたのかもしれないと僕は思っ た。彼女たちは同席の相手が僕だったことにちょっとほっとしたみたいだった。僕はき ちんとした格好をしていたし、夕方髭も剃っていたし。おまけにトーマス・マンの『魔 の山』を一心不乱に読んでいた。 女の子の一人は大柄で、グレーのヨットパーカ ーにホワイト・ジーンズをはき、 大きなビニール・レザーの鞄を持ち、貝のかたちの大きなイヤリングを両耳につけて いた。もう一人は小柄で眼鏡をかけ、格子柄のシャツの上にブルーのカーディガン を着て、指にはターコイズ・ブルーの指輪を嵌めていた。小柄な方の女の子はとき どき眼鏡を取って目を押えてのが癖らしかった。 彼女達はどちらもカフェオレとケーキを注文し、何事かを小声で相談しながら 時間をかけてケーキを食べ、コーヒ ーを飲んだ。大柄の女の子は何回か首をひね り、小柄の女の子は何回か首を横に振った。マーピン・ゲイやらビージーズやらの音 楽が大きな音でかかっていたので話の内容までは聴き取れなかったけれど、どうや ら小柄な女の子が悩むか怒るかして、大柄の子がそれをまあまあとなだめているよ うな具合だった。僕は本を読んだり、彼女たちを観察したりを交互にくりかえしてい た。 小柄な女の子がショルダー・バッグを抱えるようにして洗面所に行ってしまう
と、大柄な方の女の子が僕に向って、あのすみません、と言った。僕は本を置いて 彼女を見た。 「このへんにまだお酒飲めるお店ご存知ありませんか」と彼女は言った。 「朝の五時すぎにですか」と僕はびっくりして訊きかえした。 「ええ」 「ねえ、朝の五時ニ十分っていえば大抵の人は酔いをさまして家に帰る時間 ですよ」 「ええ、それはよくかわってはいるんですけれど」と彼女はすごく恥ずかしそうに 言った。 「友だちがどうしてもお酒飲みたいっていうんです。いろいろまあ事情があって」 「家に帰って二人でお酒飲むしかないじゃないかな」 「でも私、朝の七時半ごろの電車で長野に行っちゃうんです」 「じゃあ自動販売機でお酒を買って、そのへんに座って飲むしか手はないみた いですね」 申しわけないが一緒につきあってくれないかと彼女は言った。女の子二人で そんなことできないから、と。僕はこの当時の新宿の町でいろいろと奇妙な体験を したけれど、朝の五時ニ十分に知らない女の子に酒を飲もうと誘われたのはこれ がはじめてだった。断るのも面倒だったし、まあ暇でもあったから僕は近くの自動販 売機で日本酒を何本かとつまみを適当に買い、彼女たちと一緒にそれを抱えて 西口の原っぱに行き、そこで即席の宴会のようなものを開いた。 話を聞くと二人は同じ旅行代理店につとめていた。どちらも今年短大を出て 勤め始めたばかりで、仲良しだった。小柄な方の女の子には恋人がいて一年ほど 感じよく付き合っていたのだが、最近になって彼は他の女と寝ていることがわかっ て、それで彼女はひどく落ち込んでいた。それがおおまかな話だった。大柄な方の 女の子は今日はお兄さんの結婚式があって昨日の夕方には長野の実家に帰る ことになっていたのだが、友だちに付き合って一晩新宿で夜明かしし、日曜日の朝 いちばんの特急で戻ることにしたのだ。 「でもさ、どうして彼が他の人と寝てることがわかったの」と僕は小柄な子に訊 いてみた。 小柄な方の女の子は日本酒をちびちび飲みながら足もとの雑草をむしって いた。「彼の部屋のドアを開けたら、目の前でやってたんだもの、そんなのかわるも かわらないもないでしょう」 「いつの話、それ」 「おとといの夜」 「ふうん」と僕は言った。「ドアは鍵があいてたわけ」 「そう」 「どして鍵を閉めなかったんだろう」と僕は言った。
「知らないわよ、そんなこと。知るわけがないでしょう」 「でもそういうの本当にショックだと思わないひどいでしょう彼女の気持ちはどう なるのよ」と人のよさそうな大柄の女の子が言った。 「なんとも言えないけど、一度よく話しあってみた方がいいよね。許す許さない の問題になると思うけど、あとは」と僕は言った。 「誰にも私の気持ちなんかわからないわよ」と小柄な女の子があいかわらずぶ ちぶちと草をむしりながら吐き捨てるように言った。 カラスの群れが西の方からやってきて小田急デパートの上を越えていった。も う夜はすっかり明けていた。あれこれと三人で話をしているうちに大柄な女の子が 電車に乗る時刻が近づいてきたので、僕らは残った酒を西口の地下にいる浮浪 者にやり、入場券を買って彼女を見送った。彼女の乗った列車が見えなくなってし まうと、僕と小柄な女の子はどちらから誘うともなくホテルに入った。僕の方も彼女 の方もとくにお互いと寝てみたいと思ったわけではないのだが、ただ寝ないことにはお さまりがつかなかったのだ。 ホテルに入ると僕は先に裸になって風呂に入り、風呂につかりながら殆んどや けでビールを飲んだ。女の子もあとから入ってきて、二人で浴槽の中でごろんと横 になって黙ってビールを飲んでいた。どれだけ飲んでも酔いもまわらなかったし、眠く もなかった。彼女の肌は白く、つるつるとしていて、脚のかたちがとてもきれいだっ た。僕が脚のことを褒めると彼女は素っ気ない声でありがとうと言った。 しかしベットに入ると彼女は全くの別人のようになった。僕の手の動きにあわ せて彼女は敏感に反応し、身体をくねらせ、声をあげた。僕が中に入ると彼女は 背中にぎゅっと爪を立てて、オルガズムが近づくと十六回も他の男の名前を呼ん だ。僕は射精を遅らせるために一所懸命回数を数えていたのだ。そしてそのまま 我々は眠った。 十二時半に目を覚ましたとき彼女の姿はなかった。手紙もメッセージもなかっ た。変な時間に酒を飲んだもので、頭の片方が妙に重くなっているような気がし た。僕はシャワーに入って眠気を取り、髭を剃って、裸のまま椅子に座って冷蔵庫 のジュースを一本飲んだ。そして昨夜起ったことを順番にひとつひとつ思い出してみ た。どれもガラス板をニ、三枚あいだに挟んだみたいに奇妙によそよそしく非現実 的に感じられたが、間違いなく僕の身に実際に起った出来事だった。テーブルの上 にはビールを飲んだガラスが残っていたし、洗面所には使用済みの歯ブラシがあっ た。 僕は新宿で簡単に昼食を食べ、それから電話ボックスに入って小林緑に電 話をかけてみた。ひょっとしたら彼女は今日もまた一人で電話番をしているかと 思ったからだ。しかし十五回コールしても電話には誰も出なかった。ニ十分にもう 一度電話してみたが結果はやはり同じだった。僕はバスに乗って寮に戻った。入 口の郵便受けに僕あての速達封筒が入っていた。直子からの手紙だった。
第五章 「手紙をありがとう」と直子は書いていた。手紙は直子の実家から「ここ」にす ぐ転送されてきた。手紙をもらったことは迷惑なんかではないし、正直言ってとても 嬉しかった。実は自分の方からあなたにそろそろ手紙を書かなくてはと思っていたと ころなのだ、とその手紙にはあった。 そこまで読んでから僕は部屋の窓をあけ、上着を脱ぎ、ベッドに腰かけた。近 所の鳩小屋からホオホオという鳩の声が聞こえてきた。風がカーテンを揺らせた。 僕は直子の送ってきた七枚の便箋を手にしたまま、とりとめない想いに身を委ねて いた。その最初の何行かを読んだだけで、僕のまわりの現実の世界がすうっとその 色を失っていくように感じられた。僕は目を閉じ、長い時間をかけて気持ちをひとつ にまとめた。そして深呼吸をしてからそのつづきを読んだ。 「ここに来てもう四ヶ月近くになります」と直子はつづけていた。 「私はその四ヶ月のあいだあなたのことをずいぶん考えていました。そして考え れば考えるほど、私は自分があなたに対して公正ではなかったのではないかと考え るようになってきました。私はあなたに対して、もっときちんとした人間として公正に 振舞うべきではなかったのかと思うのです。 でもこういう考え方ってあまりまともじゃないかもしれませんね。どうしてかという と私くらいの年の女の子は『公正』なんていう言葉はまず使わないからです。普通 の若い女の子にとっては、物事が公正かどうかなんていうのは根本的にどうでもい いことだからです。ごく普通の女の子は何かが公正かどうかよりは何が美しいかとか どうすれば自分が幸せになれるかとか、そういうことを中心に物事を考えるもので す。『公正』なんていうのはどう考えても男の人の使う言葉ですね。でも今の私に はこの『公正』という言葉はとてもぴったりしているように感じられるのです。たぶん何 が美しいかとかどうすれば幸せになるかとかいうのは私にとってはとても面倒でいりく んだ命題なので、つい他の基準にすがりついてしまうわけです。たとえば公正である かとか、正直であるかとか、普遍的であるかとかね。 しかし何はともあれ、私は自分があなたに対して公正ではなかったと思いま す。そしてそれでずいぶんあなたを引きずりまわしたり、傷つけたりしたんだろうと思 います。でもそのことで、私だって自分自身を引きずりまわして、自分自身を傷つ けてきたのです。言いわけするわけでもないし、自己弁護するわけでもないけれ ど、本当にそうなのです。もし私があなたの中に何かの傷を残したとしたら、それは あなただけの傷ではなくて、私の傷でもあるのです。たからそのことで私を憎んだりし ないで下さい。私は不完全な人間です。私はあなたが考えているよりずっと不完 全な人間です。だからこと私はあなたに憎まれたくないのです。あなたに憎まれたり
すると私は本当にバラバラになってしまします。私はなたのように自分の殻の中に すっと入って何かをやりすごすということができないのです。あなたは本当はどうなの か知らないけれど、私にはなんとなくそう見えちゃうことがあるのです。だから時々あ なたのことがすごくうらやましくなるし、あなたを必要以上に引きずりまわることになっ たのもあるいはそのせいかもしれません。 こういう物の見方ってあるいは分析的にすぎるのかもしれませんね。そう思い ませんかここの治療は決して分析的にすぎるという物ではありません。でも私のよう な立場に置かれて何ヶ月も治療を受けていると、いやでも多かれ少なかれ分析 的になってしまうものなのです。何かがこうなったのはこういうせいだ、そしてそれはこ れを意味し、それ故にこうなのだ、とかね。こういう分析が世界を単純化しようとし ているのか細分化しようとしているのか私にはよくわかりません。 しかし何はともあれ、私は一時に比べるとずいぶん回復したように自分でも 感じますし、まわりの人々もそれを認めてくれます。こんあ風に落ち着いて手紙を 書けるのも久しぶりのことです。七月にあなたに出した手紙は身をしぼるような思 いで書いたのですが正直言って、何を書いたのか全然思い出せません。ひどい手 紙じゃなかったかしら、今回はすごく落ち着いて書いています。きれいな空気、外 界から遮断された静かな世界、規則正しい生活、毎日の運動、そういうものがや はり私には必要だったようでう。誰かに手紙を書けるというのがいいものですね。誰 かに自分の思いを伝えたいと思い、机の前に座ってペンをとり、こうして文章が書け るということは本当に素敵です。もちろん文章にしてみると自分の言いたいことのほ んの一部しか表現できないのだけれど、でもそれでもかまいません。誰かに何かを 書いてみたいという気持ちになれるだけで今の私には幸せなのです。そんなわけ で、私は今あなたに手紙を書いています。今は夜の七時半で、夕食を済ませ、お 風呂にも入り終ったところです。あたりはしんとして、窓の外は真っ暗です。光ひと つ見えません。いつもは星がとてもきれいに見えるのですが今日は曇っていて駄目 です。ここにいる人たちはみんなとても星にくわしくて、あれが乙女座だとか射手座 だとか私に教えてくれます。たぶん日が暮れると何もすることがなくなるので嫌でもく わしくなっちゃうんでしょうね。そしてそれはと同じような理由で、ここの人々は鳥や 花や虫のこともとてもよく知っています。そういう人たちと話していると、私は自分が いろんなことについていかに無知であったかということを思い知らされますし、そんな 風に感じるのはなかなか気持ちの良いものです。 ここには全部で七十人くらいの人が入って生活しています。その他にスタッフ お医者、看護婦、事務、その他いろいろが二十人ちょっといます。とても広いところ ですから、これは決して多い数字ではありません。それどころか閑散としていると表 現した方が近いかもしれませんね。広々として、自然に充ちていて、人々はみんな 穏やかに暮らしています。あまりにも穏やかなのでときどきここが本当のまともな世 界なんじゃないかという気がするくらいです。でも、もちろんそうではありません。私た
ちはある種の前提のもとにここで暮らしているから、こういう風にもなれるのです。 私はテニスとバスケット・ボールをやっています。バスケット・ボールのチームは 患者というのは嫌な言葉ですが仕方ありませんねとスタッフが入りまじって構成され ています。でもゲームに熱中しているうちに私には誰が患者で誰がスタッフなのかだ んだんわからなくなってきます。これはなんだか変なものです。変な話だけれど、 ゲームをしながらまわりを見ていると誰も彼も同じくらい歪んでいるように見えちゃう のです。 ある日私の担当医にそのことを言うと、君の感じていることはある意味で正し いのだと言われました。彼は私たちがここにいるのはその歪みを矯正するためでは なく、その歪みに馴れるためなのだといいます。私たちの問題点のひとつはその歪 みを認めて受けれることができないというところにあるのだ、と。人間一人ひとりが歩 き方に癖があるように、感じ方や考え方や物の見方にも癖があるし、それはなおそ うと思っても急になおるものではないし、無理になおそうとすると他のところがおかしく なってしまうことになるんだそうです。もちろんこれはすごく単純化した説明だし、そう いうのは私たちの抱えている問題のあるひとつの部分にすぎないわけですが、それ でも彼の言わんとすることは私にもなんとなくわかります。私たちはたしかに自分の 歪みに上手く順応しきれないでいるのかもしれません。だからその歪みが引き起こ す現実的な痛みや苦しみを上手く自分の中に位置づけることができなくて、そして そういうものから遠離るためにここに入っているわけです。ここにいる限り私たちは他 人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみ んな自分たちが『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまった く違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らし ています。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私た ちはインディアンが頭にその部族をあらわす羽根をつけるように、歪みを身につけて います。そして傷つけあうことのないようにそっと暮らしているのです。 運動をする他には、私たちは野菜を作っています。トマト、なす、キウリ、西 瓜、苺、ねぎ、キャベツ、大根、その他いろいろ。大抵のものは作ります。温室も 使っています。ここの人たちは野菜づくりにはとてもくわしいし、熱心です。本を読ん だり、専門家を招いたり、朝から晩までどんな肥料がいいだとか地質がどうのとか、 そんな話ばかりしています。私も野菜づくりは大好きになりました。いろんな果物や 野菜が毎日少しずつ大きくなっていく様子を見るのはとても素敵です。あなたは西 瓜を育てたことがありますか西瓜って、まるで小さな動物みたいな膨らみ方をする んですね。 私たちは毎日そんな採れたての野菜や果物を食べて暮らしています。肉や 魚ももちろん出ますけれど、ここにいるとそういうを食べたいという気持ちはだんだん 少なくなってきます。野菜がとにかく瑞々しくておいしいからです。外に出て山菜や きのこの採取をすることもあります。そういうのにも専門家がいて考えてみれば専門
家だらけですね、ここは、これはいい、これは駄目と教えてくれます。おかげで私は ここにきてから三キロも太ってしまいました。ちょうどいい体重というところですね。運 動と規則正しいきちんとした食事のせいです。 その他の時間、私たちは本を読んだり、レコードを聴いたり、編みものをしたり しています。TVとかラジオとかはありませんが、その代わりけっこうしっかりした図書 館もありますし、レコード・ライブラリイもあります。レコード・ライブラリイにはマーラ ー のシンフォニーの全集からビートルズまで揃っていて、私はいつもここでレコードを借 りて、部屋で聴いています。 この施設の問題は一度ここに入ると外に出るのが億劫になる、あるいは怖く なるということですね。私たちはここの中にいる限り平和で穏やかな気持ちになりま す。自分たちの歪みに対しても自然な気持ちで対することができます。自分たち が回復したと感じます。しかし外の世界が果たして私たちを同じように受容してく れるものかどうか、私には確信が持てないのです。 担当医は私がそろそろ外部の人と接触を持ち始める時期だと言います。 『外部の人』というのはつまり正常な世界の正常な人ということですが、それいわれ ても、私にはあなたの顔しか思い浮ばないのです。正直に言って、私には両親に はあまり会いたくありません。あの人たちは私のことですごく混乱していて、会って話 をしても私はなんだか惨めな気分になるばかりだからです。それに私にはあなたに 説明しなくてはならないことがいくつがあるのです。うまく説明できるかどうかはわかり ませんが、それはとても大事なことだし、避けて通ることはできない種類のことなの です。 でもこんなことを言ったからといって、私のことを重荷としては感じないで下さ い。私は誰かの重荷にだけはなりたくないのです。私は私に対するあなたの好意を 感じるし、それを嬉しく思うし、その気持ちを正直にあなたに伝えているだけです。 たぶん今の私はそういう好意をとても必要としているのです。もしあなたにとって、私 の書いたことの何かが迷惑に感じられたとしたら謝ります。許して下さい。前にも書 いたように、私はあなたが思っているより不完全な人間なのです。 ときどきこんな風に思います。もし私とあなたがごく当り前の普通の状況で出 会って、お互いに好意を抱き合っていたとしたら、いったいどうなっていたんだろうと。 私がまともで、あなたもまともで始めからまともですね、キズキ君がいなかったとした らどうなっていただろう、と。でもこのもしはあまりにも大きすぎます。少なくとも私は 公正に正直になろうと努力しています。今の私にはそうすることしかできません。そ うすることによって私の気持ちを少しでもあなたに伝えたいと思うのです。 この施設は普通の病院とは違って、面会は原則的に自由です。前日までに 電話連絡すれば、いつでも会うことができます。食事も一緒にできますし、宿泊の 設備もあります。あなたの都合の良いときに一度会いに来て下さい。会えることを 楽しみにしています。地図を同封しておきます。長い手紙になってしまってごめんな
さい」 僕は最後まで読んでしまうとまた始めから読み返した。そして下に降りて自動 販売機でコーラを買ってきて、それを飲みながらまたもう一度読み返した。そしてそ の七枚の便箋を封筒に戻し、机の上に置いた。ピンク色の封筒には女の子にして は少しきちんとしすぎているくらいのきちんとした小さな字で僕の名前と住所が書い てあった。僕は机の前に座ってしばらくその封筒を眺めていた。封筒の裏の住所に は「阿美寮」と書いてあった。奇妙な名前だった。僕はその名前について五、六分 間考えをめぐらせてから、これはたぶんフランス語のami友だちからとったものだろうと 想像した。 手紙を机の引き出しにしまってから、僕は服を着替えて外に出た。その手紙 の近くにいると十回も二十回も読み返してしまいそうな気がしたからだ。僕は以前 直子と二人でいつもそうしていたように、日曜日の東京の町をあてもなく一人でぶ らぶらと歩いた。彼女の手紙の一行一行を思い出し、それについて僕なりに思い をめぐらしながら、僕は町の通りから通りへとさまよった。そして日が暮れてから寮に 戻り、直子のいる「阿美寮」に長距離電話をかけてみた。受付の女性が出て、僕 の用件を聞いた。僕は直子の名前を言い、できることなら明日の昼過ぎに面会に 行きたいのだが可能だろうかと訊ねてみた。彼女は僕の名前を聞き、三十分あと でもう一度電話をかけてほしいと言った。 僕は食事のあとで電話をすると同じ女性が出て面会は可能ですのでどうぞ お越し下さいと言った。僕は礼を言って電話を切り、ナップザックに着替えと洗面 用具をつめた。そして眠くなるまでブランディを飲みながら『魔の山』のつづきを読ん だ。それでもやっと眠ることができたのは午前一時を過ぎてからだった。 第六章 月曜日の朝の七時に目を覚ますと僕は急いで顔を洗って髭を剃り、朝食は 食べずにすぐに寮長の部屋に行き、二日ほど山登りしてきますのでよろしくと言っ た。僕はそれまでにも暇になると何度も小旅行をしていたから、寮長もああと言っ ただけだった。僕は混んだ通勤電車に乗って東京駅に行き、京都までの新幹線 自由席の切符を買い、いちばん早い「ひかり」に文字どおりとび乗り、熱いコーヒー とサンドイッチを朝食がわりに食べた。そして一時間ほどうとうとと眠った。 京都駅についたのは十一時少し前だった。僕は直子の指示に従って市バス で三条まで出て、そこの近くにある私鉄バスのターミナルに行って十六番のバスは どこの乗り場から何時に出るのかを訊いた。十一時三十五分にいちばん向うの停 留所から出る、目的地まではだいたい一時間少しかかるということだった。僕は切 符売り場で切符を買い、それから近所の書店に入って地図を買い、待合室のベ ンチに座って「阿美寮」の正確な位置を調べてみた。地図でみると「阿美寮」はお
そろしく山深いところにあった。バスはいくつも山を越えて北上し、これ以上はもう進 めないというあたりまで行って、そこから市内に引き返していた。僕の降りる停留所 は終点のほんの少し手前にあった。停留所から登山道があって、ニ十分ほど歩け ば「阿美寮」につくと直子は書いていた。ここまで山奥ならそれは静かだろうと僕は 思った。 二十人ばかりの客を乗せてしまうとバスはすぐに出発し、鴨川に沿って京都 市内を北へと向った。北に進めば進むほど町なみはさびしくなり、畑や空き地が目 につくようになった。黒い瓦屋根やビニール・ハウスが初秋の日を浴びて眩しく光っ ていた。やがてバスは山の中に入った。曲りくねった道で、運転手は休む暇もなく 右に左にとハンドルをまわしつづけ、僕は少し気分がわるくなった。朝飲んだコー ヒーの匂いが胃の中にまだ残っていた。そのうちにカーブもだんだん少なくなってやっ とほっと一息ついた頃に、バスは突然ひやりとした杉林の中に入った。杉はまるで 原生林のように高くそびえたち、日の光をさえぎり、うす暗い影で万物を覆ってい た。開いた窓から入ってくる風が急に冷たくなり、その湿気は肌に痛いばかりだっ た。谷川に沿ってその杉林の中をずいぶん長い時間進み、世界中が永遠に杉林 で埋め尽くされてしまったんじゃないかという気分になり始めたあたりでやっと林が終 わり、我々はまわりを山に囲まれた盆地のようなところに出た。盆地には青々とし た畑が見わたす限り広がり、道路に沿ってきれいな川が流れていた。遠くの方で 白い煙が一本細くたちのぼり、あちこちの物干には洗濯物がかかり、犬が何匹か 吠えていた。家の前にはたき木が軒下までつみあげられ、その上で猫が昼寝をし ていた。道路沿いにしばらくそんな人家がつづいていたが人の姿はまったく見あたら なかった。 そういう風景が何度もくりかえされた。バスは杉林に入り、杉林を抜けて集落 に入り、集落を抜けてまた杉林に入った。集落にバスが停まるたびに何人かの客 が降りた。乗りこんでくる客は一人もいなかった。市内を出発して四十分ほどで眺 望の開けた峠に出たが、運転手はそこでバスを停め、五、六分待ちあわせするの で降りたい人は降りてかまわないと乗客に告げた。客は僕を含めて四人しか残っ ていなかったがみんなバスを降りて体をのばしたり、煙草を吸ったり、目下に広がる 京都の町並みを眺めたりした。運転手は立小便をした。ひもでしばった段ボール 箱を車内に持ちこんでいた五十前後のよく日焼けした男が、山に上るのかと僕に 質問した。面倒臭いので、そうだと僕は返事した。 やがて反対側からバスが上ってきて我々のバスのわきに停まり、運転手が降 りてきた。二人の運転手は少し話しをしてからそれぞれのバスに乗りこんだ。乗客 も席に戻った。そして二台のバスはそれぞれの方向に向ってまた進み始めた。どう して我々のバスが峠の上でもう一台のバスが来るのを待っていたかという理由はす ぐに明らかになった。山を少し下ったあたりから道幅が急に狭くなっていて二台の大 型がすれちがうのはまったく不可能だったからだ。バスは何台かのライトバンや乗用
車とすれちがったが、そのたびにどちらかがバックして、カーブのふくらみにぴったりと 身を寄せなくてはならなかった。 谷川に沿って並ぶ集落も前に比べるとずっと小さくなり、耕作してある平地も 狭くなった。山が険しくなり、すぐ近くまで迫っていた。犬の多いところだけがどの集 落も同じで、バスが来ると犬たちは競いあうように吠えた。 僕が降りた停留所のまわりには何もなかった。人家もなく、畑もなかった。停 留所の標識がぽつんと立っていて、小さな川が流れていて、登山ルートの入口が あるだけだった。僕はナップザックを肩にかけて、谷川に沿って登山ルートを上り始 めた。道の左手には川が流れ、右手には雑木林がつづいていた。そんな緩やかな 上り道を十五分ばかり進むと右手に車がやって一台通れそうな枝道があり、その 入口には「阿美寮・関係者以外の立ち入りはお断りします」という看板が立ってい た。 雑木林の中の道にはくっきりと車のタイヤのあとがついていた。まわりの林の中 で時折ばたばたという鳥の羽ばたきのような音が聞こえた。部分的に拡大されたよ うに妙に鮮明な音だった。一度だけ銃声のようなボオンという音が遠くの方で聞こ えたが、こちらは何枚かフィルターをとおしたみたいに小さくくぐもった音だった。 雑木林を抜けると白い石塀が見えた。石塀といっても僕の背丈くらいの高さ で上に柵や網がついているわけではなく越えようと思えばいくらでも越えられる代物 だった。黒い門扉は鉄製で頑丈そうだったが、これは開けっ放しになっていて、門 衛小屋には門衛の姿は見えなかった。門のわきには「阿美寮・関係者以外の立 ち入りはお断りします」というさっきと同じ看板がかかっていた。門衛小屋にはつい 先刻まで人がいたことを示す形跡が残っていた。灰皿には三本吸殻があり、湯の みには飲みかけの茶が残り、棚にはトランジスタ・ラジオがあり、壁では時計がコツ コツという乾いた音を立てて時を刻んでいた。僕はそこで門衛の戻ってくるのを待っ てみたが、戻ってきそうな気配がまるでないので、近くにあるベルのようなものをニ、 三度押してみた。門の内側のすぐのところは駐車場になっていて、そこにはミニ・バ スと4WDのランド・クルーザーとダークブルーのボルボがとまっていた。三十台くらい は車が停められそうだったが、停まっているのはその三台きりだった。 ニ、三分すると紺の制服を着た門衛が黄色い自転車に乗って林の中の道 をやってきた。六十歳くらいの背の高い額が禿げ上がった男だった。彼は黄色い自 転車を小屋の壁にもたせかけ、僕に向って、「いや、どうもすみませんでしたな」とた いしてすまなくもなさそうな口調で言った。自転車の泥よけには白いペンキで32と 書いてあった。僕が名前を言うと彼はどこかに電話をかけ、僕の名前を二度繰り 返して言った。相手が何かを言い、彼ははい、はあ、わかりましたと答え、電話を 切った。 「本館に行ってですな、石田先生と言って下さい」と門衛は言った。「その林 の中の道を行くとロータリ ーに出ますから二本目の― - いいですか、左から二本目
の道を行って下さい。すると古い建物がありますので、そこを右に折れてまたひとつ 林を抜けるとそこに鉄筋のビルがありまして、これが本館です。ずっと立札が出とる からわかると思います」 言われたとおりにロータリーの左から二本目の道を進んでいくと、つきあたりに はいかにも一昔前の別荘とわかる趣きのある古い建物があった。庭には形の良い 石やら、灯籠なんかが配され、植木はよく手入れされていた。この場所はもともと 誰かの別荘地であるらしかった。そこを右に折れて林を抜ける目の前に鉄筋の三 階建ての建物が見えた。三階建てとは言っても地面から掘りおこされたようにくぼ んでいるところに建っているので、とくに威圧的な感じは受けない。建物のデザイン はシンプルで、いかにも清潔そうに見えた。 玄関は二階にあった。階段を何段か上り大きなガラス戸を開けて中に入る と、受付に赤いワンピースを着た若い女性が座っていた。僕は自分の名前を告 げ、石田先生に会うように言われたのだと言った。彼女はにっこり笑ってロビーにあ る茶色のソファーを指差し、そこに座って待ってて下さいと小さな声で言った。そし て電話のダイヤルをまわした。僕は肩からネップザックを下ろしてそのふかふかとした ソファーに座り、まわりを眺めた。清潔で感じの良いロビーだった。観葉植物の鉢が いくつかあり、壁には趣味の良い抽象画がかかり、床はぴかぴかに磨きあげられて いた。僕は待っているあいだずっとその床にうつった自分の靴を眺めていた。 途中で一度受付の女性が「もう少しで見えますから」と僕に声をかけた。僕 は肯いた。まったくなんて静かなところだろうと僕は思った。あたりには何の物音もな い。何だかまるで午睡の時間みたいだなと僕は思った。人も動物も虫も草も木 も、何もかもがぐっすり眠り込んでしまったみたいに静かな午後だった。 しかしほどなくゴム底靴のやわらかな足音が聴こえ、ひどく硬そうな短い髪をし た中年の女性が姿をあらわし、さっさと僕のとなりに座って脚を組んだ。そして僕と 握手した。握手しながら、僕の手を表向けたり裏向けたりして観察した。 「あなた楽器って少くともこの何年かいじったことないでしょう」と彼女はまず最 初にいった。 「ええ」と僕はびっくりして答えた。 「手を見るとわかるのよ」と彼女は笑って言った。 とても不思議な感じのする女性だった。顔にはずいぶんたくさんしわがあって、 それがまず目につくのだけれど、しかしそのせいで老けて見えるというわけではなく、 かえって逆に年齢を超越した若々しさのようなものがしわによって強調されていた。 そのしわはまるで生まれたときからそこにあったんだといわんばかりに彼女の顔によく 馴染んでいた。彼女が笑うとしわも一緒に笑い、彼女が難しい顔をするとしわも 一緒に難しい顔をした。笑いも難しい顔もしない時はしわはどことなく皮肉っぽくそ して温かく顔いっぱいにちらばっていた。年齢は三十代後半で、感じの良いという だけではなく、何かしら心魅かれるところのある女性だった。僕は一目で彼女に好
感を持った。 髪はひどく雑然とカットされて、ところどころで立ち上がって飛び出し、前髪も 不揃いに額に落ちかかっていたが、その髪型は彼女にとてもよく似合っていた。白 いTシャツの上にブルーのワークシャツを着て、クリーム色のたっぷりとした綿のズボン にテニス・シューズを履いていた。ひょろりと痩せて乳房というものが殆んどなく、 しょっちゅう皮肉っぽく唇が片方に曲がり、目のわきのしわが細かく動いた。いくらか 世をすねたところのある親切で腕の良い女大工みたいに見えた。 彼女はちょと顎を引いて、唇を曲げたまましばらく僕を上から下まで眺めまわ していた。今にもポッケトから巻尺をとりだして体の各部のサイズを測り始めるんじゃ ないかという気がするくらいだった。 「楽器何かできる」 「いや、できません」と僕は応えた。 「それは残念ねえ、何かできると楽しかったのに」 そうですね、と僕は言った。どうして楽器の話ばかり出てくるのかさっぱりわから なかった。 彼女は胸のポケットからセブンスターを取り出して唇にくわえ、ライターで火を つけてうまそうに煙を吹き出した。 「えーとねえ、ワタナベ君だったわね、あなたが直子に会う前に私の方からここ の説明をしておいた方がいいと思ったのよ。だからまず私と二人でちょっとこうしてお 話しすることにしたわけ。ここは他のところとはちょっと変ってるから、何の予備知識 もないといささか面喰うことになると思うし。ねえ、あなたここのことまだよく知らない でしょう」 「ええ、殆んど何も」 「じゃ、まあ最初から説明すると......」と言いかけてから彼女は何かに気づい たというようにパチッと指を鳴らした。「ねえ、あなた何か昼ごはん食べたおなかすい てない」 「すいてますね」と僕は言った。 「じゃあいらっしゃいよ。食堂で一緒にごはん食べながら話しましょう。食事の 時間は終っちゃったけど、今行けばまだ何か食べられると思うわ」 彼女は僕の先に立ってすたすた廊下を歩き、階段を下りて一階にある食堂 まで行った。食堂は二百人ぶんくらいの席があったが今使われているのは半分だ けで、あとの半分はついたてで仕切られていた。なんだかシーズン・オフのリゾート・ ホテルにいるみたいだった、昼食メニューはヌードルの入ったポテト・シチューと、野 菜サラダとオレンジ・ジュースとパンだった。直子が手紙に書いていたように野菜は はっとするくらいおいしかった。僕は皿の中のものを残らずきれいに平らげた。 「あなた本当においしそうにごはん食べるのねえ」と彼女は感心したように言っ た。
「本当に美味しいですよ。それに朝からろくに食べてないし」 「よかったら私のぶん食べていいわよ、これ。私もうおなかいっぱいだから。食べ る」 「要らないのなら食べます」と僕は言った。 「私、胃が小さいから少ししか入らないの。だからごはんの足りないぶんは煙 草吸って埋めあわせてんの」彼女はそう言ってまたセブンスターをくわえて火をつけ た。「そうだ、私のことレイコさんって呼んでね。みんなそう呼んでいるから」 僕は少ししか手をつけていない彼女のポテト・シチューを食べパンをかじってい る姿をレイコさんは物珍しそうに眺めていた。 「あなたは直子の担当のお医者さんですか」と僕は彼女に訊いてみた。 「私は医者」と彼女はびっくりしたように顔をぎゅっとしかめて言った。「なんで 私が医者なのよ」 「だって石田先生に会えって言われてきたから」 「ああ、それね。うん、私ね、ここで音楽の先生してるのよ。だから私のこと先 生って呼ぶ人もいるの。でも本当は私も患者なの。でも七年もここにいてみんなの 音楽教えたり事務手伝ったりしてるから、患者だかスタッフだかわかんなくなっちゃっ てるわね、もう。私のことあなたに教えなかった」 僕は首を振った。 「ふうん」とレイコさんは言った。「ま、とにかく、直子と私は同じ部屋で暮らして るの。つまりルームメイトよね。あの子と一緒に暮らすの面白いわよ。いろんな話し て、あなたの話もよくするし」 「僕のとんな話するんだろう」と僕は訊いてみた。 「そうだそうだ、その前にここの説明をしとかなきゃ」とレイコさんは僕の質問を 頭から無視して言った。「まず最初にあなたに理解してほしいのはここがいわゆる 一般的な『病院』じゃないってことなの。てっとりばやく言えば、ここは治療をするとこ ろではなく療養するところなの。もちろん医者は何人かいて毎日一時間くらいは セッションをするけれど、それは体温を測るみたいに状況をチェックするだけであっ て、他の病院がやっているようないわゆる積極的治療を行うと言うことではないの。 だからここには鉄格子もないし、門だっていつも開いてるわけ。人々は自発的にこ こに入って、自発的にここから出て行くの。そしてここに入ることができるのは、そうい う療養に向いた人達だけなの。誰でも入れるというんじゃなくて、専門的な治療を 必要とする人は、そのケースに応じて専門的な病院に行くことになるの。そこまでわ かる」 「なんとなくかわります。でも、その療養というのは具体的にはどういうことなん でしょう」 レイコさんは煙草の煙を吹きだし、オレンジ・ジュースの残りを飲んだ。「ここの 生活そのものが療養なのよ。規則正しい生活、運動、外界からの隔離、静けさ、
おいしい空気。私たち畑を持ってて殆んど自給自足で暮らしてるし、TVもあいし、 ラジオもないし。今流行ってるコミューンみたいなもんよね。もっともここに入るのには 結構高いお金かかるからそのへんはコミューンとは違うけど」 「そんなに高いんですか」 「馬鹿高くはあいけど、安くはないわね。だってすごい設備でしょう場所も広い し、患者の数は少なくスタッフは多いし、私の場合はもうずっと長くいるし、半分ス タッフみたいなものだから入院費は実質的には免除されてるから、まあそれはいい んだけど。ねえ、コーヒー飲まない」 飲みたいと僕は言った。彼女は煙草を消して席を立ち、カウンターのコー ヒー・ウォーマーからふたつのカップにコーヒ ーを注いで運んできてくれた。彼女は砂 糖を入れてスプーンでかきまわし、顔をしかめてそれを飲んだ。 「この療養所はね、営利企業じゃないのよ。だからまだそれほど高くない入院 費でやっていけるの。この土地もある人が全部寄附したのよ。法人を作ってね。昔 はこのへん一帯はその人の別荘だったの。二十年くらい前までは。古い屋敷みた でしょう」 見た、と僕は言った。 「昔は建物もあそこしかなくて、あそこに患者をあつめてグループ療養してた の。つまりどしてそういうこと始めたかというとね、その人の息子さんがやはり精神病 の傾向があって、ある専門医がその人にグループ療養を勧めたわけ。人里はなれ たところでみんな助け合いながら肉体労働をして暮らし、そこに医者が加わってア ドバイスし、状況をチェックすることによってある種の病いを治癒することが可能だと いうのがその医師の理論だったの。そういう風にしてここは始まったのよ。それがだん だん大きくなって、法人になって、農場も広くなって、本館も五年前にできて」 「治療の効果はあったわけですね」 「ええ、もちろん万病に効くってわけでもないし、よくならない人も沢山いるわ よ。でも他では駄目だった人がずいぶんたくさんここでよくなって回復して出て行っ たのよ。ここのいちばん良いところはね、なんなが助け合うことなの。みんな自分が 不完全だということを知っているから、お互いに助け合おうとするの。他のところはそ うじゃないのよ、残念ながら。他のところでは医者はあくまで医者で、患者はあくま で患者なの。患者は医者に助けを請い、医者は患者を助けてあげるの。でもここ では私たちは助け合うのよ。私たちはお互いの鏡なの。そしてお医者は私たちの仲 間なの。そばで私たちを見ていて何かが必要だなと思うと彼らはさっとやってきて私 たちを助けてくれるけれど、私たちもある場合には彼らを助けるの。というのはある 場合には私たちの方が彼らより優れているからよ。たとえば私はあるお医者にピア ノを教えてるし、一人の患者は看護婦にフランス語を教えるし、まあそういうことよ ね。私たちのような病気にかかっている人には専門的な才能に恵まれた人がけっ こう多いのよ。だからここでは私たちはみんな平等なの。私はあなたを助けるし、あ
なたも私を助けるの」 「僕はどうすればいいんですか、具体的に」 「まず第一は相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けてもらわな くてはならないのだと思うこと。第二に正直になること。嘘をついたり、物事を取り 繕ったり、都合の悪いことを誤魔化したりしないこと。それだけでいいのよ」 「努力します」と僕はいた。「でもレイコさんはどうして七年もここにいるんです か。僕はずっと話していてあなたに何か変ってところがあるとは思えないですが」 「昼間はね」と彼女は暗い顔をして言った。「でも夜になると駄目なの。夜に なると私、よだれ垂らして床中転げまわるの」 「本当に」と僕は訊いた。 「嘘よ。そんなことするわけないでしょう」と彼女はあきれたように首を振りなが ら言った。「私は回復してるわよ。今のところは。野菜作ったりしてね。私ここ好きだ もの。みんな友だちみたいなものだし。それに比べて外の世界に何があるの私は三 十八でもうすぐ四十よ。直子とは違うのよ。私がここを出てったって待っててくれる 人もいないし、受け入れてくれる家庭もないし、たいした仕事もないし、殆んど友 だちもいないし。それに私ここにもう七年も入ってるのよ。世の中のことなんてもう何 もわかんないわよ。そりゃ時々図書館で新聞は読んでるわよ。でも私、この七年 間このへんから一歩も外に出たことないのよ。今更出ていったって、どうしていいか なんてわかんないわよ」 「でも新しい世界が広がるかもしれませんよ」と僕は言った。「ためしてみる価 値はあるでしょう」 「そうね、そうかもしれないわね」と言って彼女は手の中でしばらくライターをくる くるとまわしていた。「でもね、ワタナベ君、私にも私のそれなりの事情があるのよ。 よかったら今度ゆっくり話してあげるけど」 僕は肯いた。 「それで直子はよくなっているんですか」 「そうね、私たちはそう考えてるわ。最初のうちはかなり混乱していたし、私た ちもどうなるのかなとちょっと心配していたんだけれど、今は落ち着いているし、しゃ べり方もずいぶんましになってきたし、自分の言いたいことも表現できるようになって きたし......まあ良い方に向っていることはたしかね。でもね、あの子はもっと早く治 療を受けるべきだったのよ。彼女の場合、そのキズキ君っていうボーイ・フレンドが 死んだ時点から既に症状が出始めていたのよ。そしてそのことは家族もわかってい たはずだし彼女自身にもわかっていたはずなのよ。家庭的な背景もあるし......」 「家庭的な背景」と僕は驚いて訊きかえした。 「あら、あなたそれ知らなかったんだっけ」とレイコさんが余計に驚いて言った。 僕は黙って首を振った。 「じゃあそれは直子から直接聞きなさい。その方が良いから。あの子もあなた
にはいろんなこと正直に話そうという気になってるし」レイコさんはまたスプーンでコー ヒーをかきまわし、ひとくち飲んだ。「それからこれは規則で決ってることだから最初 に言っておいた方が良いと思うんだけれど、あなたと直子が二人っきりになることは 禁じられているの。これはルールなの。部外者が面会の相手と二人っきりになるこ とはできないの。だから常にそこにはブザーバーが――現実的には私になるわけだ けど――つきそってなきゃいけないわけ。気の毒だと思うけれど我慢してもらうしか ないわね。いいかしら」 「いいですよ」と僕は笑って言った。 「でも遠慮しないで二人で何話してもいいわよ、私がとなりにいることは気に しないで。私はあなたと直子のあいだのことはだいたい全部知ってるもの」 「全部」 「だいたい全部よ」と彼女は言った。「だって私たちグループ・セッションやるの よ。だから私たち大抵のこと知ってるわよ。それに私と直子は二人で何もかも話し あってるもの。ここにはそんな沢山秘密ってないのよ」 僕はコーヒーを飲みながらレイコさんの顔を見た。「東京にいるとき僕は直子 に対してやったことが本当に正しかったことなのかどうか。それについてずっと考えて きたんだけれど、今でもまだわからないんです」 「それは私にもわからないわよ」とレイコさんは言った。「直子にもわからないし ね。それはあなたたち二人がよく話しあってこれから決めることなのよ。そうでしょうた とえ何が起ったにせよ、それを良い方向に進めていくことはできるわよ。お互いを理 解しあえればね。その出来事が正しかったかどうかというのはそのあとでまた考えれ ばいいことなんじゃないかしら」 僕は肯いた。 「私たちは三人で助けあえるじゃないかと思うの。あなたと直子と私とで。お互 いに正直になって、お互いを助けたいとさえ思えばね。三人でそういうのやるのっ て、時によってはすごく効果があるのよ。あなたはいつまでここにいられるの」 「明後日の夕方までに東京に戻りたいです。アルバイトに行かなくちゃいけな いし、木曜日にはドイツ語のテストがあるから」 「いいわよ、じゃ私たちの部屋に泊まりなさいよ。そうすればお金もかからない し、時間を気にしないでゆっくり話もできるし」 「私たちって誰のことですか」 「私と直子の部屋よ、もちろん」とレイコさんは言った。「部屋も分かれている し、ソファー・ベッドがひとつあるからちゃんと寝られるわよ、心配しなくても」 「でもそういうのってかまわないんですかつまり男の訪問客が女性の部屋に泊 まるとか」 「だってまさかあなた夜中の一時に私たちの寝室に入ってきてかわりばんこに レイプしたりするわけじゃないでしょう」
「もちろんしませんよ、そんなこと」 「だったら何も問題ないじゃない。私たちのところに泊ってゆっくりといろんな話 をしましょう。その方がいいわよ。その方がお互い気心もよくわかるし、私のギターも 聴かせてあげられるし。なかなか上手いのよ」 「でも本当に迷惑じゃないですか」 レイコさんは三本目のセブンスターを口にくわえ、口の端をきゅっと曲げてから 火をつけた。「私たちそのことについては二人でよく話しあったのよ。そして二人であ なたを招待しているのよ、個人的に。そういうのって礼儀正しく受けた方がいいじゃ ないかしら」 「もちろん喜んで」と僕は言った。 レイコさんは目の端のしわを深めてしばらく僕の顔を眺めた。「あなたって何か こう不思議なしゃべり方するわねえ」と彼女は言った。「あの『ライ麦畑』の男の子の 真似してるわけじゃないわよね」 「まさか」と僕は言って笑った。 レイコさんも煙草をくわえたまま笑った。「でもあなたは素直な人よね。私、そ れ見てればわかるわ。私はここに七年いていろんな人が行ったり来たりするの見て たからかわるのよ。うまく心を開ける人と開けない人の違いがね。あなたは開ける人 よ。正確に言えば、開こうと思えば開ける人よね」 「開くとどうなるんですか」 レイコさんは煙草をくわえたまま楽しそうにテーブルの上で手を合わせた。「回 復するのよ」と彼女は言った。煙草の灰がテーブルの上に落ちたが気にもしなかっ た。 我々は本部の建物を出て小さな丘を越え、プールとテニス・コートとバスケッ ト・コートのそばを通り過ぎた。テニス・コートでは男が二人でテニスの練習をしてい た。やせた中年の男と太った若い男で、二人とも腕は悪くなかったが、それは僕の 目にはテニスとはまったく異なった別のゲームのように思えた。ゲームをしているという よりはボールの弾性に興味があってそれを研究しているところといった風に見えるの だ。彼らは妙に考えこみながら熱心にボールのやりとりをしていた。そしてどちらも ぐっしょりと汗をかいていた。手前にいた若い男がレイコさんの姿を見るとゲームを中 断してやってきて、にこにこ笑いながら二言三言言葉をかわした。テニス・コートの わきでは大型の芝刈り機を持った男が無表情に芝を刈っていた。 先に進むと林があり、林の中には洋風のこぢんまりとした住宅が距離をとって 十五か二十散らばって建っていた。大抵の家の前には門番が乗っていたのと同じ 黄色い自転車が置いてあった。ここにはスタッフの家族が住んでるのよ、とレイコさ んが教えてくれた。 「町に出なくても必要なものは何でもここで揃うのよ」とレイコさんは歩きなが
ら僕に説明した。「食料品はさっきも言ったように殆んど自給自足でしょ。養鶏場 もあるから玉子も手に入るし。本もレコードも運動設備もあるし、小さなスーパー・ マーケットみたいなのもあるし、毎週理容師もかよってくるし。週末には映画だって 上映するのよ。町に出るスタッフの人に特別な買い物は頼めるし、洋服なんかは カタログ注文できるシステムがあるし、まず不便はないわね」 「町に出ることはできないんですか」と僕は質問した。 「それは駄目よ。もちろんたとえば歯医者に行かなきゃならないとか、そういう 特殊なことがあればそれは別だけれど、原則的にはそれは許可されていないの。こ こを出て行くことは完全にその人の自由だけれど、一度出て行くともうここには戻れ ないの。橋を焼くのと同じよ。ニ、三日町に出てまたここに戻ってということはできな いの。だってそうでしょうそんなことしたら、出たり入ったりする人ばかりになっちゃうも の」 林を抜けると我々はなだらかな斜面に出た。斜面には奇妙な雰囲気のある 木造の二階建て住宅が不規則に並んでいた。どこかどう奇妙なのかと言われても うまく説明できないのだが、最初にまず感じるのはこれらの建物はどことなく奇妙だ ということだった。それは我々が非現実を心地よく描こうとした絵からしばしば感じ 取る感情に似ていた。ウォルト・ディズニーがムンクの絵をもとに漫画映画を作った らあるいはこんな風になるのかもしれないなと僕はふと思った。建物はどれもまったく 同じかたちをしていて、同じ色に塗られていた。かたちはほぼ立方体に近く、左右 が対称で入口が広く、窓がたくさんついていた。その建物のあいだをまるで自動車 教習所のコースみたいにくねくねと曲った道が通っていた。どの建物の前にも草花 が植えられ、よく手入れされていた。人影はなく、どの窓もカーテンが引かれてい た。 「ここはC地区と呼ばれているところで、ここには女の人たちが住んでいるの。 つまり私たちよね。こういう建物が十棟あって、一棟が四つに区切られて、一区切 りに二人住むようになってるの。だから全部で八十人は住めるわけよね。今のとこ ろ三十二人しか住んでないけど」 「とても静かですね」と僕は言った。 「今の時間は誰もいないのよ」とレイコさんは言った。「私はとくべつ扱いだから 今こうして自由にしてるけれど、普通の人はみんなそれぞれのカリキュラムに従って 行動してるの。運動している人もいるし、庭の手入れしている人もいるし、グルー プ療法している人もいるし、外に出て山菜を集めている人たちもいるし。そういうの は自分で決めてカリキュラムを作るわけ。直子は今何してたっけ壁紙の貼り替えと かペンキの塗り替えとかそういうのやってるんじゃなかったかしらね。忘れちゃったけ ど。そういうのがだいたい五時くらいまでいくつかあるのよ」 彼女はC-7という番号のある棟の中に入り、つきあたりの階段を上って右側 のドアを開けた。ドアには鍵がかかっていなかった。レイコさんは僕に家の中を案内
して見せてくれた。居間とベッドルームとキッチンとバスルームの四室から成ったシン プルで感じの良い住居で、余分な飾りつけもなく、場違いな家具もなく、それでい て素っ気ないという感じはしなかった。とくに何かがどうというのではないのだが、部 屋の中にいるとレイコさんを前にしている時と同じように、体の力を抜いてくつろぐこ とができた。居間にはソファーがひとつとテーブルがあり、揺り椅子があった。キッチン には食事用のテーブルがあった。どちらのテーブルの上にも大きな灰皿が置いて あった。ベッドルームにはベッドがふたつと机がふたつとクローゼットがあった。ベッドの 枕元には小さなテーブルと読書灯があり、文庫本が伏せたまま置いてあった。キッ チンには小型の電気のレンジと冷蔵庫がセットになったものが置いてあって、簡単 な料理なら作れるようになっていた。 「お風呂はなくてシャワーだけだけどまあ立派なもんでしょう」とレイコさんは 言った。「お風呂と洗濯設備は共同なの」 「十分すぎるくらい立派ですよ。僕の住んでる寮なんて天井と窓しかないも の」 「あなたはここの冬を知らないからそういうのよ」とレイコさんは僕の背中を叩い てソファーに座らせ、自分もそのとなりに座った。「長くて辛い冬なのよ、ここの冬 は。どこを見まわしても雪、雪、雪でね、じっとりと湿って体の芯まで冷えちゃうの。 私たち冬になると毎日毎日雪かきして暮すのよ。そういう季節にはね、私たち部 屋を暖かくして音楽聴いたりお話したり編みものしたりして過すわけ。だからこれくら いのスペースがないと息がつまってうまくやっていけないのよ。あなたも冬にここにくれ ばそれよくわかるわよ」 レイコさんは長い冬のことを思い出すかのように深いため息をつき、膝の上で 手を合わせた。「これを倒してベッド作ってあげるわよ」と彼女は二人の座っている ソファーをぽんぽんと叩いた。「私たち寝室で寝るから、あなたここで寝なさい。それ でいいでしょう」 「僕の方はべつに構いませんと」 「じゃ、それで決まりね」とレイコさんは言った。「私たちたぶん五時頃にここに 戻ってくると思うの。それまで私にも直子にもやることがあるから、あなた一人でここ で待ってほしいんだけれど、いいかしら」 「いいですよ、ドイツ語の勉強してますから」 レイコさんが出ていってしまうと僕はソファーに寝転んで目を閉じた。そして静 かさの中に何ということもなくしばらく身を沈めているうちに、ふとキズキと二人でバイ クに乗って遠出したときのことを思い出した。そういえばあれもたしか秋だったなあと 僕は思った。何年前の秋だっけ四年前だ。僕はキズキの革ジャンパーの匂いとあ のやたら音のうるさいヤマハの一ニ五の赤いバイクのことを思い出した。我々はずっ と遠くの海岸まで出かけて、夕方にくたくたになって戻ってきた。別に何かとくべつな 出来事があったわけではないのだけれど、僕はその遠出のことをよく覚えていた。秋
の風が耳もとで鋭くうなり、キズキのジャンパーを両手でしっかりと掴んだまま空を見 上げると、まるで自分の体が宇宙に吹き飛ばされそうな気がしたものだった。 長いあいだ僕は同じ姿勢でソファーに身を横たえて、その当時のことを次から 次へと思い出していた。どうしてかはわからないけれど、この部屋の中で横になって いると、これまであまり思い出したことのない昔の出来事や情景が次々に頭に浮 かんできた。あるものは楽しく、あるものは少し哀しかった。 どれくらいの時間そんな風にしていたのだろう、僕はそんな予想もしなかった 記憶の洪水それは本当に泉のように岩の隙間からこんこんと湧き出していたのだ にひたりきっていて、直子がそっとドアを開けて部屋に入ってきたことに気づきもしな かったくらいだった。ふと見るとそこに直子がいたのだ。僕は顔を上げ、しばらく直子 の目をじっと見ていた。彼女はソファーの手すりに腰を下ろして、僕を見ていた。最 初のうち僕はその姿を僕自身の記憶がつむぎあげたイメージなのではないかと思っ た。でもそれは本物の直子だった。 「寝てたの」と彼女はとても小さいな声で僕に訊いた。 「いや、考えごとしてただけだよ」と僕は言った。そして体を起こした。「元気」 「ええ、元気よ」と直子は微笑んで言った。彼女の微笑みは淡い色あいの遠 くの情景にように見えた。「あまり時間がないの。本当はここに来ちゃいけないんだ けれど、ちょっとした時間見つけて来たの。だからすぐに戻らなくちゃいけないのよ。 ねえ、私ひどい髪してるでしょう」 「そんなことないよ。とても可愛いよ」と僕は言った。彼女はまるで小学生の女 の子のようなさっぱりとした髪型をして、その片方を昔と同じようにきちんとピンでと めていた。その髪型は本当によく直子に似合って馴染んでいた。彼女は中世の木 版画によく出てくる美しい少女のように見えた。 「面倒だからレイコさんに刈ってもらってるのよ。本当にそう思う可愛いって」 「本当にそう思うよ」 「でもうちのお母さんはひどいって言ってたわよ」と直子は言った。そして髪留め を外し、髪の毛を下ろし、指で何度かすいてからまたとめた。蝶のかたちをした髪 留めだった。 「私、三人で一緒に会う前にどうしてもあなたと二人だけ会いたかったの。そう しないと私うまく馴染めないの。私って不器用だから」 「少しは馴れた」 「少しね」と彼女は言って、また髪留めに手をやった。「でももう時間がない の。私、いかなくちゃ」 僕は肯いた。 「ワタナベ君、ここに来てくれてありがとう。私すごく嬉しいのよ。でも私、もしこ こにいることが負担になるようだったら遠慮せずにそう言ってほしいの。ここはちょっと 特殊な場所だし、システムも特殊だし、中には全然馴染めない人もいるの。だか
らもしそう感じたら正直にそう言ってね。私はそれでがっかりしたりはしないから。私 たちここではみんな正直なの。正直にいろんなことを言うのよ」 「ちゃんと正直に言うよ」 直子はソファーの僕のとなりに座り、僕の体にもたれかかった。肩を抱くと、彼 女は頭を僕の肩にのせ、鼻先を首にあてた。そしてまるで僕の体温をたしかめるみ たいにそのままの姿勢でじっとしていた。そんあ風に直子をそっと抱いていると、胸が 少し熱くなった。やがて直子は何も言わずに立ち上がり、入ってきたときと同じよう にそっとドアを開けて出て行った。 直子が行ってしまうと、僕はソファーの上で眠った。眠るつもりはなかったのだ けれど、僕は直子の存在感の中で久しぶりに深く眠った。台所には直子の使う食 器があり、バスルームには直子の使う歯ブラシがあり、寝室には直子の眠るベッド があった。僕はそんな部屋の中で、細胞の隅々から疲労感を一滴一滴としぼりと るように深く眠った。そして薄闇の中を舞う蝶の夢をみた。 目が覚めた時、腕時計は四時三十五分を指していた。光の色が少し変り、 風がやみ、雲のかたちが変っていた。僕は汗をかいていたので、ナップザックからタオ ルを出して顔を拭き、シャツを新しいものに変えた。それから台所に行って水を飲 み、流しの前の窓から外を眺めた。そこの窓からは向いの棟の窓が見えた。その窓 の内側には切り紙細工がいくつか糸で吊るしてあった。鳥や雲や牛や猫のシルエッ トが細かく丁寧に切れ抜かれ、くみあわされていた。あたりには相変わらず人気は なく、物音ひとつしなかった。なんだか手入れの行き届いた廃墟の中に一人で暮ら しているみたいだった。 人々が「地区」に戻りはじめたのは五時少しすぎた頃だった。台所の窓から のぞいてみると、ニ、三人の女性がすぐ下を通りすぎていくのが見えた。三人とも帽 子をかぶっていたので、顔つきや年齢はよくわからなかったけれど、声の感じからす るとそれほど若くはなさそうだった。彼女たちが角を曲って消えてしばらくすると、また 同じ方向から四人の女性がやってきて、同じように角を曲って消えていった。あたり には夕暮の気配が漂っていた。居間の窓からは林と山の稜線が見えた。稜線の 上にはまるで縁取りのようなかたちに淡い光が浮かんでいた。 直子とレイコさんは二人揃って五時半に戻ってきた。僕と直子ははじめて会 うときのようにきちんとひととおりあいさつを交わした。直子は本当に恥ずかしがって いるようだった。レイコさんは僕が読んでいた本に目をとめて何を読んでいるのかと 訊いた。トーマス・マンの『魔の山』だと僕は言った。 「なんでこんなところにわざわざそんな本持ってくるのよ」とレイコさんはあきれた ように言ったが、まあ言われてみればそのとおりだった。 レイコさんがコーヒ ーをいれ、我々は三人でそれを飲んだ。僕は直子に突撃 隊が急に消えてしまった話をした。そして最後に会った日に彼が僕に蛍をくれた話
をした。残念だわ、彼がいなくなっちゃって、私もっともっとあの人の話を聞きたかっ たのに、と直子はとても残念そうに言った。レイコさんが突撃隊について知りたがっ たので、僕はまた彼の話をした。もちろん彼女も大笑いをした。突撃隊の話をして いる限り世界は平和で笑いに充ちていた。 六時になると我々は三人で本館の食堂に行って夕食を食べた。僕と直子 は魚のフライと野菜サラダと煮物とごはんと味噌汁を食べ、レイコさんはマカロニ・サ ラダとコーヒ ーだけしか取らなかった。そしてあとはまた煙草を吸った。 「年とるとね、それほど食べなくてもいいように体がかわってくるのよ」と彼女は 説明するように言った。 食堂では二十人くらいの人々がテーブルに向って夕食を食べていた。僕らが 食事をしているあいだにも何人かが入ってきて、何人かが出て行った。食堂の光 景は人々の年齢がまちまちであることを別にすれば寮の食堂のそれとだいたい同じ だった。寮の食堂と違うのは誰もが一定の音量でしゃべっていることだった。大声を 出すこともなければ、声をひそめるということもなかった。声をあげて笑ったり驚いた り、手をあげて誰かを呼んだりするようなものは一人もいなかった。誰もが同じよう な音量で静かに話をしていた。彼らはいくつかのグループにわかれて食事をしてい た。ひとつのグループは三人から多くて五人だった。一人が何かをしゃべると他の 人々はそれに耳を傾けてうんうんと肯き、その人がしゃべり終えるとべつの人がそれ についてしばらく何かを話した。何について話しているのかはよくわからなかったけれ ど、彼らの会話は僕に昼間見たあの奇妙なテニスのゲームを思いださせた。直子 も彼らと一緒にいるときはこんなしゃべり方をするのだろうかと僕はいぶかった。そし て変な話だとは思うのだけれど、僕は一瞬嫉妬のまじった淋しさを感じた。 僕のうしろのテーブルでは白衣を着ていかにも医者という雰囲気の髪の薄い 男が、眼鏡をかけた神経質そうな若い男と栗鼠のような顔つきの中年女性に向っ て無重力状態で胃液の分泌はどうなるかについてくわしく説明していた。青年と女 性は「はあ」とか「そうですか」とか言いながら聞いていた。しかしそのしゃべり方を聞 いていると、髪のうすい白衣の男が本当に医者なのかどうか僕にはだんだんわから なくなってきた。 食堂の中の誰もとくに僕には注意を払わなかった。誰も僕の方をじろじろとは 見なかったし、僕がそこに加っていることにさえ気づかないようだった。僕の参入は 彼らにとってはごく自然な出来事であるようだった。 一度だけ白衣を着た男が突然うしろを振り向いて「いつまでここにいらっしゃる んですか」と僕に聞いた。 「二泊して水曜には帰ります」と僕は答えた。 「今の季節はいいでしょう、でもね、また冬にもいらっしゃい。何もかも真っ白 でいいもんですよ」と彼は言った。 「直子は雪が降るまでにここ出ちゃうかもしれませんよ」とレイコさんは男に言っ
た。 「いや、でも冬はいいよ」と彼は真剣な顔つきでくりかえした。その男が本当に 医者なのかどうか僕はますますわからなくなってしましった。 「みんなどんな話をしているんですか」と僕はレイコさんに訊ねてみた。彼女に は質問の趣旨がよくかわらない様子だった。 「どんな話って、普通の話よ。一日の出来事、読んだ本、明日の天気、そん ないろいろなことよ。まさかあなた誰かがすっと立ち上がって『今日は北極熊がお星 様を食べたから明日は雨だ』なんて叫ぶと思ってたわけじゃないでしょう」 「いやもちろんそういうことを言ってるじゃなくて」と僕は言った。「みんなごく静か に話しているから、いったいどんなことを話しているかなあとふと思っただけです」 「ここは静かだから、みんな自然に静かな声で話すようなるのよ」直子は魚の 骨を皿の隅にきれいに選びわけであつめ、ハンカチで口もとを拭った。「それに声を 大きくする必要がないのよ。相手を説得する必要もないし、誰かの注目をひく必 要もないし」 「そうだろうね」と僕は言った。でもそんな中で静かに食事をしていると不思議 に人々のざわめきが恋しくなった。人々の笑い声や無意味な叫び声や大仰な表 現がなつかしくなった。僕はそんなざわめきにそれまでけっこううんざりさせられてきた ものだが、それでもこの奇妙な静けさの中で魚を食べていると、どうも気持ちが落 ちつかなかった。その食堂の雰囲気は特殊な機械工具の見本市会場に似てい た。限定された分野に強い興味を持った人々が限定された場所に集って、互い 同士でしかわからない情報を交換しているのだ。 食事が終って部屋に戻ると直子とレイコさんは「C地区」の中にある共同浴 場に行ってくると言った。そしてもしシャワーだけでいいならバスルームのを使ってい いと言った。そうすると僕は答えた。彼女達が行ってしまうと僕は服を脱いでシャ ワーを浴び、髪を洗った。そしてドライヤーで髪を乾かしながら、本棚に並んでいた ビル・エヴァンスのレコードを取り出してかけたが、しばらくしてから、それが直子の誕 生日に彼女の部屋で僕が何度かかけたのと同じレコードであることに気づいた。 直子が泣いて、僕が彼女を抱いたその夜にだ。たった半年前のことなのに、それは もうずいぶん昔の出来事であるように思えた。たぶんそのことについて何度も何度 も考えたせいだろう。あまりに何度も考えたせいで、時間の感覚が引き伸ばされて 狂ってしまったのだ。 月の光がとても明るかったので僕は部屋の灯りを消し、ソファーに寝転んでビ ル・エヴァンスのピアノを聴いた。窓からさしこんでくる月の光は様々な物事の影を 長くのばし、まるで薄めた墨でも塗ったようにほんのりと淡く壁を染めていた。僕は ナップザックの中からブランディーを入れた薄い金属製の水筒をとりだし、ひとくち口 にふくんで、ゆっくりのみ下した。あななかい感触が喉から胃へとゆっくり下っていくの が感じられた。そしてそのあたたかみは胃から体の隅々へと広がっていった。僕はも
うひとくちブランディーを飲んでから水筒のふたを閉め、それをナックザップに戻した。 月の光は音楽にあわせて揺れているように見えた。 直子とレイコさんはニ十分ほどで風呂から戻ってきた。 「部屋の電気が消えて真っ暗なんてびっくりしたわよ、外から見て」とレイコさ んが言った。「荷物をまとめて東京に帰っちゃたのかと思ったわ」 「まさか。こんなに明るい月を見たのは久しぶりだったから電灯を消してみたん ですよ」 「でも素敵じゃない、こういうの」と直子は言った。「ねえ、レイコさん、この前停 電のときつかったロウソクまだ残っていたかしら」 「台所の引き出しよ、たぶん」 直子は台所に行って引き出しを開け、大きな白いロウソクを持ってきた。僕 はそれに火をつけ、ロウを灰皿にたらしてそこに立てた。レイコさんがその火で煙草 に火をつけた。あたりはあいかわらずひっそりとしていて、そんな中で三人でロウソク を囲んでいると、まるで我々三人だけが世界のはしっこにとり残されたみたいに見 えた。ひっそりとした月光の影と、ロウソクの光にふらふらと揺れる影とが、白い壁の 上でかさなりあい、錯綜していた。僕と直子は並んでソファーに座り、レイコは向い の揺り椅子に腰掛けた。 「どう、ワインでも飲まない」とレイコさんが僕に言った。 「ここはお酒飲んでもかまわないですか」と僕はちょっとびっくりして言った。 「本当は駄目なんだけどねえ」とレイコは耳たぶを掻きながら照れくさそうに 言った。「まあ大体は大目に見てるのよ。ワインとかビールくらいなら、量さえ飲みす ぎなきゃね。私、知り合いのスタッフの人に頼んでちょっとずつ買ってきてもらってる の」 「ときどき二人で酒盛りするのよ」直子がいたずらっぽく言った。 「いいですね」と僕は言った。 レイコさんは冷蔵庫から白ワインを出してコルク抜きで栓をあけ、グラスを三つ 持ってきた。まるで裏の庭で作ったといったようなさっぱりとした味わいのおいしいワイ ンだった。レコードが終るとレイコはベッドの下からギター・ケースを出してきていとお しそうに調弦してから、ゆっくりとバッハのフーガを弾きはじめた。ところどころで指のう まくまわらないところがあったけれど、心のこもったきちんとしたバッハだった。温かく親 密で、そこには演奏する喜びのようなものが充ちていた。 「ギターはここに来てから始めたの。部屋にビアノがないでしょう、だからね。独 学だし、それに指がギター向きになってないからなかなかうまくならないの。でもギ ター弾くのって好きよ。小さくて、シンプルで、やさしくて......まるで小さな部屋みた い」 彼女はもう一曲バッハの小品を弾いた。組曲の中の何かだ。ロウソクの灯を 眺め、ワインを飲みながらレイコさんの弾くバッハに耳を傾けていると、知らず知らず
のうちに気持ちが安らいできた。バッハが終ると、直子はレイコさんにビートルスのも のを弾いてほしいと頼んだ。 「リクエスト・タイム」とレイコさんは片目を細めて僕に言った。「直子が来てか ら私は来る日も来る日もビートルスのものばかり弾かされてるのよ。まるで哀れた 音楽奴隷のように」 彼女はそう言いながら『ミシェル』をとても上手く弾いた。 「良い曲ね。私、これ大好きよ」とレイコさんは言ってワインをひとくちのみ、煙 草を吸った。 それから彼女は『ノーホエア・マン』を弾き、『ジェリア』を弾いた。ときどきギター を弾きながら目を閉じて首を振った。そしてまたワインを飲み、煙草を吸った。 「『ノルウェイの森』を弾いて」と直子は言った。 レイコさんは台所からまねき猫の形をした貯金箱を持ってきて、直子が財布 から百円玉を出してそこに入れた。 「なんですか、それ」と僕は訊いた。 「私が『ノルウェイの森』をリクエストするときはここに百円入れるのがきまりな の」と直子が言った。「この曲はいちばん好きだから、とくにそうしてるの。心してリク エストするの」 「そしてそれが私の煙草代になるわけね」 レイコさんは指をよくほぐしてから『ノルウェイの森』を弾いた。彼女の弾く曲に は心がこもっていて、しかもそれでいて感情に流れすぎるということがなかった。僕も ポッケトから百円玉を出して貯金箱に入れた。 「ありがとう」とレイコさんは言ってにっこり笑った。 「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだがはわからな いけど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの」と直子は言った。「一 人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて。だから私がリクエスト しない限り、彼女はこの曲を弾かないの」 「なんだか『カサブランカ』みたいな話よね」とレイコさんは笑って言った。 そのあとでレイコさんはボサノヴァを何曲を弾いた。そのあいだ僕は直子を眺 めていた。彼女は手紙にも自分で書いていたように以前より健康そうになり、よく 日焼けし、運動と屋外作業のせいでしまった体つきになっていた。湖のように深く 澄んだ瞳と恥ずかしそうに揺れる小さな唇だけは前と変りなったけれど、全体として みると彼女の美しさは成熟した女性のそれへと変化していた。以前の彼女の美し さのかげに見えかくれしていたある種の鋭さ――人をふとひやりとさせるあの薄い刃 物のような鋭さ――はずっとうしろの方に退き、そのかわりに優しく慰撫するような 独得の静けさがまわりに漂っていた。そんな美しさは僕の心を打った。そしてたった 半年間のあいだに一人の女性がこれほど大きく変化してしまうのだという事実に驚 愕の念を覚えた。直子の新しい美しさは以前のそれと同じようにあるいはそれ以
上に僕をひきつけたが、それでも彼女が失ってしまったもののことを考える残念だな という気がしないでもなかった。あの思春期の少女独特の、それ自体がどんどん一 人歩きしてしまうような身勝手な美しさとでも言うべきものはもう彼女には二度と 戻ってはこないのだ。 直子は僕の生活のことを知りたいと言った、僕は大学のストのことを話し、そ れから永沢さんのことを話した。僕が直子に永沢さんの話をしたのはそれが初めて だった。彼の奇妙な人間性と独自の思考システムと偏ったモラリティーについて正 確に説明するのは至難の業だったが、直子は最後には僕のいわんとすることをだ いたい理解してくれた。僕は自分が彼と二人で女の子を漁りに行くことは伏せてお いた。ただあの寮において親しく付き合っている唯一の男はこういうユニークな人物 なのだと説明しただけだった。そのあいだレイコさんはギターを抱えて、もう一度さっ きのフーガの練習をしていた。彼女はあいかわらずちょっとしたあいまを見つけてはワ インを飲んだり煙草をふかしたりしていた。 「不思議な人みたいね」と直子は言った。 「不思議な男だよ」と僕は言った。 「でもその人のこと好きなのね」 「よくわからないね」と僕は言った。「でもたぶん好きというんじゃないだろうな。 あの人は好きになるとかならないとか、そういう範疇の存在じゃないんだよ。そして 本人もそんなのを求めてるわけじゃないんだ。そういう意味ではあの人はとても正 直な人だし、胡麻化しのない人だし、非常にストイックな人だね」 「そんなに沢山女性と寝てストイックっていうのも変な話ね」と直子は笑って 言った。「何人と寝たんだって」 「たぶんもう八十人くらいは行ってるんじゃないかな」と僕は言った。「でも彼の 場合相手の女の数が増えれば増えるほど、そのひとつひとつの行為の持つ意味は どんどん薄まっていくわけだし、それがすなわちあの男の求めていることだと思うん だ」 「それがストイックなの」と直子が訊ねた。 「彼にとってはね」 直子はしばらく僕の言ったことについて考えていた。「その人、私よりずっと頭 がおかしいと思うわ」と彼女は言った。 「僕もそう思う」と僕は言った。「でも彼の場合は自分の中の歪みを全部系 統だてて理論化しちゃったんだ。ひどく頭の良い人だからね。あの人をここに連れて きてみなよ、二日で出ていっちゃうね。これも知ってる、あれももう知ってる、うんもう 全部わかったってさ。そういう人なんだよ。そういう人は世間では尊敬されるのさ」 「きっと私、頭悪いのね」と直子は言った。「ここのことまだよくわかんないもの。 私自身のことがまだよくわかんないように」 「頭が悪いんじゃなくて、普通なんだよ。僕にも僕自身のことでわからないこと
はいっぱいある。それは普通の人だもの」 直子は両脚をソファーの上にので、折りまげてその上に顎をのせた。「ねえ、ワ タナベ君のことをもっと知りたいわ」と彼女は言った。 「普通の人間だよ。普通の家に生まれて、普通に育って、普通の顔をして、 普通の成績で、普通のことを考えている」と僕は言った。 「ねえ、自分のこと普通の人間だという人間を信用しちゃいけないと書いてい たのはあなたの大好きなスコット・フィッツジェラルドじゃなかったかしらあの本、私あ なたに借りて読んだのよ」と直子はいたずらっぽく笑いながら言った。 「たしかに」と僕は認めた。「でも僕は別に意識的にそうきめつけてるんじゃなく てさ、本当に心からそう思うんだよ。自分が普通の人間だって。君は僕の中に何か 普通じゃないものがみつけられるかい」 「あたりまえでしょう」と直子はあきれたように言った。「あななそんなこともわか らないのそうじゃなければどうして私があなたと寝たのよお酒に酔払って誰でもいい から寝ちゃえと思ってあなたとそうしちゃったと考えてるの」 「いや、もちろんそんなことは思わないよ」と僕は言った。 直子は自分の足の先を眺めながらずっと黙っていた。僕も何を言っていいの かわからなくてワインを飲んだ。 「ワタナベ君、あなた何人くらいの女の人と寝たの」と直子がふと思いついたよ うに小さな声で訊いた。 「八人か九人」と僕は正直に答えた。 レイコさんが練習を止めてギターをはたと膝の上に落とした。「あなたまだ二十 歳になってないでしょういったいどういう生活してんのよ、それ」 直子は何も言わずにその澄んだ目でじっと僕を見ていた。僕はレイコさんに最 初の女の子と寝て彼女と別れたいきさつを説明した。僕は彼女を愛することがどう してもできなかったのだといった。それから永沢さんに誘われて知らない女の子たち と次々寝ることになった事情も話した。「いいわけするんじゃないけど、辛かったんだ よ」と僕は直子に言った。「君と毎週のように会って、話をしていて、しかも君の心 の中にあるのがキズキのことだけだってことがね。そう思うととても辛かったんだよ。だ から知らない女の子と寝たんだと思う」 直子は何度か首を振ってから顔を上げてまた僕の顔を見た。「ねえ、あなた あのときどうしてキズキ君と寝なかったのかと訊いたわよねまだそのこと知りたい」 「たぶん知ってた方がいいんだろうね」と僕は言った。 「私もそう思うわ」と直子は言った。「死んだ人はずっと死んだままだけど、私た ちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの」 僕は肯いた。レイコさんはむずかしいパーセージを何度も何度もくりかえして 練習していた。 「私、キズキ君と寝てもいいって思ってたのよ」と直子は言って髪留めをはず
し、髪を下ろした。そして手の中で蝶のかたちをしたその髪留めをもてあそんでい た。「もちろん彼は私と寝たかったわ。だから私たち何度も何度もためしてみたの よ。でも駄目だったの。できなかったわ。どうしてできないのか私には全然わかんな かったし、今でもわかんないわ。だって私はキズキ君のことを愛していたし、べつに処 女性とかそういうのにこだわっていたわけじゃないんだもの。彼がやりたいことなら私、 何だって喜んでやってあげようと思ってたのよ。でも、できなかったの」 直子はまた髪を上にあげて、髪留めで止めた。 「全然濡れなかったのよ」と直子は小さな声で言った。「開かなかったの、まる で。だからすごく痛くて。乾いてて、痛いの。いろんな風にためしてみたのよ、私た ち。でも何やってもだめだったわ。何かで湿らせてみてもやはり痛いの。だから私ずっ とキズキ君のを指とか唇とかでやってあげてたの......わかるでしょう」 僕は黙って肯いた。 直子は窓の外の月を眺めた。月は前にも増やして明るく大きくなっているよう に見えた。「私だってできることならこういうこと話したくないのよ、ワタナベ君。できる ことならこういうことはずっと私の胸の中にそっとしまっておきたなかったのよ、でも仕 方ないのよ。話さないわけにはいかないのよ。自分でも解決がつかないんだもの。 だってあなたと寝たとき私すごく濡れてたでしょうそうでしょう」 「うん」と僕は言った。 「私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと濡れてた の。そしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸にされて、体を触ら れて、入れてほしいと持ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうしてどうし てそんなことが起こるのだって私、キズキ君のこと本当に愛してたのよ」 「そして僕のことは愛していたわけでもないのに、ということ」 「ごめんなさい」と直子は言った。「あなたを傷つけたくないんだけど、でもこれ だけはわかって。私とキズキ君は本当にとくべつな関係だったのよ。私たち三つの頃 から一緒に遊んでたのよ。私たちいつも一緒にいていろんな話をして、お互いを理 解しあって、そんな風に育ったの。初めてキスしたのは小学校六年のとき、素敵 だったわ。私がはじめて生理になったとき彼のところに行ってわんわん泣いたのよ。 私たちとにかくそういう関係だったの。だからあの人が死んじゃったあとでは、いったい どういう風に人と接すればいいのか私にはわからなくなっちゃったの。人を愛するとい うのがいったいどういうことなのかというのも」 彼女はテーブルの上のワイン・グラスをとろうとしたが、うまくとれずにワイン・グラ スは床に落ちてころころと転がった。ワインがカーペットの上にこぼれた。僕は身をか がめてグラスを拾い、それをテーブルの上に戻した。もう少しワインが飲みたいかと 僕は直子に訊いてみた。彼女はしばらく黙っていたが、やがて突然体を震わせて 泣きはじめた。直子は体をふたつに折って両手の中に顔を埋め、前と同じように息 をつまらせながら激しく泣いた。レイコさんがギターを置いてやってきて、直子の背中
に手をあててやさしく撫でた。そして直子の肩に手をやると、直子はまるで赤ん坊 のように頭をレイコさんの胸に押しつけた。 「ね、ワタナベ君」とレイコさんが僕に言った。「悪いけれど二十分くらいそのへ んをぶらぶら散歩してきてくれない。そうすればなんとかなると思うから」 僕は肯いて立ち上がり、シャツの上にセータ ーを着た。「すみません」と僕はレ イコさんに言った。 「いいのよ、べつに。あなたのせいじゃないんだから。気にしなくていいのよ。 帰ってくるころにはちゃんと収まってるから」彼女はそういって僕に向って片目を閉じ た。 僕は奇妙な非現実的な月の光に照らされた道を辿って雑木林の中に入 り、あてもなく歩を運んだ。そんな月の光の下ではいろんな物音が不思議な響き 方をした。僕の足音はまるで海底を歩いている人の足音のように、どこかまったく 別の方向から鈍く響いて聞こえてきた。時折うしろの方でさっという小さなあ乾いた 音がした。夜の動物たちが息を殺してじっと僕が立ち去るのを待っているような、そ んな重苦しさは林の中に漂っていた。 雑木林を抜け小高くなった丘の斜面に腰を下ろして、僕は直子の住んでい る棟の方を眺めた。直子の部屋をみつけるのは簡単だった。灯のともっていない窓 の中から奥の方で小さな光がほのかに揺れていたものを探せばよかったのだ。僕は 身動きひとつせずにその小さな光をいつまでも眺めていた。その光は僕に燃え残っ た魂の最後の揺らめきのようなものを連想させた。僕はその光を両手で覆ってしっ かりと守ってやりたかった。僕はジェイ・ギャツビイが対岸の小さな光を毎夜見守って いたと同じように、その仄かな揺れる灯を長いあいだ見つめていた。 僕は部屋に戻ったのは三十分後で、棟の入口までくるとレイコさんがギターを 練習しているのが聴こえた。僕はそっと階段を上り、ドアをノックした。部屋に入ると 直子の姿はなく、レイコさんがカーペットの上に座って一人でギターを弾いているだ けだった。彼女は僕に指で寝室のドアの方を示した。直子は中にいる、ということら しかった。それからレイコさんはギターを床に置いてソファーに座り、となりに座るよう に僕に言った。そして瓶に残っていたワインをふたつのグラスに分けた。 「彼女は大丈夫よ」とレイコさんは僕の膝を軽く叩きながら言った。「しばらく 一人で横になってれば落ちつくから心配しなくてもいいのよ。ちょっと気が昂ぶっただ けだから。ねえ、そのあいだ私と二人で少し外を散歩しない」 「いいですよ」と僕は言った。 僕とレイコさんは街燈に照らされた道をゆっくりと歩いて、テニス・コートとバス ケットボール・コートのあるところまで来て、そこのベンチに腰を下ろした。彼女はベ ンチの下からオレンジ色のバスケットのボールをとりだして、しばらく手の中でくるくる とまわしていた。そして僕にテニスはできるかと訊いた。とても下手だけれどできない ことはないと僕は答えた。
「バスケットボールは」 「それほど得意じゃないですね」 「じゃああなたいったい何が得意なの」とレイコさんは目の横のしわを寄せるよ うにして笑って言った。「女の子と寝る以外に」 「べつに得意なわけじゃありませんよ」僕は少し傷ついて言った。 「怒らないでよ。冗談で言っただけだから。ねえ、本当にどうなのどんなことが 得意なの」 「得意なことってないですね。好きなことならあるけれど」 「どんなこと好き」 「歩いて旅行すること。泳ぐこと、本を読むこと」 「一人でやることが好きなのね」 「そうですね、そうかもしれませんね」と僕は言った。「他人とやるゲームって昔 からそんなに興味が持てないんです。そういうのって何をやってもうまくのりこめない んです。どうでもよくなっちゃうんです」 「じゃあ冬にここにいらっしゃいよ。私たち冬にはクロス・カントリー・スキーやる のよ。あなたきっとあれ好きになるわよ。雪の中を一日バタバタ歩きまわって汗だく になって」とレイコさんは言った。そして街灯の光の下でまるで古い楽器を点検する みたいにじっと自分の右手を眺めた。 「直子はよくあんな風になるんですか」と僕は訊いてみた。 「そうね、ときどきね」とレイコさんは今度は左手を見ながら言った。「ときどきあ んな具合になるわけ。気が高ぶって、泣いて。でもいいのよ、それはそれで。感情を 外に出しているわけだからね。怖いのはそれが出せなくなったときよ。そうするとね、 感情が体の中にたまってだんだん固くなっていくの。いろんな感情が固まって、体の 中で死んでいくの。そうなるともう大変ね」 「僕はさっき何か間違ったこと言ったりしませんでしたか」 「何も。大丈夫よ、何も間違ってないから心配しなくていいわよ。なんでも正 直に言いなさい。それがいちばん良いことなのよ。もしそれがお互いをいくらか傷つ けることになったとしても、あるいはさっきみたいに誰かの感情をたかぶらせることに なったとしても長い目で見ればそれがいちばん良いやり方なの。あなたが真剣に直 子を回復させたいと望んでいるなら、そうしなさい。最初にも言ったように、あの子を 助けたいと思うんじゃなくて、あの子を回復させることによって自分も回復したいと 望むのよ。それがここのやり方だから。だからつまり、あなたもいろんなことを正直に しゃべるようにしなくちゃいけないわけ、ここでは、だって外の世界ではみんなが何も かも正直にしゃべってるわけではないでしょう」 「そうですね」と僕は言った。 「私は七年もここにいて、ずいぶん多くの人が入ってきたり出て行ったりするの を見てきたのよ」とレイコさんは言った。「たぶんそういうのを沢山見すぎてきたんで
しょうね。だからその人を見ているだけで、なおりそうとかなおりそうじゃないとか、わり に直感的にわかっちゃうところがあるのよ。でも直子の場合はね、私にもよくわから ないの。あの子がいったいどうなるのか、私にも皆目見当がつかないのよ。来月に なったらさっぱりとなおってるかもしれないし、あるいは何年も何年もこういうのがつ づくかもしれないし、だからそれについては私にはあなたに何かアドバイスすることは できないのよ。ただ正直になりなさいとか、助けあいなさいとか、そういうごく一般的 なことしかね」 「どうして直子に限って見当がつかないんですか」 「たぶん私があの子のこと好きだからよね。だからうまく見きわめがつかないじゃ ないかしら、感情が入りすぎていて。ねえ、私、あの子のこと好きなのよ、本当に。 それからそれとは別にね、あの子の場合にはいろんな問題がいささか複雑に、もつ れた紐みたいに絡み合っていて、それをひとつひとつほぐしていくのが骨なのよ。それ をほぐすのに長い時間がかかるかもしれないし、あるいは何かの拍子にぽっと全部 ほぐれちゃうかもしれないしね。まあそういうことよ。それで私も決めかねているわけ」 彼女はもう一度バスケットボールを手にとって、ぐるぐると手の中でまわしてか ら地面にバウンドさせた。 「いちばん大事なことはね、焦らないことよ」とレイコさんは僕に言った。「これ が私のもう一つの忠告ね。焦らないこと。物事が手に負えないくらい入りこんで絡 み合っていても絶望的な気持ちになったり、短気を起こして無理にひっぱったりし ちゃ駄目なのよ。時間をかけてやるつもりで、ひとつひとつゆっくりほぐしていかなきゃ いけないのよ。できるの」 「やってみます」と僕は言った。 「時間がかかるかもしれないし、時間かけても完全にはならないかもしれない わよ。あなたそのこと考えてみた」 僕は肯いた。 「待つのは辛いわよ」とレイコさんはボールをバウンドさせながら言った。「とくに あなたくらいの歳の人にはね。ただただ彼女がなおるのをじっと待つのよ。そしてそこ には何の期限も保証もないのよ。あなたにそれができるのそこまで直子のことを愛 してる」 「わからないですね」と僕は正直に言った。「僕にも人を愛するというのがどうい うことなのか本当によくわからないんです。直子とは違った意味でね。でお僕はでき る限りのことをやって見たいんです。そうしないと自分がどこに行けばいいのかという こともよくわからないんですよ。だからさっきレイコさんが言ったように、僕と直子はお 互いを救いあわなくちゃいけないし、そうするしかお互いが救われる道はないと思い ます」 「そしてゆきずりの女の子と寝つづけるの」 「それもどうしていいかよくわかりませんね」と僕は言った。「いったいどうすれば
いいんですかずっとマスターペーションしながら待ちつづけるべきなんですか自分でも うまく収拾できないんですよ。そういうのって」 レイコさんはボールを地面に置いて、僕の膝を軽く叩いた。「あのね、何も女 の子と寝るのがよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれでいいんなら、そ れでいいのよ。だってそれはあなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいの よ。ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないって いうことよ。わかるそういうのってすごくもったいないのよ。十九と二十歳というのは人 格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたすると、 年をとってから辛いのよ。本当よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと 思うなら自分も大事にしなさいね」 考えてみます、と僕は言った。 「私にも二十歳の頃があったわ。ずっと昔のことだけど」とレイコさんは言った。 「信じる」 「心から信じるよ、もちろん」 「心から信じる」 「心から信じますよ」と僕は笑いながら言った。 「直子ほどじゃないけれど、私だってけっこう可愛いかったのよ。その頃は。今 ほどしわもなかったしね」 そのしわすごく好きですよと僕は言った。ありがとうと彼女は言った。 「でもね、この先女の人にあなたのしわが魅力的だなんて言っちゃ駄目よ。私 はそう言われると嬉しいけどね」 「気をつけます」と僕は言った。 彼女はズボンのポケットから財布を取り出し、定期入れのところに入っている 写真を出して僕に見せてくれた。十歳前後のかわいい女の子のカラー写真だっ た。その女の子は派手なスキー・ウェアを着て足にスキーをつけ、雪の上でにっこり と微笑んでいた。 「なかなか美人でしょう私の娘よ」とレイコさんは言った。「今年はじめにこの写 真送ってくれたの。今、小学校の四年生かな」 「笑い方が似てますね」と僕は言ってその写真を彼女の返した。彼女は財布 をポケットに戻し、小さく鼻を鳴らして煙草をくわえて火をつけた。 「私若いころね、プロのピアニストになるつもりだったのよ。才能だってまずまず あったし、まわりもそれを認めてくれたしね。けっこうちやほやされて育ったのよ。コン クールで優勝したこともあるし、音大ではずっとトップの成績だったし、卒業したらド イツに留学するっていう話もだいたい決っていたしね、まあ一点の曇りもない青春 だったわね。何をやってもうまく行くし、うまく行かなきゃまわりがうまく行くように手をま わしてくれるしね。でも変なことが起ってある日全部が狂っちゃったのよ。あれは音 大の四年のときね。わりに大事なコンクールがあって、私ずっとそのための練習して
たんだけど、突然左の小指が動かなくなっちゃったの。どうして動かないのかわから ないんだけど、とにかく全然動かないのよ。マッサージしたり、お湯につけたり、ニ、 三日練習休んだりしたんだけど、それでも全然駄目なのよ。私真っ青になって病 院に行ったの。それでずいぶんいろんな検査したんだけれど、医者にもよくわからな いのよ。指には何の異常もないし、神経もちゃんとしているし、動かないわけがな いっていうのね。だから精神的なものじゃないかって。精神科に行ってみたわよ、 私。でもそこでもやはりはっきりしたことはわからなかったの。コンクール前のストレス でそうなったじゃないかっていうことくらいしかね。だからとにかく当分ピアノを離れて暮 らしなさいって言われたの」 レイコさんは煙草の煙を深く吸いこんで吐き出した。そして首を何回か曲げ た。 「それで私、伊豆にいる祖母のところに行ってしばらく静養することにしたの。 そのコンクールのことはあきらめて、ここはひとつのんびりしてやろう、二週間くらいピ アノにさわらないで好きなことして遊んでやろうってね。でも駄目だったわ。何をして も頭の中にピアノのことしか浮かんでこないのよ。それ以外のことが何ひとつ思い浮 かばないのよ。一生このまま小指が動かないんじゃないだろうかもしそうなったらこれ からいったいどうやって生きていけばいいんだろうそんなことばかりぐるぐる同じこと考 えてるのね。だって仕方ないわよ、それまでの人生でピアノが私の全てだったんだも の。私はね四つのときからピアノを始めて、そのことだけを考えて生きてきたのよ。そ れ以外のことなんか殆んど何ひとつ考えなかったわ。指に怪我しちゃいけないってい うんで家事ひとつしたことないし、ピアノが上手いっていうことだけでまわりが気をつ かってくれるしね、そんな風にして育ってきた女の子からピアノをとってごらんなさい よ、いったい何が残るそれでボンッよ。頭のねじがどこかに吹き飛んじゃったのよ。頭 がもつれて、真っ暗になっちゃって」 彼女は煙草を地面に捨てて踏んで消し、それからまた何度か首を曲げた。 「それでコンサート・ピアニストになる夢はおしまいよ。二ヶ月入院して、退院 して。病院に入って少ししてから小指は動くようになったから、音大に復学してなん とか卒業することはできたわよ。でもね、もう何かか消えちゃったのよ。何かこう、エネ ルギーの玉のようなものが、体の中から消えちゃってるのよ。医者もプロのピアニスト になるには神経が弱すぎるからよした方がいいって言うしね。それで私、大学を出 てからは家で生徒をとって教えていたの。でもそういうのって本当に辛かったわよ。ま るで私の人生そのものがそこでばたっと終っちゃたみたいなんですもの。私の人生の いちばん良い部分が二十年ちょっとで終っちゃったのよ。そんなのってひどすぎると 思わない私はあらゆる可能性を手にしていたのに、気がつくともう何もないのよ。誰 も拍手してくれないし、誰もちやほやしてくれないし、誰も賞めてくれないし、家の 中にいて来る日も来る日も近所の子供にバイエルだのソナチネ教えてるだけよ。 惨めな気がしてね、しょっちゅう泣いてたわよ。悔しくってね。私よりあきらかに才能
のない人がどこのコンクールで二位とっただの、どこのホールでリサイタル開いただ の、そういう話を聞くと悔しくってぼろぼろ涙が出てくるの。 両親も私のことを腫れものでも扱うみたいに扱ってたわ。でもね、私にはわか るのよ、この人たちもがっかりしてるんだなあって。ついこの間まで娘のことを世間に 自慢してたのに、今じゃ精神病院帰りよ。結婚話だってうまく進められないじゃな い。そういう気持ってね、一緒に暮らしているとひしひしつたわってくるのよ。嫌で嫌 でたまんなかったわ。外に出ると近所の人が私の話をしているみたいで、怖くて外 にも出られないし。それでまたボンッよ。ネジが飛んで、糸玉がもつれて、頭が暗く なって。それが二十四のときでね、このときは七ヶ月療養所に入ってたわ。ここじゃ なくて、ちゃんと高い塀があって門の閉っているところよ。汚くて。ピアノもなくて...... 私、そのときはもうどうしていいかわかんなかったわね。でもこんなところ早く出たいっ ていう一念で、死にもの狂いで頑張ってなおしたのよ。七ヶ月――長かったわね。 そんな風にしてしわが少しずつ増えてったわけよ」 レイコさんは唇を横にひっぱるようにのばして笑った。 「病院を出てしばらくしてから主人と知り合って結婚したの。彼は私よりひとつ 年下で、航空機を作る会社につとめるエンジニアで、私のピアノの生徒だったの。 良い人よ。口数が少ないけれど、誠実で心のあたたかい人で。彼が半年くらいレッ スンをつづけたあとで、突然私に結婚してくれないがって言い出したの。ある日レッ スンが終ってお茶飲んでるときに突然よ。私びっくりしっちゃたわ。それで私、彼に結 婚することはできないって言ったの。あなたは良い人だと思うし好意を抱いてはいる けれど、いろいろ事情があってあなたと結婚することはできないんだって。彼はその 事情を聞きたがったから、私は全部正直に説明したわ。二回頭がおかしくなって 入院したことがあるんだって。細かいところまできちんと話したわよ。何が原因で、そ れでこういう具合になったし、これから先だってまた同じようなことが起るかもしれな いってね。少し考えさせてほしいって彼が言うからどうぞゆっくり考えて下さいって私 言ったの。全然急がないからって。次の週彼がやってきてやはり結婚したいって言っ たわ。それで私言ったの。三ヶ月待ってって。三ヶ月二人でおつきあいしましょう。そ れでまだあなたに結婚したいと言う気持があったら、その時点で二人でもう一度話 しあいましょうって。 三ヶ月間、私たち週に一度デートしたの。いろんなところに行って、いろんな 話をして。それで私、彼のことがすごく好きになったの。彼と一緒にいると私の人生 がやっと戻ってきたような気がしたの。二人でいるとすごくほっとしてね、いろんな嫌 なことが忘れられたの。ピアニストになれなくったって、精神病で入院したことがあっ たって、そんなことで人生が終っちゃったわけじゃないんだ、人生には私の知らない 素敵なことがまだいっぱい詰まっているんだって思ったの。そしてそういう気持にさせ てくれたことだけで、私は彼に心から感謝したわ。三ヶ月たって、彼はやはり私と結 婚したいって言ったの。『もし私と寝たいのなら寝ていいわよ』って私は言ったの。
『私、まだ誰とも寝たことないけれど、あなたのことは大好きだから、私を抱きたけれ ば抱いて全然構わないのよ。でも私と結婚するっていうのはそれとはまったく別のこ となのよ。あなたは私と結婚することで、私のトラブルも抱えこむことになるのよ。こ れはあなたが考えているよりずっと大変なことなのよ。それでもかまわないの』って。 構わないって彼は言ったわ。僕はただ単に寝たいわけじゃないんだ、君と結婚 したいんだ、君の中の何もかも君と共有したいんだってね。そして彼は本当にそう 思ってたのよ。彼は本当に思っていることしか口に出さない人だし、口にだしたこと はちゃんと実行する人なのよ。いいわ、結婚しましょうって言ったわ。だってそう言うし かないものね。結婚したのはその四ヶ月後だったかな。彼はそのことで彼の両親と 喧嘩して絶縁しちゃったの。彼の家は四国の田舎の旧家でね、両親が私のことを 徹底的に調べて、入院歴が二回あることがわかっちゃったのよ。それで結婚に反 対して喧嘩になっちゃったわけ。まあ反対するのも無理ないと思うけれどね。だから 私たち結婚式もあげなかったの。役所に行って婚姻届けだして、箱根に二泊旅 行しただけ。でもすごく幸せだったわ、何もかもが。結局私、結婚するまで処女だっ たのよ、二十五歳まで。嘘みたいでしょう」 レイコさんはため息をついて、またバスケット・ボールを持ちあげた。 「この人といる限り私は大丈夫って思ったわ」とレイコさんは言った。「この人と 一緒にいる限り私が悪くなることはもうないだろうってね。ねえ、私たちの病気にとっ ていちばん大事なのはこの信頼感なのよ。この人にまかせておけば大丈夫、少し でも私の具合がわるくなってきたら、つまりネジがゆるみはじめたら、この人はすぐに 気づいて注意深く我慢づよくなおしてくれる――ネジをしめなおし、糸玉をほぐして くれる――そういう信頼感があれば、私たちの病気はまず再発しないの、そういう 信頼感が存在する限りまずあのボンッは起らないのよ。嬉しかったわ。人生ってな んて素晴らしいんだろうって思ったわ。まるで荒れた冷たい海から引き上げられて毛 布にくるまれて温かいベッドに横たえられているようなそんな気分ね。結婚して二 年後に子供が生まれて、それからはもう子供の世話で手いっぱいよ。おかげで自 分の病気のことなんかすっかり忘れちゃったくらい。朝起きて家事して子供の世話 して、彼が帰ってきたらごはん食べさせて......毎日毎日がそのくりかえし。でも幸せ だったわ。私の人生の中でたぶんいちばん幸せだった時期よ。そういうのが何年つ づいたかしら三十一の歳まではつづいたわよね。そしてまたボンッよ。破裂したの」 レイコさんは煙草に火をつけた。もう風はやんでいた、煙はまっすぐ上に立ちの ぼって夜の闇の中に消えていった。気がつくと空には無数の星が光っていた。 「何かがあったんですか」と僕は訊いた。 「そうねえ」とレイコさんは言った。「すごく奇妙なことがあったのよ。まるで何か の罠か落とし穴みたいにそれが私をじっとそこで待っていたのよ。私ね、そのこと考え ると今でも寒気がするの」彼女は煙草を持っていない方の手でこめかみをこすっ た。「でもわるいわね、私の話ばかり聞かせちゃって。あなたせっかく直子に会いにき
たのに」 「本当に聞きたいんです」と僕は言った。「もしよければその話を聞かせてくれ ませんか」 「子供が幼稚園に入って、私はまた少しずつピアノを弾くようになったの」とレイ コさんは話しはじめた。「誰のためでもなく、自分のためにピアノを弾くようになった の。バッハとかモーツァルトとかスカルラッティーとか、そういう人たちの小さな曲から始 めたのよ。もちろんずいぶん長いブランクがあるからなかなか勘は戻らないわよ。指 だって昔に比べたら全然思うように動かないしね。でも嬉しかったわ。またピアノが 弾けるんだわって思ってね。そういう風にピアノを弾いていると、自分がどれほど音 楽が好きだったかっていうのがもうひしひしとわかるのよ。そして自分がどれほどそれ に飢えていたかっていうこともね。でも素晴らしいことよ、自分自身のために音楽が 演奏できるということはね。 さっきも言ったように私は四つのときからピアノを弾いてきたわけだけれど、考え てみたら自分自身のためにピアノを弾いたことなんてただの一度もなかったのよ。テ ストをパスするためとか、課題曲だからとか人を感心させるためだとか、そんなため ばかりにピアノを弾きつづけてきたのよ。もちろんそういうのは大事なことではあるの よ、ひとつの楽器をマスターするためにはね。でもある年齢をすぎたら人は自分のた めに音楽を演奏しなくてはならないのよ。音楽というのはそういうものなのよ。そして 私はエリート・コースからドロップ・アウトして三十一か三十二になってやっとそれを 悟ることができたのよ。子供を幼稚園にやって、家事はさっさと早くかたづけて、そ れから一時間か二時間自分の好きの曲を弾いたの。そこまでは何も問題はな かったわ。ないでしょう」 僕は肯いた。 「ところがある日顔だけ知ってて道で会うとあいさつくらいの間柄の奥さんが私 を訪ねてきて、実は娘があなたにピアノを習いたがってるんだけど教えて頂くわけに はいかないだろうかっていうの。近所っていってもけっこう離れてるから、私はその娘 さんのことは知らなかったんだけれど、その奥さんの話によるとその子は私の家の前 を通ってよく私のピアノを聴いてすごく感動したんだっていうの。そして私の顔も知っ ていて憧れているっていうのね。その子は中学二年生でこれまで何度かは先生に ついてピアノを習っていたんだけれど、どうもいろんな理由でうまくいかなくて、それで 今は誰にもついていないってことなの。 私は断ったわ。私は何年もブランクがあるし、まったくの初心者ならともかく何 年もレッスンを受けた人を途中から教えるのは無理ですって言ってね。だいいち子 供の世話が忙しくてできませんって。それに、これはもちろん相手には言わなかった けれど、しょっちゅう先生を変える子って誰がやってもまず無理なのよ。でもその奥さ んは一度でいいから娘に会うだけでも会ってやってくれって言うの、まあけっこう押し の強い人で断ると面倒臭そうだったし、まあ会いたいっていうのをはねつけるわけに
もいかないし、会うだけでいいんならかまいませんけどって言ったわ。三日後にその 子は一人でやってきたの。天使みたいにきれいな子だったわ。もうなにしろね、本 当にすきとおるようにきれいなの。あんなきれいな女の子を見たのは、あとにも先に もあれがはじめてよ。髪がすったばかりの墨みたいに黒く長くて、手足がすらっと細く て、目が輝いていて、唇は今つくったばかりっていった具合に小さくて柔らかそうな の。私、最初みたとき口きけなかったわよ、しばらく。それくらい綺麗なの。その子が うちの応接間のソファーに座っていると、まるで違う部屋みたいにゴージャスに見え るのよね。じっと見ているとすごく眩しくね、こう目を細めたくなっちゃうの。そんな子 だったわ。今でもはっきりと目に浮かぶわね」 レイコさんは本当にその女の子の顔を思い浮かべるようにしばらく目を細めて いた。 「コーヒ ーを飲みながら私たち一時間くらいお話したの。いろんなことをね。音 楽のこととか学校のこととか。見るからに頭の良い子だったわ。話の要領もいいし、 意見もきちっとして鋭いし、相手をひきつける天賦の才があるのよ。怖いくらいに ね。でおその怖さがいったい何なのか、そのときの私にはよくかわらなかったわ。ただ なんとなく怖いくらいに目から鼻に抜けるようなところがあるなと思っただけよ。でも ね、その子を前に話をしているとだんだん正常な判断がなくなってくるの。つまりあま りにも相手が若くて美しいんで、それに圧倒されちゃって、自分がはるかに劣った不 細工な人間みたいに思えてきて、そして彼女に対して否定的な思いがふと浮んだ としても、そういうのってきっとねじくれた汚い考えじゃないかっていう気がしちゃうわ け」 彼女は何度か首を振った。 「もし私があの子くらいで綺麗で頭良かったら。私ならもっとまともな人間にな るわね。あれくらい頭がよくて美しいのに、それ以上の何が欲しいっていうのよあれ ほどみんなに大事にされているっていうのに、どうして自分より劣った弱いものをいじ めたり踏みつけたりしなくちゃいけないのよだってそんなことしなくちゃいけない理由な んて何もないでしょう」 「何かひどいことをされたんですか」 「まあ順番に話していくとね、その子は病的な嘘つきだったのよ。あれはもう完 全な病気よね。なんでもかんでも話を作っちゃうわけ。そして話しているあいだは自 分でもそれを本当だと思いこんじゃうわけ。そしてその話のつじつまを合わせるため に周辺の物事をどんどん作り変えていっちゃうの。でも普通ならあれ、変だな、おか しいな、と思うところでも、その子は頭の回転がおそろしく速いから、人の先に回っ てどんどん手をくわえていくし、だから相手は全然気づかないのよ。それが嘘である ことにね。だいたいそんなきれいな子がなんでもないつまらないことで嘘をつくなんて 事誰も思わないの。私だってそうだったわ。私、その子のつくり話半年間山ほど聞 かされて、一度も疑わなかったのよ。何から何まで作り話だっていうのに、馬鹿みた
いだわ、まったく」 「どんな嘘をつくんですか」 「ありとあらゆる嘘よ」とレイコさんは皮肉っぽく笑いながら言った。「今も言った でしょう人は何かのことで嘘をつくと、それに合わせていっぱい嘘をつかなくちゃなら なくなるのよ。それが虚言症よ。でも虚言症の人の嘘というのは多くの場合罪のな い種類のものだし、まわりの人にもだいたいわかっちゃうものなのよ。でもその子の場 合は違うのよ。彼女は自分を守るためには平気で他人を傷つける嘘をつくし、利 用できるものは何でも利用しようよするの。そして相手によって嘘をついたりつかな かったりするの。お母さんとか親しい友だちとかそういう嘘をついたらすぐばれちゃうよ うな相手にはあまり嘘はつないし、そうしなくちゃいけないときには細心の注意を 払って嘘をつくの。決してばれないような嘘をね。そしてもしばれちゃうようなことが あったら、そのきれいな目からぼろぼろ涙をこぼして言い訳するか謝るかするのよ、 すがりつくような声でね。すると誰もそれ以上怒れなくなっちゃうの。 どうしてあの子が私を選んだのか、今でもよくわからないのよ。彼女の犠牲者 として私を選んだのか、それとも何かしらの救いを求めて私を選んだのかがね。それ は今でもわからないわ、全然。もっとも今となってはどちらでもいいようなことだけれ どね。もう何もかも終ってしまって、そして結局こんな風になってしまったんだから」 短い沈黙があった。 「彼女のお母さんが言ったことを彼女またくりかえしたの。うちの前を通って私 のピアノを耳にして感動した。私にも外で何度か会って憧れてたってね。『憧れて た』って言ったのよ。私。赤くなっちゃったわ。お人形みたいに綺麗な女の子に憧れ るなんでね。でもね、それはまるっきりの嘘ではなかったと思うのね。もちろん私はも う三十を過ぎてたし、その子ほど美人でも頭良くもなかったし、とくに才能があるわ けでもないし。でもね、私の中にはきっとその子をひきつける何かがあったのね。その 子に欠けている何かとか、そういうものじゃないかしらだからこそその子は私に興味 を持ったのよ。今になってみるとそう思うわ。ねえ、これ自慢してるわけじゃないのよ」 「かわりますよ、それはなんとなく」と僕は言った。 「その子は譜面を持ってきて、弾いてみていいかって訊いたの。いいわよ、弾 いてごらんなさいって私は言ったわ。それで彼女バッハのインベンション弾いたの。そ れがね、なんていうか面白い演奏なのよ。面白いというか不思議というか、まず普 通じゃないのよね。もちろんそれほど上手くないわよ。専門的な学校に入ってやっ ているわけでもないし、レッスンだって通ったり通わなかったりしでずいぶん我流で やってきたわけだから。きちっと訓練された音じゃないのよ。もし音楽学校の入試の 実技でこんな演奏したら一発でアウトね。でもね、聴かせるのよ、それが。つまりね 全体の九〇パーセントはひどいんだけれど、残りの一〇パーセントの聴かせどころ をちやんと唄って聴かせるのよ。それもバッハのインベンションでよ私それでその子に とても興味を持ったの。この子はいったい何なんだろうってね。
そりゃね、世に中にはもっともっと上手くバッハを弾く若い子はいっぱいいるわ よ。その子の二十倍くらい上手く弾く子だっているでしょうね。でもそういう演奏って だいたい中身がないのよ。かすかすの空っぽなのよ。でもその子のはね、下手だけ れど人を、少なくとも私を、ひきつけるものを少し持ってるのよ。それで私、思った の。この子なら教えてみる価値はあるかもしれないって。もちろん今から訓練しなお してプロにするのは無理よ。でもそのときの私のように――今でもそうだけれど―― 楽しんで自分のためにピアノを演奏することのできる幸せなピアノ弾きにすることは 可能かもしれないってね。でもそんなのは結局空しい望みだったのよ。彼女は他 人を感心させるためにあらゆる手段をつかって細かい計算をしてやっていく子供 だったのよ。どうすれば他人が感心するか、賞めてくれるかっていうのはちゃんとわ かっていたのよ。どういうタイプの演奏をすれば私をひきつけられるかということもね。 全部きちんと計算されていたのよ。そしてその聴かせるところだけをとにかく一所懸 命何度も何度も練習したんでしょうね。目に浮ぶわよ。 でもそれでもね、そういうのがわかってしまった今でもね、やはりそれは素敵な 演奏だったと思うし、今もう一回あれを聴かされたとしても、私やっぱりどきっとする と思うわね。彼女のずるさと嘘と欠点を全部さっぴいてもよ。ねえ、世の中にはそう いうことってあるのよ」 レイコさんは乾いた声で咳払いしてから、話をやめてしばらく黙っていた。 「それでその子を生徒にとったんですか」と僕は訊いてみた。 「そうよ。週に一回。土曜日の午前中。その子の学校は土曜日もお休み だったから。一度も休まなかったし、遅刻もしなかったし、理想的な生徒だったわ。 練習もちょんとやってくるし。レッスンが終ると、私たちケーキを食べてお話したの」レ イコさんはそこでふと気がついたように腕時計を見た。「ねえ、私たちそろそろ部屋 に戻った方がいいんじゃないかしら。直子のことがちょっと心配になってきたから。あ なたまさか直子のことを忘れちゃったんじゃないでしょうね」 「忘れやしませんよ」と僕は笑って言った。「ただ話しに引きこまれてたんです」 「もし話のつづき聞きたいなら明日話してあげるわよ。長い話だから一度には 話せないのよ」 「まるでシエラザーですね」 「うん、東京に戻れなくなっちゃうわよ」と言ってレイコさんも笑った。 僕らは往きに来たのと同じ雑木林の中の道を抜け、部屋に戻った。ロウソク が消され、居間の電灯も消えていた。寝室のドアが開いてベットサイドのランプが ついていて、その仄かな光が居間の方にこぼれていた。そんな薄暗がりのソファーの 上に直子がぽつんと座っていた。彼女はガウンのようなものに着替えていた。その 襟を首の上までぎょっとあわせ、ソファの上に足をあげ、膝を曲げて座っていた。レイ コさんは直子のところに行って、頭のてっぺんに手を置いた。 「もう大丈夫」
「ええ、大丈夫よ。ごめんなさい」と直子が小さな声で言った。それから僕の 方を向いて恥かしそうにごめんなさいと言った。「びっくりした」 「少しね」と僕はにっこりとして言った。 「ここに来て」と直子は言った。僕は隣に座ると、直子はソファーの上で膝を 曲げたまま、まるで内緒話でもするみたいに僕の耳もとに顔を近づけ、耳のわきに そっと唇をつけた。「ごめんなさい」ともう一度直子は僕の耳に向かって小さな声で 言った。そして体を離した。 「ときどき自分でも何がどうなっているのかわかんなくなっちゃうことがあるのよ」 と直子は言った。 「僕はそういうことしょっちゅうあるよ」 直子は微笑んで僕の顔を見た。ねえ、よかったら君のことをもっと聞きたい な、と僕は言った。ここでの生活のこと。毎日どんなことしているとか。どんな人がい るとか。 直子は自分の一日の生活についてぼつぼつと、でもはっきりとした言葉で話 した。朝六時に起きてここで食事をし。鳥小屋の掃除をしてから、だいたいは農場 で働く。野菜の世話をする。昼食の前かあとに一時間くらい担当医との個別面接 か、あるいはブループ・ディスカッションがある。午後は自由カリキュラムで、自分の 好きな講座かあるいは野外作業かスポーツが選べる。彼女フランス語とか編物と かピアノとか古代史とか、そういう講座をいくつかとっていた。 「ピアノはレイコさんに教わってるの」と直子は言った。「彼女は他にもギターも 教えてるのよ。私たちみんな生徒になったり先生になったりするの。フランス語に堪 能な人はフランス語教えるし、社会科の先生してた人は歴史を教えるし、編物の 上手な人は編物を教えるし。そういうのだけでもちょっとした学校みたいになっちゃう のよ。残念ながら私には他人に教えてあげられるようなものは何もないけれど」 「僕にもないね」 「とにかく私、大学にいたときよりずっと熱心に学んでいるわよ、ここで。よく勉 強もしているし、そういうのって楽しいのよ、すごく」 「夕ごはんのあとはいつも何するの」 「レイコさんとおしゃべりしたり、本を読んだり、レコードを聴いたり、他の人の部 屋にいってゲームをしたり、そういうこと」と直子は言った。 「私はギターの練習をしたり、自叙伝を書いたり」とレイコさんは言った。 「自叙伝」 「冗談よ」とレイコさんは笑って言った。「そして私たち十時くらいに眠るの。ど う、健康的な生活でしょうぐっすり眠れるわよ」 僕は時計を見た。九時少し前だった。「じゃあもうそろそろ眠いんじゃないです か」 「でも今日は大丈夫よ、少しくら遅くなっても」と直子は言った。「久しぶりだか
らもっとお話がしたいもの。何かお話して」 「さっき一人でいるときにね、急にいろんな昔のこと思い出してたんだ」と僕は 言った。「昔キズキと二人で君を見舞いに行ったときのこと覚えてる海岸の病院 に。高校二年生の夏だっけな」 「胸の手術したときのことね」と直子はにっこり笑って言った。「よく覚えているわ よ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来てくれたのよね。ぐじゃぐじゃに溶けたチョコ レートを持って。あれ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みた いな気がするわね」 「そうだね。その時、君はたしかに長い詩を書いてたな」 「あの年頃の女の子ってみんな詩を書くのよ」とくすくす笑いながら直子は言っ た。「どうしてそんなこと急に思い出したの」 「わからないな。ただ思い出したんだよ。海風の匂いとか夾竹桃とか、そういう のがさ、ふと浮かんできたんだよ」と僕は言った。「ねえ、キズキはあのときよく君の見 舞いに行ったの」 「見舞いになんて殆んど来やしないわよ。そのことで私たち喧嘩したんだから、 あとで。はじめに一度来て、それからあなたと二人できて、それっきりよ。ひどいで しょう最初にきたときだってなんだかそわそわして、十分くらいで帰っていったわ。オレ ンジ持ってきてね。ぶつぶつよくわけのわからないこと言って、それからオレンジをむい て食べさせてくれて、またぶつぶつわけのわからないこと言って、ぷいって帰っちゃった の。俺本当に病院って弱いんだとかなんとか言ってね」直子はそう言って笑った。 「そういう面ではあの人はずっと子供のままだったのよ。だってそうでしょう病院の好き な人なんてどこにもいやしないわよ。だからこそ人は慰めにお見舞いに来るんじゃな い。元気出しなさいって。そういうのがあの人ってよくわかってなかったのよね」 「でも僕と二人で病院に行ったときはそんなにひどくなかったよ。ごく普通にし てたもの」 「それはあなたの前だったからよ」と直子は言った。「あの人、あなたの前では いつもそうだったのよ。弱い面は見せるまいって頑張ってたの。きっとあなたのことを 好きだったのね、キズキ君は。だから自分の良い方の面だけを見せようと努力して いたのよ。でも私と二人でいるときの彼はそうじゃないのよ。少し力を抜くのよね。 本当は気分が変りやすい人なの。たとえばべらべらと一人でしゃべっりまくったかと 思うと次の瞬間にはふさぎこんだりね。そういうことがしょっちょうあったわ。子供の頃 からずっとそうだったの。いつも自分を変えよう、向上させようとしていたけれど」 直子はソファーの上で脚を組みなおした。 「いつも自分を変えよう、向上させようとして、それが上手くいかなくて苛々し たり悲しんだりしていたの。とても立派なものや美しいものを持っていたのに、最後 まで自分に自信が持てなくて、あれもしなくちゃ、ここも変えなくちゃなんてそんなこ とばかり考えていたのよ。可哀そうなキズキ君」
「でももし彼が自分の良い面だけを見せようと努力していたんだとしたら、その 努力は成功していたみたいだね。だって僕は彼の良い面しか見えなかったもの」 直子は微笑んだ。「それを聞いたら彼きっと喜ぶわね。あなたは彼のたった一 人の友だちだったんだもの」 「そしてキズキも僕にとってたった一人の友だちだったんだよ」と僕は言った。 「その前にもそのあとにも友だちと呼べそうな人間なんて僕にはいないんだ」 「だから私、あなたとキズキ君と三人でいるのけっこう好きだったのよ。そうする と私キズキ君の良い面だけ見ていられるでしょう。そうすると私、すごく気持が楽に なったの。安心していられるの。だから三人でいるの好きだったの。あなたがどう思っ ていたのかは知らないけれど」 「僕は君がどう思っているのか気になってたな」と僕は言って小さく首を振っ た。 「でもね、問題はそういうことがいつまでもつづくわけはないってことだったのよ。 そういう小さな輪みたいなものが永遠に維持されるわけはないのよ。それはキズキ 君にもわかっていたし、私にもわかっていたし、あなたにもわかっていたのよ。そうで しょう」 僕は肯いた。 「でお正直言って、私はあの人の弱い面だって大好きだったのよ。良い面と同 じくらい好きだったの。だって彼にはずるさとか意地わるさとか全然なかったのよ。た だ弱いだけなの。でも私がそう言っても彼は信じなかったわ。そしていつもこう言うの よ。直子、それは僕と君が三つのときからずっと一緒にいて僕のことを知りすぎてい るせいだ。だから何が欠点で何が長所かみわけがつかなくていろんなものをごたま ぜしてるんだってね。彼はいつもそう言ったわ。でもどう言われても私、彼のことが好 きだったし、彼以外の人になんて殆んど興味すら持てなかったのよ」 直子は僕の方を向いて哀しそうに微笑んだ。 「私たちは普通の男女の関係とはずいぶん違ってたのよ。何かどこかの部分 で肉体がくっつきあっているような、そんな関係だったの。あるとき遠くに離れていて も特殊な引力によってまたもとに戻ってくっついてしまうようなね。だから私とキズキ 君が恋人のような関係になったのはごく自然なことだったの。考慮とか選択の余地 のないことだったの。私たちは十二の歳にはキスして、十三の歳にはもうベッティング したの。私が彼の部屋に行くか、彼が私の部屋に遊びにくるかして、それで彼のを 手で処理してあげて......。でもね、私は自分たちが早熟だなんてちっとも思わな かったわ。そんなの当然のことだと思っていたの。彼が私の乳房やら性器やらをいじ りたいんならそんなのいじったって全然かまわないし、彼が精液を出したいんならそ れを手伝ってあげるのも全然かまわなかったのよ。だからもし誰かがそのことで私た ちを非難したとしたら、私きっとびっくりするか腹を立てたと思うわ。だって私たち間 違ったことやってたわけじゃないんだもの。当然やるはずのことをやってただけのこと
なのよ。私たち、お互いの体を隅から隅まで見せ合ってきたし、まるでお互いの体 を共有しているような、そんな感じだったのよ。でも私たちしばらくはそれより先には いかないようにしていたの。妊娠するのは怖かったし、どうすれば避妊できるのかそ の頃はよくわからなかったし......。とにかく私たちはそんな具合に成長してきたの よ。二人一組で手をとりあって。普通の成長期の子供たちが経験するような性の 重圧とかエゴの膨張の苦しみみたいなものを殆んど経験することなくね。私たちさっ きも言ったように性に対しては一貫してオープンだったし、自我にしたってお互いで 吸収しあったりわけあったりすることが可能だったからとくに強く意識することもなかっ たし。私の言ってる意味わかる」 「わかると思う」と僕は言った。 「私たち二人は離れることができない関係だったのよ。だからもしキズキ君が 生きていたら、私たちたぶん一緒にいて、愛し合っていて、そして少しずつ不幸に なっていたと思うわ」 「どうして」 直子は指で何度か髪をすいた。もう髪どめを外していたので、下を向くと髪が 落ちて彼女の顔を隠した。 「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」と直子は顔 を上げて言った。「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきときに代価を 支払わなかったから、そのつけが今まわってきてるのよ。だからキズキ君はああなっ ちゃったし、今私はこうしてここにいるのよ。私たちは無人島で育った裸の子供たち のようなものだったのよ。おなかがすけばバナナを食べ、淋しくなれば二人で抱き 合って眠ったの。でもそんなこといつまでもつづかないわ。私たちはどんどん大きく なっていくし、社会の中に出ていかなくちゃならないし。だからあなたは私たちにとっ ては重要な存在だったのよ。あなたは私たちと外の世界を結ぶリンクのような意味 を持っていたのよ。私たちはあなたを仲介して外の世界にうまく同化しようと私たち なりに努力していたのよ。結局はうまくいかなかったけれど」 僕は肯いた。 「でも私たちがあなたを利用したなんて思わないでね。キズキ君は本当にあ なたのことが好きだったし、たまたま私たちにとってはあなたとの関りが最初の他者と の関りだったのよ。そしてそれは今でもつづいているのよ。キズキ君は死んでもういな くなっちゃったけれど、あなたは私と外の世界を結びづける唯一のリンクんなのよ、 今でも。そしてキズキ君があなたのことを好きだったように、私もあなたのことが好き なのよ。そしてそんなつもりはまったくなかったんだけれど、結果的には私たちあなた の心を傷つけてしまったのかもしれないわね。そんなことになるかもしれないなんて 思いつきもしなかったのよ。 直子はまた下を向いて黙った。 「どう、ココアでも飲まない」とレイコさんが言った。
「ええ、飲みたいわ、とても」と直子は言った。 「僕は持ってきたブランディーを飲みたいんだけどかまいませんか」と僕は訊い た。 「どうぞどうぞ」とレイコさんは言った。「私にもひとくちくれる」 「もちろんいいですよ」と僕は笑って言った。 レイコさんはグラスをふたつ持って来て、僕と彼女はそれで乾杯した。それから レイコさんはキッチンに行ってココアを作った。 「もう少し明るい話をしない」と直子が言った。 でも僕には明るい話の持ち合わせがなかった。突撃隊がいてくれたらなあと 僕は残念に思った。あいつさえいれば次々にエピソードが生まれた、そしてその話さ えしていればみんなが楽しい気持になれるのに、と。仕方がないので僕は寮の中 でみんながどれほど不潔な生活をしているかについて延々としゃべった。あまりにも 汚くて話してるだけで嫌な気分になったが、二人にはそういうのが珍しいらしく笑い 転げて聴いていた。それからレイコさんがいろんな精神病患者の物真似をした。こ れも大変におかしかった。十一時になって直子が眠そうな目になってきたので、レイ コさんがソファーの背を倒してベッドにし、シーツと毛布と枕をセットしてくれた。 「夜中にレイプしにくるのはいいけど相手まちがえないでね」とレイコさんが言っ た。「左側のベッドで寝てるしわのない体が直子のだから」 「嘘よ。私右側だわ」と直子は言った 「ねえ、明日は午後のカリキュラムをいくつかパスできるようにしておいたから、 私たちピクニックに行きましょうよ。近所にとてもいいところがあるのよ」とレイコさんは 言った。 「いいですね」と僕は言った。 彼女たちがかわりばんこに洗面所で歯をみがき寝室に引き上げてしまうと、 僕はブランディーを少し飲み、ソファー・ベッドに寝転んで今日いちにちの出来事を 朝から順番に辿ってみた。なんだかとても長い一日みたいに思えた。部屋の中は あいかわらず月の光に白く照らされていた。直子とレイコさんが眠っている寝室は ひっそりとして、物音らしきものは殆んど何も聞こえなかった。ただ時折ベッドの小さ な軋みが聞こえるだけだった。目を閉じると、暗闇の中でちらちらとした微小な図 形が舞い、耳もとにレイコさんの弾くギターの残響を感じたが、しかしそれも長くはつ づかないかった。眠りがやってきて、温かい泥の中に僕を運んでいった。そして僕は 柳の夢を見た。山道の両側にずっと柳の木が並んでいた。信じられないくらいの数 の柳だった。けっこう強い風が吹いていたが、柳の枝はそよとも揺れなかった。どうし てだろうと思ってみると、柳の枝の一本 一本に小さい鳥がしがみついているのが見 えた。その重みで柳の枝が揺れないのだ。僕は棒切れを持って近くの枝を叩いて みた。鳥を追い払って柳の枝を揺らそうとしたのだ。でも鳥は飛びたたなかった。飛 び立つかわりに鳥たちは鳥のかたちをした金属になってどさっどさっと音を立てて地
面に落ちた。 目を覚ましたとき、僕はまるでその夢の続きを見ているような気分だった。部 屋の中は月のあかりでほんのりと白く光っていた。僕は反射的に床の上の鳥のかた ちをした金属を探し求めたが、もちろんそんなものはどこにもなかった。直子が僕の ベッドの足もとにぽつんと座って、窓の外をじっと見ているだけだった。彼女は膝をふ たつに折って、飢えた孤児のようにその上に顎を乗せていた。僕は時間を調べよう と思って枕もとの腕時計を探したが、それは置いたはずの場所にはなかった。月の 光の具合からするとたぶん二時か三時だろうと僕は見当をつけた。激しい喉の渇 きを感じたが、僕はそのままじっと直子の様子を見ていることにした。直子はさっきと 同じブルーのガウンのようなものを着て、髪の片側を例の蝶のかたちをしたピンでと めていた。そのせいで彼女のきれいな額がくっきりと月光に照らされていた。妙だな と僕は思った。彼女は寝る前には髪留めを外していたのだ。 直子は同じ姿勢のままびくりとも動かなかった、彼女はまるで月光に引き寄 せられる夜の小動物にように見えた。月光の角度のせいで、彼女の唇の影が誇 張されていた。そのいかにも傷つきやすそうな影は、彼女の心臓の鼓動かあるいは 心の動きにあわせて、ぴくぴくと細かく揺れていた。それはあたかも夜の闇に向って 音のない言葉を囁きかけるかのように。 僕は喉の乾きを癒すために唾を飲み込んだが、夜の静寂の中でその音はひ どく大きく響いた。すると直子は、まるでその音が何かの合図だとでも言うようにすっ と立ち上がり、かすかな衣ずれの音をさせながら僕の枕もとの床に膝をつき、僕の 目をじっとのぞきこんだ。僕も彼女の目を見たけれど、その目は何も語りかけていな かった。瞳は不自然なくらい澄んでいて、向う側の世界がすけて見えそうなほど だったが、それだけ見つめてもその奥に何かを見つけることはできなかった。僕の顔 と彼女の顔はほんの三十センチくらいしか離れていなかったけれど、彼女は何光 年も遠くにいるように感じられた。 僕は手をのばして彼女に触れようとすると、直子はずっとうしろに身を引いた。 唇が少しだけ震えた。それから直子は両手を上にあげてゆっくりとガウンのボタンを 外しはじめた。ボタンは全部で七つあった。僕は彼女の細い美しい指が順番にボ タンを外していくのを、まるで夢のつづきを見ているような気持で眺めていた。その 小さな七つの白いボタンが全部外れてしまうと、直子は虫が脱皮するときのように 腰の方にガウンをするりと下ろして脱ぎ捨て、裸になった。ガウンの下に、直子は何 もつけていなかった。彼女が身につけているのは蝶のかたちをしたヘアピンだけだっ た。直子はガウンを脱ぎ捨ててしまうと、床に膝をついたまま僕を見ていた。やわら かな月の光に照らされた直子の体はまだ生まれ落ちて間のない新しいの肉体のよ うにつややかで痛々しかった。彼女が少し体を動かすと――それはほんの僅かな 動きなのに――月の光のあたる部分が微妙に移動し、体を染める影のかたちが 変った。丸く盛り上がった乳房や、小さな乳首や、へそのくぼみや、腰骨や陰毛の
つくりだす粒子の粗い影はまるで湖面をうつろう水紋のようにそのかたちを変えてい た。 これはなんという完全な肉体なのだろう――と僕は思った。直子はいつの間 にこんな完全な肉体を持つようになったのだろうそしてその春の夜に僕が抱いた彼 女の肉体はいったいどこに行ってしまったのだろう その夜、泣きつづける直子の服をゆっくりとやさしく脱がせていったとき、僕は 彼女の体がどことなく不完全であるような印象を持ったものだった。乳房は固く、 乳首は場ちがいな突起のように感じられたし、腰のまわりに妙にこわばっていた。も ちろん直子は美しい娘だったし、その肉体は魅力的だった。それは僕を性的に興 奮させ、巨大な力で僕を押し流していった。しかしそれでも、僕は彼女の裸の体を 抱き、愛撫し、そこに唇をつけながら、肉体というもののアンバランスについて、その 不器用さについてふと奇妙な感慨を抱いたものだった。僕は直子を抱きながら、 彼女に向ってこう説明したかった。僕は今君と性交している。僕は君の中に入って いる。でもこれは本当になんでもないことなんだ。どちらでもいいことなんだ。だってこ れは体のまじわりにすぎないんだ。我々はお互いの不完全な体を触れ合わせるこ とでしか語ることのできないことを語り合っているだけなんだ。こうすることで僕はそれ ぞれの不完全さを頒ちあっているんだよ、と。しかしもちろんそんなことを口に出して うまく説明できるわけはない。僕は黙ってしっかりと直子の体を抱きしめているだけ だった。彼女の体を抱いていると、僕はその中に何かしらうまく馴染めないで残って いるような異物のごつごつとした感触を感じることができた、そしてその感触は僕を 愛しい気持にさせ、おそろしいくらい固く勃起させた。 しかし今僕の前にいる直子の体はそのときとはがらりと違っていた。直子の肉 体はいつかの変遷を経た末に、こうして今完全な肉体となって月の光の中に生れ 落ちたのだ、と僕は思った。まずふっくらとした少女の肉がキズキの死と前後して すっかりそぎおとされ、それから成熟という肉をつけ加えられたのだ。直子の肉体は あまりにも美しく完成されていたので、僕は性的な興奮すら感じなかった。僕はた だ茫然としてその美しい腰のくびれや、丸くつややかな乳房や、呼吸にあわせて静 かに揺れるすらりとした腹やその下のやわらかな黒い陰毛のかげりを見つめている だけだった。 彼女がその裸の体を僕の目の前に曝していたのはたぶん五分か六分くらい のものだったのではなかったかと思う。やがて彼女はガウンを再びまとい、上から順 番にボタンをはめていった。ボタンをはめてしまうと直子はすっと立ちあがり、静かに 寝室のドアを開けてその中に消えた。 僕はずいぶん長いあいだベッドの中でじっとしていたが、思いなおしてベッドか ら出て、床に落ちている時計を拾い上げ、月の光の方に向けて見た。三時四十 分だった。僕は台所で何杯か水を飲んでからまたベッドに横になったが、結局夜が 明けて日の光が部屋の隅々にしみこんだ青白い月光のしみをすっかり溶かし去っ
てしまうまで眠りは訪れなかった。僕は眠ったか眠らないかのうちにレイコさんがやっ てきて僕の頬をぴしゃぴしゃと叩き「朝よ、朝よ」とどなった。 レイコさんが僕のベッドを片づけているあいだ、直子が台所に立って朝食を 作った。直子は僕に向ってにっこり笑って「おはよう」と言った。おはよう、と僕も言っ た。ハミングしながら湯をわかしたりパンを切ったりしている直子の姿をとなりに立っ てしばらく眺めていたが、昨夜僕の前で裸になったという気配はまるで感じられな かった。 「ねえ、目が赤いわよ。どうしたの」と直子がコーヒ ーを入れながら僕に言っ た。 「夜中に目が覚めちゃってね、それから上手く寝られなかったんだ」 「私たちいびきかいてなかった」とレイコさんが訊いた。 「かいてませんよ」と僕は言った。 「よかった」と直子が言った。 「彼、礼儀正しいだけなのよ」とレイコさんはあくびしながら言った。 僕は最初のうち直子はレイコさんの手前何もなかったふりをしているのか、あ るいは恥かしいがっているのかとも思ったが、レイコさんがしばらく部屋から姿を消し たときにも彼女の素振りには全く変化がなかったし、その目はいつもと同じように澄 みきっていた。 「よく眠れた」と僕は直子訊ねた。 「ええ、ぐっすり」と直子は何でもなさそうに答えた。彼女は何のかざりもないシ ンプルなヘアピンで髪をとめていた。 僕はそのわりきれない気分は、朝食をとっているあいだもずっとつづいていた。 僕はパンにバターを塗ったり、ゆで玉子の殻をむいたりしながら、何かのしるしのよう なものを求めて、向いに座った直子の顔をときどきちらちらと眺めていた。 「ねえ、ワタナベ君、どうしてあなた今朝私の顔ばかり見てるの」と直子がおか しそうに訊いた。 「彼、誰かに恋してるのよ」とレイコさんが言った。 「あなた誰かに恋してるの」と直子は僕に訊いた。 そうかもしれないと言って僕も笑った。そして二人の女がそのことで僕をさかな にした冗談を言い合っているのを見ながら、それ以上昨夜の出来事について考え るのをあきらめてパンを食べ、コーヒーを飲んだ。 朝食が終ると二人はこれから鳥小屋に餌をやりに行くと言ったので、僕もつい ていくことにした。二人は作業用のジーンズとシャツに着替え、白い長靴をはいた。 鳥小屋はテニス・コートの裏のちょっとした公園の中にあって、ニワトリから鳩から、 孔雀、オウムにいたる様々な鳥がそこに入っていた。まわりには花壇があり、植え 込みがあり、ベンチがあった。やはり患者らしい二人の男が通路に落ちた葉をほう
きで集めていた。どちらの男も四十から五十のあいだに見えた。レイコさんと直子は その二人のところに行って朝のあいさつをし、レイコさんはまた何か冗談を言って二 人の男を笑わせた。花壇にはコスモスの花が咲き、植込みは念入りに刈り揃えら れていた。レイコさんの姿を見ると、鳥たちはキイキイという声を上げながら檻の中 をとびまわった。 彼女たちは鳥小屋のとなりにある小さな納屋の中に入って餌の袋とゴム・ ホースを出してきた。直子がホースを蛇口につなぎ、水道の栓をひねった。そして 鳥が外に出ないように注意しながら檻の中に入って汚物を洗いおとし、レイコさん がデッキ・ブラシでごしごしと床をこすった。水しぶきが太陽の光に眩しく輝き、孔雀 たちはそのはねをよけて檻の中をばたばたと走って逃げた。七面鳥は首を上げて 気むずかしい老人のような目で僕を睨みつけ、オウムは横木の上で不快そうに大 きな音を立てて羽ばたきした。レイコさんはオウムに向って猫の鳴き真似をすると、 オウムは隅の方に寄って肩をひそめていたが、少しすると「アリガト、キチガイ、クソタ レ」と叫んだ。 「誰がああいうの教えたのよね」とため息をつきながら直子が言った。 「私じゃないわよ。私そういう差別用語教えたりしないもの」とレイコさんは言っ た。そしてまた猫の鳴き真似をした。オウムは黙り込んだ。 「このヒト、一度猫にひどい目にあわされたもんだから、猫が怖くって怖くってし ようがないのよ」とレイコさんは笑って言った。 掃除が終ると二人は掃除用具を置いて、それからそれぞれの餌箱に餌を入 れていった。七面鳥はぺちゃぺちゃと床にたまった水をはねかえしながらやってきて 餌箱に顔をつっこみ、直子がお尻を叩いても委細かまわず夢中で餌を貪り食べて いた。 「毎朝これをやっているの」と僕は直子に訊いた。 「そうよ、新入りの女の人はだいたいこれやるの。簡単だから。ウサギみたい」 見たい、と僕は言った。鳥小屋の裏にウサギ小屋があり、十匹ほどのウサギ がワラの中に寝ていた。彼女はほうきで糞をあつめ、餌箱に餌を入れてから、子ウ サギを抱きあげ頬ずりした。 「可愛いでしょう?」と直子は楽しそうに言った。そして僕にウサギを抱かせてく れた。そのあたたかい小さいなかたまりは僕の腕の中でじっと身をすくめ、耳をぴくぴ くと震わせていた。 「大丈夫よ。この人怖くないわよ」と直子は言って指でウサギの頭を撫で、僕 の顔を見てにっこりと笑った。何のかげりもない眩しいような笑顔だったので、僕も 思わず笑わないわけにはいかなかった。そして昨夜の直子はいったいなんだったん だろうと思った。あれは間違いなく本物の直子だった、夢なんかじゃない――彼女 はたしかに僕の前で服を脱いで裸になったんだ、と。 レイコさんは『プラウド・メアリ』を口笛できれいに吹きながらごみを集め、ビニー
ルのゴミ袋に入れてそのくちを結んだ。僕は掃除用具と餌の袋を納屋に運ぶのを 手伝った。 「朝っていちばん好きよ」と直子は言った。「何もかも最初からまた新しく始ま るみたいでね。だからお昼の時間が来ると哀しいの。夕方がいちばん嫌。毎日毎 日そんな風に思って暮らしてるの」 「そうして、そう思ってるうちにあなたたちも私みたいに年をとるのよ。朝が来て 夜が来てなんて思っているうちにね」と楽しそうにレイコさんは言った。「すぐよ、そん なの」 「でもレイコさんは楽しんで年とってるように見えるけれど」と直子が言った。 「年をとるのが楽しいと思わないけど、今更もう一度若くなりたいとは思わない わね」とレイコさんは言った。 「どうしてですか」と僕は訊いた。 「面倒臭いからよ。決まってんじゃない」とレイコさんは答えた。そして『プラウ ド・メアリ』を吹きつづけながらほうきを納屋に放りこみ、戸を閉めた。 部屋に戻ると彼女たちはゴム長靴を脱いで普通の運動靴にはきかえ、これ から農場に行ってくると言った。あまる見ていて面白い仕事でもないし、他の人た ちとの共同作業だからあなたはここに残って本でも読んでいた方がいいでしょうとレ イコさんは言った。 「それから洗面所に私たちの汚れた下着がバケツにいっぱいあるから洗っとい てくれる」とレイコさんが言った。 「冗談でしょう」と僕はびっくりして訊きかえした。 「あたり前じゃない」とレイコさんは笑っていった。「冗談に決ってるでしょう、そ んなこと。あなたってかわいいわねえ。そう思わない、直子」 「そうねえ」と直子も笑って同意した。 「ドイツ語やってますよ」と僕はため息をついて言った。 「いい子ね、お昼前には戻ってくるからちゃんと勉強してるのよ」とレイコさんは 言った。そして二人はクスクス笑いながら部屋を出で行った。何人かの人々が窓 の下を通り過ぎていく足音や話し声が聞こえた。 僕は洗面所に入ってもう一度顔を洗い。爪切りを借りて手の爪を切った。二 人の女性が住んでいるにしてはひどくさっぱりとした洗面所だった。化粧クリームや リップ・クリームや日焼けどめやローションといったものがぱらぱらと並んでいるだけ で、化粧品らしいものは殆んどなかった。爪を切ってしまうと僕は台所でコーヒ ーを 入れ、テーブルの前に座ってそれを飲みながらドイツ語の教科書を広げた。台所 の日だまりの中でシャツ一枚になってドイツ語の文法表を片端から暗記している と、何だかふと不思議な気持になった。ドイツ語の不規則動詞とこの台所のテーブ ルはおよそ考えられる限りの遠い距離によって隔てられているような気がしたから だ。
十一時半に農場から二人は帰ってきて順番にシャワーに入り、さっぱりした 服に着がえた。そして三人で食堂に行って昼食をとり、そのあとで門まで歩いた。 門衛小屋には今度はちゃんと門番がいて、食堂から運ばれてきたらしい昼食を机 の前で美味しそうに食べていた。棚の上のトランジスタ・ラジオからは歌謡曲が流 れていた。僕らが歩いていくと彼はやあと手をあげてあいさつし、僕らも「こんにち は」と言った。 これから三人で外を散歩してくる、三時間くらいで戻ってくると思う、とレイコさ んが言った。 「ええ、どうぞ、どうぞ、ええ天気ですもんな。谷沿いの道はこないだの雨で崩 れとるんで危ないですが、それ以外なら大丈夫、問題ないです」と門番は言った。 レイコさんは外出者リストのような用紙に直子と自分の名前と外出日時を記入し た。 「気ィつけていってらしゃい」と門番は言った。 「親切そうな人ですね」と僕は言った。 「あの人ちょっとここおかしいのよ」とレイコさんは言って指の先で頭を押えた。 いずれにせよ門番の言うとおり実に良い天気だった。空は抜けるように青く、 細くかすれた雲がまるでペンキのためし塗りでもしたみたいに天頂にすうっと白くこび りついていた。我々はしばらく「阿美寮」の低い石塀に沿って歩き、それから塀を離 れて、道幅の狭い急な坂道を一列になって上った。先頭がレイコさんで、まん中が 直子で、最後は僕だった。レイコさんはこのへんの山のことなら隅から隅まで知って いるといったしっかりした歩調でその細い坂道を上って行った。我々は殆んど口をき かずにただひたすら歩を運んだ。直子はブルージーンズと白いシャツという格好で、 上着を脱いで手に持っていた。僕は彼女のまっすぐな髪が肩口で左右に揺れる 様を眺めながら歩いた。直子はときどきうしろを振り向き、僕と目を合うと微笑ん だ。上り道は気が遠くなるくらい長くつづいたが、レイコさんの歩調はまったく崩れな かったし、直子もときどき汗を拭きながら遅れることなくそのあとをついて行った。僕 は山のぼりなんてしばらくしていないせいで息が切れた。 「いつもこういう山のぼりしてるの」と僕は直子に訊いてみた。 「週に一回くらいかな」と直子は答えた。「きついでしょ、けっこう」 「いささか」と僕は言った。 「三分の二はきたからもう少しよ。あなた男の子でしょうしっかりしなくちゃ」とレ イコさんが言った。 「運動不足なんですよ」 「女の子と遊んでばかりいるからよ」と直子が一人ごとみたいに言った。 僕は何か言いかえそうとしたが、息が切れて言葉がうまく出てこなかった。時 折目の前を頭に羽根かざりにようなものをつけた赤い鳥が横ぎっていた。青い空を 背景に飛ぶ彼らの姿はいかにも鮮やかだった。まわりの草原には白や青や黄色の
無数の花が咲き乱れ、いたるところに蜂の羽音が聞こえた。僕はまわりのそんな風 景を眺めながらもう何も考えずにただ一歩一歩足を前に運んだ。 それから十分ほどで坂道は終り、高原のようになった平坦な場所に出た。 我々はそこで一服して汗を拭き、息と整え、水筒の水を飲んだ。レイコさんは何か の葉っぱをみつけてきて、それで笛を作って吹いた。 道はなだらかな下りになり、両側にはすすきの穂が高くおい茂っていた。十五 分ばかり歩いたところで我々は集落を通り過ぎたが、そこには人の姿はなく十二 軒か十三軒の家は全て廃屋と化していた。家のまわりには腰の高さほど草が茂 り、壁にあいた穴には鳩の糞がまっ白に乾いてこびりついていた。ある家は柱だけを 残してすっかり崩れ落ちていたが、中には雨戸を開ければ今すぐにでも住みつけそ うなものもあった。我々は死に絶えて無言の家々にはさまれた道を抜けた。 「ほんの七、八年前まで、ここには何人か人が住んでたのよ」とレイコさんが教 えてくれた。「まわりもずっと畑でね。でももうみんな出て行っちゃったわ。生活が厳 しすぎるのよ。冬は雪がつもって身動きつかなくなるし、それほど土地が肥えている わけじゃないしね。町に出て働いた方がお金になるのよ」 「もったいないですね。まだ十分使える家もあるのに」と僕は言った。 「一時ヒッピーが住んでたこともあるんだけど、冬に音を上げて出て行ったわ よ」 集落を抜けてしばらく先に進むと垣根にまわりを囲まれた放牧場のようなもの があり、遠くの方に馬が何頭か草を食べているのが見えた。垣根に沿って歩いてい くと、大きな犬が尻尾をばたばたと振りながら走ってきて、レイコさんにのしかかるよ うにして顔の匂いをかぎ、そのれから直子にとびかかってじゃれついた。僕が口笛を 吹くとやってきて、長い舌でべろべろと僕の手を舐めた。 「牧場の犬なのよ」と直子が犬の頭を撫でながら言った。「もう二十歳近くに なっているじゃないかしら、歯が弱ってるから固いものは殆んど食べれないの。いつ もお店の前で寝てて人の足音が聞こえるととんできて甘えるの」 レイコさんがナップザックからチーズの切れはしをとりだすと、犬は匂いを嗅ぎつ けてそちらにとんでいき、嬉しそうにチーズにかぶりついた。 「この子と会えるのももう少しなのよ」とレイコさんは犬の頭を叩きながら言っ た。「十月半ばになると馬と牛をトラックにのせて下の方の牧舎につれていっちゃう のよ。夏場だけここで放牧して、草を食べさせて、観光客相手に小さなコーヒ ー・ ハウスのようなものを開けてるの。観光客ったって、ハイカーが一日二十人くるかこ ないかってくらいのものだけどね。あなた何か飲みたくない、どう」 「いいですね」と僕は言った。 犬が先に立って我々をそのコーヒ ー・ハウスまで案内した。正面にポーチのあ る白いペンキ塗りの小さな建物で、コーヒ ー・カップのかたちをした色褪せた看板が 軒から下がっていた。犬は先に立ってポーチに上り、ごろんと寝転んで目を細めた。
僕らがポーチのテーブルに座ると中からトレーナー・シャツとホワイト・ジーンズという 格好の髪をポニー・テールにした女の子が出てきて、レイコさんと直子に親しい気に あいさつした。 「この人直子のお友だち」とレイコさんが僕に紹介した。 「こんにちは」とその女の子は言った。 「こんにちは」と僕も言った。 三人の女性がひとしきり世間話をしているあいだ、僕はテーブルの下の犬の 首を撫でていた。犬の首はたしかに年老いて固く筋張っていた。その固いところを ぼりぼりと掻いてやると、犬は気持良さそうに目をつぶってはあはあと息をした。 「名前はなんていうの」と僕は店の女の子に訪ねた。 「ぺぺ」と彼女は言った。 「ぺぺ」と僕は呼んでみたが、犬はびくりとも反応しなかった。 「耳遠いから、もっと大きな声で呼ばんと聞こえへんよ」と女の子は京都弁で 言った。 「ペペッ」と僕は大きな声で呼ぶと、犬は目を開けてすくっと身を起こし、ワンッ と吠えた。 「よしよし、もうええからゆっくり寝て長生きしなさい」と女の子が言うと、ぺぺは また僕の足もとにごろんと寝転んだ。 直子とレイコさんはアイス・ミルクを注文し、僕はビールを注文した。レイコさん は女の子にFMをつけてよと言って、女の子はアンプのスイッチを入れてFM放送を つけた。プラット・スウェット・アンド・ティアーズが『スピニング・ホイール』を唄っている のが聴こえた。 「私、実を言うとFMが聴きたくてここに来てんのよ」とレイコさんは満足そうに 言った。「何しろうちはラジオもないし、たまにここに来ないと今世間でどんな音楽 かかってるのかわかんなくなっちゃうのよ」 「ずっとここに泊ってるの」と僕は女の子に聴いてみた。 「まさか」と女の子は笑って答えた。「こんなところに夜いたら淋しくて死んでし まうわよ。夕方に牧場の人にあれで市内まで送ってもらうの。それでまた朝に出てく るの」彼女はそう言って少し離れたところにある牧場のオフィスの前に停まった四輪 駆動車を指さした。 「もうそろそろここも暇なんじゃないの」とレイコさんが訊ねた。 「まあぼちぼちおしまいやわねえ」と女の子は言った。レイコさんは煙草をさしだ し、彼女たちは二人で煙草を吸った。 「あなたいなくなると淋しいわよ」とレイコさんは言った。 「来年の五月にまた来るわよ」と女の子は笑って言った。 クリームの『ホワイト・ルーム』がかかり、コマーシャルがあって、それからサイモ ン・アンド・カーファンクルの『スカボロ・フェア』がかかった。曲が終るとレイコさんは私
この歌すきよと言った。 「この映画観ましたよ」と僕は言った。 「誰が出てるの」 「ダスティン・ホフマン」 「その人知らないわねえ」とレイコさんは哀しそうに首を振った。「世界はどんど ん変っていくのよ、私の知らないうちに」 レイコさんは女の子にギターを貸してくれないかと言った。いいわよと女の子は 言ってラジオのスイッチを切り、奥から古いギターを持ってきた。犬が顔を上げてギ ターの匂いをくんくんと嗅いだ。「食べものじゃないのよ、これ」とレイコさんが犬に言 い聞かせるように言った。草の匂いのする風がポーチを吹き抜けていった。山の稜 線がくっきりと我々の眼前に浮かび上がっていた。 「まるで『サウンド・オブ・ミュージック』のシーンみたいですね」と僕は調弦をして いるレイコさんに言った。 「何よ、それ」彼女は言った。 彼女は『スカボロ・フェア』の出だしのコードを弾いた。楽譜なしではじめて弾く らしく最初のうちは正確なコードを見つけるのにとまどっていたが、何度か試行錯 誤をくりかえしているうちに彼女はある種の流れのようなものを捉え、全曲をとおし て弾けるようになった。そして三度目にはところどころ装飾音を入れてすんなりと弾 けるようになった。「勘がいいのよ」とレイコさんは僕に向ってウインクして、指で自分 の頭を指した。「三度聴くと、楽譜がなくてもだいたいの曲は弾けるの」 彼女はメロディーを小さくハミングしながら『スカボロ・フェア』を最後まできちん と弾いた。僕らは三人で拍手をし、レイコさんは丁寧に頭を下げた。 「昔モーツァルトのコンチェルト弾いたときはもっと拍手が大きかったわね」と彼 女は言った。 店の女の子が、もしビートルズの『ヒア・カムズ・ザ・サン』を弾いてくれたらアイ ス・ミルクのぶん店のおごりにするわよと言った。レイコさんは親指をあげてOKのサイ ンを出した。それから歌詞を唄いながら『ヒア・カムズ・ザ・サン』を弾いた。あまり声 量がなく、おそらくは煙草の吸いすぎのせいでいくぶんかすれていたけれど、存在感 のある素敵な声だった。ビールを飲みながら山を眺め、彼女の唄を聴いていると、 本当にそこから太陽がもう一度顔をのぞかせそうな気がしてきた。それはとてもあた たかいやさしい気持だった。 『ヒア・カムズ・ザ・サン』を唄い終ると、レイコさんはギターを女の子に返し、ま たFM放送をつけてくれと言った。そして僕と直子に二人でこのあたりを一時間ばか り歩いていらっしゃいよと言った。 「私、ここでラジオ聴いて彼女とおしゃべりしてるから、三時までに戻ってくれ ば、それでいいわよ」 「そんなに長く二人きりになっちゃってかまわないんですか」と僕は訊いた。
「本当はいけないんだけど、まあいいじゃない。私だってつきそいばあさんじゃな いんだから少しはのんびりしたいわよ、一人で。それにせっかく遠くから来たんだから つもる話もあるんでしょう」とレイコさんは新しい煙草に火をつけながら言った。 「行きましょうよ」と直子が言って立ち上がった。 僕も立ち上がって直子のあとを追った。犬が目をさましてしばらく我々のあとを ついてきたが、そのうちにあきらめてもとの場所に戻っていた。我々は牧場の柵に 沿って平坦な道をのんびりと歩いた。ときどき直子は僕の手を握ったり、腕をくんだ りした。 「こんな風にしてるとなんだか昔みたいじゃない」と直子は言った。 「あれは昔じゃないよ。今年の春だぜ」と僕は笑って言った。「今年の春までそ うしてたんだ。あれが昔だったら十年前は古代史になっちゃうよ」 「古代史みたいなものよ」と直子は言った。「でも昨日ごめんなさい。なんだか 神経がたかぶっちゃって。せっかくあなたが来てくれたのに、悪かったわ」 「かまわないよ。たぶんいろんな感情をもっともっと外に出し方がいいんだと思 うね、君も僕も。だからもし誰かにそういう感情をぶっつけたいんなら、僕にぶっつけ ればいい。そうすればもっとお互いを理解できる」 「私を理解して、それでそうなるの」 「ねえ、君はわかってない」と僕は言った。「どうなるかといった問題ではないん だよ、これは。世の中には時刻表を調べるのが好きで一日中時刻表読んでいる 人がいる。あるいはマッチ棒をつなぎあわせて長さ一メートルの船を作ろうとする人 だっている。だから世の中に君のことを理解しようとする人間が一人くらいいたって おかしくないだろう」 「趣味のようなものかしら」と直子はおかしそうに言った。 「趣味と言えば言えなくもないね。一般的に頭のまともな人はそういうのを好 意とか愛情とかいう名前で呼ぶけれど、君は趣味って呼びたいんならそう呼べばい い」 「ねえ、ワタナベ君」と直子が言った。「あなたキズキ君のことも好きだったんで しょう」 「もちろん」と僕は答えた。 「レイコさんはどう」 「あの人も大好きだよ。いい人だね」 「ねえ、どうしてあなたそういう人たちばかり好きになるの」と直子は言った。 「私たちみんなどこかでねじまがって、よじれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでい く人間なのよ。私もキズキ君もレイコさんも。みんなそうよ。どうしてもっとまともな人 を好きにならないの」 「それは僕にはそう思えないからだよ」僕は少し考えてからそう答えた。「君や キズキやレイコさんがねじまがってるとはどうしても思えないんだ。ねじまがっていると
僕が感じる連中はみんな元気に外で歩きまわってるよ」 「でも私たちねじまがってるのよ。私にはわかるの」と直子は言った。 我々はしばらく無言で歩いた。道は牧場の柵を離れ、小さな湖のようにまわ りを林に囲まれた丸いかたちの草原に出た。 「ときどき夜中に目が覚めて、たまらなく怖くなるの」と直子は僕の腕に体を寄 せながら言った。「こんな風にねじ曲ったまま二度ともとに戻れないと、このままここ で年をとって朽ち果てていくんじゃないかって。そう思うと、体の芯まで凍りついたよう になっちゃうの。ひどいのよ。辛くて、冷たくて」 僕は直子の肩に手をまわして抱き寄せた。 「まるでキズキ君が暗いところから手をのばして私を求めてるような気がする の。おいナオコ、俺たち離れられないんだぞって。そう言われると私、本当にどうしよ うもなくなっちゃうの」 「そういうときはどうするの」 「ねえ、ワタナベ君、変に思わないでね」 「思わないよ」と僕は言った。 「レイコさんに抱いてもらうの」と直子は言った。「レイコさんを起こして、彼女の ベッドにもぐりこんで、抱きしめてもらうの。そして泣くのよ。彼女は私の体を撫でてく れるの。体の芯があたたまるまで。こういうのって変」 「変じゃないよ。レイコさんのかわりに僕が抱きしめてあげたいと思うだけど」 「今、抱いて、ここで」と直子は言った。 我々は草原の乾いた草の上に腰を下ろして抱き合った。腰を下ろすと我々 の体は草の中にすっぽりと隠れ、空と雲の他には何も見えなくなってしまった。僕は 直子の体をゆっくりと草の上に倒し、抱きしめた。直子の体はやわらかくあたたか で、その手は僕の体を求めていた。僕と直子は心のこもった口づけをした。 「ねえ、ワタナベ君」と僕の耳もとで直子が言った。 「うん」 「私と寝たい」 「もちろん」と僕は言った。 「でも待てる」 「もちろん待てる」 「そうする前に私、もう少し自分のことをきちんとしたいの。きちんとして、あな たの趣味にふさわしい人間になりたいのよ。それまで待ってくれるの」 「もちろん待つよ」 「今固くなってる」 「足の裏のこと」 「馬鹿ねえ」とくすくす笑いながら直子は言った。 「勃起してるかということなら、してるよ、もちろん」
「ねえ、そのもちろんっていうのやめてくれる」 「いいよ、やめる」と僕は言った。 「そういうのってつらい」 「何が」 「固くなってることが」 「つらい」と僕は訊きかえした。 「つまり、その......苦しいかっていうこと」 「考えようによってはね」 「出してあげようか」 「手で」 「そう」と直子は言った。「正直言うとさっきからそれすごくゴツゴツしてて痛いの よ」 僕は少し体をずらせた。「これでいい」 「ありがとう」 「ねえ、直子」と僕は言った。 「なあに」 「やってほしい」 「いいわよ」と直子はにっこりと微笑んで言った。そして僕のズボンのジッパーを 外し、固くなったペニスを手に握った。 「あたたかい」と直子は言った。 直子が手を動かそうとするのを僕は止めて。彼女のブラウスのボタンを外し、 背中に手をまわしてブラジャーのホックを外した。そしてやわらかいピンク色の乳房 にそっと唇をつけた。直子は目を閉じ、それからゆっくりと指を動かしはじめた。 「なかなか上手いじゃない」と僕は言った。 「いい子だから黙っていてよ」と直子が言った。 射精が終ると僕はやさしく彼女を抱き、もう一度口づけした。そして直子はブ ラジャーとブラウスをもとどおりにし、僕はズボンのジッパーをあげた。 「これで少し楽に歩けるようになった」と直子が訊いた。 「おかげさまで」と僕は答えた。 「じゃあよろしかったらもう少し歩きません」 「いいですよ」と僕は言った。 僕らは草原を抜け、雑木林を抜け、また草原を抜けた。そして歩きながら直 子は死んだ姉の話をした。このことは今まで殆んど誰にも話したことはないのだけ れど。あなたには話しておいた方がいいと思うから話すのだと彼女は言った。 「私たち年が六つ離れていたし、性格なんかもけっこう違ったんだけれど、それ でもとても仲が良かったの」と直子は言った。「喧嘩ひとつしなかったわ。本当よ。ま
あ喧嘩にならないくらいレベルに差があったということもあるんだけどね」 お姉さんは何をやらせても一番になってしまうタイプだったのだ、と直子は言っ た。勉強もいちばんならスポーツもいちばん、人望もあって指導力もあって、親切 で性格もさっぱりしているから男の子にも人気があって、先生にもかわいがられて、 表彰状が百枚もあってという女の子だった。どの公立校にも一人くらいこういう女の 子がいる。でも自分のお姉さんだから言うわけじゃないんだけれど、そういうことでス ボイルされて、つんつんしたり鼻にかけたりするような人ではなかったし、派手に人 目をつくのを好む人でもなかった、ただ何をやらせても自然に一番になってしまうだ けだったのだ、と。 「それで私、小さい頃から可愛い女の子になってやろうと決心したの」と直子 はすすきの穂をくるくると回しながら言った。「だってそうでしょう、ずっとまわりの人が お姉さんがいかに頭が良くて、スポーツができて、人望もあってなんて話してるの聞 いて育ったんですもの。どう転んだってあの人には勝てないと思うわよ。それにまあ 顔だけとれば私の方が少しきれいだったから、親の方も私は可愛く育てようと思っ たみたいね。だからあんな学校に小学校からいれられちゃったのよ。ベルベットのワ ンピースとかフリルのついたブラウスとかエナメルの靴とか、ピアノやバレエのレッスンと かね。でもおかげでお姉さんは私のことすごく可愛がってくれたわ、可愛い小さな 妹って風にね。こまごまとしたもの買ってプレゼントしてくれたし、いろんなところにつ れていってくれたり、勉強みてくれたり。ボーイ・フレンドとデートするとき私も一緒に つれてってくれたりもしたのよ。とても素敵なお姉さんだったわ。 彼女がどうして自殺しちゃったのか、誰にもその理由はわからなかったの。キズ キ君のときと同じようにね。全く同じなのよ。年も十七で、その直前まで自殺するよ うな素振りはなくて、遺書もなくて――同じでしょう」 「そうだね」と僕は言った。 「みんなはあの子は頭が良すぎたんだとか本を読みすぎたんだとか言ってた わ。まあたしかに本はよく読んでいたわね。いっぱ本を持ってて、私はお姉さんが死 んだあとでずいぶんそれ読んだんだけど、哀しかったわ。書きこみしてあったり、押し 花がはさんであったり、ボーイ・フレンドの手紙がはさんであったり。そういうので私、 何度も泣いたのよ」 直子はしばらくまた黙ってすすきの穂をまわしていた。 「大抵のことは自分一人で処理しちゃう人だったのよ。誰かに相談したり、助 けを求めたりということはまずないの。べつにプライドが高くてというじゃないのよ。ただ そうするのが当然だと思ってそうしていたのね、たぶん。そして両親もそれに馴れ ちゃってて、この子は放っておいても大丈夫って思ってたのね。私はよくお姉さんに 相談したし、彼女はとても親切にいろんなこと教えてくれるんだけど、自分は誰に も相談しないの。一人で片づけちゃうの。怒ることもないし、不機嫌になることもな いの。本当よこれ。誇張じゃなくて。女の人って、たとえば生理になったりするとム
シャクシャして人にあたったりするでしょ、多かれ少なかれ。そういうのもないの。彼 女の場合は不機嫌になるかわりに沈みこんでしまうの。二ヶ月か三ヶ月に一度くら いそういうのが来て、二日くらいずっと自分の部屋に籠って寝てるの。学校も休ん で、物も殆んど食べないで。部屋を暗くして、何もしないでボオッとしてるの。でも 不機嫌というじゃないのよ。私が学校から戻ると部屋に呼んで、隣りに座らせて、 私のその日いちにちのことを聞くの。たいした話じゃないのよ。友だちと何をして遊ん だとか、先生がこう言ったとか、テストの成績がどうだったとか、そんな話よ。そしてそ ういうのを熱心に聞いて感想を言ったり、忠告を与えたりしてくれるの。でも私がい なくなると――たとえばお友だちと遊ぶに行ったり、バレエのレッスンに出かけたりす ると――また一人でボオッとしてるの。そして二日くらい経つとそれがバタッと自然に なおって元気に学校に行くの。そういうのが、そうねえ、四年くらいつづいたんじゃな いかしら。はじめのうちは両親も気にしてお医者に相談していたらしいんだけれど、 なにしろ二日たてばケロッとしちゃうわけでしょ、だからまあ放っておけばそのうちなん とかなるだろうって思うようになったのね。頭の良いしっかりした子だしってね。 でもお姉さんが死んだあとで、私、両親の話を立ち聞きしたことあるの。ずっと 前に死んじゃった父の弟の話。その人もすごく頭がよかったんだけれど、十七から 二十一まで四年間家の中に閉じこもって、結局ある日突然外に出てって電車に とびこんじゃったんだって。それでお父さんこういったのよ。『やはり血筋なのかなあ、 俺の方の』って」 直子は話しながら無意識に指先ですすきの穂をほぐし、風にちらせていた。 全部ほぐしてしまうと、彼女はそれをひもみたいにぐるぐると指に巻きつけた。 「お姉さんが死んでるのを見つけたのは私なの」と直子はつづけた。「小学校 六年生の秋よ。十一月。雨が降って、どんより暗い一日だったわ。そのときお姉さ んは高校三年生だったわ。私がピアノのレッスンから戻ってくると六時半で、お母さ んが夕食の支度していて、もうごはんだからお姉さん呼んできてって言ったの。私は 二階に上って、お姉さんの部屋のドアをノックしてごはんよってどなったの。でもね、 返事がなくて、しんとしてるの。寝ちゃったのかしらと思ってね。でもお姉さんは寝て なかったわ。窓辺に立って、首を少しこう斜めに曲げて、外をじっと眺めていたの。 まるで考えごとをしてるみたいに。部屋は暗くて、電灯もついてなくて、何もかもぼ んやりとしか見えなかったのよ。私は『ねえ何してるのもうごはんよ』って声かけたの。 でもそういってから彼女の背がいつもより高くなってることに気づいたの。それで、あ れどうしたんだろうってちょっと不思議に思ったの。ハイヒールはいてるのか、それとも 何かの台の上に乗ってるのかしらって、そして近づいていって声をかけようとした時に はっと気がついたのよ。首の上にひもがついていることにね。天井のはりからまっすぐ にひもが下っていて――それがね、本当にびっくりするくらいまっすぐなのよ、まるで 定規を使って空間にピッと線を引いたみたいに。お姉さんは白いブラウス着ていて ―― そう、ちょうど今私が着てるようなシンプルなの――グレーのスカートはいて、
足の先がバレエの爪立てみたいにキュッとのびていて、床と足の指先のあいだに二 十センチくらいの何もない空間があいてたの。私、そういうのをこと細かに全部見 ちゃったのよ。顔も。顔も見ちゃったの。見ないわけには行かなかったのよ。私すぐ 下に行ってお母さんに知らせなくちゃ、叫ばなくちゃと思ったわ。でも体の方が言うこ とをきかないのよ。私の意識とは別に勝手に体の方が動いちゃうのよ。私の意識は 早く下にいかなきゃと思っているのに、体の方は勝手にお姉さんの体をひもから外 そうとしているのよ。でももちろんそんなこと子供の力でできるわけないし、私そこで 五、六分ぼおっとしていたと思うの、放心状態で。何が何やらわけがわからなくて。 体の中の何かが死んでしまったみたいで。お母さんが『何してるのよ?』って見に来る まで、ずっと私そこにいたのよ、お姉さんと一緒に。その暗くて冷たいところに......」 直子は首を振った。 「それから三日間、私はひとことも口がきけなかったの。ベッドの中で死んだみ たいに、目だけ開けてじっとしていて。何がなんだか全然わからなくて」直子は僕の 腕に身を寄せた。「手紙に書いたでしょ私はあなたが考えているよりずっと不完全 な人間なんだって。あなたが思っているより私はずっと病んでいるし、その根はずっと 深いのよ。だからもし先に行けるものならあなた一人で先に行っちゃってほしいの。 私を待たないで。他の女の子と寝たいのなら寝て。私のことを考えて遠慮したりし ないで、どんどん自分の好きなことをして。そうしないと私はあなたを道づれにしちゃ うかもしれないし、私、たとえ何があってもそれだけはしたくないのよ。あなたの人生 の邪魔をしたくないの。誰の人生の邪魔もしたくないの。さっきも言ったようにときど き会いに来て、そして私のことをいつまでも覚えていて。私が望むのはそれだけなの よ」 「僕は望むのはそれだけじゃないよ」と僕は言った。 「でも私とかかわりあうことであなたは自分の人生を無駄にしてるわよ」 「僕は何も無駄になんかしてない」 「だって私は永遠に回復しないかもしれないのよ。それでもあなたは私を待つ の十年も二十年も私を待つことができるの」 「君は怯えすぎてるんだ」と僕は言った。「暗闇やら辛い夢うやら死んだ人たち の力やらに。君がやらなくちゃいけないのはそれを忘れることだし、それさえ忘れれ ば君はきっと回復するよ」 「忘れることができればね」と直子は首を振りながら言った。 「ここを出ることができたら一緒に暮らさないか」と僕は言った。「そうすれば君 を暗闇やら夢やらから守ってあげることができるし、レイコさんがいなくてもつらくなっ たときに君を抱いてあげられる」 直子は僕の腕にもっとぴったりと身を寄せた。そうすることができたら素敵で しょうね」と直子は言った。
我々がコーヒ ー・ハウスに戻ったのは三時少し前だった。レイコさんは本を読 みながらFM放送でブラームスの二番のピアノ協奏曲を聴いていた。見わたす限り 人影のない草原の端っこでブラームスがかかっているというのもなかなか素敵なもの だった。三楽章のチェロの出だしのメロディーを彼女は口笛でなぞっていた。 「バックハウスとベーム」とレイコさんは言った。「昔はこのレコードをすれきれるく らい聴いたわ。本当にするきれっちゃたのよ。隅から隅まで聴いたの。なめつくすよう にね」 僕と直子は熱いコーヒーを注文した。 「お話はできた」とレイコさんは直子に訊ねた。 「ええ、すごくたくさん」と直子は言った。 「あとで詳しく教えてね、彼のがどんなだったか」 「そんなこと何もしてないわよ」と直子が赤くなって言った。 「本当に何もしてないの」とレイコさんは僕に訊いた。 「してませんよ」 「つまんないわねえ」とレイコさんはつまらなそうに言った。 「そうですね」と僕はコーヒ ーをすすりながら言った。 夕食の光景は昨日とだいたい同じだった。雰囲気も話し声も人々の顔つき も昨日そのままで、メニューだけが違っていた。昨日無重力状態での胃液の分泌 について話していた白衣の男が僕ら三人のテーブルに加わって、脳の大きさとその 能力の相関関係についてずっと話していた。僕らは大豆のハンバーグ・ステーキと いうのを食べながら、ビスマルクやナポレオンの脳の容量についての話を聞かされて いた。彼は皿をわきに押しやって、メモ用紙にボールペンで脳の絵を描いてくれた。 そして何度も「いやちょっと違うな、これ」と言っては描きなおした。そして描き終わる と大事そうにメモ用紙を白衣のポケットにしまい、ボールペンを胸のポケットにさし た。胸のポケットにはボールペンが三本と鉛筆と定規が入っていた。そして食べ終 ると「ここの冬はいいですよ。この次は是非冬にいらっしゃい」と昨日と同じことを 言って去っていた。 「あの人は医者なんですか、それとも患者さんですか」と僕はレイコさんに訊い てみた。 「どっちだと思う」 「どちらか全然見当がつかないですね。いずれにせよあまりまともには見えな いけど」 「お医者よ。宮田先生っていうの」と直子が言った。 「でもあの人この近所じゃいちばん頭がおかしいわよ。賭けてもいいけど」とレ イコさんが言った。 「門番の大村さんだって相当狂ってるわよねえ」と直子が言った。
「うん、あの人狂ってる」とレイコさんがブロッコリーをフォークでつきさしながら肯 いた。 「だって毎朝なんだかわけのわからないこと叫びながら無茶苦茶な体操してる もの。それから直子の入ってくる前に木下さんっていう経理の女の子がいて、この 人はノイローゼで自殺未遂したし、徳島っていう看護人は去年アルコール中毒が ひどくなってやめさせられたし」 「患者とスタッフを全部入れかえてもいいくらいですね」と僕は感心して言っ た。 「まったくそのとおり」とレイコさんはフォークをひらひらと振りながら言った。「あな たもだんだん世の中のしくみがわかってきたみたいじゃない」 「みたいですね」と僕は言った。 「私たちがまとな点は」とレイコさんは言った。「自分たちがまともじゃないってか わっていることよね」 部屋に戻って僕と直子は二人でトランプ遊びをし、そのあいだレイコさんはま たギターを抱えてバッハの練習をしていた。 「明日は何時に帰るの」とレイコさんが手を休めて煙草に火をつけながら僕に 訊いた。 「朝食を食べたら出ます。九時すぎにバスが来るし、それなら夕方のアルバイ トをすっぽかさずにすむし」 「残念ねえ、もう少しゆっくりしていけばいいのに」 「そんなことしてたら、僕もずっとここにいついちゃいそうですよ」と僕は笑って 言った。 「ま、そうね」とレイコさんは言った。それから直子に「そうだ、岡さんのところに 行って葡萄もらってこなくっちゃ。すっかり忘れてた」と言った。 「一緒に行きましょうか」と直子が言った。 「なあ、ワタナベ君借りていっていいかしら」 「いいわよ」 「じゃ、また二人で夜の散歩に行きましょう」とレイコさんは僕の手をとって言っ た。「昨日はもう少しってとこまでだったから、今夜はきちんと最後までやっちゃいま しょうね」 「いいわよ、どうぞお好きに」と直子はくすくす笑いながら言った。 風が冷たかったのでレイコさんはシャツの上に淡いブルーのカーディガンを着て 両手をズボンのポケットにつっこんでいた。彼女は歩きながら空を見上げ、犬みた いにくんくんと匂いを嗅いだ。そして「雨の匂いがするわね」と言った。僕も同じように 匂いを嗅いでみたが何の匂いもしなかった。空にはたしかに雲が多くなり、月もその 背後に隠されてしまっていた。
「ここに長くいると空気の匂いでだいたいの天気がわかるのよ」とレイコさんは 言った。 スタッフの住宅がある雑木林に入るとレイコさんはちょっと待っててくれと言って 一人で一軒の家の前に行ってベルを押した。奥さんらしい女性が出てきてレイコさ んと立ち話をし、クスクス笑いそれから中に入って今度は大きなビニール袋を持って 出てきた。レイコさんは彼女にありがとう、おやすみなさいと言って僕の方に戻ってき た。 「ほら葡萄もらってきたわよ」とレイコさんはビニール袋の中を見せてくれた。袋 の中にはずいぶん沢山の葡萄の房が入っていた。 「葡萄好き」 「好きですよ」と僕は言った。 彼女はいちばん上の一房をとって僕に手わたしてくれた。「それ洗ってあるから 食べられるわよ」 僕は歩きながら葡萄を食べ、皮と種を地面に吹いて捨てた。瑞々しい味の 葡萄だった。レイコさんも自分のぶんを食べた。 「あそこの家の男の子にピアノをちょこちょこ教えてあげているの。そのお礼がわ りにいろんなものくれるのよ、あの人たち。このあいだのワインもそうだし。市内で ちょっとした買物もしてきてもらえるしね」 「昨日の話のつづきが聞きたいですね」と僕は言った。 「いいわよ」とレイコさんは言った。「でも毎晩帰りが遅くなると直子が私たちの 仲を疑いはじめるんじゃないかしら」 「たとえそうなったとしても話のつづきを聞きたいですね」 「OK、じゃあ屋根のあるところで話しましょう。今日はいささか冷えるから」 彼女はテニス・コートの手前を左に折れ、狭い階段を下り、小さな倉庫が長 屋のような格好でいくつか並んでいるところに出た。そしてそのいちばん手前の小屋 の扉を開け、中に入って電灯のスイッチを入れた。「入りなさいよ。何もないところ だけれど」 倉庫の中にはクロス・カントリー用のスキー板とストックと靴がきちんと揃えられ て並び、床には雪かきの道具や除雪用の薬品などが積み上げられていた。 「昔はよくここにきてギターの練習したわ。一人になりたいときにはね。こぢんま りしていいところでしょう」 レイコさんは薬品の袋の上に腰をおろし、僕にも隣りに座れと言った。僕は言 われたとおりにした。 「少し煙がこもるけど、煙草吸っていいかしらね」 「いいですよ、どうぞ」と僕は言った。 「やめられないのよね、これだけは」とレイコさんは顔をしかめながら言った。そ しておいしそうに煙草を吸った。これくらおいしいそうに煙草を吸う人はちょっといな
い。僕は一粒 一粒丁寧に葡萄を食べ、皮と種をゴミ箱がわりに使われているブリ キ缶に捨てた。 「昨日はどこまで話したっけ」とレイコさんは言った。 「嵐の夜に岩つばめの巣をとりに険しい崖をのぼっていくところまでですね」と 僕は言った。 「あなたって真剣な顔して冗談言うからおかしいわねえ」とレイコさんはあきれ たように言った。「毎週土曜日の朝にその女の子にピアノを教えたっていうところま でだったわよね、たしか」 「そうです」 「世の中の人を他人に物を教えるのが得意と不得意な人にわけるとしたら私 はたぶん前の方に入ると思うの」とレイコさんは言った。「若い頃はそう思わなかった けれど。まあそう思いたくないというのもあったんでしょうね、ある程度の年になって自 分に見きわめみたいなのがついてから、そう思うようになったの。自分は他人に物を 教えるのが上手いんだってね。私、本当に上手いのよ」 「そう思います」と僕は同意した。 「私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づよいし、自分 自身に対するよりは他人に対する方が物事の良い面を引きだしやすいの。私はそ ういうタイプの人間なのよ。マッチ箱のわきについているザラザラしたやつみたいな存 在なのよ、要するに。でもいいのよ、それでべつに。そういうの私とくに嫌なわけじゃ ないもの。私、二流のマッチ棒よりは一流のマッチ箱の方が好きよ。はっきりとそう 思うようになったのは、そうね、その女の子を教えるようになってからね。それまでもっ と若い頃にアルバイトで何人か教えたことあるけど、そのときはべつにそんなこと思わ なかったわ。その子を教えてはじめてそう思ったの。あれ、私はこんなに人に物を教 えるのが得意だったっけてね。それくらいレッスンはうまくいったの。 昨日も言ったようにテクニックという点ではその子のピアノはたいしたことない し、音楽の専門家になろうっていうんでもないし、私としても余計のんびりやれたわ けよ。それに彼女の通っていた学校はまずまずの成績をとっていれば大学までエス カレート式に上っていける女子校で、それほどがつがつ勉強する必要もなかったか らお母さんの方だって『のんびりとおけいこ事でもして』ってなものよ。だから私もその 子にああしろこうしろって押しつけなかったわ。押しつけられるのは嫌な子なんだなっ て最初会ったときに思ったから。口では愛想良くはいはいっていうけれど、絶対に自 分のやりたいことしかやらない子なのよ。だからね、まずその子に自分の好きなよう に弾かせるの。百パーセント好きなように。次に私がその同じ曲をいろんなやり方 で弾いて見せるの。そして二人でどの弾き方が良いだとか好きだとか討論するの。 それからその子にもう一度弾かせるの。すると前より演奏が数段良くなってるのよ。 良いところを見抜いてちゃんと取っちゃうわけよ」 レイコさんは一息ついて煙草の火先を眺めた。僕は黙って葡萄を食べつづけ
ていた。 「私もかなり音楽的な勘はある方だと思うけれど、その子は私以上だったわ ね。惜しいなあと思ったわよ。小さな頃から良い先生についてきちんとした訓練受 けてたら良いところまでいってたのになあってね。でもそれは違うのよ。結局のところ その子はきちんとした訓練に耐えることができない子なのよ。世の中にはそういう 人っているのよ。素晴らしい才能に恵まれながら、それを体系化するための努力が できないで、才能を細かくまきちらして終ってしまう人たちがね。私も何人かそういう 人たちを見てきたわ。最初はとにかくもう凄いって思うの。たとえばものすごい難曲 を楽譜の初見でパァーッと弾いちゃう人がいるわけよ。それもけっこううまくね。見て る方は圧倒されちゃうわよね。私なんかとてもかなわないってね。でもそれだけなの よ。彼らはそこから先には行けないわけ。何故行けないか行く努力をしないから よ。努力する訓練を叩きこまれていないからよ。スボイルされているのね。下手に 才能があって小さい頃から努力しなくてもけっこううまくやれてみんなが凄い凄いっ て賞めてくれるものだから、努力なんてものが下らなく見えちゃうのね。他の子が三 週間かかる曲を半分で仕上げちゃうでしょ、すると先生の方もこの子はできるか らって次に行かせちゃう、それもまた人の半分の時間で仕上げちゃう。また次に行 く。そして叩かれるということを知らないまま、人間形成に必要なある要素をおっこ としていってしまうの。これは悲劇よね。まあ私にもいくぶんそういうところがあったん だけれど、幸いなことに私の先生はずいぶん厳しい人だったから、まだこの程度で すんでるのよ。 でもね、その子にレッスンするのは楽しかったわよ。高性能のスポーツ・カーに 乗って高速道路を走っているようなもんでね、ちょっと指を動かすだけでピッピッと素 速く反応するのよ。いささか素速すぎるという場合があるにせよね。そういう子を教 えるときのコツはまず賞めすぎないことよね。小さい頃から賞められ馴れてるから、 いくら賞められたってまたかと思うだけなのよ。ときどき上手な賞め方をすればそれ でいいのよ。それから物事を押しつけないこと。自分に選ばせること。先に先にと行 かせないで立ちどまって考えさせること。それだけ。そうすれば結構うまく行くのよ」 レイコさんは煙草を地面に落として踏んで消した。そして感情を鎮めるように ふうっと深呼吸をした。 「レッスンが終わるとね、お茶飲んでお話したわ。ときどき私がジャズ・ピアノの 真似事して教えてあげたりしてね。こういうのがバド・バウエル、こういうのがセロニス ア・モンクなんてね。でもだいたいはその子がしゃべってたの。これがまた話が上手く てね、ついつい引き込まれちゃうのよ。まあ昨日も言ったように大部分は作りごと だったと思うんだけれど、それにしても面白いわよ。観察が実に鋭くて、表現が適 確で、毒とユーモアがあって、人の感情を刺激するのよ。とにかくね、人の感情を 刺激して動かすのが実に上手い子なの。そして自分でもそういう能力があることを 知っているから、できるだけ巧妙に有効にそれを使おうとするのよ。人を怒らせた
り、悲しませたり、同情させたり、落胆させたり、喜ばせたり、思うがままに相手の 感情を刺激することができるのよ。それも自分の能力を試したいという理由だけ で、無意味に他人の感情を操ったりもするわけ。もちろんそういうのもあとになって からそうだったんだなあと思うだけでそのときはわからないの」 レイコさんは首を振ってから葡萄を幾粒か食べた。 「病気なのよ」とレイコさんは言った。「病んでいるのよ。それもね、腐ったリンコ がまわりのものをみんな駄目にしていくような、そういう病み方なのよ。そしてその彼 女の病気はもう誰にもなおせないの。死ぬまでそういう風に病んだままなのね。だか ら考えようによっては可哀そうな子なのよ。私だってもし自分が被害者にならなかっ たとしたらそう思ったわ。この子も犠牲者の一人なんだってね」 そしてまた彼女は葡萄を食べた。どういう風に話せばいいのかと考えているよ うに見えた。 「まあ半年間けっこう楽しくやったわよ。ときどきあれって思うこともあったし、な んだかちょっとおかしいなと思うこともあったわ。それから話をしていて、彼女が誰か に対してどう考えても理不尽で無意味としか思えない激しい悪意を抱いていること がわかってゾッとすることもあったし、あまりにも勘が良くて、この子いったい何を本当 は考えているのかしらと思ったこともあったわ。でも人間誰しも欠点というのはある じゃないそれに私は一介のビアノの教師にすぎないわけだし、そんなのどうだってい いといえばいいことでしょ、人間性だとか性格だとかきちんと練習してくれさえすれば 私としてはそれでオーケーじゃない。それに私、その子のことをけっこう好きでもあっ たのよ、本当のところ。 ただね、その子のは個人的なことはあまりしゃべらないようにしてたの、私。な んとなく本能的にそういう風にしない方が良いと思ってたから。だから彼女が私のこ とについていろいろ質問しても――ものすごく知りたがったんだけど――あたりさわり のないことしか教えなかったの。どんな育ち方しただの、どこの学校行っただの、まあ その程度のことよね。先生のこともっとよく知りたいのよ、とその子は言ったわ。私の こと知ったって仕方ないわよ、つまんない人生だもの、普通の夫がいて、子供がい て、家事に追われて、と私は言ったの。でも私、先生のこと好きだからって言って、 彼女私の顔をじっと見るのよ、すがるように。そういう風に見られるとね、私もドキッ としちゃうわよ。まあ悪い気はしないわよ。それでも必要以上のことは教えなかった けれどね。 あれは五月頃だったかしらね、レッスンしている途中でその子が突然気分が わるいって言いだしたの。顔を見るとたしかに青ざめて汗かいてるのよ。それで私、 どうする、家に帰るって訊ねたら、少し横にならせて下さい、そうすればなおるからっ て言うの。いいわよ、こっちに来て私のベッドで横になりなさいって私言って、彼女を 殆んど抱きかかえるようにして私の寝室につれていったの。うちのソファーってすごく 小さかったから、寝室に寝かせないわけにいかなかったのよ。ごめんなさい、迷惑か
けちゃって、って彼女が言うから、あらいいわよ、そんなの気にしないでって私言った わ。どうする、お水か何か飲むって。いいの、となりにしばらくいてもらえればってその 子は言って、いいわよ、となりにいるくらいいくらでもいてあげるからって私言ったの。 少しするとね『すみません、少し背中をさすっていただけませんか』ってその子 が苦しそうな声で言ったの。見るとすごく汗かいているから、私一所懸命背中さ すってやったの、すると『ごめんなさい、ブラ外してくれませんか、苦しくって』ってその 子言うのよ。まあ仕方ないから外してあげたわよ、私。ぴったりしたシャツ着てたもん だから、そのボタン外してね、そして背中のホックを外したの。十三にしちゃおっぱい の大きな子でね、私の二倍はあったわね。ブラジャーもね、ジュニア用のじゃなくて ちゃんとした大人用の、それもかなり上等なやつよ。でもまあそういうのもどうでもい いことじゃない私ずっと背中さすってたわよ、馬鹿みたいに。ごめんなさいねってその 子本当に申しわけないって声で言った、そのたびに私、気にしない気にしないって 言ってたわねえ」 レイコさんは足もとにとんとんと煙草の灰を落とした。僕もその頃には葡萄を 食べるのをやめて、じっと彼女の話に聞き入っていた。 「そのうちにその子しくしくと泣きはじめたの。 『ねえ、どうしたの?』って私言ったわ。 『なんでもないんです』 『なんでもなくないでしょ。正直に言ってごらんなさいよ』 『時々こんな風になっちゃうんです。自分でもどうしようもないんです。淋しくっ て、哀しくて、誰も頼る人がいなくて、誰も私のことをかまってくれなくて。それで辛く て、こうなっちゃうんです。夜もうまく眠れなくて、食欲も殆んどなくて。先生のところ にくるのだけが楽しみなんです、私』 『ねえ、どうしてそうなるのか言ってごらんなさい。聞いてあげるから』 家庭がうまくいってないんです、ってその子は言ったわ。両親を愛することがで きないし両親の方も自分を愛してはくれないんだって。父親は他に女がいてろくに 家に戻ってこないし、母親はそのことで半狂乱になって彼女にあたるし、毎日のよ うに打たれるんだって彼女は言ったの。家に帰るのが辛いんだって。そういっておい おい泣くのよ。かわいい目に涙をためて。あれ見たら神様だってほろりとしちゃうわよ ね。それで私こう言ったの。そんなにお家に帰るのが辛いんだったらレッスンの時以 外にもうちに遊びに来てもいいわよって。すると彼女は私にしがみつくようにして『本 当にごめんなさい。先生がいなかったら、私どうしていいかわかんないの。私のこと 見捨てないで。先生に見捨てられたら、私行き場がないんだもの』って言うのよ。 仕方がないから私、その子の頭を抱いて撫でてあげたわよ、よしよしってね。 その頃にはその子は私の背中にこう手をまわしてね、撫でてたの。そうするとそのう ちにね、私だんだん変な気になってきたの。体がなんだかこう火照ってるみたいで ね。だってさ、絵から切り抜いたみたいなきれいな女の子と二人でベッドで抱きあっ
ていて、その子が私の背中を撫でまわしていて、その撫で方たるやものすごく官能 的なんだもの。亭主なんてもう足もとにも及ばないくらいなの。ひと撫でされるごとに 体のたがが少しずつ外れていくのがわかるのよ。それくらいすごいの。気がついたら 彼女私のブラウス脱がせて、私のブラ取って、私のおっぱいを撫でてるのよ。それで 私やっとわかったのよ、この子筋金入りのレズビアンなんだって。私前にも一度やら れたことあるの、高校のとき、上級の女の子に。それで私、駄目、よしなさいって 言ったの。 『お願い、少しでいいの、私、本当に淋しいの。嘘じゃないんです。本当に淋 しいの。先生しかいないんです。見捨てないで』そしてその子、私の手をとって自分 の胸にあてたの。すごく形の良いおっぱいでね、それにさわるとね、なんかこう胸が きゅんとしちゃうみたいなの。女の私ですらよ。私、どうしていいかわかんなくてね、駄 目よ、そんなの駄目だったらって馬鹿みたいに言いつづけるだけなの。どういうわけ か体が全然動かないのよ。高校のときはうまくはねのけることができたのに、そのとき は全然駄目だったわ。体がいうこときかなくて。その子は左手で私の手を握って自 分の胸に押し付けて、唇で私の乳首をやさしく噛んだり舐めたりして、右手で私の 背中やらわき腹やらお尻やらを愛撫してたの。カーテンを閉めた寝室で十三歳の 女の子に裸同然にされて――その頃はもうんなんだかわからないうちに一枚 一枚 服を脱がされてたの――愛撫されて悶えてるんなんて今思うと信じられないわよ。 馬鹿みたいじゃない。でもそのときはね、なんだかもう魔法にかかったみたいだった の。その子は私の乳首を吸いながら『淋しいの。先生しかしないの。捨てないで。 本当に淋しいの』って言いつづけて、私の方は駄目よ駄目よって言いつづけてね」 レイコさんは話をやめて煙草をふかした。 「ねえ、私、男の人にこの話するのはじめてなのよ」とレイコさんは僕の顔を見 て言った。「あなたには話した方がいいと思うから話してるけれど、私だってすごく恥 かしいのよ、これ」 「すみません」と僕は言った。それ以外にどう言えばいいのかよくわからなかっ た。 「そういうのがしばらくつづいて、それからだんだん右手が下に降りてきたのよ。 そして下着の上からあそこ触ったの。その頃は私はもうたまんないくらいにぐじゅぐ じゅよ、あそこ。お恥かしい話だけれど。あんなに濡れたのはあとにも先にもはじめて だったわね。どちらかいうと、私は自分がそれまで性的に淡白な方だと思ってたの。 だからそんな風になって、自分でもいささか茫然としちゃったのよ。それから下着の 中に彼女の細くてやわらかな指が入ってきて、それで......ねえ、わかるでしょ、だい たいそんなこと私の口から言えないわよ、とても。そういうのってね、男の人のごつご つした指でやられるのと全然違うのよ。凄いわよ、本当。まるで羽毛でくすぐられて るみたいで。私もう頭のヒューズがとんじゃいそうだったわ。でもね、私、ボォッとした 頭の中でこんなことしてちゃ駄目だと思ったの。一度こんなことやったら延々とこれを
やりつづけることになるし、そんな秘密も抱えこんだら私の頭はまだこんがらがるに 決まっているんだもの。そして子供のことを考えたの。子供にこんなところ見られたら どうしようってね。子供は土曜日は三時くらいまで私の実家に遊びに行くことになっ ていたんだけれど、もし何かがあって急にうちに帰ってきたりしたらどうしようってね。 そう思ったの。それで私、全身の力をふりしぼって起きあがって『止めて、お願い』っ て叫んだの。 でも彼女止めなかったわ。その子、そのとき私の下着脱がせてクンニリングス してたの。私、恥かしいから主人さえ殆んどそういうのさせなかったのに、十三歳の 女の子が私のあそこぺろぺろ舐めてるのよ。参っちゃうわよ。私、泣けちゃうわよ。そ れがまた天国にのぼったみたいにすごいんだもの。 『止めなさい』ってもう一度どなって、その子の頬を打ったの。思いきり。それで 彼女やっとやめたわ。そして体起こしてじっと私を見た。私たちそのとき二人ともま るっきりの裸でね、ベッドの上に身を起こしてお互いじっと見つめあったわけ。その子 は十三で、私は三十一で... ...でもその子の体を見てると、私なんだか圧倒され ちゃったわね。今でもありありと覚えているわよ。あれが十三の女の子の肉体だな んて私にはとても信じられなかったし、今でも信じられないわよ。あの子の前に立つ と私の体なんて、おいおい泣き出したいくらいみっともない代物だったわ。本当よ」 なんとも言いようがないので僕は黙っていた。 「ねえどうしてよってその子は言ったわ。『先生もこれ好きでしょ私最初から 知ってたのよ。好きでしょわかるのよ、そういうの。男の人とやるよりずっといいでしょ だってこんな濡れてるじゃない。私、もっともっと良くしてあげられるわよ。本当よ。体 が溶けちゃうくらい良くしてあげられるのよ。いいでしょ、ね』でもね、本当にその子の 言うとおりなのよ。本当に。主人とやるよりその子とやってる方がずっと良かったし、 もっとしてほしかったのよ。でもそうするわけにはいかないのよ。『私たち週一回これ やりましょうよ。一回でいいのよ。誰にもわからないもの。先生と私だけの秘密にし ましょうね』って彼女は言ったわ。 でも私、立ち上がってバスローブ羽織って、もう帰ってくれ、もう二度とうちに来 ないでくれって言ったの。その子、私のことじっと見てたわ。その目がね、いつもと違っ てすごく平板なの。まるでボール紙に絵の具塗って描いたみたいに平板なのよ。奥 行きがなくて。しばらくじっと私のこと見てから、黙って自分の服をあつめて、まるで 見せつけるみたいにゆっくりとひとつひとつそれを身につけて、それからピアノのある居 間に戻って、バッグからヘア・ブラシを出して髪をとかし、ハンカチで唇の血を拭き、 靴をはいて出ていったの。出がけにこう言ったわ。『あなたレズビアンなのよ、本当 よ。どれだけ胡麻化したって死ぬまでそうなのよ』ってね」 「本当にそうなんですか」と僕は訊いてみた。 レイコさんは唇を曲げてしばらく考えていた。「イエスでもあり、ノオでもあるわ ね。主人とやるよりはその子とやるときの方が感じたわよ。これは事実ね。だから一
時は自分でも私はレズビアンんなんじゃないか、やはり真剣に悩んだわよ。これま でそれ気づかなかっただけなんだってね。でも最近はそう思わないわ。もちろんそう いう傾向が私の中にないとは言わないわよ。女の子を見て積極的に欲情するとい うことはないからね。わかる」 僕は肯いた。 「ただある種の女の子が私に感応し、その感応が私に伝わるだけなのよ。そう いう場合に限って私はそうなっちゃうのよ。だからたとえば直子を抱いたって、私とく に何も感じないわよ。私たち暑いときなんか部屋の中では殆んど裸同然で暮らし てるし、お風呂だって一緒に入るし、たまにひとつの布団の中で寝るし......でも何 もないわよ。何も感じないわよ。あの子の体だってすごくきれいだけど、でもね、べつ にそれだけよ。ねえ、私たち一度レズごっとしたことあるのよ。直子と私とで。こんな 話聞きたくない」 「話して下さい」 「私がこの話をあの子にしたとき――私たちなんでも話すのよ――直子がた めしに私を撫でてくれたの、いろいろと。二人で裸になってね。でも駄目よ、ぜんぜ ん。くすぐったくてくすぐったくて、もう死にそうだったわ。今思い出してもムズムズする わよ。そういうのってあの子本当に不器用なんだから。どう少しホッとした」 「そうですね、正直言って」と僕は言った。 「まあ、そういうことよ、だいたい」とレイコさんは小指の先で眉のあたりを掻きな がら言った。 「その女の子が出ていってしまうと、私しばらく椅子に座ってボォッとしていた の。どうしていいかよくわかんなくて。体のずうっと奥の方から心臓の鼓動がコトッコ トッて鈍い音で聞こえて、手足がいやに重くて、口が蛾でも食べたみたいにかさかさ して。でも子供が帰ってくるからとにかくお風呂に入ろうと思って入ったの。そしてあ の子に撫でられたり舐められたりした体をとにかくきれいに洗っちゃおうって思った の。でもね、どれだけ石鹸でごしごし洗っても、そういうぬめりのようなものは落ちな いのよ。たぶんそんなの気のせいだと思うんだけど駄目なのよね。で、その夜、彼に 抱いてもらったの。その穢れおとしみたいな感じでね。もちろん彼にはそんなことなに も言わなかったわよ。とてもじゃないけど言えないわよ。ただ抱いてって言って、やっ てもらっただけ。ねえ、いつもより時間かけてゆっくりやってねって言って。彼すごく丁 寧にやってくれたわ。たっぷり時間かけて。私それでバッチリいっちゃったわよ、 ピューッて。あんなにすごくいっちゃったの結婚してはじめてだったわ。どうしてだと思う あの子の指の感触が私の体に残ってたからよ。それだけなのよ。ひゅう。恥かしいわ ねえ、こういう話。汗が出ちゃうわ。やってくれたとかいっちゃったとか」レイコさんはま た唇を曲げて笑った。「でもね、それでもまだ駄目だったわ。二日たっても三日たっ ても残っているのよ、その女の子の感触が。そして彼女の最後の科白が頭の中で こだまみたいにわんわんと鳴りひびいているのよ」
「翌週の土曜日、彼女は来なかった。もしきたらどうしようかなあって、私どき どきしながら家にいたの。何も手につかなくて。でも来なかったわ。まあ来ないわよ ね。プライドの高い子だし、あんな風になっちゃったわけだから。そして翌週も、また 次の週も来なくって、一ヶ月が経ったのよ。時間がたてばそんなことも忘れちゃうだ ろうと私は思ってたんだけど、でもうまく忘れられなかったの。一人で家の中にいると ね、なんだかその女の子の気配がまわりにふっと感じられて落ち着かないのよ。ピア ノも弾けないし、考えることもできないし。何しようとしてもうまく手につけないわけ。 それでそういう風に一ヶ月くらいたってある日ふと気づいたんだけれど、外を歩くと何 か変なのよね。近所の人が妙に私のことを意識してるのよ。私を見る目がなんだ かこう変な感じで、よそよそしいのよ。もちろんあいさつくらいはするんだけれど、声の 調子も応待もこれまでとは違うのよ。ときどきうちに遊びに来ていた隣りの奥さんも どうも私を避けてるみたいなのね。でも私はなるべくそういうの気にすまいとしてた の。そういうのを気にし出すのって病気の初期徴候だから。 ある日、私の親しくしてる奥さんがうちに来たの。同年配だし、私の母の知り 合いの娘さんだし、子供の幼稚園が一緒だったんで、私たちわりに親しかったの よ。その奥さんが突然やってきて、あなたについてひどい噂が広まっているけれど 知っているかって言うの。知らないわって私言ったわ。 『どんなのよ?』 『どんなのって言われても、すごく言いにくいのよ』 『言いにくいったって、あなたそこまで言ったんだもの、全部おっしゃいよ』 それでも彼女すごく嫌がったんだけど、私全部聞きだしたの。まあ本人だって はじめてしゃべりたくって来てるんだもの、何のかんの言ったってしゃべるわよ。そし て、彼女の話によるとね、噂というのは私が精神病院に何度も入っていた札つき の同性愛者で、ピアノのレッスンに通ってきていた生徒の女の子を裸にしていたず らしようとして、その子が抵抗すると顔がはれるくらい打ったっていうことなのよ。話の つくりかえもすごいけど、どうして私が入院していたことがわかったんだろうってそっち の方もびっくりしちゃったわね。 『私、あなたのこと昔から知ってるし、そういう人じゃないってみんなに言ったの よ』ってその人は言ったわ。『でもね、その女の子の親はそう信じこんでいて、近所の 人みんなにそのこと言いふらしてるのよ。娘があなたにいたずらされたっていうんで、 あなたのこと調べてみたら精神病の病歴があることがわかったってね』 彼女の話によるとあの日――つまりあの事件の日よね――その子が泣きは らした顔でピアノのレッスンから帰ってきたんで、いったいどうしたのかって母親が問い ただしたらしいのよ。顔が腫れて唇が切れて血が出ていて、ブラウスのボタンがとれ て、下着も少し破れていたんですって。ねえ、信じられるもちろん話をでっちあげる ためにあの子自分で全部それやったのよ。ブラウスにわざと血をつけて、ボタンち ぎって、ブラジャーのレースを破いて、一人でおいおい泣いて目を真っ赤にして、髪
をくしゃくしゃにして、それで家に帰ってバケツ三杯ぶんくらいの嘘をついたのよ。そう いうのありありと目に浮かぶわよ。 でもだからといってその子の話を信じたみんなを責めるわけにはいかないわよ。 私だって信じたと思うもの、もしそういう立場に置かれたら。お人形みたいにきれい で悪魔みたいに口のうまい女の子がくしくし泣きながら『嫌よ。私、何も言いたくな い。恥かしいわ』なんて言ってうちあけ話したら、そりゃみんなコロッと信じちゃうわよ。 おまけに具合のわるいことに、私に精神病院の入院歴があるっていうのは本当じゃ ない。その子の顔を思いきり打ったっていうのも本当じゃない。となるといったい誰が 私の言うことを信じてくれる信じてくれるのは夫くらいのものよ。 何日がずいぶん迷ったあとで思いきって夫に話してみたんだけど、彼は信じて くれたわよ、もちろん。私、あの日に起ったことを全部彼に話したの。レズビアンのよ うなことをしかけられたんだ、それで打ったんだって。もちろん感じたことまで言わな かったわよ。それはちょっと具合わるいわよ、いくらなんでも。『冗談じゃない。俺がそ この家に言って直談判してきてやる』って彼はすごく怒って言ったわ。『だって君は僕 と結婚して子供までいるんだぜ。なんでレズビアンなんて言われなきゃならないんだ よ。そんなふざけた話あるものか』って。 でも私、彼をとめたの。行かないでくれって。よしてよ、そんなことしたって私た ちの傷が深くなるだけだからって言ってね。そうなのよ、私にはわかっていたのよ、も う。あの子の心が病んでいるだっていうことがね。私もそういう病んだ人たちをたくさ ん見てきたからよくわかるの。あの子は体の芯まで腐ってるのよ。あの美しい皮膚を 一枚はいだら中身は全部腐肉なのよ。こういう言い方ってひどいかもしれないけ ど、本当にそうなのよ。でもそれは世の中の人にはまずわからないし、どん転んだっ て私たちには勝ち目はないのよ。その子は大人の感情をあやつることに長けている し、我々の手には何の好材料もないのよ。だいたい十三の女の子が三十すぎの 女に同性愛をしかけるなんてどこの誰が信じてくれるのよ何を言ったところで、世間 の人って自分の信じたいことしか信じないんだもの。もがけばもがくほど私たちの立 場はもっとひどくなっていくだけなのよ。 引越しましょうよって私は言ったわ。それしかないわよ、これ以上ここにいたら 緊張が強くて、私の頭のネジがまた飛んじゃうわよ。今だって私相当フラフラなの よ。とにかく誰も知っている人のいない遠いところに移りましょうって。でも夫は動き だがらなかったわ。あの人、事の重大さにまだよく気がついてなかったのね。彼は会 社の仕事が面白くて仕方なかった時期だったし、小さな建売住宅だったけど家も やっと手に入れたばかりだったし、娘も幼稚園に馴染んでいたし。おいちょっと待て よ、そんなに急に動けるわけないだろうって彼は言った。仕事だっておいそれとみつ けることはできないし、家だって売らなきゃならないし、子供の幼稚園だってみつけ なきゃならないし、どんなに急いだって二ヶ月はかかるよってね。 駄目よそんなことしたら、二度と立ち上がれないくらい傷つくわよ、って私言っ
たわ。脅しじゃなくてこれ本当よって。私には自分でそれがわかるのよって。私その 頃には耳鳴りとか幻聴とか不眠とかがもう少しずつ始まってたんですもの。じゃあ 君、先に一人でどこかに行ってろよ、僕はいろんな用事を済ませてから行くからって 彼は言ったわ。 『嫌よ』って私は言ったの。『一人でなんかどこにも行きたくないわ。今あなたと 離ればなれになったら私バラバラになっちゃうわよ。私は今あなたを求めているの よ。一人なんかしないで』 彼は私のことを抱いてくれたわ。そして少しだけでいいから我慢してくれって 言ったの。一ヶ月だけ我慢してくれって。そのあいだ僕は何もかもちゃんと手配す る。仕事の整理もする、家も売る、子供の幼稚園も手配する、新しい職もみつけ る。うまく行けばオーストラリアに仕事の口があるかもしれない。だから一ヶ月だけ 待ってくれ。そうすれば何もかもうまくいくからってね。そう言われると私、それ以上何 も言えなかったわ。だって何か言おうとすればするほど私だんだん孤独になっていく んですもの」 レイコさんはため息をついて天井の電灯を見あげた。 「でも一ヶ月はもたなかった。ある日頭のネジが外れちゃって、ボンッよ。今回 はひどかったわね、睡眠薬飲んでガスひねったの。でも死ねなくて、気づいたら病 院のベッドよ。それでおしまい。何ヶ月かたって少し落ち着いて物が考えられるよう になった頃に、離婚してくれって夫に言ったの。それがあなたのためにも娘のために もいちばんいいのよって。離婚するつもりはない、って彼は言ったわ。 『もう一度やりなおせるよ。新しい土地に行って三人でやりなおそうよ』って。 『もう遅いの』って私は言ったわ。『あのときに全部終っちゃったのよ。一ヶ月 待ってくれってあなたが言ったときにね。もし本当にやりなおしたいと思うのならあな たはあのときにそんなこと言うべきじゃなかったのよ。どこに行っても、どんな遠くに 移っても、また同じようなことが起るわよ。そして私はまた同じようなことを要求して あなたを苦しめることになるし、私もうそういうことしたくないのよ』 そして私たち離婚したわ。というか私の方から無理に離婚したの。彼は二年 前に再婚しちゃったけど、私今でもそれでよかったんだと思ってるわよ。本当よ。そ の頃には自分の一生がずっとこんな具合だろうってことがわかっていたし、そういうの にもう誰をもまきこみたくなかった。いつ頭のたがが外れるかってびくびくしながら暮す ような生活を誰にも押しつけたくなかったの。 彼は私にとても良くしてくれたわよ。彼は信頼できる誠実な人だし、力強いし 辛棒強いし、私にとっては理想的な夫だったわよ。彼は私を癒そうと精いっぱい努 力したし、私もなおろうと努力したわよ。彼のためにも子供のためにもね。そして私 ももう癒されたんだと思ってたのね。結婚して六年、幸せだったわよ。彼は九九 パーセントまで完璧にやってたのよ。でも一パーセントが、たったの一パーセントが 狂っちゃったのよ。そしてボンッよ。それで私たちの築きあげてきたものは一瞬にして
崩れさってしまって、まったくのゼロになってしまったのよ。あの女の子一人のせいで ね」 レイコさんは足もとで踏み消した煙草の吸殻をあつめてブリキの缶の中に入 れた。 「ひどい話よね。私たちあんなに苦労して、いろんなものをちょっとずつちょっと ずつ積みあげていったのにね。崩れるときって、本当にあっという間なのよ。あっとい う間に崩れて何もかもなくなっちゃうのよ」 レイコさんは立ち上がってズボンのポケットに両手をつっこんだ。「部屋に戻り ましょう。もう遅いし」 空はさっきよりもっと暗く雲に覆われ、月もすっかり見えなくなってしまってい た。今では雨の匂いが僕にも感じられるようになっていた。そして手に持った袋の中 の若々しい葡萄の匂いがそこにまじりあっていた。 「だから私なかなかここを出られないのよ」とレイコさんは言った。「ここを出て 行って外の世界とかかわりあうのが怖いのよ。いろんな人に会っていろんな思いをす るのが怖いのよ」 「気持はよくわかりますよ」と僕は言った。「でもあなたにはできると僕は思いま すよ、外に出てきちんとやっていくことが」 レイコさんはにっこり笑ったが、何も言わなかった。 直子はソファーに座って本を読んでいた。脚を組み、指でこめかみを押えなが ら本を読んでいたが、それはまるで頭に入ってくる言葉を指でさわってたしかめてい るみたいに見えた。もうぽつぽつと雨が降りはじめていて、電灯の光が細かい粉の ように彼女の体のまわりにちらちらと漂っていた。レイコさんとずっと二人で話したあと で直子を見ると、彼女はなんて若いんだろうと僕はあらためて認識した。 「遅くなってごめんね」とレイコさんが直子の頭を撫でた。 「二人で楽しかった」と直子が顔を上げて言った。 「もちろん」とレイコさんは答えた。 「どんなことしてたの、二人で」と直子が僕に訊いた。 「口では言えないようなこと」と僕は言った。 直子はくすくす笑って本を置いた。そして我々は雨の音を聴きながら葡萄を 食べた。 「こんな風に雨が降ってるとまるで世界には私たち三人しかいないって気がす るわね」と直子が言った。「ずっと雨が降ったら、私たち三人ずっとこうしてられるの に」 「そしてあなたたち二人が抱き合っているあいだ私が気のきかない黒人奴隷 みたいに長い柄のついた扇でバタバタとあおいだり、ギターでBGMつけたりするで しょ嫌よ、そんなの」とレイコさんは言った。
「あら、ときどき貸してあげるわよ」と直子が笑って言った。 「まあ、それなら悪くないわね」とレイコさんは言った。「雨よ降れ」 雨は降りつづけた。ときどき雷まで鳴った。葡萄を食べ終わるとレイコさんは 例によって煙草に火をつけ、ベッドの下からギターを出して弾いた。『デサフィナー ド』と『イバネマの娘』を弾き、それからバカラックの曲やレノンマッカートニーの曲を弾 いた。僕とレイコさんは二人でまたワインを飲み、ワインがなくなると水筒に残ってい たブランディーをわけあって飲んだ。そしてとても親密な気分でいろんな話をした。こ のままずっと雨が降りつづけばいいのにと僕も思った。 「またいつか会いに来てくれるの」と直子が僕の顔を見て言った。 「もちろん来るよ」と僕は言った。 「手紙も書いてくれる」 「毎週書くよ」 「私にも少し書いてくれる」とレイコさんが言った。 「いいですよ。書きます、喜んで」と僕は言った。 十一時になるとレイコさんが僕のために昨夜と同じようにソファーを倒してベッ ドを作ってくれた。そして我々はおやすみのあいさつをして電灯を消し、眠りについ た。僕はうまく眠れなかったのでナップザックの中から懐中電灯と『魔の山』を出して ずっと読んでいた。十二時少し前に寝室のドアがそっと開いて直子がやってきて僕 のとなりにもぐりこんだ。昨夜とちがって直子はいつもと同じ直子だった。目もぼんや りとしていなかったし、動作もきびきびしていた。彼女は僕の耳に口を寄せて「眠れ ないのよ、なんだか」と小さな声で言った。僕も同じだと僕は言った。僕は本を置い て懐中電灯を消し、直子を抱き寄せて口づけした。闇と雨音がやわらかく僕らをく るんでいた。 「レイコさんは」 「大丈夫よ、ぐっすり眠りこんでるから。あの人寝ちゃうとまず起きないの」と直 子が言った。 「本当にまた会いに来てくれるの」 「来るよ」 「あなたに何もしてあげられなくても」 僕は暗闇の中で肯いた。直子の乳房の形がくっきりと胸に感じられた。僕は 彼女の体をガウンの上から手のひらでなぞった。肩から背中へ、そして腰へと、僕 はゆっくりと何度も手を動かして彼女の体の線ややわらかさを頭の中に叩きこん だ。しばらくそんな風にやさしく抱き合ったあとで、直子は僕の額にそっと口づけし、 するりとベッドから出て行った。直子の淡いブルーのガウンが闇の中でまるで魚のよ うにひらりと揺れるのが見えた。 「さよなら」と直子が小さな声で言った。
そして雨の音を聴きながら、僕は静かな眠りについた。 雨は朝になってもまだ降りつづいていた。昨夜とはちがって、目に見えないくら いの細い秋雨だった。水たまりの水紋と軒をつたって落ちる雨だれの音で雨が降っ ていることがやっとわかるくらいだった。目をさましたとき窓の外には乳白色の霧がた れこめていたが、太陽が上るにつれて霧は風に流され、雑木林や山の稜線が少 しずつ姿をあらわした。 昨日の朝と同じように僕ら三人で朝食を食べ、それから鳥小屋の世話をし に行った。直子とレイコさんはフードのついたビニールの黄色い雨合羽を着ていた。 僕はセーターの上に防水のウィインド・ブレーカーを着た。空気は湿っぽくてひやりと していた。鳥たちも雨を避けるように小屋の奥の方にかたまってひっそりと身を寄せ てあっていた。 「寒いですね、雨が降ると」と僕はレイコさんに言った。 「雨が降るごとに少しずつ寒くなってね、それがいつか雪に変るのよ」と彼女は 言った。「日本海からやってきた雲がこのへんにどっさりと雪を落として向うに抜けて いくの」 「鳥たちは冬はどうするんですか」 「もちろん室内に移すわよ。だってあなた、春になったら凍りついた鳥を雪の下 から掘り返して解凍して生き返らせて『はい、みんな、ごはんよ』なんていうわけにも いかないでしょう」 僕が指で金網をつつくとオウムが羽根をばたばたさせてクソタレアリガトキチガ イと叫んだ。 「あれ冷凍しちゃいたいわね」と直子が憂鬱そうに言った。「毎朝あれ聞かさ れると本当に頭がおかしくなっちゃいそうだわ」 鳥小屋の掃除が終るとわれわれは部屋に戻り、僕は荷物をまとめた。彼女 たちは農場に行く仕度をした。我々は一緒に棟を出て、テニス・コートの少し先で 別れた。彼女たちは道の右に折れ、僕はまっすぐに進んだ。さよならと彼女たちは 言い、さよならと僕は言った。また会いに来るよ、と僕は言った。直子は微笑んで、 それから角を曲って消えていった。 門につくまでに何もの人とすれ違ったが、誰もみんな直子たちが着ていたのと 同じ黄色い雨合羽を着て、頭にはすっぽりとフードをかぶっていた。雨のおかげてあ らゆるものの色がくっきりとして見えた。地面は黒々として、松の枝は鮮やかな緑 色で、黄色の雨合羽に身を包んだ人々は雨の朝にだけ地表をさまようことを許さ れた特殊な魂のように見えた。彼らは農具や籠や何かの袋を持って、音もなくそっ と地表を移動していた。 門番は僕の名前を覚えていて、出て行くときは来訪者リストの僕の名前のと ころにしるしをつけた。
「東京からおみえになったんですな」とその老人は僕の住所を見て言った。 「私も一度だけあそこに行ったことありますが、あれは豚肉のうまいところですな」 「そうですか」と僕はよくわからないまま適当に返事をした。 「東京で食べた大抵のものはうまいとは思わんかったが、豚肉だけはうまかっ たですわ。あれはこう、何か特別な飼育法みたいなもんがあるんでしょな」 それについて何も知らないと僕は言った。東京の豚肉がおいしいなんて話を 聞いたのもはじめてだった。「それはいつの話ですか東京に行かれたというのは」と 僕は訊いてみた。 「いつでしたかなあ」と老人は首をひねった。「皇太子殿下の御成婚の頃でし たかな。息子が東京におって一回くらい来いというから行ったんですわ。そのときに」 「じゃあそのころはきっと東京では豚肉がおいしかったんでしょうね」と僕は言っ た。 「昨今はどうですか」 よくわからないけれど、そういう評判はあまり耳にしたことはないと僕は答えた。 僕がそう言うと、彼は少しがっかりしたみたいだった。老人はもっと話していたそうだっ たけれど、バスの時間があるからと言って僕は話を切り上げ、道路に向って歩きは じめた。川沿いの道にはまだところどころに霧のきれはしが残り、それは風に吹かれ て山の斜面を彷徨していた。僕は道の途中で何度も立ちどまってうしろを振り向 いたり、意味なくため息をついたりした。なんだかまるで少し重力の違う惑星にやっ てきたみたいな気がしたからだ。そしてそうだ、これは外の世界なんだと思って哀し い気持になった。 寮に着いたのが四時半で、僕は部屋に荷物を置くとすぐに服を着がえてアル バイト先の新宿のレコード屋にでかけた。そして六時から十時半まで店番をしてレ コードを売った。店の外を雑多な種類の人々が通りすぎていくのを僕はそのあいだ ぼんやりと眺めていた。家族づれやらカップルやら酔払いやらヤクザやら、短いス カートをはいた元気な女の子やら、ヒッピー風の髭を生やした男やら、クラブのホス テスやら、その他わけのわからない種類の人々やら次から次へと通りを歩いて行っ た。ハードロックをかけるとヒッピーやらフーテンが店の前に何人か集って踊ったり、シ ンナーを吸ったり、ただ何をするともなく座りこんだりした。トニー・ベネットのレコード をかけると彼らはどこかに消えていった。 店のとなりには大人のおもちゃ屋があって、眠そうな目をした中年男が妙な 性具を売っていた。誰が何のためにそんなものほしがるのか僕には見当もつかない ようなものばかりだったが、それでも店はけっこう繁盛しているようだった。店の斜め 向い側の路地では酒を飲みすぎた学生が反吐を吐いていた。筋向いのゲーム・ センターでは近所の料理店のコックが現金をかけたビンゴ・ゲームをやって休憩時 間をつぶしていた。どす黒い顔をした浮浪者が閉った店の軒下にじっと身動きひと
つせずにうずくまっていた。淡いピンクの口紅を塗ったどうみても中学生としか見え ない女の子が店に入ってきてローリング・ストーンズの『ジャンピン・ジャック・フラッ シェ』をかけてくれないかと言った。僕はレコードを持って来てかけてやると、彼女は 指を鳴らしてリズムをとり、腰を振って踊った。そして煙草はないかと僕に訊いた。 僕は店長の置いていったラークを一本やった。女の子はうまそうにそれを吸い、レ コードが終るとありがとうも言わずに出ていった。十五分おきに救急車だかパトカー だかのサイレンが聴こえた。みんな同じくらい酔払った三人連れのサラリーマンが公 衆電話をかけている髪の長いきれいな女の子に向って何度もオマンコと叫んで笑 いあっていた。 そんな光景を見ていると、僕はだんだん頭が混乱し、何がなんだかわからなく なってきた。いったいこれは何なのだろう、と僕は思った。いったいこれらの光景はみ んな何を意味しているのだろう、と。 店長が食事から戻ってきて、おい、ワタナベ、おとといあそこのブティックの女と 一発やったぜと僕に言った。彼は近所のブティックにつとめるその女の子に前から目 をつけていて、店のレコードをときどき持ちだしてはプレゼントしていたのだ。そりゃ良 かったですね、と僕が言うと、彼は一部始終をこと細かに話してくれた。女とやりた かったらだな、と彼は得意そうに教えてくれた、とにかくものをプレゼントして、そのあ とでとにかくどんどん酒を飲ませて酔払わせるんだよ、どんどん、とにかく。そうすりゃ あとはもうやるだけよ。簡単だろ 僕は混乱した頭を抱えたまま電車に乗って寮に戻った。部屋のカーテンを閉 めて電灯を消し、ベッドに横になると、今にも直子が隣りにもぐりこんでくるじゃない かという気がした。目を閉じるとその乳房のやわらかなふくらみを胸に感じ、囁き声 を聞き、両手で体の線を感じとることができた。暗闇の中で、僕はもう一度直子の あの小さな世界へ戻って行った。僕は草原の匂いをかぎ、夜の雨音を聴いた。あ の月の光の下で見た裸の直子のことを思い、そのやわらかく美しい肉体が黄色い 雨合羽に包まれて鳥小屋の掃除をしたり野菜の世話をしたりしている光景を思 い浮かべた。そして僕は勃起したベニスを握り、直子のことを考えながら射精した。 射精してしまうと僕の頭の中の混乱も少し収まったようだったが、それでもなかなか 眠りは訪れなかった。ひどく疲れていて眠くて仕方がないのに、どうしても眠ることが できないのだ。 僕は起きあがって窓際に立ち、中庭の国旗掲揚台をしばらくぼおっと眺めて いた。旗のついていない白いボールはまるで夜の闇につきささった巨大な白い骨の ように見えた。直子は今頃どうしているだろう、と僕は思った。もちろん眠っているだ ろう。あの小さな不思議な世界の闇に包まれてぐっすり眠っているだろう。彼女が 辛い夢を見ることがないように僕は祈った。 第七章
翌日の木曜日の午前中には体育の授業があり、僕は五十メートル・プール を何度か往復した。激しい運動をしたせいで気分もいくらかさばっりしたし、食欲も 出てきた。僕は定食屋でたっぷりと量のある昼食を食べてから、調べものをするた めに文学部の図書室に向かって歩いているところで小林緑とばったり出会った。彼 女は眼鏡をかけた小柄の女の子と一緒にいたが、僕の姿を見ると一人で僕の方 にやってきた。 「どこに行くの」と彼女が僕に訊いた。 「図書室」と僕は言った。 「そんなところ行くのやめて私と一緒に昼ごはん食べない」 「さっき食べたよ」 「いいじゃない。もう一回食べなさいよ」 結局僕と緑は近所の喫茶店に入って、彼女はカレーを食べ、僕はコーヒ ーを 飲んだ。彼女は白い長袖のシャツの上に魚の絵の編み込みのある黄色い毛糸の チョッキを着て、金の細いネックレスをかけ、ディズニー・ワォッチをつけていた。そして 実においしいそうにカレーを食べ、水を三杯飲んだ。 「ずっとここのところあなたいなったでっしょ私何度も電話したのよ」と緑は言っ た。 「何か用事でもあったの」 「別に用事なんかないわよ。ただ電話してみただけよ」 「ふうむ」と僕は言った。 「『ふうむ』って何よいったい、それ」 「別に何でもないよ、ただのあいづちだよ」と僕は言った。「どう、最近火事は 起きてない」 「うん、あれなかなか楽しいかったわね。被害もそんなになかったし、そのわりに 煙がいっばい出てリアリティーがあったし、ああいうのいいわよ」緑はそう言ってからま たごくごくと水を飲んだ。そして一息ついてから僕の顔をまじまじと見た。「ねえ、ワタ ナベ君、どうしたのあなたなんだか漠然とした顔しているわよ。目の焦点もあってい ないし」 「旅行から帰ってきて少し疲れてるだよ。べつになんともない」 「幽霊でも見てきたよな顔してるわよ」 「ふうむ」と僕は言った。 「ねえワタナベ君、午後の授業あるの」 「ドイツ語と宗教学」 「それすっぼかせない」 「ドイツ語の方は無理だね。今日テストがある」 「それ何時に終わる」 「二時」
「じゃあそのあと町に出て一緒にお酒飲まない」 「昼の二時から」と僕は訊いた。 「たまにはいいじゃない。あなたすごくボォッとした顔しているし、私と一緒にお 酒でも飲んで元気だしなさいよ。私もあなたとお酒飲んで元気になりたいし。ね、 いいでしょう」 「いいよ、じゃあ飲みに行こう」と僕はため息をついて言った。「二時に文学部 の中庭で待っているよ」 ドイツ語の授業が終わると我々はバスに乗って新宿の駅に出て、紀伊国屋 の裏手の地下にあるDUGに入ってワォッカ・トニックを二杯ずつ飲んだ。 「ときどきここ来るのよ、昼間にお酒飲んでもやましい感じしないから」と彼女 は言った。 「そんなにお昼から飲んでるの」 「たまによ」と緑はグラスに残った氷をかちゃかちゃと音を立てて振った。「たまに 世の中が辛くなると、ここに来てワォッカ・トニック飲むのよ」 「世の中が辛いの」 「たまにね」と緑は言った。「私には私でいろいろと問題があるのよ」 「たとえばどんなこと」 「家のこと、恋人のこと、生理不順のことーーいろいろよね」 「もう一杯飲めば」 「もちろんよ」 僕は手をあげてウェイターを呼び、ウォッカ・トニックを二杯注文した。 「ねえ、このあいだの日曜日あなた私にキスしたでしょう」と緑は言った。「いろ いろと考えてみたけど、あれよかったわよ、すごく」 「それはよかった」 「『それはよかった』」とまた緑はくりかえした。「あなたって本当に変ったしゃべり 方するわよねえ」 「そうかなあ」と僕は言った。 「それはまあともかくね、私思ったのよ、あのとき。これが生まれて最初の男の 子とのキスだったとしたら何て素敵なんだろって。もし私が人生の順番を組みかえ ることができたとしたら、あれをファースト・キスにするわね、絶対。そして残りの人生 をこんな風に考えて暮らすのよ。私が物干し台の上で生まれてはじめてキスをした ワタナベ君っていう男の子に今どうしてるだろう五十八歳になった今は、なんてね。 どう、素敵だと思わない」 「素敵だろうね」と僕はビスタチオの殻をむきながら言った。 「たぶん世界にまだうまく馴染めていないだよ」と僕は少し考えてから言った。 「ここがなんだか本当の世界にじゃないような気がするんだ。人々もまわりの風景も
なんだ本当じゃないみたいに思える」 緑はカウンターに片肘をついて僕の顔を見つめた。「ジム・モリソンの歌にたし かそういうのあったわよね」 「People are strange when you are a stranger」 「ピース」と緑は言った。 「ピース」と僕も言った。 「私と一緒にウルグァイに行っちゃえば良いのよ」と緑はカンタンーに片肘をつ いたまま言った 「恋人も家族も大学も何にもかも捨てて」 「それも悪くないな」と僕は笑って言った。 「何もかも放り出して誰も知っている人のいないところに行っちゃうのって素晴 らしいと思わない私ときどきそうしたくなちゃうのよ、すごく。だからもしあなたが私を ひょいとどこか遠くに連れてってくれたとしたら、私あなたのために牛みたいに頑丈な 赤ん坊いっばい産んであげるわよ。そしてみんなで楽しく暮らすの。床の上をころこ ろと転げまわって」 僕は笑って三杯めのウォッカ・トニックを飲み干した。 「牛みたいに頑丈な赤ん坊はまだそれほど欲しくないのね」と緑は言った。 「興味はすごくあるけれどね。どんなだか見てみたいしね」と僕は言った。 「いいのよべつに、欲しくなくだって」緑はピスタチオを食べながら言った。「私 だって昼下がりにお酒飲んであてのないこと考えてるだけなんだから。何もかも放り 投げてどこかに行ってしまいたいって。それにウルグァイなんか行ったってどうせロバの ウンコくらいしかないのよ」 「まあそうかもしれないな」 「どこもかしこもロバのウンコよ。ここにいったって。向うに行ったって、世界はロ バのウンコよ。ねえ、この固いのあげる」緑は僕に固い殻のビスタチをくれた。僕は 苦労してその殻をむいた。 「でもこの前の日曜日ね、私すごくホッとしたのよ。あなたと二人で物干し場 に上がって火事を眺めて、お酒飲んで、唄を唄って。あんなにホっとしたの本当に 久しぶりだったわよ。だってみんな私にいろんなものを押しつけるだもの。顔をあわせ ればああだこうだってね。少くともあなたは私に何も押しつけないわよ」 「何かを押しつけるほど君のことをまだよく知らないんだよ」 「じゃあ私のことをもっとよく知ったら、あなたもやはり私にいろんなものを押しつ けてくる他の人たちと同じように」 「そうする可能性はあるだろうね」と僕は言った。「現実の世界では人はみん ないろんなものを押しつけあって生きているから」 「でもあなたはそういうことしないと思うな。なんとなくわかるのよ、そういうのが。 押しつけたり押しつけられたりすることに関しては私ちょっとした権威だから。あなた
はそういうタイプではないし、だから私あなたと一緒にいると落ちつけるのよ。ねえ 知ってる世の中にはいろんなもの押しつけたり押しつけられたりするのが好きな人っ てけっこう沢山いるのよ。そして押しつけた、押しつけられたってわいわい騒いでる の。そういうのが好きなのよ。でも私はそんななの好きじゃないわ。やらなきゃ仕方 ないからやってるのよ」 「どんなものを押しつけたり押しつけられたりしているの君は」 緑は氷を口に入れてしばらく舐めていた。 「私のこともっと知りたい」 「興味はあるね、いささか」 「ねえ、私は『私のこともっと知りたい』って質問したのよ。そんな答えっていくら なんでもひどいと思わない」 「もっと知りたいよ、君のことを」と僕は言った。 「本当に」 「本当に」 「目をそむけたくなっても」 「そんなにひどいの」 「ある意味ではね」と緑は言って顔をしかめた。「もう一杯ほしい」 僕はウェイターを呼んで四杯めを注文した。おかわりが来るまで緑はカウタ ンーに頬杖をついていた。僕は黙ってセロニアス・モンクの弾く「ハニサックル・ローズ」 を聴いていた。店の中には他に五、六の客がいたが酒を飲んでいるのは我々だけ だった。コーヒーの香ばしい香りがうす暗い店内に午後の親密な空気をつくり出し ていた。 「今度の日曜日、あなた暇」と緑が僕に訊いた。 「この前も言ったと思うけれど、日曜日はいつも暇だよ。六時からのアルバイト を別にすればね」 「じゃあ今度の日曜日、私につきあってくれる」 「いいよ」 「日曜日の朝にあなたの寮に迎えに行くわよ。時間ちょっとはっきりわからない けど。かまわない」 「どうぞ。かまわないよ。」と僕は言った。 「ねえ、ワタナベ君。私が今何にをしたがっているわかる」 「さあね、想像もつかないね」 「広いふかふかしたベットに横になりたいの、まず」と緑は言った。「すごく気持 がよくて酔払っていて、まわりにはロバのウンコなんて全然なくて、となりにはあなた が寝ている。そしてちょっとずつ私の服が脱がせる。すごくやさしく。お母さんが小さ な子供の服を脱がせるときみたいに、そっと」 「ふむ」と僕は言った。
「私途中まで気持良いなあと思ってぼんやりとしてるの。でもね、ほら、ふと我 に返って『だめよ、ワタナベ君』って叫ぶの。『私ワタナベ君のこと好きだけど、私には 他につきあってる人人がいるし、そんなことできないの。私そういうのけっこう堅いの よ。だからやめて、お願い』って言うの。でもあなたやめないの」 「やめるよ、僕は」 「知ってるわよ。でもこれは幻想シーンなの。だからこれはこれでいいのよ」と緑 は言った。「そして私にばっちり見せつけるのよ、あれを。そそり立ったのを。私すぐ目 を伏せるんだけど、それでもちらっとみえちゃうのよね。そして言うの、『駄目よ、本当 に駄目、そんなに大きくて固いのとても入らないわ』って」 「そんなに大きくないよ。普通だよ」 「いいのよ、べつに。幻想なんだから。するとね、あなたはすごく哀しそうな顔を するの。そして私、可哀そうだから慰めてあげるの。よしよし、可哀そうにって」 「それがつまり君が今やりたいことなの」 「そうよ」 「やれやれ」と僕は言った。 全部で五杯ずつウォッカ・トニックを飲んでから我々は店を出た。僕が金を払 うとすると緑は僕の手をぴしゃっと叩いて払いのけ、財布からしわひとつない一万円 札をだして勘定を払った。 「いいのよ、アルバイトのお金入ったし、それに私が誘ったんだもの」と緑は言っ た。「もちろんあなたが筋金入りのファシストで女に酒なんかおごられたくないと思っ てるんなら話はべつだけど」 「いや、そうは思わないけど」 「それに入れさせてもあげなかったし」 「固くて大きいから」と僕は言った。 「そう」と緑は言った。「固くて大きいから」 緑は少し酔払っていて階段を一段踏み外して、我々はあやうく下まで転げ おちそうになった。店の外に出ると空をうすく覆っていた雲が晴れて、夕暮に近い太 陽が街にやさしく光を注いでいた。僕と緑はそんな街をしばらくぶらぶらと歩いた。 緑は木のぼりがしたいといったが、新宿にはあいにくそんな木はなかったし、新宿御 苑はもう閉まる時間だった。 「残念だわ、私木のぼり大好きなのに」と緑は言った。 緑と二人でウィンドウ・ジョッピングをしながら歩いていると、さっきまでに比べて 街の光景はそれほど不自然には感じられなくなってきた。 「君に会ったおかけで少しこの世界に馴染んだような気がするな」と僕は言っ た。 緑は立ちどまってじっと僕の目をのぞきこんだ。「本当だ。目の焦点もずいぶ
んしっかりしてきたみたい。ねえ、私とつきあってるとけっこ良いことあるでしょ」 「たしかに」と僕は言った。 五時半になると緑は食事の仕度があるのでそろそろ家に帰ると言った。僕は バスに乗って寮に戻ると言った。そして僕は彼女を新宿駅まで送り、そこで別れ た。 「ねえ今私が何やりたいかわかる」と別れ際に緑が僕に訪ねた。 「見当もつかないよ、君の考えることは」と僕は言った。 「あなたと二人で海賊につかまって裸にされて、体を向いあわせにぴったりとか さねあわせたまま紐でぐるぐる巻きにされちゃうの」 「なんでそんなことするの」 「変質的な海賊なのよ、それ」 「君の方がよほど変質的みたいだけどな」と僕は言った。 「そして一時間後には海には放り込んでやるから、それまでその格好でたっぷ り楽しんでなっって船倉に置き去りにされるの」 「それで」 「私たち一時間たっぷり楽しむの。ころころ転がったり、体よじったりして」 「それが君のいちばんやりたいことなの」 「そう」 「やれやれ」と僕は首を振った。 日曜日の朝の九時半に緑は僕を迎えに来た。僕は目がさめたばかりでまだ 顔も洗っていなかった。誰かが僕の部屋をどんどん叩いて、おいワタナベ、女が来 てるぞとどなったので玄関に下りてみると緑が信じられないくらい短いジーンズのス カートをはいてロビーの椅子に座って脚を組み、あくびをしていた。朝食を食べに行 く連中がとおりがけにみんな彼女のすらりとのびた脚をじろじろと眺めていった。彼 女の脚はたしかにとても綺麗だった。 「早すぎたかしら、私」と緑は言った。「ワタナベ君、今起きたばかりみたいじゃ ない」 「これから顔を洗って髭を剃ってくるから十五分くらい待ってくれる」と僕は言っ た。 「待つのはいいけど、さっきからみんな私の脚をじろじろみてるわよ」 「あたりまえじゃないか。男子寮にそんな短いスカートはいてくるだもの。見るに きまってるよ、みんな」 「でも大丈夫よ。今日のはすごく可愛い下着だから。ピンクので素敵なレース 飾りがついてるの。ひらひらっと」 「そういうのが余計にいけないんだよ」と僕はため息をついて言った。そして部 屋に戻ってなるべく急いで顔を洗い、髭を剃った。そしてブルーのボタン・ダウン・
シャツの上にグレーのツイードの上着を着て下に降り、緑を寮の門の外に連れ出し た。冷や汗が出た。 「ねっ、ここにいる人たちがみんなマスターベーションしてるわけシコシコって」と 緑は寮の建物を見上げながら言った。 「たぶんね」 「男の人って女の子のことを考えながらあれやるわけ」 「まあそうだろね」と僕は言った。「株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河 のことを考えながらマスターベーションする男はまあいないだろうね。まあだいたいは 女の子のこと考えてやるじゃないかな」 「スエズ運河」 「たとえば、だよ」 「つまり特定の女の子のことを考えるのね」 「あのね、そういうのは君の恋人に訊けばいいんじゃないの」と僕は言った。「ど うして僕が日曜日の朝から君にいちいちそういうことを説明しなきゃならないんだよ」 「私ただ知りたいのよ」と緑は言った。「それに彼にこんなこと訊いたらすごく怒 るのよ。女はそんなのいちいち訊くもんじゃないだって」 「まあまともな考えだね」 「でも知りたいのよ、私。これは純粋な好奇心なのよ。ねえ、マスターべーショ ンするとき特定の女の子のこと考えるの」 「考えるよ。少くとも僕はね。他人のことまではよくわからないけれど」と僕はあ きらめて答えた。 「ワタナベ君は私のこと考えてやったことある正直に答えてよ、怒らないから」 「やったことないよ、正直な話」と僕は正直に答えた。 「どうして私が魅力的じゃないから」 「違うよ。君は魅力的だし、可愛いし、挑発的な格好がよく似合うよ」 「じゃあどうして私のこと考えないの」 「まず第一に僕は君のことを友だちだと思ってるから、そういうことにまきこみたく ないんだよ。そういう性的な幻想にね。第二に――」 「他に想い浮かべるべき人がいるから」 「まあそういうことだよね」と僕は言った。 「あなたってそういうことでも礼儀正しのね」と緑は言った。「私、あなたのそうい うところ好きよ。でもね、一回くらいちょっと私を出演させてくれないその性的な幻想 だか妄想だかに。私そういうのに出てみたいのよ。これ友だちだから頼むのよ。だって こんなこと他の人に頼めないじゃない。今夜マスターベーションするときちょっと私の こと考えてね、なんて誰にでも言えることじゃないじゃない。あなたをお友だちだと思 えばこそ頼むのよ。そしてどんなだったかあとで教えてほしいの。どんなことしただと か」
僕はため息をついた。 「でも入れちゃ駄目よ。私たちお友だちなんだから。ね入れなければあとは何 してもいいわよ、何考えても」 「どうかな。そういう制約のあるやつってあまりやったことないからねえ」と僕は 言った。 「考えておいてくれる」 「考えておくよ」 「あのねワタナベ君。私のことを淫乱とか欲求不満だとか挑発的だとかいう風 には思わないでね。私ただそういうことにすごく興味があって、すごく知りたいだけな の。ずっと女子校で女の子だけの中で育ってきたでしょ男の人が何を考えて、その 体のしくみがどうなってるのかって、そういうことをすごく知りたいのよ。それも婦人雑 誌のとじこみとかそういうんじゃなくて、いわばケース・スタディーとして」 「ケース・スタディー」と僕は絶望的につぶやいた。 「でも私がいろんなことを知りたがったりやりたがったりすると、彼不機嫌になっ たり怒ったりするの。淫乱だって言って。私の頭が変だって言うのよ。フェラチオだっ てなかなかさせてくれないの。私あれすごく研究してみたいのに」 「ふむ」と僕は言った。 「あなたフェラチオされるの嫌」 「嫌じゃないよ、べつに」 「どちらかというと好き」 「どちらかというと好きだよ」と僕は言った。「でもその話また今度にしない今日 はとても気持の良い日曜の朝だし、マスターベーションとフェラチオの話をしてつぶし たくないんだ。もっと違う話をしようよ。君の彼はうちの大学の人」 「ううん、よその大学よ、もちろん。私たち高校のときのクラブ活動で知りあった の。私は女子校で、彼は男子校で、ほらよくあるでしょう合同コンサートとか、そう いうの。恋人っていう関係になったのは高校出ちゃったあとだけれど。ねえ、ワタナベ 君」 「うん」 「本当に一回でいいから私のことを考えてよね」 「試してみるよ、今度」と僕はあきらめて言った。 我々は駅から電車に乗ってお茶の水まで行った。僕は朝食を食べていなかっ たので新宿駅で乗りかえるときに駅のスタンドで薄いサンドイッチを買って食べ、新 聞のインクを煮たような味のするコーヒ ーを飲んだ。日曜の朝の電車はこれからどこ かに出かけようとする家族連れやカップルでいっぱいだった。揃いのユニフォームを着 た男の子の一群がバットを下げて車内をばたばたと走りまわっていた。電車の中に は短いスカートをはいた女の子が何人もいたけれど、緑くらい短いスカートをはいた
のは一人もいなかった。緑はときどききゅっきゅっとスカートの裾をひっばって下ろし た。何人かの男はじろじろと彼女の太腿を眺めたのでどうも落ちつかなかったが、 彼女の方はそういうのはたいして気にならないようだった。 「ねえ、私が今いちばんやりたいことわかる」と市ヶ谷あたりで緑が小声で言っ た。 「見当もつかない」と僕は言った。「でもお願いだから、電車の中ではその話し ないでくれよ。他の人に聞こえるとまずいから」 「残念ね。けっこうすごいやつなのに、今回のは」と緑はいかにも残念そうに 言った。 「ところでお茶の水に何があるの」 「まあついてらっしゃいよ、そうすればわかるから」 日曜日のお茶の水は模擬テストだか予備校の講習だかに行く中学生や高 校生でいっばいだった。緑は左手でショルダー・バッグのストラップを握り、右手で僕 の手をとって、そんな学生たちの人ごみの中をするすると抜けていった。 「ねえワタナベ君、英語の仮定法現在と仮定法過去の違いをきちんと説明 できる」と突然僕に質問した。 「できると思うよ」と僕は言った。 「ちょっと訊きたいんだけれど、そういうのが日常生活の中で何かの役に立って る」 「日常生活の中で役に立つということはあまりないね」と僕は言った。「でも具 体的に何かの役に立つというよりは、そういうのは物事をより系統的に捉えるため の訓練になるんだと僕は思ってるけれど」 緑はしばらくそれについて真剣な顔つきで考えこんでいた。「あなたって偉いの ね」と彼女は言った。「私これまでそんなこと思いつきもしなかったわ。仮定法だの 微分だの化学記号だの、そんなもの何の役にも立つもんですかとしか考えなかった わ。だからずっと無視してやってきたの、そういうややっこしいの。私の生き方は間 違っていたのかしら」 「無視してやってきた」 「ええそうよ。そういうの、ないものとしてやってきたの。私、サイン、コサインだっ て全然わっかてないのよ」 「それでまあよく高校を出て大学に入れたもんだよね」と僕はあきれて言った。 「あなた馬鹿ねえ」と緑は言った。「知らないの勘さえ良きゃ何も知らなくても 大学の試験なんて受かっちゃうのよ。私すごく勘がいいのよ。次の三つの中から正 しいものを選べなんてパッとわかっちゃうもの」 「僕は君ほど勘が良くないから、ある程度系統的なものの考え方を身につけ る必要があるんだ。鴉が木のほらにガラスを貯めるみたいに」 「そういうのが何か役に立つのかしら」
「どうかな」と僕は言った。「まあある種のことはやりやすくなるだろね」 「たとえばどんなことが」 「形而上的思考、数ヵ国語の習得、たとえばね」 「それが何かの役に立つのかしら」 「それはその人次第だね。役に立つ人もいるし、立たない人もいる。でもそう いうのはあくまで訓練なんであって役に立つ立たないはその次の問題なんだよ。最 初にも言ったように」 「ふうん」と緑は感心したように言って、僕の手を引いて坂道を下りつづけた。 「ワタナベク君って人にもの説明するのがとても上手なのね」 「そうかな」 「そうよ。だってこれまでいろんな人に英語の仮定法は何の役に立つのって質 問したけれど、誰もそんな風にきちんと説明してくれなかったわ。英語の先生でさえ よ。みんな私がそういう質問すると混乱するか、怒るか、馬鹿にするか、そのどれか だったわ。誰もちゃんと教えてくれなかったの。そのときにあなたみたいな人がいてき ちと説明してくれたら、私だって仮定法に興味持てたかもしれないのに」 「ふむ」と僕は言った。 「あなた『資本論』って読んだことある」と緑が訊いた。 「あるよ。もちろん全部は読んでないけど。他の大抵の人と同じように」 「理解できた」 「理解できるところもあったし、できないところもあった。『資本論』を正確に読 むにはそうするための思考システムの習得が必要なんだよ。もちろん総体としての マルクシズムはだいたいは理解できていると思うけれど」 「その手の本をあまり読んだことのない大学の新入生が『資本論』読んですっ と理解できると思う」 「まず無理じゃないかな、そりゃ」と僕は言った。 「あのね、私、大学に入ったときフォークの関係のクラブに入ったの。唄を唄い たかったから。それがひどいインチキな奴らの揃ってるところでね、今思いだしても ゾッとするわよ。そこに入るとね、まずマルクスを読ませられるの。何ベージから何 ベージまで読んでこいってね。フォーク・ソングと社会とラディカルにかかわりあわねば ならぬものであって......なんて演説があってね。で、まあ仕方ないから私一生懸 命マルクス読んだわよ、家に帰って。でも何がなんだか全然わかんないの、仮定法 以上に。三ページで放りだしちゃたわ。それで次の週のミーティングで、読んだけど 何もわかりませんでした、ハイって言ったの。そしたらそれ以来馬鹿扱いよ。問題意 識がないのだの、社会性に欠けるだのね。冗談じゃないわよ。私ただ文章が理解 できなかったって言っただけなのに。そんなのひどいと思わない」 「ふむ」と僕は言った。 「ディスカッションってのがまたひどくってね。みんなわかったような顔してむずかし
い言葉使ってるのよ。それで私わかんないからそのたびに質問したの。『その帝国 主義的搾取って何のことですか東インド会社と何か関係あるんですか』とか、『産 学協同体粉砕って大学を出て会社に就職しちゃいけないってことですか』とかね。 でも誰も説明してくれなかったわ。それどころか真剣に怒るの。そういうのって信じら れる」 「信じられる」 「そんなことわからないでどうするんだよ、何考えて生きてるんだお前これでお しまいよ。そんなのないわよ。そりゃ私そんない頭良くないわよ。庶民よ。でも世の 中を支えてるのは庶民だし、搾取されてるのは庶民じゃない。庶民にわからない 言葉ふりまわして何が革命よ、何が社会変革よ私だってね、世の中良くしたいと 思うわよ。もし誰かが本当に搾取されているのならそれやめさせなくちゃいけないと 思うわよ。だからこの質問するわけじゃない。そうでしょ」 「そうだね」 「そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉 ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手 をつっこむことしか考えてないのよ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短く して三菱商事だのTBSだのIBMだの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクスな んて読んだこともないかわいい奥さんもらって子供にいやみったらしい凝った名前つ けるのよ。何が産学協同体粉砕よ。おかしくって涙が出てくるわよ。他の新入生 だってひどいわよ。みんな何もわかってないのにわかったような顔してへらへらしてる んだもの。そしてあとで私に言うのよ。あなた馬鹿ねえ、わかんなくだってハイハイそ うですねって言ってりゃいいのよって。ねえ、もっと頭に来たことあるんだけど聞いてく れる」 「聞くよ」 「ある日私たち夜中の政治集会に出ることになって、女の子たちはみんな一 人二十個ずつの夜食用のおにぎり作って持ってくることって言われたの。冗談じゃ ないわよ、そんな完全な性差別じゃない。でもまあいつも波風立てるのもどうかと 思うから私何にも言わずにちゃんとおにぎり二十個作っていったわよ。梅干しいれて 海苔まいて。そうしたらあとでなんて言われたと思う小林のおにぎりは中に梅干しし か入ってなかった、おかずもついてなかったって言うのよ。他の女の子のは中に鮭や タラコが入っていたし、玉子焼なんかがついてたりしたんですって。もうアホらしくて声 も出なかったわね。革命云々を論じている連中がなんで夜食のおにぎりのことくら いで騒ぎまわらなくちゃならないのよ、いちいち。海苔がまいてあって中に梅干しが 入ってりゃ上等じゃないの。インドの子供のこと考えてごらんなさいよ」 僕は笑った。「それでそのクラブはどうしたの」 「六月にやめたわよ、あんまり頭にきたんで」と緑は言った。「でもこの大学の 連中は殆んどインチキよ。みんな自分が何かをわかってないことを人に知られるの
が怖くってしようがなくてビクビクした暮らしてるのよ。それでみんな同じような本を読 んで、みんな同じような言葉ふりまわして、ジョン・コルトレーン聴いたりパゾリーニの 映画見たりして感動してるのよ。そういうのが革命なの」 「さあどうかな。僕は実際に革命を目にしたわけじゃないからなんとも言えない よね」 「こういうのが革命なら、私革命なんていらないわ。私きっとおにぎりに梅干し しか入れなかったっていう理由で銃殺されちゃうもの。あなただってきっと銃殺され ちゃうわよ。仮定法をきちんと理解してるというような理由で」 「ありうる」と僕は言った。 「ねえ、私にはわかっているのよ。私は庶民だから。革命が起きようが起きま いが、庶民というのはロクでもないところでぼちぼちと生きていくしかないんだっていう ことが。革命が何よそんなの役所の名前が変わるだけじゃない。でもあの人たちに はそういうのが何もわかってないのよ。あの下らない言葉ふりまわしてる人たちには。 あなた税務署員って見たことある」 「ないな」 「私、何度も見たわよ。家の中にずかずか入ってきて威張るの。何、この帳 簿おたくいい加減な商売やってるねえ。これ本当に経費なの領収書見せなさい よ、領収書、なんてね。私たち隅の方にこそっといて、ごはんどきになると特上のお 寿司の出前とるの。でもね、うちのお父さんは税金ごまかしたことなんて一度もな いのよ。本当よ。あの人そういう人なのよ、昔気質で。それなのに税務署員ってね ちねちねちねち文句つけるのよね。収入がちょっと少なすぎるんじゃないの、これっ て。冗談じゃないわよ。収入が少ないのはもうかってないからでしょうが。そういうの 聞いてると私悔しくってね。もっとお金持ちのところ行ってそういうのやんなさいよって どなりつけたくなってくるのよ。ねえ、もし革命が起ったら税務署員の態度って変る と思う」 「きわめて疑わしいね」 「じゃあ私、革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じないわ」 「ピース」と僕は言った。 「ピース」と緑も言った。 「我々は何処に向かっているんだろう、ところで」と僕は訊いてみた。 「病院よ。お父さんが入院していて、今日いちにち私がつきそってなくちゃいけ ないの。私の番なの」 「お父さん」と僕はびっくりして言った。「お父さんはウルグァイに行っちゃったん じゃなかったの」 「嘘よ、そんなの」と緑はけろりとした顔で言った。「本人は昔からウルグァイに 行くだってわめいてるけど、行けるわけないわよ。本当に東京の外にだってロクに出 られないんだから」
「具合はどうなの」 「はっきり言って時間の問題ね」 我々はしばらく無言のまま歩を運んだ。 「お母さんの病気と同じだからよくわかるよ。脳腫瘍。信じられる二年前にお 母さんそれで死んだばかりなのよ。そしたら今度はお父さんが脳種瘍」 大学病院の中は日曜日というせいもあって見舞客と軽い症状の病人でごだ ごだと混みあっていた。そしてまぎれもない病院の匂いが漂っていた。消毒薬と見 舞いの花束と小便と布団の匂いがひとつになって病院をすっぽりと覆って、看護婦 がコツコツと乾いた靴音を立ててその中を歩きまわっていた。 緑の父親は二人部屋の手前のベットに寝ていた、彼の寝ている姿は深手を 負った小動物を思わせた。横向きにぐったりと寝そべり、点滴の針のささった左腕 だらんとのばしたまま身動きひとつしなかった。やせた小柄な男だったが、これから もっとやせてもと小さくなりそうだという印象を見るものに与えていた。頭には白い包 帯がまきつけられ、青白い腕には注射だか点滴の針だかのあとが点々とついてい た。彼は半分だけ開けた目で空間の一点をぼんやりと見ていたが、僕が入っていく とその赤く充血した目を少しだけ動かして我々の姿を見た。そして十秒ほど見てか らまた空間の一点にその弱々しい視線を戻した。 その目を見ると、この男はもうすぐ死ぬのだということが理解できた。彼の体に は生命力というものが殆んど見うけられなかった。そこにあるものはひとつの生命の 弱々しい微かな痕跡だった。それは家具やら建具やらを全部運び出されて解体 されるのを待っているだけの古びた家屋のようなものだった。乾いた唇のまわりには まるで雑草のようにまばらに不精髭がはえていた。これほど生命力を失った男にも きちんと髭だけははえてくるんだなと僕は思った。 緑は窓側のベットに寝ている肉づきの良い中年の男に「こんにちは」と声をか けた。相手はうまくしゃべれないらしくにっこりと肯いただけだった。彼は二、三度咳 をしてから枕もとに置いてあった水を飲み、それからもそもそと体を動かして横向け になって窓の外に目をやった。窓の外には電柱と電線が見えた。その他には何に も見えなかった。空には雲の姿すらなかった。 「どう、お父さん、元気」と緑が父親の耳の穴に向けってしゃべりかけた。まる でマイクロフォンのテストをしているようなしゃべり方だった。「どう、今日は」 父親はもそもそと唇を動かした。よくないと彼は言った。しゃべるというのではな く、喉の奥にある乾いた空気をとりあえず言葉に出してみたといった風だった。あた まと彼は言った。 「頭が痛いの」と緑が訊いた。 そうと父親が言った。四音節以上の言葉はうまくしゃべれないらしかった。 「まあ仕方ないわね。手術の直後だからそりゃ痛むわよ。可哀そうだけど、もう
少し我慢しなさい」と緑は言った。「この人ワタナベ君。私のお友だち」 はじめまして、と僕は言った。父親は半分唇を開き、そして閉じた。 「そこに座っててよ」と緑はベットの足もとにある丸いビニールの椅子を指した。 僕は言われたとおりそこに腰を下ろした。緑は父親に水さしの水を少し飲ませ、果 物かフルーツ・ゼリーを食べたくないかと訊いた。いらないと父親は言った。でも少し 食べなきゃ駄目よ緑が言うと食べたと彼は答えた。 ベットの枕もとには物入れを兼ねた小テブールのようなものがあって、そこに水 さしやコップや皿や小さな時計がのっていた。緑はその下に置いてあった大きな紙 袋の中から寝巻の着替えや下着やその他細々としたものをとり出して整理し、入 口のわきにあるロッカの中に入れた。紙袋の底の方には病人のための食べものが 入っていた。グレープフルーツが二個とフルーツ・ゼリーとキウリが三本。 「キウリ」と緑がびっくりしたようなあきれた声を出した。「なんでまたキウリなん てものがここにあるのよまったくお姉さん何を考えているかしらね。想像もつかないわ よ。ちゃんと買物はこれこれやっといてくれって電話で言ったのに。キウリ買ってくれな んて言わなかったわよ、私」 「キウイと聞きまちがえたんじゃないかな」と僕は言ってみた。 緑はぱちんと指を鳴らした。「たしかに、キウイって頼んだわよ。それよね。でも 考えりゃわかるじゃないなんで病人が生のキウリをかじるのよお父さん、キウリ食べ たい」 いらないと父親は言った。 緑は枕もとに座って父親にいろんな細々した話をした。TVの映りがわるくなっ て修理を呼んだとか、高井戸のおばさんが二、三日のうち一度見舞にくるって言っ てたとか、薬局の宮脇さんがバイクに乗ってて転がだとか、そういう話だった。父親 はそんな話に対したうんうんと返事をしているだけだった。 「本当に何か食べたくない、お父さん」 いらないと父親は答えた。 「ワタナベ君、グレープフルーツ食べない」 「いらない」と僕も答えた。 少しあとで緑は僕を誘ってTV室に行き、そこのソファーに座って煙草一本 吸った。TV室ではパジャマ姿の病人が三人でやはり煙草を吸いながら政治討論 会のような番組を見ていた。 「ねえ、あそこの松葉杖持ってるおじさん、私の脚をさっきからちらちら見てる のよ。あのブルーのパジャマの眼鏡のおじさん」と緑は楽しそうに言った。 「そりゃ見るさ。そんなスカートはいてりゃみんな見るさ」 「でもいいじゃない。どうせみんな退屈してんだろし、たまには若い女の子の脚 見るのもいいものよ。興奮して回復が早まるんじゃないかしら」 「逆にならなきゃいいけど」と僕は言った。
緑はしばらくまっすぐ立ちのぼる煙草の煙を眺めていた。 「お父さんのことだけどね」緑は言った。「あの人、悪い人じゃないのよ。ときど きひどいこと言うから頭にくるけど、少くとも根は正直な人だし、お母さんのこと心か ら愛していたわ。それにあの人はあの人なりに一所懸命生きてきたのよ。性格もい ささか弱いところがあったし、商売の才覚もなかったし、人望もなかったけど、でもう そばかりついて要領よくたちまわってるまわりの小賢しい連中に比べたらずっとまとも な人よ。私も言いだすとあとに引かない性格だから、二人でしょっちゅう喧嘩してた けどね。でも悪い人じゃないのよ」 緑は何か道に落ちていたものでも拾うみたいに僕の手をとって、自分の膝の 上に置いた。僕の手の半分はスカートの布地の上に、あとの半分は太腿の上に のっていた。彼女はしばらく僕の顔を見ていた。 「あのね、ワタナベ君、こんなところで悪いんだけど、もう少し私と一緒にここに いてくれる」 「五時までは大丈夫だからずっといるよ」と僕は言った。「君と一緒にいるのは 楽しいし、他に何もやることもないもの」 「日曜日はいつも何をしてるの」 「洗濯」と僕は言った。「そしてアイロンがけ」 「ワタナベ君、私にその女の人のことあまりしゃべりたくないでしょそのつきあって いる人のこと」 「そうだね。あまりしゃべりたくないね。つまり複雑だし、うまく説明できそうにな いし」 「いいわよべつに。説明しなくても」と緑は言った。「でも私の想像してること ちょっと言ってみていいかしら」 「どうぞ。君の想像することって、面白そうだから是非聞いてみたいね」 「私はワタナベ君のつきあっている相手は人妻だ思うの」 「ふむ」と僕は言った。 「三十二か三くらいの綺麗なお金持ちの奥さんで、毛皮のコートとかシャル ル・ジュールダンの靴とか絹の下着とか、そういうタイプでおまけにものすごくセックス に飢えてるの。そしてものすごくいやらしいことをするの。平日の昼下がりに、ワタナ ベ君と二人で体を貪りあうの。でも日曜日は御主人が家にいるからあなたと会え ないの。違う」 「なかなか面白い線をついてるね」と僕は言った。 「きっと体を縛らせて、目かくしさせて、体の隅から隅までべろべろと舐めさせた りするのよね。それからほら、変なものを入れさせたり、アクロバートみたいな格好を したり、そういうところをポラロイド・カメラで撮ったりもするの」 「楽しそうだな」 「ものすごく飢えてるからもうやれることはなんだってやっちゃうの。彼女は毎日
毎日考えをめぐらせているわけ。何しろ暇だから。今度ワタナベ君が来たらこんなこ ともしよう、あんなこともしようってね。そしてベットに入ると貪欲にいろんな体位で三 回くらいイッちゃうの。そしてワタナベ君にこう言うの。『どう、私の体って凄いでしょあ なたもう若い女の子なんかじゃ満足できないわよ。ほら、若い子がこんなことやって くれるどう感じるでも駄目よ、まだ出しちゃ』なんてね」 「君はポルノ映画見すぎていると思うね」と僕は笑って言った。 「やっばりそうかなあ」と緑は言った。「でも私、ポルノ映画って大好きなの。今 度一緒に見にいかない」 「いいよ。君が暇なときに一緒に行こう」 「本当すごく楽しみ。SMのやつに行きましょうね。ムチでばしばし打ったり、女 の子にみんなの前でおしっこさせたりするやつ。私あの手のが大好きなの」 「いいよ」 「ねえワタナベ君、ポルノ映画館で私がいちばん好きなもの何か知ってる」 「さあ見当もつかないね」 「あのね、セックス・シーンになるとんね、まわりの人がみんなゴクンって唾を呑 みこむ音が聞こえるの」と緑は言った。「そのゴクンっていう音が大好きなの、私。と ても可愛いくって」 病室に戻ると緑はまた父親に向っていろんな話をし、父親の方はああとかう んとあいづちを打ったり、何にも言わずに黙っていたりした。十一時頃隣りのベット で寝ている男の奥さんがやってきて、夫の寝巻をとりかえたり果物をむいてやったり した。丸顔の人の好さそうな奥さんで、緑と二人でいろいろと世間話をした。看護 婦がやってきて点滴の瓶を新しいものととりかえ、緑と隣りの奥さんと少し話をして から帰っていった。そのあいだ僕は何をするともなく部屋の中をぼんやりと眺めまわ したり、窓の外の電線をみたりしていた。ときどき雀がやってきて電線にとまった。緑 は父親に話しかけ、汗を拭いてやったり、痰をとってやったり、隣りの奥さんや看護 婦と話したり、僕にいろいろ話しかけたり、点滴の具合をチェックしたりしていた。 十一時半に医師の回診があったので、僕と緑は廊下に出て待っていた。医 者が出てくると、緑は「ねえ先生、どんな具合ですか」と訊ねた。 「手術後まもないし痛み止めの処置してあるから、まあ相当消耗はしてるよ な」と医者は言った。「手術の結果はあと二、三日経たんことにはわからんよね、 私にも。うまく行けばうまく行くし、うまく行かんかったらまたその時点で考えよう」 「また頭開くんじゃないでしょうね」 「それはそのときでなくちゃなんとも言えんよな」と医者は言った。「おい今日は えらい短かいスカートはいてるじゃないか」 「素敵でしょ」 「でも階段上るときどうするんだ、それ」と医者が質問した。
「何もしませんよ。ばっちり見せちゃうの」と緑が言って、うしろの看護婦がくすく す笑った。 「君、そのうちに一度入院して頭を開いて見てもらった方がいいぜ」とあきれた ように医者が言った。「それからこの病院の中じゃなるべくエレベーターを使ってくれ よな。これ以上病人増やしたくないから。最近ただでさえ忙しいんだから」 回診が終わって少しすると食事の時間になった。看護婦がワゴンに食事をの せて病室から病室へと配ってまわった。緑の父親のものはポタージュ・スープとフ ルーツとやわらかく煮て骨をとった魚と、野菜をすりつぶしてゼリー状したようなもの だった。緑は父親をあおむけに寝かせ足もとのハンドルをぐるぐるとまわしてベットを 上に起こし、スプーンでスープをすくって飲ませた。父親は五、六口飲んでから顔を そむけるようにして、いらないと言った。 「これくらい、食べなくちゃ駄目よ、あなた」と緑は言った。 父親はあとでと言った。 「しょうがないわね。ごはんちゃんと食べないと元気出ないわよ」と緑が言った。 「おしっこはまだ大丈夫」 ああと父親は答えた。 「ねえワタナベ君、私たち下の食堂にごはん食べに行かない」と緑が言った。 いいよ、と僕は言ったが、正直なところ何かを食べたいという気にはあまりなれ なかった。食堂は医者やら看護婦やら見舞い客やらでごったかえしていた。窓がひ とつもない地下のがらんとしたホールに椅子とテーブルがずらりと並んでいて、そこで みんなが食事をとりながら口ぐちに何かをしゃべっていて――たぶん病気の話だろう ―― それが地下道の中みたいにわんわんと響いていた。ときどきそんな響きを圧し て、医者や看護婦を呼び出す放送が流れた。僕がテーブルを確保しているあいだ に、緑が二人分の定食をアルミニウムの盆にのせて運んできてくれた。クリーム・コ ロッケとポテト・サラダとキャベツのせん切りと煮物とごはんと味噌汁という定食が病 人用のものと同じ白いプラスチックの食器に盛られて並んでいた。僕は半分ほど食 べてあとを残した。緑はおいしそうに全部食べてしまった。 「ワタナベ君、あまりおなかすいてないの」と緑が熱いお茶をすすりながら言っ た。 「うん、あまりね」と僕は言った。 「病院のせいよ」と緑はぐるりを見まわしながら言った。「馴れない人はみんな そうなの。匂い、音、どんよりとした空気、病人の顔、緊張感、荷立ち、失望、苦 痛、疲労――そういうもののせいなのよ。そういうものが胃をしめつけて人の食欲を なくさせるのよ。でも馴れちゃえばそんなのどうってことないのよ。それにごはんしっか り食べておかなきゃ看病なんてとてもできないわよ。本当よ。私おじいさん、おばあ さん、お母さん、お父さんと四人看病してきたからよく知ってるのよ。何かあって次の ごはんが食べられないことだってあるんだから。だから食べられるときにきちんと食べ
ておかなきゃ駄目なのよ」 「君の言ってることはわかるよ」と僕は言った。 「親戚の人が見舞いに来てくれて一緒にここでごはん食べるでしょ、するとみ んなやはり半分くらい残すのよ、あなたと同じように。でね、私がぺロッと食べちゃうと 『ミドリちゃんは元気でいいわねえ。あたしなんかもう胸いっぱいでごはん食べられな いわよ』って言うの。でもね、看病してるのはこの私なのよ。冗談じゃないわよ。他 の人はたまに来て同情するだけじゃない。ウンコの世話したり痰をとったり体拭いて あげたりするのはこの私なのよ。同情するでけでウンコがかたづくんなら、私みんな の五十倍くらい同情しちゃうわよ。それなのに私がごはん全部食べるとみんな私の ことを非難がましい目で見て『ミドリちゃんは元気でいいわねえ』だもの。みんなは 私のことを荷車引いてるロバか何かみたいに思ってるのかしら。いい年をした人たち なのにどうしてみんな世の中のしくみってものがわかんないかしら、あの人たち口で なんてなんとでも言えるのよ。大事なのはウンコをかたづけるかかたづけないかなの よ。私だって傷つくことはあるのよ。私だってヘトヘトになることはあるのよ。私だって 泣きたくなることあるのよ。なおる見こみもないのに医者がよってたかって頭切って 開いていじくりまわして、それを何度もくりかえし、くりかえすたびに悪くなって、頭が だんだんおかしくなっていって、そういうの目の前でずっと見ててごらんなさいよ、たま らないわよ、そんなの。おまけに貯えはだんだん乏しくなってくるし、私だってあと三 年半大学に通えるかどうかもわかんないし、お姉さんだってこんな状態じゃ結婚式 だってあげられないし」 「君は週に何日くらいここに来てるの」と僕は訊いてみた。 「四日くらいね」と緑は言った。「ここは一応完全看護がたてまえなんだけれど 実際には看護婦さんだけじゃまかないきれないのよ。あの人たち本当によくやってく れるわよ、でも数は足りないし、やんなきゃいけないことが多すぎるのよ。だからどし ても家族がつかざるを得ないのよ、 ある程度。お姉さんは店をみなくちゃいけないし、大学の授業のあいまをぬっ て私が来なきゃしかたないでしょ。お姉さんがそれでも週に三日来て、私が四日く らい。そしてその寸暇を利用してデートしてるの、私たち。過密なスケジュールよ」 「そんなに忙しいのに、どうしてよく僕に会うの」 「あなたと一緒にいるのが好きだからよ」と緑は空のプラスチックの湯のみ茶碗 をいじりまわしながら言った。 「二時間ばかり一人でそのへん散歩してきなよ」と僕は言った。「僕がしばらく お父さんのこと見ててやるから」 「どうして」 「少し病院を離れて、一人でのんびりしてきた方がいいよ。誰とも口きかない で頭の中を空 っぽにしてさ」
緑は少し考えていたが、やがて肯いた。「そうね。そうかもしれないわね。でも あなたやり方わかる世話のしかた」 「見てたからだいたいわかると思うよ。点滴をチェックして、水を飲ませて、汗を 拭いて、痰をとって、しびんはベットの下にあって、腹が減ったら昼食の残りを食べさ せる。その他わからないことは看護婦さんに訊く」 「それだけわかってりゃまあ大丈夫ね」と緑は微笑んで言った。「ただね、あの 人今ちょっと頭がおかしくなり始めてるからときどき変なこと言いだすのよ。なんだか よくわけのわからないことを。もしそういうこと言ってもあまり気にしないでね」 「大丈夫だよ」と僕は言った。 病室に戻ると緑は父親に向かって自分はあるのでちょっと外出してくる、その あいだこの人が面倒を見るからと言った。父親はそれについてはとくに感想は持た なかったようだった。あるいは緑の言ったことを全く理解してなかったのかもしれな い。彼はあおむけになって、じっと天井を見つめていた。ときどきまばたきしなけれ ば、死んでいると言っても通りそうだった。目は酔払ったみたいに赤く血ばしってい て、深く息をすると鼻がかすかに膨らんだ。彼はもうびくりとも動かず、緑が話しかけ ても返事をしようとはしなかった。彼がその混濁した意識の底で何を想い何を考え ているのか。僕には見当もつかなった。 緑が行ってしまったあとで僕は彼に何か話しかけてみようかとも思ったが、何を どう言えばいいのかわからなかったので、結局黙っていた。するとそのうちに彼は目 を閉じて眠ってしまった。僕は枕もとの椅子に座って、彼がこのまま死んでしまわな いように祈りながら、鼻がときどきぴくぴくと動く様を観察していた。そしてもし僕がつ きそっているときにこの男が息引きとってしまったらそれは妙なものだろうなと思った。 だって僕はこの男にさっきはじめて会ったばかりだし、この男と僕を結びつけいるのは 緑だけで、緑と僕は「演劇史II」で同じクラスだいうだけの関係にすぎないのだ。 しかし彼は死にかけてはいなかった。ただぐっすりと眠っているだけだった。耳を 顔に近づけると微かな寝息が聞こえた。それで僕は安心して隣りの奥さんと話をし た。彼女は僕のことを緑の恋人だと思っているらしく、僕にずっと緑の話をしてくれ た。 「あの子、本当に良い子よ」彼女は言った。「とてもよくお父さんの面倒をみて るし、親切でやさしいし、よく気がつくし、しっかりしてるし、おまけに綺麗だし。あな た、大事にしなきゃ駄目よ。放しちゃだめよ。なかなかあんな子いないんだから」 「大事にします」と僕は適当に答えておいた。 「うちは二十一の娘と十七の息子がいるけど。病院になんて来やしないわ よ。休みになるとサーフィンだ、デートだ、なんだかんだってどこかに遊びに行っちゃっ てね。ひどいもんよねえ。おこづかいしぼれるだけしぼりっとて、あとはポイだもん」 一時半になると奥さんはちょっと買物してくるからと言って病室を出て行った。
病人は二人ともぐっそり眠っていた。午後の穏やかな日差しが部屋の中にたっぷり と入りこんでいて、僕も丸椅子の上で思わず眠り込んでしまいそうだった。窓辺の テーブルの上には白と黄色の菊の花が花瓶にいけられていて、今は秋なのだと 人々に教えていた。病室には手つかずで残された昼食の煮魚の甘い匂いが漂っ ていた。看護婦たちはあいかわらずコツコツという音を立てて廊下を歩きまわり、 はっきりとしたよく通る声で会話をかわしていた。彼女たちはときどき病室にやってき て、患者が二人ともぐっすり眠っているのを見ると、僕に向かってにっこり微笑んで から姿を消した。何か読むものがあればと思ったが、病室には本も雑誌も新聞も 何にもなかった。カレンダーが壁にかかっているだけだった。 僕は直子のことを考えた。髪どめしかつけていない直子の裸体のことを考え た。腰のくびれと陰毛のかげりのことを考えた。どうして彼女は僕の前で裸になった りしたのだろうあのとき直子は夢遊状態にあったのだろうかそれともあれは僕の幻想 にすぎなかったのだろうか時間が過ぎ、あの小さな世界から遠く離れれば離れるほ ど、その夜の出来事が本当にあったことなのかどうか僕にはだんだんわからなくなっ てきていた。本当にあったことなんだと思えばたしかにそうだという気がしたし、幻想 なんだと思えば幻想であるような気がした。幻想であるにしてはあまりにも細部が くっきりとしていたし、本当の出来事にしては全てが美しすぎた。あの直子の体も 月の光も。 緑の父親が突然目を覚まして咳をはじめたので、僕の思考はそこで中断し た。僕ティッシュ・ペーパーで痰を取ってやり、タオルで額の汗を拭いた。 「水を飲みますか」と僕が訊くと、彼は四ミリくらい肯いた。小さなガラスの水さ しで少しずつゆっくり飲ませると、乾いた唇が震え、喉がびくびくと動いた。彼は水さ しの中のなまぬるそうな水を全部飲んだ。 「もっと飲みますか」と僕は訊いた。彼は何か言おうとしているようなので、僕 は耳を寄せてみた。もういいと彼は乾いた小さな声で言った。その声はさっきより もっと乾いて、もっと小さくなっていた。 「何か食べませんか腹減ったでしょうう」と僕は訊いた。父親はまた小さく肯い た。僕は緑がやっていたようにハンドルをまわしてベットを起こし、野菜のゼリーと煮 魚をスプーンでかわりばんこにひと口ずつすくって食べさせた。すごく長い時間をかけ てその半分ほどを食べてから、もういいという風に彼は首を小さく横に振った。頭を 大きく動かすと痛みがあるらしく、ほんのちょっとしか動かさなかった。フルーツはどう するかと訊くと彼はいらないと言った。僕はタオルで口もとを拭き、ベットを水平に戻 し、食器を廊下に出しておいた。 「うまかったですか」と僕は訊いてみた。 まずいと彼は言った。 「うん、たしかにあまりうまそうな代物ではないですね」と僕は笑って言った。父 親は何も言わずに、閉じようか開けようか迷っているような目でじっと僕を見てい
た。この男は僕が誰だかわかっているのかなと僕はふと思った。彼はなんとなく緑と いるときより僕と二人になっているときの方がリラックスしているように見えたからだ。 あるいは僕のことを他の誰かと間違えているのかもしれなかった。もしそうだとすれば 僕にとってはその方が有難かった。 「外は良い天気ですよ、すごく」と僕は丸椅子に座って脚を組んで言った。 「秋で、日曜日で、お天気で、どこに行っても人でいっばいですよ。そういう日にこ んな風に部屋の中でのんびりしているのがいちばんですね、疲れないですむし。混 んだところ行ったって疲れるだけだし、空気もわるいし。僕は日曜日だいたい洗濯 するんです。朝に洗って、寮の屋上に干して、夕方前にとりこんでせっせとアイロン をかけます。アイロンかけるの嫌いじゃないですね、僕は。くしゃくしゃのものがまっす ぐになるのって、なかなかいいもんですよ、あれ。僕アイロンがけ、わりに上手いんで す。最初のうちはもちろん上手くいかなかったですよ、なかなか。ほら、筋だらけに なっちゃったりしてね。でも一か月やってりゃ馴れちゃいました。そんなわけで日曜日 は洗濯とアイロンがけの日なんです。今日はできませんでしたけどね、残念です ね、こんな絶好の洗濯日和なのにね。 でも大丈夫ですよ。朝早く起きて明日やりますから。べつに気にしなくってい いです。日曜日ったって他にやること何もないんですから。 明日の朝洗濯して干してから、十時の講義に出ます。この講義はミドリさん と一緒なんです。『演劇史II』で、今はエウリビデスをやっています。エウリビデス 知ってますか昔のギリシャ人で、アイスキュロス、ソフォクレスならんでギリシャ悲劇の ビッグ・スリーと言われています。最後はマケドニアで犬に食われて死んだということ になっていますが、これには異説もあります。これがエウリビデスです。僕はソフォクレ スの方が好きですけどね、まあこれは好みの問題でしょうね。だからなんとも言えな いです。 彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して身働きがとれなく なってしまうことなんです。わかりますかいろんな人が出てきて、そのそれぞれにそれ ぞれの事情と理由と言いぶんがあって、誰もがそれなりの正義と幸福を追求してい るわけです。そしてそのおかげで全員がにっちもさっちもいかなくなっちゃうんです。そ りゃそうですよね。みんなの正義がとおって、みんなの幸福が達成されるということは 原理的にありえないですからね、だからどうしようもないカオスがやってくるわけです。 それでどうなると思いますこれがまた実に簡単な話で、最後に神様が出てくるんで す。そして交通整理するんです。お前あっち行け、お前こっち来い、お前あれと一 緒になれ、お前そこでしばらくじっとしてろっていう風に。フィクサーみたいなもんです ね。そして全てはぴたっと解決します。これはデウス・エクス・マキナと呼ばれていま す。エウリビデスの芝居にはしょっちゅうこのデウス・エクス・マキナが出てきて、そのあ たりでエウリビデスの評価がわかれるわけです。 しかし現実の世界にこういうデウウ・エクス・マキナというのがあったとしたら、こ
れは楽でしょうね。困ったな、身動きとれないなと思ったら神様が上からするすると 降りてきて全部処理してくれるわけですからね。こんな楽なことはない。でもまあと にかくこれが『演劇史II』です。我々はまあだいたい大学でこういうことを勉強して ます」 僕がしゃべっているあいだ緑の父親は何も言わずにぼんやりとした目で僕を 見ていた。僕のしゃべっていることを彼がいささかなりとも理解しているのかどうかそ の目から判断できなかった。 「ピース」と僕は言った。 それだけしゃべってしまうと、ひどく腹が減ってきた。朝食を殆んど食べなかった 上に、昼の定食も半分残してしまったからだ。僕は昼をきちんと食べておかなかっ たことをひどく後悔したが、後悔してどうなるどういうものでもなかった。何か食べも のがないかと物入れの中を探してみたが、海苔の缶とヴィックス・ドロップと醤油が あるだけだった。紙袋の中にキウリとグレープフルーツがあった。 「腹が減ったんでキウリ食べちゃいますけどかまいませんかね」と僕は訊ねた。 緑の父親は何も言わなかった。僕は洗面所で三本のキウリを洗った。そして 皿に醤油を少し入れ、キウリに海苔を巻き、醤油をつけてぽりぽりと食べた。 「うまいですよ」と僕は言った。「シンプルで、新鮮で、生命の香りがします。い いキウリですね。キウイなんかよりずっとまともな食いものです」 僕は一本食べてしまうと次の一本にとりかかった。ぽりぽりというとても気持の 良い音が病室に響きわたった。キウリを丸ごとと二本食べてしまうと僕はやっと一息 ついた。そして廊下にあるガス・コンロで湯をかわし、お茶を入れて飲んだ。 「水かジュース飲みますか」と僕は訊いてみた。 キウリと彼は言った。 僕はにっこり笑った。「いいですよ。海苔つけますか」 彼は小さく肯いた。僕はまたベットを起こし、果物ナイフで食べやすい大きさ に切ったキウリに海苔を巻き、醤油をつけ、楊子に刺して口に運んでやった。彼は 殆んど表情を変えずにそれを何度も何度も噛み、そして呑みこんだ。 うまいと彼は言った。 「食べものがうまいっていいもんです。生きている証しのようなもんです」 結局彼はキウリを一本食べてしまった。キウリを食べてしまうと水を飲みたがっ たので、僕はまた水さしで飲ませてやった。水を飲んで少しすると小便したいと言っ たので、僕はベットの下からしびんを出し、その口をベニスの先にあててやった。僕 は便所に行って小便を捨て、しびんを水で洗った。そして病室に戻ってお茶の残り を飲んだ。 「気分どうですか」と僕は訊いてみた。 すこしと彼は言った。アタマ 「頭が少し痛むんですか」
そうだ、というように彼は少し顔をしかめた。 「まあ手術のあとだから仕方ありませんよね。僕は手術なんてしたことないから どういうもんだかよくわからないけれど」 キップと彼は言った。 「切符なんの切符ですか」 ミドリと彼は言った。キップ 何のことかよくわからなかったので僕は黙っていた。彼もしばらく黙っていた。そ れからタノムと言った。「頼む」ということらしかった。彼しっかりと目を開けてじっと僕 の顔を見ていた。彼は僕に何かを伝えたがっているようだったが、その内容は僕に は見当もつかなかった。 ウエノと彼は言った。ミドリ 「上野駅ですか」 彼は小さく肯いた。 「切符・緑・頼む・上野駅」と僕はまとめてみた。でも意味はさっぱりわからな かった。たぶん意識が混濁しているのだろうと僕は思ったが、目つきがさっきに比べ ていやにしっかりしていた。彼は点滴の針がささっていない方の手を上げて僕の方 にのばした。そうするにはかなりの力が必要であるらしく、手は空中でぴくぴくと震え ていた。僕は立ちあがってそのくしゃくしゃとした手を握った。彼は弱々しく僕の手を 握りかえし、タノムとくりかえした。 切符のことも緑さんもちゃんとしますから大丈夫です、心配しなくてもいいです よ、と僕が言うと彼は手を下におろし、ぐったりと目を閉じた。そして寝息を立てて 眠った。僕は彼が死んでいないことをたしかめてから外に出て湯をわかし、またお茶 を飲んだ。そして自分がこの死にかけている小柄な男に対して好感のようなものを 抱いていることに気づいた。 少しあとで隣りの奥さんが戻ってきて大丈夫だったと僕に訊ねた。ええ大丈 夫ですよ、と僕は答えた。彼女の夫もすうすうと寝息を立てて平和そうに眠ってい た。 緑は三時すぎに戻ってきた。 「公園でぼおっとしてたの」と彼女は言った。「あなたに言われたように、一人 で何もしゃべらずに、頭の中を空っぽにして」 「どうだった」 「ありがとう。とても楽になったような気がするわ。まだ少しだるいけれど、前に 比べるとずいぶん体が軽くなったもの。私、自分自身で思っているより疲れてたみ たいね」 父親はぐっすり眠っていたし、とくにやることもなかったので、我々は自動販売 機のコーヒ ーを買ってTV室で飲んだ。そして僕は緑に、彼女のいないあいだに起っ
た出来事をひとつひとつ報告した。ぐっすり眠って起きて、昼食の残りを半分食 べ、僕がキウリをかじっていると食べたいと言って一本食べ、小便して眠った、と。 「ワタナベ君、あなたってすごいわね」と緑は感心して言った。「あの人ものを 食べなくてそれでみんなすごく苦労してるのに、キウリまで食べさせちゃうんだもの。 信じられないわね、もう」 「よくわからないけれど、僕がおいしそうにキウリを食べてたせいじゃないかな」と 僕は言った。 「それともあなたには人をほっとさせる能力のようなものがあるのかしら」 「まさか」と言って僕は笑った。「逆のことを言う人間はいっばいいるけれどね」 「お父さんのことどう思った」 「僕は好きだよ。とくに何を話したってわけじゃないけれど、でもなんとなく良さ そうな人だっていう気はしたね」 「おとなしかった」 「とても」 「でもね一週間前は本当にひどかったのよ」と緑は頭を振りながら言った。 「ちょっと頭がおかしくなっててね、暴れたの。私にコップ投げつけてね、馬鹿野郎、 お前なんか死んじまえって言ったの。この病気ってときどきそういうことがあるの。どう してだかわからないけれど、ある時点でものすごく意地わるくなるの。お母さんのとき もそうだったわ。お母さんが私に向ってなんて言ったと思うお前は私の子じゃない し、お前のことなんか大嫌いだって言ったのよ。私、目の前が一瞬真っ暗になっ ちゃった。そういうのって、この病気の特徴なのよ。何かが脳のどこかを圧迫して、 人を荷立たせて、それであることないこと言わせるのよ。それはわかっているの、私 にも。でもわかっていても傷つくわよ、やはり。これだけ一所懸命やっていて、その上 なんでこんなこと言われなきゃならないんだってね。情なくなっちゃうの」 「わかるよ、それは」と僕は言った。それから僕は緑の父親がわけのわからいこ とを言ったのを思いだした。 「切符、上野駅」と緑は言った。「なんのことかしらよくわからないわね」 「それから頼むミドリって」 「それは私のことを頼むって言ったんじゃないの」 「あるいは君に上に駅に切符を買いにいってもらいたいのかもしれないよ」と僕 は言った。「とにかくその四つの言葉の順番がぐしゃぐしゃだから意味がよくわからな いんだ。上野駅で何か思いあたることない」 「上野駅......」と言って緑は考えこんだ。「上野駅で思いだせるといえば私が 二回家出したことね。小学校三年のときと五年のときで、どちらのときも上野から 電車に乗って福島まで行ったの。レジからお金とって。何かで頭に来て、腹いせで やったのよ。福島に伯母の家があって、私その伯母のことわりに好きだったんで、そ こに行ったのよ。そうするとお父さんが私を連れて帰るの。福島まで来て。二人で
電車に乗ってお弁当を食べながら上野まで帰るのよ。そういうときね、お父さんは すごくポツポツとだけれど、私にいろんな話してくれるの。関東大震災のときの話だ とか、戦争のときの話だとか、私が生まれた頃の話だとか、そういう普段あまりしたこ とないよう話ね。考えてみたら私とお父さんが二人きりでゆっくり話したのなんてその ときくらいだったわね。ねえ、信じられるうちのお父さん、関東大震災のとき東京の どまん中にいて地震のあったことすら気がつかなかったのよ」 「まさか」と僕は唖然として言った。 「本当なのよ、それ。お父さんはそのとき自転車にリヤカーつけて小石川のあ たり走ってたんだけど、何も感じなかったんですって。家に帰ったらそのへん瓦がみん な落ちて、家族は柱にしがみついてガタガタ震えてたの。それでお父さんはわけわ からなくて『何やってるんだ、いったい』って訊いたんだって。それがお父さんの関東 大震災の思い出話」緑はそう言って笑った。 「お父さんの思い出話ってみんなそんな風なの。全然ドラマティックじゃないの ね。みんなどこかずれてるのよ、コロッて。そういう話を聞いているとね、この五十年 か六十年くらい日本にはたいした事件なんか何ひとつ起らなかったような気になっ てくるの。二・二六事件にしても太平洋戦争にしても、そう言えばそういうのあっ たっけなあっていう感じなの。おかしいでしょう そういう話をポツポツとしてくれるの。福島から上野に戻るあいだ。そして最後 にいつもこういうの。どこいったって同じだぞ、ミドリって。そう言われるとね、子供心に そうなのかなあって思ったわよ」 「それが上野駅の思い出話」 「そうよ」と緑は言った。「ワタナベ君は家出したことある」 「ないね」 「どうして」 「思いつかなかったんだよ。家出するなんて」 「あなたって変わってるわね」と緑は首をひねりながら感心したように言った。 「そうかな」と僕は言った。 「でもとにかくお父さんはあなたに私のこと頼むって言いたかったんだと思うわ よ」 「本当」 「本当よ。私にはそういうのよくわかるの、直感的に。で、あなたなんて答えた の」 「よくわからないから、心配ない、大丈夫、緑ちゃんも切符もちゃんとやるから 大丈夫ですって言っといたけど」 「じゃあお父さんにそう約束したのね私の面倒みるって」緑はそう言って真剣 な顔つきで僕の目をのぞきこんだ。 「そうじゃないよ」と僕はあわてて言いわけした。「何がなんだかそのときよくわか
らなかったし――」 「大丈夫よ、冗談だから。ちょっとからかっただけよ」緑はそう言って笑った。「あ なたってそいうところすごく可愛いのね」 コーヒ ーを飲んでしまうと僕と緑は病室に戻った。父親はまだぐっすりと眠って いた。耳を近づけると小さな寝息が聞こえた。午後が深まるにつれて窓の外の光 はいかにも秋らしいやわらかな物静かな色に変化していった。鳥の群れがやってき て電線にとまり、そして去っていた。僕と緑は部屋の隅に二人で並んで座って、小 さな声でいろんな話をした。彼女は僕の手相を見て、あなたは百五歳まで生きて 三回結婚して交通事故で死ぬと予言した。悪くない人生だな、と僕は言った。 四時すぎに父親が目をさますと、緑は枕もとに座って、汗を拭いたり、水を飲 ませたり頭の痛みのことを訊いたりした。看護婦がやってきた熱を測り、小便の回 数をチェックし点滴の具合をたしかめた。僕はTV室のソファーに座ってサッカー中 継を少し見た。 「そろそろ行くよ」と五時に僕は言った。それから父親に向かって「今からアル バイト行かなきゃならないんです」と説明した。「六時から十時半まで新宿でレコー ド売るんです」 彼は僕の方に目を向けて小さく肯いた。 「ねえ、ワタナベ君。私今あまりうまく言えないんだけれど、今日のことすごく感 謝してるのよ。ありがとう」と玄関のロビーで緑が僕に言った。 「それほどのことは何もしてないよ」と僕は言った。「でももし僕で役に立つのな らまた来週も来るよ。君のお父さんにももう一度会いたいしね」 「本当」 「どうせ寮にいたってたいしたやることもないし、ここにくればキウリも食べられ る」 緑は腕組みをして、靴のかかとでリノリウムの床をとんとんと叩いていた。 「今度また二人でお酒飲みに行きたいな」と彼女はちょっと首をかしげるように して言った。 「ポルノ映画」 「ポルノ見てからお酒飲むの」と緑は言った。「そしていつものように二人でいっ ばいいやらしい話をするの」 「僕はしてないよ。君がしてるんだ」と僕は抗議した。 「どっちだっていいわよ。とにかくそういう話をしながらいっばいお酒飲んでぐでん ぐでんに酔払って、一緒に抱きあって寝るの」 「そのあとはだいたい想像つくね」と僕はため息をついて言った。「僕がやろうと すると、君が拒否するんだろう」 「ふふん」と彼女は言った。 「まあとにかくまた今朝みたいに朝迎えに来たくれよ、来週の日曜日に。一緒
にここに来よう」 「もう少し長いスカートはいて」 「そう」と僕は言った。 でも結局その翌週の日曜日、僕は病院に行かなかった。緑の父親が金曜 日の朝に亡くなってしまったからだ。 その朝の六時半に緑が僕に電話で、それを知らせた。電話がかかってきてい ることを教えるブザーが鳴って、僕はパジャマの上にカーディガンを羽織ってロビーに 降り、電話をとった。冷たい雨が音もなく降っていた。お父さんさっき死んじゃった の、と小さな静かな声で緑が言った。何かできることあるかな、と僕は訊いてみた。 「ありがとう、大丈夫よ」と緑は言った。「私たちお葬式に馴れてるの。ただあ なたに知せたかっただけなの」 彼女はため息のようなものをついた。 「お葬式には来ないでね。私あれ嫌いなの。ああいうところであなたに会いたく ないの」 「わかった」と僕は言った。 「本当にポルノ映画につれてってくれる」 「もちろん」 「すごくいやらしいやつよ」 「ちゃんとっ探しておくよ、そういうのを」 「うん。私の方から連絡するわ」と緑は言った。そして電話を切った。 しかしそれ以来一週間、彼女からは何の連絡もなかった。大学の教室でも 会わなかったし、電話もかかってこなかった。寮に帰るたびに僕への伝言メモがない かと気にして見ていたのだが、僕への電話はただの一本もかかってはこなかった。 僕はある夜、約束を果たすために緑のことを考えながらマスターベーションをしてみ たのだったがどうもうまくいかなかった。仕方なく途中で直子に切りかえてみたのだ が、直子のイメージも今回はあまり助けにならなかった。それでなんとなく馬鹿馬鹿 しくなってやめてしまった。そしてウィスキーを飲んで、歯を磨いて寝た。 日曜日の朝、僕は直子に手紙を書いた。僕は手紙の中で緑の父親のこと 書いた。僕はその同じクラスの女の子の父親の見舞いに行って余ったキウリをか じった。すると彼もそれを欲しがってぽりぽりと食べた。でも結局その五日後の朝に 彼は亡くなってしまった。僕は彼がキウリを噛むときのポリ、ポリという小さな音を今 でもよく覚えている。人の死というものは小さな奇妙な思い出をあとに残していくも のだ、と。 朝目を覚ますと僕はベットの中で君とレイコさんと鳥小屋のことを考えると僕
は書いた。孔雀や鴉やオウムや七面鳥、そしてウサギのことを。雨の朝に君たちが 着ていたフードつきの黄色い雨合羽のことも覚えています。あたたかいベットの中で 君のことを考えているのはとても気持の良いものです。まるで僕のとなりに君がい て、体を丸めてぐっすり眠っているような気がします。そしてそれがもし本当だったら どんなに素敵だろうと思います。 ときどきひどく淋しい気持になることはあるにせよ、僕はおおむね元気に生きて います。君が毎朝鳥の世話をしたり畑仕事をしたりするように、僕も毎朝僕自身 のねじを巻いています。ベットから出て歯を磨いて、髭を剃って、朝食を食べて、服 を着がえて、寮の玄関を出て大学につくまでに僕はだいたい三十六回くらいコリコ リとねじを巻きます。さあ今日も一日きちんと生きようと思うわけです。自分では気 がつかなかったけれど、僕は最近よく一人言を言うそうです。たぶんねじを巻きなが らぶつぶつと何か言ってるのでしょう。 君に会えないのは辛いけれど、もし君がいなかったら僕の東京での生活は もっとひどいことになっていたと思う。朝ベットの中で君のことを考えればこそ、さあね じを巻いてきちんと生きていかなくちゃとと僕は思うのです。君がそこできちんとやって いるように僕もここできちんとやっていかなくちゃと思うのです。 でも今日は日曜日でね、ねじを巻かない朝です。洗濯をすませてしまって、 今は部屋で手紙を書いています。この手紙を書き終えて切手を貼ってポストに入 れてしまえば夕方まで何もありません。日曜には勉強もしません。僕は平日の講 義のあいまに図書室でかなりしっかりと勉強しているので、日曜日には何もするこ とがないのです。日曜日の午後は静かで平和で、そして孤独です。 僕は一人で本を読んだり音楽を聴いたりしています。君が東京にいた頃の 日曜日に二人で歩いた道筋をひとつひとつ思いだしてみることもあります。君が着 ていた服なんかもずいぶんはっきりと思いだせます。日曜日の午後には僕は本当 にいろんなことを思いだすのです。 レイコさんによろしく。僕は夜になると彼女のギターがとてもなつかしくなりま す。 僕は手紙を書いてしまうとそれを二百メートルほど離れたところにあるポストに 入れ、近くのパン屋で玉子のサンドイッチとコーラを買って、公園のベンチに座って 昼飯がわりにそれを食べた。公園では少年野球をやっていたので、僕は暇つぶし にそれを見ていた。空は秋の深まりとともにますます青く高くなり、ふと見あげると二 本の飛行機雲が電車の線路みたいに平行にまっすぐ西に進んでいくのが見えた。 僕の近くに転がってきたファウル・ボールを投げ返してやると子供たちは帽子をとっ てありがとうございますと言った。大方の少年野球がそうであるように四球と盗塁の 多いゲームだった。 午後になると僕は部屋に戻って本を読み、本に神経が集中できなくなると天
井を眺めて緑のことを思った。そしてあの父親は本当に僕に緑のことをよろしく頼む と言おうとしたのだろうかと考えてみた。でももちろん彼が本当に何を言いたかったか ということは僕には知りようもなかった。たぶん彼は僕を他の誰かと間違えていたの だろう。いずれにせよと冷たい雨の降る金曜日の朝に彼は死んでしまったし、本当 はどうだったのかたしかめようもなくなってしまった。おそらく死ぬときの彼はもっと小さ く縮んでいたのだろうと僕は想像した。そして高熱炉で焼かれて灰だけになってし まったのだ。彼があとに残したものといえば、あまりぱっとしない商店街の中のあまり ぱっとしない本屋と二人の――少くともそのうちの一人はいささか風変りな――娘 だけだった。それはいったいどのような人生だったんだろう、と僕は思った。彼は病院 のベットの上で、切り裂かれて混濁した頭を抱え、いったいどんな思いで僕を見て いたのだろう そんな風に緑の父親のことを考えているとだんだんやるせない気持になってき たので、僕は早めに屋上の洗濯ものをとりこんで新宿に出て街を歩いて時間をつ ぶすことにした。混雑した日曜日の街は僕をホッとさせてくれた。僕は通勤電車み たいに混みあった紀伊国屋書店でフォークナーの『八月の光』を買い、なるべく音 の大きそうなジャズ喫茶に入ってオーネット・コールマンだのパド・パウエルだののレ コードを聴きながら熱くて濃くてまずいコーヒ ーうを飲み、買ったばかりの本を読ん だ。五時半になると僕は本を閉じて外に出て簡単な夕食を食べた。そしてこの先 こんな日曜日をいったい何十回、何百回くりかえすことになるのだろうとふと思っ た。「静かで平和で孤独な日曜日」と僕は口に出して言ってみた。日曜日には僕 はねじを巻かないのだ。 第八章 その週の半ばに僕は手のひらをガラスの先で深く切ってしまった。レコード棚の ガラスの仕切りが割れていることに気がつかなかったのだ。自分でもびっくりするくら い血がいっぱい出て、それがぽたぽたと下にこぼれ、足もとの床が真っ赤になった。 店長がタオルを何枚が持ってきてそれを強く巻いて包帯がわりにしてくれた。そして 電話をかけて夜でも開いている救急病院の場所を訊いてくれた。ろくでもない男 だったが、そういう処置だけは手ばやかった。病院は幸い近くにあったが、そこに着く までにタオルは真っ赤に染まって、はみでた血がアスファルトの上にこぼれた。人々 はあわてて道をあけてくれた。彼らは喧嘩か何かの傷だと思ったようだった。痛みら しい痛みはなかった。ただ次から次へと血が出てくるだけだった。 医者は無感動に血だらけのタオルを取り、手首をぎゅっとしばって血を止め傷 口を消毒してから縫い合わせ、明日また来なさいと言った。レコード店に戻ると、お 前もう家帰れよ、出勤にしといてやるから、と店長が言った。僕はバスに乗って寮に 戻った。そして永沢さんの部屋に行ってみた。怪我のせいで気が高ぶっていて誰か と話がしたかったし、彼にもずいぶん長く会っていないような気がしたからだ。
彼は部屋にいて、TVのスペイン語講座を見ながら缶ビールを飲んでいた。 彼は僕の包帯を見て、お前それどうしたんだよと訊いた。ちょっと怪我したのだがた いしたことはないと僕は言った。ビール飲むかと彼が訊いて、いらないと僕は言った。 「これもうすぐ終るから待ってろよ」と永沢さんは言って、スペイン語の発音の 練習をした。僕は自分で湯をわかし、ティーバッグで紅茶を作って飲んだ。スペイン 人の女性が例文を読みあげた。「こんなひどい雨ははじめてですわ。バルセロナで は橋がいくつも流されました」。永沢さんは自分でもその例文を読んで発音してか ら「ひどい例文だよな」と言った。「外国語講座の例文ってこういうのばっかりなんだ からまったく」 スペイン語講座が終ると永沢さんはTVを消し、小型の冷蔵庫からもう一本 ビールを出して飲んだ。 「邪魔じゃないですか」と僕は訊いてみた。 「俺全然邪魔じゃないよ。退屈してたんだ。本当にビールいらない」 いらないと僕は言った。 「そうそう、このあいだ試験の発表あったよ。受かってたよ」と永沢さんが言っ た。 「外務省の試験」 「そう、正式には外務公務員採用一種試験っていうんだけどね、アホみたい だろ」 「おめでとう」と僕は言って左手をさしだして握手した。 「ありがとう」 「まあ当然でしょうけれどね」 「まあ当然だけどな」と永沢さんは笑った。「しかしまあちゃんと決まるってのは いいことだよ、とにかく」 「外国に行くんですか、入省したら」 「いや最初の一年間は国内研修だね。それから当分は外国にやられる」 僕は紅茶をすすり、彼はうまそうにビールを飲んだ。 「この冷蔵庫だけどさ、もしよかったらここを出るときにお前にやるよ」と永沢さ んは言った。「欲しいだろこれあると冷たいビール飲めるし」 「そりゃもらえるんなら欲しいですけどね、永沢さんだって必要でしょうどうぜア パート暮しか何かだろうし」 「馬鹿言っちゃいけないよ。こんなところ出たら俺はもっとでかい冷蔵庫を買っ てゴージャスに暮すよ。こんなケチなところで四年我慢したんだぜ。こんなところで 使ってたものなんて目にしたくもないさ。何でも好きなものやるよ、TVだろうが、魔 法瓶だろうが、ラジオだろうが」 「まあなんでもいいですけどね」と僕は言った。そして机の上のスペイン語のテ キスト・ブックを手にとって眺めた。「スペイン語始めたんですか」
「うん。語学はひとつでも沢山できた方が役に立つし、だいたい生来俺はそう いうの得意なんだ。フランス語だって独学でやってきて殆んど完璧だしな。ゲームと 同じさ。ルールがひとつわかったら、あとはいくつやったってみんな同じなんだよ。ほら 女と一緒だよ」 「ずいぶん内省的な生き方ですね」と僕は皮肉を言った。 「ところで今度一緒に飯食いに行かないか」と永沢さんが言った。 「また女漁りじゃないでしょうね」 「いや、そうじゃなくてさ、純粋な飯だよ。ハツミと三人でちゃんとしたレストラン に行って会食するんだ。俺の就職祝いだよ。なるべく高い店に行こう。どうせ払い は父親だから」 「そういうのはハツミさんと二人でやればいいじゃないですか」 「お前がいてくれた方が楽なんだよ。その方が俺もハツミも」と永沢さんは言っ た。 やれやれ、と僕は思った。それじゃキズキと直子のときとまったく同じじゃない か。 「飯のあとで俺はハツミのところ行って泊るからさ。飯くらい三人で食おうよ」 「まああなた二人がそれでいいって言うんなら行きますよ」と僕は言った。「でも 永沢さんはどうするですか、ハツミさんのこと研修のあとで国外勤務になって何年も 帰ってこないんでしょ彼女はどうなるんですか」 「それはハツミの問題であって、俺の問題ではない」 「よく意味がわかんないですね」 彼は足を机の上にのせたままビールを飲み、あくびをした。 「つまり俺は誰とも結婚するつもりはないし、そのことはハツミにもちゃんと言っ てある。だからさ、ハツミは誰かと結婚したきゃすりゃいいんだ。俺は止めないよ。結 婚しないで俺を待ちたきゃ待ちゃいい。そういう意味だよ」 「ふうん」と僕は感心して言った。 「ひどいと思うだろ、俺のこと」 「思いますね」 「世の中というのは原理的に不公平なものなんだよ。それは俺のせいじゃな い。はじめからそうなってるんだ。俺はハツミをだましたことなんか一度もない。そうい う意味では俺はひどい人間だから、それが嫌なら別れろってちゃんと言ってる」 永沢さんはビールを飲んでしまうとタバコをくわえて火をつけた。 「あなたは人生に対して恐怖を感じるということはないですか」と僕は訊いてみ た。 「あのね、俺はそれほど馬鹿じゃないよ」と永沢さんは言った。「もちろん人生 に対して恐怖を感じることはある。そんなの当たり前じゃないか。ただ俺はそういうの を前提条件として認めない。自分の力を百パーセント発揮してやれるところまでや
る。欲しいものはとるし、欲しくないものはとらない。そうやって生きていく。駄目だっ たら駄目になったところでまた考える。不公平な社会というのは逆に考えれば能力 を発揮できる社会でもある」 「身勝手な話みたいだけれど」と僕は言った。 「でもね、俺は空を見上げて果物が落ちてくるのを待ってるわけじゃないぜ。 俺は俺なりにずいぶん努力をしている。お前の十倍くらい努力してる」 「そうでしょうね」と僕は認めた。 「だからね、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりするんだ。どうしてこ いつらは努力というものをしないんだろう、努力もせずに不平ばかり言うんだろうって ね」 僕はあきれて永沢さんの顔を眺めた。「僕の目から見れば世の中の人々は ずいぶんあくせくと身を粉にして働いているような印象を受けるんですが、僕の見方 は間違っているんでしょうか」 「あれは努力じゃなくてただの労働だ」と永沢さんは簡単に言った。「俺の言う 努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされ るもののことだ」 「たとえば就職が決って他のみんながホッとしている時にスペイン語の勉強を 始めるとか、そういうことですね」 「そういうことだよ。俺は春までにスペイン語を完全にマスターする。英語とドイ ツ語とフランス語はもうできあがってるし、イタリア語もだいたいはできる。こういうのっ て努力なくしてできるか」 彼はタバコを吸い、僕は緑の父親のことを考えた。そして緑の父親はTVでス ペイン語の勉強を始めようなんて思いつきもしなかったろうと思った。努力と労働の 違いがどこかにあるかなんて考えもしなかったろう。そんなことを考えるには彼はたぶ ん忙しすぎたのだ。仕事も忙しかったし、福島まで家出した娘を連れ戻しにも行か ねばならなかった。 「食事の話だけど、今度の土曜日でどうだ」と永沢さんが言った。 いいですよ、と僕は言った。 永沢さんが選んだ店は麻布の裏手にある静かで上品なフランス料理店だっ た。永沢さんが名前を言うと我々は奥の個室に通された。小さな部屋で壁には 十五枚くらい版画がかかっていた。ハツミさんが来るまで、僕と永沢さんはジョセフ・ コンラッドの小説の話をしながら美味しいワインを飲んだ。永沢さんは見るからに高 価そうなグレーのスーツを着て、僕はごく普通のネイビー・ブルーのブレザー・コート を着ていた。 十五分くらい経ってからハツミさんがやってきた。彼女はとてもきちんと化粧を して金のイヤリングをつけ、深いブルーの素敵なワンピースを着て、上品なかたちの
赤いパンプスをはいていた。僕はワンピースの色を賞めると、これはミッドナイト・ブ ルーっていうのよとハツミさんは教えてくれた。 「素敵なところじゃない」とハツミさんが言った。 「父親が東京に来るとここで飯食うんだ。前に一度一緒に来たことあるよ。 俺はこういう気取った料理はあまり好きじゃないけどな」と永沢さんが言った。 「あら、たまにはいいじゃない、こういうのも。ねえ、ワタナベ君」とハツミさんが 言った。 「そうですね、自分の払いじゃなければね」と僕は言った。 「うちの父親はだいたいいつも女と来るんだ」と永沢さんが言った。「東京に女 がいるから」 「そう」とハツミさんが言った。 僕は聞こえないふりをしてワインを飲んでいた。 やがてウェイターがやってきて、我々は料理を注文した。オードブルとスープを 我々は選び、メイン・ディッシュに永沢さんは鴨を、僕とハツミさんは鱸を注文した。 料理はとてもゆっくり出てきたので、僕らはワインを飲みながらいろんな話をした。 最初は永沢さんが外務省の試験の話をした。受験者の殆んどは底なし沼に放り こんでやりたいようなゴミだが、まあ中には何人かまともなのもいたなと彼は言った。 その比率は一般社会の比率と比べて低いのか高いのかと僕は質問してみた。 「同じだよ、もちろん」と永沢さんはあたり前じゃないかという顔で言った。「そう いうのって、どこでも同じなんだよ。一定不変なんだ」 ワインを飲んでしまうと永沢さんはもう一本注文し、自分のためにスコッチ・ ウィスキーをダブルで頼んだ。 それからハツミさんがまた僕に紹介したい女の子の話を始めた。これはハツミ さんと僕の間の永遠の話題だった。彼女は僕にクラブの下級生のすごく可愛い子 を紹介したがって、僕はいつも逃げまわっていた。 「でも本当に良い子なのよ、美人だし。今度連れてくるから一度お話しなさ いよ。きっと気にいるわよ」 「駄目ですよ」と僕は言った。「僕はハツミさんの大学の女の子とつきあうには 貧乏すぎるもの。お金もないし、話もあわないし」 「あら、そんなことないわよ。その子なんてとてもさっぱりした良い子よ。全然そ んな風に気取ってないし」 「一度会ってみりゃいいじゃないか、ワタナベ」と永沢さんが言った。「べつにや らなくていいんだから」 「あたり前でしょう。そんなことしたら大変よ。ちゃんとバージンなんだから」とハ ツミさんが言った。 「昔の君みたい」 「そう、昔の私みたいに」とハツミはにっこり笑って言った。「でもワタナベ君、貧
乏だとかなんだかとかって、そんなのあまり関係ないよ。そりゃクラスに何人かはもの すごく気取ったバリバリの子はいるけれど、あとは私たち普通なのよ。お昼には学食 で二百五十円のランチ食べて――」 「ねえハツミさん」と僕は口をはさんだ。「僕の学校の学食のランチは、A、B、 CとあってAが百二十円でBは百円でCが八十円なんです。それでたまに僕がAラ ンチを食べるとみんな嫌な目で見るんです。Cランチが食えないやつは六十円の ラーメン食うんです。そういう学校なんです。話があうと思いますか」 ハツミさんは大笑いした。「安いわねえ、私食べに行こうかしら。でもね、ワタナ ベ君、あなた良い人だし、きっと彼女と話あうわよ。彼女だって百二十円のランチ 気に入るかもしれないわよ」 「まさか」と僕は笑って言った。「誰もあんなもの気に入ってやしませんよ。仕方 ないから食べてるんです。 「でも入れもので私たちを判断しないでよ、ワタナベ君。そりゅまあかなりちゃら ちゃらしたお嬢様学校であるにせよ、真面目に人生を考えて生きているまともな女 の子だって沢山いるのよ。みんながみんなスポーツ・カーに乗った男の子とつきあい たいと思ってるわけじゃないのよ」 「それはもちろんわかってますよ」と僕は言った。 「ワタナベには好きな女の子がいるんだよ」と永沢さんが言った。「でもそれに ついてはこの男は一言もしゃべらないんだ。なにしろ口が固くてね。全ては謎に包 まれているんだ」 「本当」とハツミさんが僕に訊いた。 「本当です。でも別に謎なんてありませんよ。ただ事情がとてもこみいって話し づらいだけです」 「道ならぬ恋とかそういうのねえ、私に相談してごらんなさいよ」 僕はワインを飲んでごまかした。 「ほら、口が固いだろう」と三杯目のウィスキーを飲みながら永沢さんが言っ た。「この男は一度言わないって決めたら絶対に言わないんだもの」 「残念ねえ」とハツミさんはテリーヌを小さく切ってフォークで口に運びながら 言った。「その女の子とあなたがうまくいったら私たちダブル・デートできたのにね」 「酔払ってスワッピングだってできたのにね」と永沢さんが言った。 「変なこと言わないでよ」 「変じゃないよ、ワタナベ君のこと好きなんだから」 「それとこれは別でしょう」とハツミさんは静かな声で言った。「彼はそういう人 じゃないわよ。自分のものをとてもきちんと大事にする人よ。私わかるもの。だから 女の子を紹介しようとしたのよ」 「でも俺とワタナベで一度女をとりかえっこしたことあるよ、前に。なあ、そうだよ な」永沢さんは何でもないという顔をしてウィスキーのグラスをあけ、おわかりを注文
した。 ハツミさんはフォークとナイフを下に置き、ナプキンでそっと口を拭った。そして僕 の顔を見た。「ワタナベ君、あなた本当にそんなことしたの」 どう答えていいのかわからなかったので、僕は黙っていた。 「ちゃんと話せよ。かまわないよ」と永沢さんが言った。まずいことになってきたと 僕は思った。時々酒が入ると永沢さんは意地がわるくなることがあるのだ。そして 今夜の彼の意地のわるさは僕に向けられたものではなく、ハツミさんに向けられた ものだった。それがわかっていたもので、僕としても余計に居心地がわるかった。 「その話聞きたいわ。すごく面白そうじゃない」とハツミさんが僕に言った。 「酔払ってたんです」と僕は言った。 「いいのよ、べつに。責めてるわけじゃないんだから。ただその話を聞かせてほ しいだけなの」 「渋谷のバーで永沢さんと二人で飲んでいて、二人連れの女の子と仲良く なったんです。どこかの短大の女の子で、向うも結構出来上っていて、それでまあ 結局そのへんのホテルに入って寝たんです。僕と永沢さんとで隣りどうしの部屋を とって。そうしたら夜中に永沢さんが僕の部屋をノックして、おいワタナベ、女の子と りかえようぜって言うから、僕が永沢さんの方に行って、永沢さんが僕の方に来たん です」 「その女の子たちは怒らなかったの」 「その子たちも酔ってたし、それにどっちだってよかったんです。結局その子たち としても」 「そうするにはそうするだけの理由があったんだよ」と永沢さんが言った。 「どんな理由」 「その二人組の女の子だけど、ちょっと差がありすぎたんだよ。一人の子はき れいだったんだけど、もう一人がひどくってさ、そういうの不公平だと思ったんだ。つま り俺が美人の方をとっちゃったからさ、ワタナベにわるいじゃないか。だから交換した んだよ。そうだよな、ワタナベ」 「まあ、そうですね」と僕は言った。しかし本当のことを言えば、僕はその美人 じゃない子の方をけっこう気に入っていたのだ。話していて面白かったし、性格もい い子だった。僕と彼女がセックスのあとベッドの中でわりに楽しく話をしていると、永 沢さんが来てとりかえっこしようぜと言ったのだ。僕がその子にいいかなと訊くと、まあ いいわよ、あなたたちそうしたいんなら、と彼女は言った。彼女はたぶん僕がその美 人の子の方とやりたがっていると思ったのだろう。 「楽しかった」とハツミさんが僕に訊いた。 「交換のことですか」 「そんな何やかやが」 「べつにとくに楽しくはないです」と僕は言った。「ただやるだけです。そんな風に
女の子と寝たってとくに何か楽しいことがあるわけじゃないです」 「じゃあ何故そんなことするの」 「俺が誘うからだよ」と永沢さんが言った。 「私、ワタナベ君に質問してるのよ」とハツミさんはきっぱりと言った。「どうしてそ んなことするの」 「ときどきすごく女の子と寝たくなるんです」と僕は言った。 「好きな人がいるのなら、その人となんとかするわけにはいかないの」とハツミさ んは少し考えてから言った。 「複雑な事情があるんです」 ハツミさんはため息をついた。 そこでドアが開いて料理が運ばれてきた。永沢さんの前には鴨のローストが 運ばれ、僕とハツミさんの前には鱸の皿が置かれた。皿には温野菜が盛られ、 ソースがかけられた。そして給仕人が引き下がり、我々はまた三人きりになった。 永沢さんは鴨をナイフで切ってうまそうに食べ、ウィスキーを飲んだ。 僕はホウレン草を食べてみた。ハツミさんは料理には手をつけなかった。 「あのね、ワタナベ君、どんな事情があるかは知らないけれど、そういう種類の ことはあなたには向いてないし、ふさわしくないと思うんだけれど、どうかしら」とハツミ さんは言った。彼女はテーブルの上に手を置いて、じっと僕の顔を見ていた。 「そうですね」と僕は言った。「自分でもときどきそう思います」 「じゃあ、どうしてやめないの」 「ときどき温もりが欲しくなるんです」と僕は正直に言った。「そういう肌のぬくも りのようなものがないと、ときどきたまらなく淋しくなるんです」 「要約するとこういうことだと思うんだ」永沢さんが口をはさんだ。「ワタナベには 好きな女の子がいるんだけれどある事情があってやれない。だからセックスはセック スと割り切って他で処理するわけだよ。それでかまわないじゃないか。話としてはま ともだよ。部屋にこもってずっとマスターベーションやってるわけにもいかないだろう」 「でも彼女のことが本当に好きなら我慢できるんじゃないかしら、ワタナベ君」 「そうかもしれないですね」と言って僕はクリーム・ソースのかかった鱸の身を口 に運んだ。 「君には男の性欲というものが理解できないんだ」と永沢さんがハツミさんに 言った。「たとえば俺は君と三年つきあっていて、しかもそのあいだにけっこう他の女 と寝てきた。でも俺はその女たちのことなんて何も覚えてないよ。名前も知らない、 顔も覚えない。誰とも一度しか寝ない。会って、やって、別れる。それだけよ。それ のどこがいけない」 「私が我慢できないのはあなたのそういう傲慢さなのよ」とハツミさんは静かに 言った。「他の女の人と寝る寝ないの問題じゃないの。私これまであなたの女遊び のことで真剣に怒ったこと一度もないでしょう」
「あんなの女遊びとも言えないよ。ただのゲームだ。誰も傷つかない」と永沢さ んは言った。 「私は傷ついてる」とハツミさん言った。「どうして私だけじゃ足りないの」 永沢さんはしばらく黙ってウィスキーのグラスを振っていた。「足りないわけじゃ ない。それはまったく別のフェイスの話なんだ。俺の中には何かしらそういうものを求 める渇きのようなものがあるんだよ。そしてそれがもし君を傷つけたとしたら申しわけ ないと思う。決して君一人で足りないとかそういうんじゃないんだよ。でも俺はその 渇きのもとでしか生きていけない男だし、それが俺なんだ。仕方ないじゃないか」 ハツミさんはやっとナイフとフォークを手にとって鱸を食べはじめた。「でもあなた は少なくともワタナベ君をひきずりこむべきじゃないわ」 「俺とワタナベには似ているところがあるんだよ」と永沢さんは言った。「ワタナベ も俺と同じように本質的には自分のことにしか興味が持てない人間なんだよ。傲 慢か傲慢じゃないかの差こそあれね。自分が何を考え、自分が何を感じ、自分が どう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ。だから自分と他人をきり はなしてものを考えることができる。俺がワタナベを好きなのはそういうところだよ。た だこの男の場合自分でそれがまだきちんと認識されていないものだから、迷ったり 傷ついたりするんだ」 「迷ったり傷ついたりしない人間がどこにいるのよ」とハツミさんは言った。「それ ともあなたは迷ったり傷ついたりしたことないって言うの」 「もちろん俺だって迷うし傷つく。ただそれは訓練によって軽減することが可能 なんだよ。鼠だって電気ショックを与えれば傷つくことの少ない道を選ぶようになる」 「でも鼠は恋をしないわ」 「鼠は恋をしない」と永沢さんはそうくりかえしてから僕の方を見た。「素敵だ ね。バックグランド・ミュージックがほしいね。オーケストラにハーブが二台入って ――」 「冗談にしないでよ。私、真剣なのよ」 「今は食事をしてるんだよ」と永沢さんは言った。「それにワタナベもいる。真 剣に話をするのは別の機会にした方が礼儀にかなっていると思うね」 「席を外しましょうか」と僕は言った。 「ここにいてちょうだいよ。その方がいい」とハツミさんが言った。 「せっかく来たんだからデザートも食べていけば」と永沢さんが言った。 「僕はべつにかまいませんけど」 それからしばらく我々は黙って食事をつづけた。僕は鱸をきれいに食べ、ハツ ミさんは半分残した。永沢さんはとっくに鴨を食べ終えて、またウィスキーを飲みつ づけていた。 「鱸、けっこううまかったですよ」と僕は言ってみたが誰も返事をしなかった。ま るで深い竪穴に小石を投げ込んだみたいだった。
皿がさげられて、レモンのシャーベットとエスプレッソ・コーヒ ーが運んできた。永 沢さんはどちらにもちょっと手をつけただけで、すぐに煙草を吸った。ハツミさんはレモ ンのシャーベットにはまったく手をつけなかった。やれやれと思いながら僕はシャー ベットをたいらげ、コーヒ ーを飲んだ。ハツミさんはテーブルの上に揃えておいた自分 の両手を眺めていた。ハツミさんの身につけた全てのものと同じように、その両手は とてもシックで上品で高価そうだった。僕は直子とレイコさんのことを考えていた。彼 女たちは今頃何をしているんだろう直子はソファーに寝転んで本を読み、レイコさ んはギターで『ノルウェイの森』を弾いているのかもしれないなと僕は思った。僕は彼 女たち二人のいるあの小さな部屋に戻りたいという激しい想いに駆けられた。俺は いったいここで何をしているのだ 「俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解してほしいと 思っていないところなんだ」と永沢さんが言った。「そこが他の連中と違っているとこ ろなんだ。他の奴らはみんな自分のことをまわりの人間にわかってほしいと思ってあ くせくしてる。でも俺はそうじゃないし、ワタナベもそうじゃない。理解してもらわなくっ たってかまわないと思っているのさ。自分は自分で、他人は他人だって」 「そうなの」とハツミさんが僕に訊いた。 「まさか」と僕は言った。「僕はそれほど強い人間じゃありませんよ。誰にも理 解されなくていいと思っているわけじゃない。理解しあいたいと思う相手だっていま す。ただそれ以外の人々にはある程度理解されなくても、まあこれは仕方ないだろ うと思っているだけです。あきらめてるんです。だから永沢さんの言うように理解され なくたってかまわないと思っているわけじゃありません」 「俺の言ってるのも殆んど同じ意味だよ」と永沢さんはコーヒ ー・スプーンを手 にとって言った。「本当に同じことなんだよ。遅いめの朝飯と早いめの昼飯の違いく らいしかないんだ。食べるものも同じで、食べる時間も同じで、ただ呼び方がちがう んだ」 「永沢君、あなたは私にもべつに理解されなくったっていいと思ってるの」とハツ ミさんが訊いた。 「君にはどうもよくわかってないようだけれど、人が誰かを理解するのはしかる べき時期がきたからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからでは ない」 「じゃあ私が誰かにきちんと私を理解してほしいと望むのは間違ったことなのた とえばあなたに」 「いや、べつに間違っていないよ」と永沢さんは答えた。「まともな人間はそれ を恋と呼ぶ。もし君が俺を理解したいと思うのならね。俺のシステムは他の人間の 生き方のシステムとはずいぶん違うんだよ」 「でも私に恋してはいないのね」 「だから君は僕のシステムを――」
「システムなんてどうでもいいわよ」とハツミさんがどなった。彼女がどなったのを 見たのはあとにも先にもこの一度きりだった。 永沢さんがテーブルのわきのベルを押すと給仕人が勘定書を持ってやってき た。永沢さんはクレジット・カードを出して彼に渡した。 「悪かったな、ワタナベ、今日は」と彼は言った。「俺はハツミを送っていくから、 お前一人であとやってくれよ」 「いいですよ、僕は。食事はうまかったし」と僕は言ったが、それについては誰 も何も言わなかった。 給仕人がカードを持ってきて、永沢さんは金額をたしかめてボールペンでサイ ンをした。そして我々は席を立って店の外に出た。永沢さんが道路に出てタクシー を停めるようとしたが、ハツミさんがそれを止めた。 「ありがとう、でも今日はもうこれ以上あなたと一緒にいたくないの。だから送っ てくれないでいいわよ。ごちそさま」 「お好きに」と永沢さんは言った。 「ワタナベ君に送ってもらうわ」とハツミさんは言った。 「お好きに」と永沢さんは言った。「でもワタナベだって殆んど同じだよ、俺と。 親切でやさしい男だけど、心の底から誰かを愛することはできない。いつもどこか覚 めていて、そしてただ乾きがあるだけなんだ。俺にはそれがわかるんだ」 僕はタクシーを停めてハツミさんを先に乗せ、まあとにかく送りますよと永沢さ んに言った。「悪いな」と彼は僕に謝ったが、頭の中ではもう全然別のことを考えは じめているように見えた。 「どこに行きますか恵比寿に戻りますか」と僕はハツミさんに訊いた。彼女のア パートは恵比寿にあったからだ。ハツミさんは首を横に振った。 「じゃあ、そこかで一杯飲みますか」 「うん」と彼女は肯いた。 「渋谷」と僕は運転手に言った。 ハツミさんは腕組みをして目をつぶり、タクシーの座席によりかかっていた。金 の小さなイヤリングが車のゆれにあわせてときどききらりと光った。彼女のミッドナイ ト・ブルーのワンピースはまるでタクシーの片隅の闇にあわせてあつらえたように見え た。淡い色あいで塗られた彼女のかたちの良い唇がまるで一人言を言いかけてや めたみたいに時折ぴくりと動いた。そんな姿を見ていると永沢さんがどうして彼女を 特別な相手として選んだのかわかるような気がした。ハツミさんより美しい女はいく らでもいるだろう、そして永沢さんならそういう女をいくらでも手に入ることができただ ろう。しかしハツミさんという女性の中には何かしら人の心を強く揺さぶるものがあっ た。そしてそれは決して彼女が強い力を出して相手を揺さぶるというのではない。 彼女の発する力はささやかなものなのだが、それが相手の心の共震を呼ぶのだ。 タクシーが渋谷に着くまで僕はずっと彼女を眺め、彼女が僕の心の中に引き起こ
すこの感情の震えはいったい何なんだろうと考えつづけていた。しかしそれが何であ るのかはとうとう最後までわからなかった。 僕はそれが何であるかに思いあたったのは十二年か十三年あとのことだった。 僕はある画家をインタヴェーするためにニュー・メキシコ州サンタ・フェの町に来てい て、夕方近所のピツァ・ハウスに入ってビールを飲みピツァをかじりながら奇蹟のよう に美しい夕陽を眺めていた。世界中のすべてが赤く染まっていた。僕の手から皿か らテーブルから、目につくもの何から何までが赤く染まっていた。まるで特殊な果汁 を頭から浴びたような鮮やかな赤だった。そんな圧倒的な夕暮の中で、僕は急に ハツミさんのことを思いだした。そしてそのとき彼女がもたらした心の震えがいったい 何であったかを理解した。それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に 充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのよ うな焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、 そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたの だ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた僕自身の一部で あったのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は殆んど泣きだしてしまいそうな哀しみを 覚えた。彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。誰かがなんとしてもでも彼 女を救うべきだったのだ。 でも永沢さんにも僕にも彼女を救うことはできなかった。ハツミさんは――多く の僕の知りあいがそうしたように――人生のある段階が来ると、ふと思いついたみ たいに自らの生命を絶った。彼女は永沢さんがドイツに行ってしまった二年後に他 の男と結婚し、その二年後に剃刀で手首を切った。 彼女の死を僕に知らせてくれたのはもちろん永沢さんだった。彼はボンから僕 に手紙を書いてきた。「ハツミの死によって何かが消えてしまったし、それはたまらな く哀しく辛いことだ。この僕にとってさえも」僕はその手紙を破り捨て、もう二度と彼 には手紙を書かなかった。 我々は小さなバーに入って、何杯かずつ酒を飲んだ。僕もハツミさんも殆んど 口をきかなかった。僕と彼女はまるで倦怠期の夫婦みたいに向いあわせに座って 黙って酒を飲み、ピーナッツをかじった。そのうちに店が混みあってきたので、我々は 外を少し散歩することにした。ハツミさんは自分が勘定を払うと言ったが、僕は自 分が誘ったのだからと言って払った。 外に出ると夜の空気はずいぶん冷ややかになっていた。ハツミさんは淡いグ レーのカーディガンを羽織った。そしてあいかわらず黙って僕の横を歩いていた。どこ に行くというあてもなかったけれど、僕はズボンのポケットに両手をつっこんでゆっくり と夜の街を歩いた。まるで直子と歩いていたときみたいだな、と僕はふと思った。 「ワタナベ君。どこかこのへんでビリヤードできるところ知らない」ハツミさんが突 然そう言った。
「ビリヤード」と僕はびっくりして言った。「ハツミさんがビリヤードやるんですか」 「ええ、私けっこう上手いのよ。あなたどう」 「四ツ玉ならやることはやりますよ。あまり上手くはないけれど」 「じゃ、行きましょう」 我々は近くでビリヤード屋をみつけて中に入った。路地のつきあたりにある小 さな店だった。シックなワンピースを着たハツミさんとネイビー・ブルーのブレザー・コー トにレジメンタル・タイという格好の僕の組みあわせはビリヤード屋の中ではひどく目 立ったが、ハツミさんはそんなことはあまり気にせずにキューを選び、チョークでその 先をキュッキュッとこすった。そしてバッグから髪どめを出して額のわきでとめ、玉を撞 くときの邪魔にならないようにした。 我々は四ツ玉のゲームを二回やったが、ハツミさんは自分でも言ったようにな かなか腕が良かったし、僕は厚く包帯を巻いていたのであまり上手く玉を撞くことが できなかった。それでニゲームとも彼女が圧勝した。 「上手いですね」と僕は感心して言った。 「見かけによらず、でしょう」とハツミさんは丁寧に玉の位置を測りながらにっこ りとして言った。 「いったいどこで練習したんですか」 「私の父方の祖父が昔の遊び人でね、玉撞き台を家に持っていたのよ。それ でそこに行くと小さい頃から兄と二人で玉を撞いて遊んでたの。少し大きくなってか らは祖父が正式な撞き方を教えてくれたし。良い人だったな。スマートでハンサム でね。もう死んじゃったけれど。昔ニューヨ ークでディアナ・ダービンにあったことがあ るっていうのが自慢だったわね」 彼女は三回つづけて得点し、四回めで失敗した。僕は辛じて一回得点し、 それからやさしいのを撞き損った。 「包帯してるせいよ」とハツミさんは慰めてくれた。 「長くやってないせいですよ。もう二年五ヶ月もやってないから」 「どうしてそんなにはっきり覚えてるの」 「友だちと玉を撞いたその夜に彼が死んじゃったから、それでよく覚えてるんで す」 「それでそれ以来ビリヤードやらなくなったの」 「いや、とくにそういうわけではないんです」と僕は少し考えてからそう答えた。 「ただなんとなくそれ以来玉撞きをする機会がなかったんです。それだけのことです よ」 「お友だちはどうして亡くなったの」 「交通事故です」と僕は言った。 彼女は何回か玉を撞いた。玉筋を見るときの彼女の目は真剣で、玉を撞く ときの力の入れ方は正確だった。彼女はきれいにセットした髪をくるりとうしろに回し
て金のイヤリングを光らせ、パンプスの位置をきちんと決め、すらりと伸びた美しい 指で台のフェルトを押えて玉を撞く様子を見ていると、うす汚いビリヤード場のそこ の場所だけが何かしら立派な社交場の一角であるように見えた。彼女と二人きり になるのは初めてだったが、それは僕にとって素敵な体験だった。彼女と一緒にい ると僕は人生を一段階上にひっぱりあげられたような気がした。三ゲームを終えた ところで――もちろん三ゲームめも彼女が圧勝した――僕の手の傷が少しうずき はじめたので我々はゲームを切りあげることにした。 「ごめんなさい。ビリヤードなんかに誘うんじゃなかったわね」とハツミさんはとて も悪そうに言った。 「いいんですよ。たいした傷じゃないし、それに楽しかったです、すごく」と僕は 言った。 帰り際にビリヤード場の経営者らしいやせた中年の女がハツミさんに「お姐さ ん、良い筋してるわね」と言った。「ありがとう」とにっこり笑ってハツミさんは言った。そ して彼女がそこの勘定を払った。 「痛む」と外に出てハツミさんが言った。 「それほど痛くはないです」と僕は言った。 「傷口開いちゃったかしら」 「大丈夫ですよ、たぶん」 「どうだわ、うちにいらっしゃいよ。傷口見て、包帯とりかえてあげるから」とハツ ミさんが言った。「うち、ちゃんと包帯も消毒薬もあるし、すぐそこだから」 そんなに心配するほどのことじゃないし大丈夫だと僕は言ったが、彼女の方 は傷口が開いていないかどうかちゃんと調べてみるべきだと言いはった。 「それとも私と一緒にいるの嫌一刻も早く自分のお部屋に戻りたい」とハツミ さんは冗談めかして言った。 「まさか」と僕は言った。 「じゃあ遠慮なんかしてないでうちにいらっしゃいよ。歩いてすぐだから」 ハツミさんのアパートは渋谷から恵比寿に向って十五分くらい歩いたところに あった。豪華とは言えないまでもかなり立派なアパートで、小さなロビーもあればエ レベーターもついていた。ハツミさんはその1DKの部屋の台所のテーブルに僕を座ら せ、となりの部屋に行って服を着がえてきた。プリンストン・ユニヴァシティーという文 字の入ったヨットパーカーと綿のズボンという格好で、金のイヤリングも消えていた。 彼女はどこから救急箱を持って来て、テーブルの上で僕の包帯をほどき、傷口が 開いていないことをたしかめてから、一応そこを消毒して、新しい包帯に巻きなおし てくれた。とても手際がよかった。 「どうしてそんなにいろんなことが上手なんですか」と僕は訊いてみた。 「昔ボランティアでこういうのやってたことあるのよ。看護婦のまね事のようなも の。そこで覚えたの」とハツミさんは言った。
包帯を巻き終えると、彼女は冷蔵庫から缶ビールを二本出してきた。彼女 が一缶の半分を飲み、僕は一本半飲んだ。そしてハツミさんは僕にクラブの下級 生の女の子たちが写った写真を見せてくれた。たしかに何人か可愛い子がいた。 「もしガールフレンドがほしくなったらいつでも私のところにいらっしゃい。すぐ紹 介してあげるから」 「そうします」 「でもワタナベ君、あなた私のことをお見合い紹介おばさんみたいだなと思って るでしょ、正直言って」 「幾分」と僕は正直に答えて笑った。ハツミさんも笑った。彼女は笑顔がとて もよく似合う人だった。 「ねえワタナベ君はどう思ってるの私と永沢君のこと」 「どう思うって、何についてですか」 「私どうすればいいのかしら、これから」 「私が何を言っても始まらないでしょう」と僕はよく冷えたビール飲みながら言っ た。 「いいわよ、なんでも、思ったとおり言ってみて」 「僕があなただったら、あの男とは別れます。そして少しまともな考え方をする 相手を見つけて幸せに暮らしますよ。だってどう好意的に見てもあの人とつきあって 幸せになれるわけがないですよ。あの人は自分が幸せになろうとか他人を幸せにし ようとか、そんな風に考えて生きている人じゃないんだもの。一緒にいたら神経がお かしくなっちゃいますよ。僕から見ればハツミさんがあの人と三年も付き合ってるとい うのが既に奇跡ですよ。もちろん僕だって僕なりにあの人のこと好きだし、面白い人 だし、立派なところも沢山あると思いますよ。僕なんかの及びもつかないような能 力と強さを持ってるし。でもね、あの人の物の考え方とか生き方はまともじゃないで す。あの人と話をしていると、時々自分が同じところを堂々めぐりしているような気 分になることがあるんです。彼の方は同じプロセスでどんどん上に進んで行ってるの に、僕の方はずっと堂々めぐりしてるんです。そしてすごく空しくなるんです。要する にシステムそのものが違うんです。僕の言ってることわかりますか」 「よくわかるわ」とハツミさん言って、冷蔵庫から新しいビールを出してくれた。 「それにあの人、外務省に入って一年の国内研修が終ったら当分国外に 行っちゃうわけでしょうハツミさんはどうするんですかずっと待ってるんですかあの人、 誰とも結婚する気なんかありませんよ」 「それもわかってるのよ」 「じゃあ僕が言うべきことは何もありませんよ、これ以上」 「うん」とハツミさんは言った。 僕はグラスにゆっくりとビールを注いで飲んだ。 「さっきハツミさんとビリヤードやっててふと思ったんです」と僕は言った。「つまり
ね、僕には兄弟がいなくってずっと一人で育ってきたけれど、それで淋しいとか兄弟 が欲しいと思ったことはなかったんです。一人でいいやと思ってたんです。でもハツミ さんとさっきビリヤードやってて、僕にもあなたみたいなお姉さんがいたらよかったなと 突然思ったんです。スマートでシックで、ミッドナイト・ブルーのワンピースと金のイヤ リングがよく似合って、ビリヤードが上手なお姉さんがね」 ハツミさんは嬉しそうに笑って僕の顔を見た。「少なくともこの一年くらいのあい だに耳にしたいろんな科白の中では今のあなたのが最高に嬉しかったわ。本当よ」 「だから僕としてもハツミさんに幸せになってもらいたいんです」と僕はちょっと赤 くなって言った。「でも不思議ですね。あなたみたいな人なら誰とだって幸せになれ そうに見えるのに、どうしてまたよりによって永沢さんみたいな人とくっついちゃうんだ ろう」 「そういうのってたぶんどうしようもないことなのよ。自分ではどうしようもないこと なのよ。永沢君に言わせれば、そんなこと君の責任だ。俺は知らんってことになる でしょうけれどね」 「そういうでしょうね」と僕は同意した。 「でもね、ワタナベ君、私はそんなに頭の良い女じゃないのよ。私はどっちかっ ていうと馬鹿で古風な女なの。システムとか責任とか、そんなことどうだっていいの。 結婚して、好きな人に毎晩抱かれて、子供を産めばそれでいいのよ。それだけな の。私が求めているのはそれだけなのよ」 「彼が求めているのはそれとは全然別のものですよ」 「でも人は変るわ。そうでしょう」とハツミさんは言った。 「社会に出て世間の荒波に打たれ、挫折し、大人になり......ということ」 「そう。それに長く私と離れることによって、私に対する感情も変ってくるかもし れないでしょう」 「それは普通の人間の話です」と僕は言った。「普通の人間だったらそういうの もあるでしょうね。でもあの人は別です。あの人は我々の想像を越えて意志の強 い人だし、その上毎日毎日それを補強してるんです。そして何かに打たれればもっ と強くなろうとする人なんです。他人にうしろを見せるくらいならナメクジだって食べ ちゃうような人です。そんな人間にあなたはいったい何を期待するんですか」 「でもね、ワタナベ君。今の私には待つしかないのよ」とハツミさんはテーブルに 頬杖をついて言った。 「そんなに永沢さんのこと好きなんですか」 「好きよ」と彼女は即座に答えた。 「やれやれ」と僕は言ってため息をつき、ビールの残りを飲み干した。「それくら い確信を持って誰かを愛するというのはきっと素晴らしいことなんでしょうね」 「私はただ馬鹿で古風なのよ」とハツミさんは言った。「ビールもっと飲む」 「いや、もう結構です。そろそろ帰ります。包帯とビールをどうもありがとう」
僕が立ち上がって戸口で靴をはいていると、電話のベルが鳴りはじめた。ハツ ミさんは僕を見て電話を見て、それからまた僕を見た。「おやすみなさい」と言って 僕はドアを開けて外に出た。ドアをそっと閉めるときにハツミさんが受話器をとってい る姿がちらりと見えた。それが僕の見た彼女の最後の姿だった。 寮に戻ったのは十一時半だった。僕はそのまますぐ永沢さんの部屋に行って ドアをノックした。そして十回くらいノックしてから今日は土曜日の夜だったことを思 いだした。土曜日の夜は永沢さんは親戚の家に泊まるという名目で毎週外泊許 可をとっているのだ。 僕は部屋に戻ってネクタイを外し、上着とズボンをハンガーにかけてパジャマに 着がえ、歯を磨いた。そしてやれやれ明日はまた日曜日かと思った。まるで四日に 一回くらいのペースで日曜日がやってきているような気がした。そしてあと二回土曜 日が来たら僕は二十歳になる。僕はベッドに寝転んで壁にかかったカレンダーを眺 め、暗い気持になった。 日曜日の朝、僕はいつものように机に向って直子への手紙を書いた。大きな カップでコーヒーを飲み、マイルス・ディヴィスの古いレコードを聴きながら、長い手紙 を書いた。窓の外には細い雨が降っていて、部屋の中は水族館みたいにひやりと していた。衣裳箱から出してきたばかりの厚手のセーターには防虫剤の匂いが残っ ていた。窓ガラスの上の方にはむくむくと太った蠅が一匹とまったまま身動きひとつし なかった。日の丸の旗は風がないせいで元老院議員のトーガの裾みたいにくしゃっ とボールに絡みついたままびくりとも動かなかった。どこかから中庭に入りこんできた 気弱そうな顔つきのやせた茶色い犬が、花壇の花を片端からくんくんと嗅ぎまわっ ていた。いったい何の目的で雨の日に犬が花の匂いを嗅いでまわらねばならない のか、僕にはさっぱりわからなかった。 僕は机に向って手紙を書き、ペンを持った右手の傷が痛んでくるとそんな雨 の中庭の風景をぼんやりと眺めた。 僕はまずレコード店で働いているときに手のひらを深く切ってしまったことを書 き、土曜日の夜に、永沢さんとハツミさんと僕の三人で永沢さんの外交官試験合 格の祝いのようなことをやったと書いた。そして僕はそこがどんな店で、どんな料理 が出たかというのを説明した。料理はなかなかのものだったが、途中で雰囲気がい ささかややこしいものになって云々と僕は書いた。 僕はハツミさんとビリヤード場に行ったことに関連してキズキのことを書こうかど うか少し迷ったが、結局書くことにした。書くべきだという気がしたからだ。 「僕はあの日――キズキが死んだ日――彼が最後に撞いたボールのことを はっきりと覚えています。それはずいぶんむずかしいクッションを必要とするボール
で、僕はまさかそんなものがうまく行くと思わなかった。でも、たぶん何かの偶然によ るものだとは思うのだけれど、そのショットは百パーセントぴったりと決まって、緑の フェルトの上で白いボールと赤いボールが音もたてないくらいそっとぶつかりあって、そ れが結局最終得点になったわけです。今でもありありと思い出せるくらい美しく印 象的なショットでした。そしてそれ以来二年近く僕はビリヤードというものをやりませ んでした。 でもハツミさんとビリヤードをやったその夜、僕は最初の一ゲームが終るまでキ ズキのことを思い出しもしなかったし、そのことは僕としては少なからざるショックでし た。というのはキズキが死んだあとずっと、これからはビリヤードをやるたびに彼を思い 出すことになるだろうなという風に考えていたからです。でも僕は一ゲーム終えて店 内の自動販売機でペプシコーラを買って飲むまで、キズキのことを思い出しもしま せんでした。どうしてそこでキズキのことを思い出したかというと、僕と彼がよく通った ビリヤード屋にもやはりペプシの販売機があって、僕らはよくその代金を賭けてゲー ムをしたからです。 キズキのことを思い出さなかったことで、僕は彼に対してなんだか悪いことをし たような気になりました。そのときはまるで自分が彼のことを見捨ててしまったように 感じられたのです。でもその夜部屋に戻って、こんな風に考えました。あれからもう 二年半だったんだ。そしてあいつはまだ十七歳のままなんだ、と。でもそれは僕の中 で彼の記憶が薄れたということを意味しているのではありません。彼の死がもたらし たものはまだ鮮明に僕の中に残っているし、その中のあるものはその当時よりかえっ て鮮明になっているくらいです。僕が言いたいのはこういうことです。僕はもうすぐ二 十歳だし、僕とキズキが十六か十七の年に共有したもののある部分は既に消滅 しちゃったし、それはどのように嘆いたところで二度と戻っては来ないのだ、ということ です。僕はそれ以上うまく説明できないけれど、君なら僕の感じたこと、言わんとす ることをうまく理解してくれるのではないかと思います。そしてこういうことを理解してく れるのはたぶん君の他にはいないだろうという気がします。 僕はこれまで以上に君のことをよく考えています。今日は雨が降っています。 雨の日曜日は僕を少し混乱させます。雨が降ると洗濯できないし、したがってアイ ロンがけもできないからです。散歩もできなし、屋上に寝転んでいることもできませ ん。机の前に座って『カインド・オブ・ブルー』をオートリピートで何度も聴きながら雨 の中庭の風景をぼんやりと眺めているくらいしかやることがないのです。前にも書い たように僕は日曜日にはねじを巻かないのです。そのせいで手紙がひどく長くなって しまいました。もうやめます。そして食堂に行って昼ごはんを食べます。さようなら」 第九章 翌日の月曜日の講義にも緑は現れなかった。いったいどうしちゃったんだろう と僕は思った。最後に電話で話してからもう十日経っていた。家に電話をかけてみ
ようかとも思ったが、自分の方から連絡するからと彼女が言っていたことを思い出し てやめた。 その週の木曜日に、僕は永沢さんと食堂で顔をあわせた。彼は食事をのせ た盆を持って僕のとなりに座り、このあいだいろいろ済まなかったなと謝まった。 「いいですよ。こちらこそごちそうになっちゃったし」と僕は言った。「まあ奇妙とい えば奇妙な就職決定祝いでしたけど」 「まったくな」と彼は言った。 そして我々はしばらく黙って食事をつづけた。 「ハツミとは仲なおりしたよ」と彼は言った。 「まあそうでしょうね」と僕は言った。 「お前にもけっこうきついことを言ったような気がするんだけど」 「どうしたんですか、反省するなんて体の具合がわるいんじゃないですか」 「そうかもしれないな」と彼は言ってニ、三度小さく肯いた。「ところでお前、ハ ツミに俺と別れろって忠告したんだって」 「あたり前でしょう」 「そうだな、まあ」 「あの人良い人ですよ」と僕は味噌汁を飲みながら言った。 「知ってるよ」と永沢さんはため息をついて言った。「俺にはいささか良すぎる」 電話かかかっていることを知らせるブザーが鳴ったとき、僕は死んだようにぐっ すり眠っていた。僕はそのとき本当に眠りの中枢に達していたのだ。だから僕には 何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。眠っているあいだに頭の中が水びた しになって脳がふやけてしまったような気分だった。時計を見ると六時十五分だった が、それが午前か午後かわからなかった。何日の何曜日なのかも思い出せなかっ た。窓の外を見ると中庭のボールには旗は上っていなかった。それでたぶんこれは 夕方の六時十五分なのだろうと僕は見当をつけた。国旗掲揚もなかなか役に立 つものだ。 「ねえワタナベ君、今は暇」と緑が訊いた。 「今日は何曜日だったかな」 「金曜日」 「今は夕方だっけ」 「あたり前でしょう。変な人ね。午後の、ん―と、六時十八分」 やはり夕方だったんだ、と僕は思った。そうだ、ベッドに寝転んで本を読んでい るうちにぐっすり眠りこんでしまったんだ。金曜日――と僕は頭を働かせた。金曜日 の夜にはアルバイトはない。「暇だよ。今どこにいるの」 「上野駅。今から新宿に出るから待ちあわせない」 我々は場所とだいたいの時刻を打ち合わせ、電話を切った。
DUGに着いたとき、緑は既にカウンターのいちばん端に座って酒を飲んでい た。彼女は男もののくしゃっとした白いステン・カラー・コートの下に黄色い薄いセー ターを着て、ブルージーンズをはいていた。そして手首にはブレスレットを二本つけて いた。 「何飲んでるの」と僕は訊いた。 「トム・コリンズ」と緑は言った。 僕はウィスキー・ソーダを注文してから、足もとに大きな革鞄が置いてあること に気づいた。 「旅行に行ってたのよ。ついさっき戻ってきたところ」と彼女は言った。 「どこに行ったの」 「奈良と青森」 「一度に」と僕はびっくりして訊いた。 「まさか。いくら私が変ってるといっても奈良と青森に一度にいったりはしない わよ。べつべつに行ったのよ。二回にわけて。奈良には彼と行って、青森は一人で ぶらっと行ってきたの」 僕はウィスキー・ソーダをひとくち飲み、緑のくわえたマルボロにマッチで火をつ けてやった。「いろいろと大変だったお葬式とか、そういうの」 「お葬式なんて楽なものよ。私たち馴れてるの。黒い着物着て神妙な顔して 座ってれば、まわりの人がみんなで適当に事を進めてくれるの。親戚のおじさんとか 近所の人とかね。勝手にお酒買ってきたり、おすし取ったり、慰めてくれたり、泣い たり、騒いだり、好きに形見わけしたり、気楽なものよ。あんなのピクニックと同じ よ。来る日も来る日も看病にあけくれてたのに比べたら、ピクニックよ、もう。ぐったり 疲れて涙も出やしないもの、お姉さんも私も。気が抜けて涙も出やしないのよ、本 当に。でもそうするとね、まわりの人たちはあそこの娘たちは冷たい、涙も見せな いってかげぐちきくの。私たちだから意地でも泣かないの。嘘泣きしようと思えばでき るんだけど、絶対にやんないもの。しゃくだから。みんなが私たちの泣くことを期待し てるから、余計に泣いてなんかやらないの。私とお姉さんはそういうところすごく気が 合うの。性格はずいぶん違うけれど」 緑はブレスレットをじゃらじゃらと鳴らしてウェイターを呼び、トム・コリンズのおか わりとピスタチオの皿を頼んだ。 「お葬式が終ってみんな帰っちゃってから、私たち二人で明け方まで日本酒 を飲んだの、一升五合くらい。そしてまわりの連中の悪口をかたっぱしから言った の。あいつはアホだ、クソだ、疥癬病みの犬だ、豚だ、偽善者だ、盗っ人だって、そ ういうのずうっと言ってたのよ。すうっとしたわね」 「だろうね」 「そして酔払って布団に入ってぐっすり眠ったの。すごくよく寝たわねえ。途中で
電話なんかかかってきても全然無視しちゃってね、ぐうぐう寝ちゃったわよ。目がさめ て、二人でおすしとって食べて、それで相談して決めたのよ。しばらく店を閉めてお 互い好きなことしようって。これまで二人でずいぶん頑張ってやってきたんだもの、そ れくらいやったっていいじゃない。お姉さんは彼と二人でのんびりするし、私も彼と二 泊旅行くらいしてやりまくろうと思ったの」緑はそう言ってから少し口をつぐんで、耳の あたりをぼりぼりと掻いた。「ごめんなさい。言葉わるくて」 「いいよ。それで奈良に行ったんだ」 「そう。奈良って昔から好きなの」 「それでやりまくったの」 「一度もやらなかった」と彼女は言ってため息をついた。「ホテルに着いて鞄を よっこらしょと置いたとたんに生理が始まっちゃったの、どっと」 僕は思わず笑ってしまった。 「笑いごとじゃないわよ、あなた。予定より一週間早いのよ。泣けちゃうわよ、 まったく。たぶんいろいろと緊張したんで、それで狂っちゃったのね。彼の方はぶんぶ ん怒っちゃうし。わりに怒っちゃう人なのよ、すぐ。でも仕方ないじゃない、私だってな りたくてなったわけじゃないし。それにね、私けっこう重い方なのよ、あれ。はじめの 二日くらいは何もする気なくなっちゃうの。だからそういうとき私と会わないで」 「そうしたいけれど、どうすればわかるかな」と僕は訊いた。 「じゃあ私、生理が始まったらニ、三日赤い帽子かぶるわよ。それでかわるん じゃない」と緑は笑って言った。「私が赤い帽子をかぶってたら、道で会っても声を かけずにさっさと逃げればいいのよ」 「いっそ世の中の女の人がみんなそうしてくれればいいのに」と僕は言った。「そ れで奈良で何してたの」 「仕方ないから鹿と遊んだり、そのへん散歩して帰ってきたわ。散々よ、もう。 彼とは喧嘩してそれっきり会ってないし。まあそれで東京に戻ってきてニ、三日ぶら ぶらして、それから今度は一人で気楽に旅行しようと思って青森に行ったの。弘前 に友だちがいて、そこでニ日ほど泊めてもらって、そのあと下北とか竜飛とかまわった の。いいところよ、すごく。私あのへんの地図の解説書書いたことあるのよ、一度。 あなた行ったことある」 ない、と僕は言った。 「それでね」と言ってから緑はトム・コリンズをすすり、ピスタチオの殻をむいた。 「一人で旅行しているときずっとワタナベ君のことを思いだしていたの。そして今あな たがとなりにいるといいなあって思ってたの」 「どうして」 「どうして」と言って緑は虚無をのぞきこむような目で僕を見た。「どうしてって、 どういうことよ、それ」 「つまり、どうして僕のことを思いだすかってことだよ」
「あなたのこと好きだからに決まっているでしょうが。他にどんな理由があるって いうのよいったいどこの誰が好きでもない相手と一緒いたいと思うのよ」 「だって君には恋人がいるし、僕のこと考える必要なんてないじゃないか」と僕 はウィスキー・ソーダをゆっくり飲みながら言った。 「恋人がいたらあなたのことを考えちゃいけないわけ」 「いや、べつにそういう意味じゃなくて――」 「あのね、ワタナベ君」と緑は言って人さし指を僕の方に向けた。「警告してお くけど、今私の中にはね、一ヶ月ぶんくらいの何やかやが絡みあって貯ってもやもや してるのよ。すごおく。だからそれ以上ひどいことを言わないで。でないと私ここでお いおい泣きだしちゃうし、一度泣きだすと一晩泣いちゃうわよ。それでもいいの私は ね、あたりかまわず獣のように泣くわよ。本当よ」 僕は肯いて、それ以上何も言わなかった。ウィスキー・ソーダの二杯目を注文 し、ピスタチオを食べた。シェーカが振られたり、グラスが触れ合ったり、製氷機の氷 をすくうゴソゴソという音がしたりするうしろでサラ・ヴォーンが古いラブ・ソングを唄っ ていた。 「だいたいタンポン事件以来、私と彼の仲はいささか険悪だったの」と緑は 言った。 「タンポン事件」 「うん、一ヶ月くらい前、私と彼と彼の友だちの五、六人くらいでお酒飲んでて ね、私、うちの近所のおばさんがくしゃみしたとたんにスポッとタンポンが抜けた話を したの。おかしいでしょう」 「おかしい」と僕は笑って同意した。 「みんなにも受けたのよ、すごく。でも彼は怒っちゃったの。そんな下品な話を するなって。それで何かこうしらけちゃって」 「ふむ」と僕は言った。 「良い人なんだけど、そういうところ偏狭なの」と緑は言った。「たとえば私が白 以外の下着をつけると怒ったりね。偏狭だと思わない、そういうの」 「うーん、でもそういうのは好みの問題だから」と僕は言った。僕としてはそうい う人物が緑を好きになったこと自体が驚きだったが、それは口に出さないことにし た。 「あなたの方は何してたの」 「何もないよ。ずっと同じだよ」それから僕は約束どおり緑のことを考えてマス ターペーションしてみたことを思いだした。僕はまわりに聞こえないように小声で緑に そのことを話した。 緑は顔を輝かせて指をぱちんと鳴らした。「どうだった上手く行った」 「途中でなんだか恥ずかしくなってやめちゃったよ」 「立たなくなっちゃったの」
「まあね」 「駄目ねえ」と緑は横目で僕を見ながら言った。「恥ずかしがったりしちゃ駄目 よ。すごくいやらしいこと考えていいから。ね、私がいいって言うからいいんじゃない。 そうだ、今度電話で言ってあげるわよ。ああ......そこいい......すごく感じる......駄 目、私、いっちゃう......ああ、そんなことしちゃいやっ......とかそういうの。それを聞き ながらあなたがやるの」 「寮の電話は玄関わきのロビーにあってね、みんなそこの前を通って出入りす るだよ」と僕は説明した。「そんなところでマスターペーションしてたら寮長に叩き殺 されるね、まず間違いなく」 「そうか、それは弱ったわね」 「弱ることないよ。そのうちにまた一人でなんとかやってみるから」 「頑張ってね」 「うん」 「私ってあまりセクシーじゃないのかな、存在そのものが」 「いや、そういう問題じゃないんだ」と僕は言った。「なんていうかな、立場の問 題なんだよね」 「私ね、背中がすごく感じるの。指ですうっと撫でられると」 「気をつけるよ」 「ねえ、今からいやらしい映画観に行かないばりばりのいやらしいSM」と緑は 言った。 僕と緑は鰻屋に入って鰻を食べ、それから新宿でも有数のうらさびれた映画 館に入って、成人映画三本立てを見た。新聞を買って調べるとそこでしかSMもの をやっていなかったからだ。わけのわからない臭いのする映画館だった。うまい具合 に我々が映画館に入ったときにそのSMものが始まった。OLのお姉さんと高校生の 妹が何人かの男たちにつかまってどこかに監禁され、サディスティックにいたぶられる 話だった。男たちは妹をレイプするぞと脅してお姉さんに散々ひどいことをさせるの だが、そうこうするうちにお姉さんは完全なマゾになり、妹の方はそういうのを目の前 で逐一見せられているうちに頭がおかしくなってしまうという筋だった。雰囲気がやた ら屈折して暗い上に同じようなことばかりやっているので、僕は途中でいささか退屈 してしまった。 「私が妹だったらあれくらいで気が狂ったりしないわね。もっとじっと見てる」と緑 は僕に言った。 「だろうね」と僕は言った。 「でもあの妹の方だけど、処女の高校生にしちゃオッパイが黒ずんでると思わ ない」 「たしかに」 彼女はすごく熱心に、食いいるようにその映画を見ていた。これくらい一所懸
命見るなら入場料のぶんくらいは十分もとがとれるなあと僕は感心した。そして緑 は何か思いつくたびに僕にそれを報告した。 「ねえねえ、凄い、あんなことやっちゃうんだ」とか、「ひどいわ。三人も一度に やられたりしたら壊れちゃうわよ」とか、「ねえワタナベ君。私、ああいうの誰かに ちょっとやってみたい」とか、そんなことだ。僕は映画を見ているより、彼女を見てい る方がずっと面白かった。 休憩時間に明るくなった場内を見まわしてみたが、緑の他には女の客はいな いようだった。近くに座っていた学生風の若い男は緑の顔を見て、ずっと遠くの席に 移ってしまった。 「ねえワタナベ君」と緑が訊ねた。「こういうの見てると立っちゃう」 「まあ、そりゃときどきね」と僕は言った。「この映画って、そういう目的のために 作られているわけだから」 「それでそういうシーンが来ると、ここにいる人たちのあれがみんなピンと立っ ちゃうわけでしょ三十本か四十本、一斉にピンとそういうのって考えるとちょっと不思 議な気しない」 そう言われればそうだな、と僕は言った。 二本目のはわりにまともな映画だったが、まともなぶん一本目よりもっと退屈 だった。やたら口唇性愛の多い映画で、フェラチオやクンニリングスやシックスティー・ ナインをやるたびにぺちゃぺちゃとかくちゃくちゃとかいう擬音が大きな音で館内に響 きわたった。そういう音を聞いていると、僕は自分がこの奇妙な惑星の上で生を 送っていることに対して何かしら不思議な感動を覚えた。 「誰がああいう音を思いつくんだろうね」と僕は緑に言った。 「あの音大好きよ、私」 ペニスがヴァギナに入って往復する音というのもあった。そんな音があるなんて 僕はそれまで気づきもしなかった。男がはあはあと息をし、女があえぎ、「いいわ」と か「もっと」とか、そういうわりにありふれた言葉を口にした。ベッドがきしむ音も聞こえ た。そういうシーンがけっこう延々とつづいた。緑は最初のうち面白がって見ていた が、そのうちにさすがに飽きたらしく、もう出ようと言った。僕らは立ち上がって外に 出て深呼吸した。新宿の町の空気がすがすがしく感じられたのはそれが初めて だった。 「楽しかった」と緑は言った。「また今度行きましょうね」 「何度見たって同じようなことしかやらないよ」と僕は言った。 「仕方なしでしょ、私たちだってずっと同じようなことやってるんだもの」 そう言われて見ればたしかにそのとおりだった。 それから僕らはまたどこかのバーに入ってお酒を飲んだ。僕はウィスキーを飲 み、緑はわけのわからないカクテルを三、四杯飲んだ。店を出ると木のぼりしたいと 緑が言いだした。
「このへんに木なんてないよ。それにそんなふらふらしてちゃ木になんてのぼれ ないよ」と僕は言った。 「あなたっていつも分別くさいこと言って人を落ちこませるのね。酔払いたいか ら酔払ってるのよ。それでいいんじゃない。酔払ったって木のぼりくらいできるわよ。 ふん。高い高い木の上にのぼっててっぺんから蝉みたいにおしっこしてみんなにひっ かけてやるの」 「ひょっとして君、トイレに行きたいの」 「そう」 僕は新宿駅の有料トイレまで緑をつれていって小銭を払って中に入れ、売 店で夕刊を買ってそれを読みながら彼女が出てくるのを待った。でも緑はなかなか 出てこなかった。十五分たって、僕が心配になってちょっと様子を見に行ってみよう かと思う頃にやっと彼女が外に出てきた。顔色はいくぶん白っぽくなっていた。 「ごめんね。座ったままうとうと眠っちゃったの」と緑は言った。 「気分はどう」と僕はコートを着せてやりながら訊ねた。 「あまり良くない」 「家まで送るよ」と僕は言った。「家に帰ってゆっくり風呂にでも入って寝ちゃう といいよ。疲れてるんだ」 「家なんか帰らないわよ。今家に帰ったって誰もいないし、あんなところで一 人で寝たくなんかないもの」 「やれやれ」と僕は言った。「じゃあどうするんだよ」 「このへんのラブ・ホテルに入って、あなたと二人で抱きあって眠るの。朝まで ぐっすりと。そして朝になったらどこかそのへんでごはん食べて、二人で一緒に学校 に行くの」 「はじめからそうするつもりで僕を呼びだしたの」 「もちろんよ」 「そんなの僕じゃなくて彼を呼び出せばいいだろう。どう考えたってそれがまとも じゃないか。恋人なんてそのためにいるんだ」 「でも私、あなたと一緒いたいのよ」 「そんなことはできない」と僕はきっぱりと言った。「まず第一に僕は十二時ま でに寮に戻らないといけないんだ。そうしないと無断外泊になる。前に一回やって すごく面倒なことになったんだ。第二に僕だって女の子と寝れば当然やりたくなる し、そういうの我慢して悶々とするのは嫌だ。本当に無理にやっちゃうかもしれない よ。」 「私のことぶって縛ってうしろから犯すの」 「あのね、冗談じゃないんだよ、こういうの」 「でも私、淋しいのよ。ものすごく淋しいの。私だってあなたには悪いと思うわ よ。何も与えないでいろんなこと要求ばかりして。好き放題言ったり、呼びだした
り、ひっぱりまわしたり、でもね、私がそういうことのできる相手ってあなたしかしない のよ。これまでの二十年間の人生で、私ただの一度もわかままきいてもらったこと ないのよ。お父さんもお母さんも全然とりあってくれなかったし、彼だってそういうタイ プじゃないのよ。私がわがまま言うと怒るの。そして喧嘩になるの。だからこういうのっ てあなたにしか言えないのよ。そして私、今本当に疲れて参ってて、誰かに可愛い とかきれいだとか言われながら眠りたいの。ただそれだけなの。目がさめたらすっかり 元気になって、二度とこんな身勝手なことあなたに要求しないから。絶対。すごく 良い子にしてるから」 「そう言われても困るんだよ」と僕は言った。 「お願い。でないと私ここに座って一晩おいおい泣いてるわよ。そして最初に 声かけてきた人と寝ちゃうわよ」 僕はどうしようもなくなって寮に電話をかけて永沢さんを呼んでもらった。そし て僕が帰寮しているように操作してもらえないだろうかと頼んでみた。ちょっと女の 子と一緒なんですよ、と僕は言った。いいよ、そういうことなら喜んで力になろうと彼 は言った。 「名札をうまく在室の方にかけかえておくから心配しないでゆっくりやってこい よ。明日の朝俺の部屋の窓から入ってくりゃいい」と彼は言った。 「どうもすみません。恩に着ます」と僕は言って電話を切った。 「うまく行った」と緑は訊いた。 「まあ、なんとか」と僕は深いため息をついた。 「じゃあまだ時間も早いことだし、ディスコでも行こう」 「君疲れてるんじゃなかったの」 「こういうのなら全然大丈夫なの」 「やれやれ」と僕は言った。 たしかにディスコに入って踊っているうちに緑は少しずつ元気を回復してきたよ うだった。そしてウィスキー・コークを二杯飲んで、額に汗をかくまでフロアで踊った。 「すごく楽しい」と緑はテーブル席でひと息ついて言った。「こんなに踊ったの久 しぶりだもの。体を動かすとなんだか精神が解放されるみたい」 「君のはいつも解放されてるみたいに見えるけどね」 「あら、そんなことないのよ」と彼女はにっこりと首をかしげて言った。「それはそ うと元気になったらおなかが減っちゃったわ。ピツァでも食べに行かない」 僕がよく行くピツァ・ハウスに彼女をつれていって生ビールとアンチョビのピツァを 注文した。僕はそれほど腹が減っていなかったので十二ピースのうち四つだけを食 べ、残りを緑が全部食べた。 「ずいぶん回復が早いね。さっきまで青くなってふらふらしてたのに」と僕はあき れて言った。
「わがままが聞き届けられたからよ」と緑は言った。「それでつっかえがとれちゃっ たの。でもこのピツァおいしいわね」 「ねえ、本当に君の家、今誰もいないの」 「うん、いないわよ。お姉さんも友だちの家に泊りに行ってていないわよ。彼女 ものすごい怖がりだから、私がいないとき独りで家で寝たりできないの」 「ラブ・ホテルなんて行くのはやめよう」と僕は言った。「あんなところ行ったって 空しくなるだけだよ。そんなのやめて君の家に行こう。僕のぶんの布団くらいあるだ ろう」 緑は少し考えていたが、やがて肯いた。「いいわよ。家に泊ろう」と彼女は言っ た。 僕らは山手線に乗って大塚まで行って、小林書店のシャッターを上げた。 シャッターには「休業中」の紙が貼ってあった。シャッターは長いあいだ開けられたこ とがなかったらしく、暗い店内には古びた紙の匂いが漂っていた。棚の半分は空っ ぽで、雑誌は殆んど全部返品用に紐でくくられていた。最初に見たときより店内は もっとがらんとして寒々しかった。まるで海岸打ち捨てられた廃船のように見えた。 「もう店をやるつもりはないの」と僕は訊いてみた。 「売ることにしたのよ」と緑はぽつんと言った。「お店売って、私とお姉さんとでそ のお金をわけるの。そしてこれからは誰に保護されることもなく身ひとつで生きていく の。お姉さんは来年結婚して、私はあと三年ちょっと大学に通うの。まあそれくらい のお金にはなるでしょう。アルバイトもするし。店が売れたらどこかにアパートを借り てお姉さんと二人でしばらく暮すわ」 「店は売れそうなの」 「たぶんね。知りあいに毛糸屋さんをやりたいっていう人がいて、少し前からこ こを売らないかって話があったの」と緑は言った。「でも可哀そうなお父さん。あんな に一所懸命働いて、店を手に入れて、借金を少しずつ返して、そのあげく結局は 殆んど何も残らなかったのね。まるであぶくみたいい消えちゃったのね」 「君が残ってる」と僕は言った。 「私」と緑は言っておかしそうに笑った。そして深く息を吸って吐きだした。「もう 上に行きましょう。ここ寒いわ」 二階に上ると彼女は僕を食卓に座らせ、風呂をわかした。そのあいだ僕はや かんにお湯をわかし、お茶を入れた。そして風呂がわくまで、僕と緑は食卓で向い あってお茶を飲んだ。彼女は頬杖をついてしばらくじっと僕の顔を見ていた。時計 のコツコツという音と冷蔵庫のサーモスタットが入ったり切れたりする音の他には何 も聞こえなかった。時計はもう十二時近くを指していた。 「ワタナベ君ってよく見るとけっこう面白い顔してるのね」と緑は言った。 「そうかな」と僕は少し傷ついて言った。 「私って面食いの方なんだけど、あなたの顔って、ほら、よく見ているとだんだ
んまあこの人でもいいやって気がしてくるのね」 「僕もときどき自分のことそう思うよ。まあ俺でもいいやって」 「ねえ、私、悪く言ってるんじゃないのよ。私ね、うまく感情を言葉で表わすこ とができないのよ。だからしょっちょう誤解されるの。私が言いたいのは、あなたのこと が好きだってこと。これさっき言ったかしら」 「言った」と僕は言った。 「つまり私も少しずつ男の人のことを学んでいるの」 緑はマルボロの箱を持ってきて一本吸った。「最初がゼロだといろいろ学ぶこと 多いわね」 「だろうね」と僕は言った。 「あ、そうだ。お父さんにお線香あげてくれる」と緑が言った。僕は彼女のあとを ついて仏壇のある部屋に行って、お線香をあげて手をあわせた。 「私ね、この前お父さんのこの写真の前で裸になっちゃったの。全部脱いで じっくり見せてあげたの。ヨガみたいにやって。はい、お父さん、これオッパイよ、これ オマンコよって」と緑は言った。 「なんでまた」といささか唖然として質問した。 「なんとなく見せてあげたかったのよ。だって私という存在の半分はお父さんの 精子でしょ見せてあげたっていいじゃない。これがあなたの娘ですよって。まあいささ か酔払っていたせいはあるけれど」 「ふむ」 「お姉さんがそこに来て腰抜かしてね。だって私がお父さんの遺影の前で裸に なって股広げてるんですもの、そりゃまあ驚くわよね」 「まあ、そうだろうね」 「それで私、主旨を説明したの。これこれこういうわけなのよ、だからモモちゃん も私の隣に来て服脱いで一緒にお父さんに見せてあげようって。でも彼女やんな かったわ。あきれて向うに行っちゃったの。そういうところすごく保守的なの」 「比較的まともなんだよ」と僕は言った。 「ねえ、ワタナベ君はお父さんのことどう思った」 「僕は初対面の人ってわりに苦手なんだけど、あの人と二人になっても苦痛 は感じなかったね。けっこう気楽にやってたよ。いろんな話したし」 「どんな話したの」 「エウリビデス」 緑はすごく楽しそうに笑った。「あなたって変ってるわねえ。死にかけて苦しんで いる初対面の病人にいきなりエウリビデスの話する人ちょっといないわよ」 「お父さんの遺影に向って股広げる娘だってちょっといない」と僕は言った。 緑はくすくす笑ってから仏壇の鐘をちーんと鳴らした。「お父さん、おやすみ。 私たちこれから楽しくやるから、安心して寝なさい。もう苦しくないでしょもう死ん
じゃったんだもん、苦しくないわよね。もし今も苦しかったら神様に文句言いなさい ね。これじゃちょっとひどすぎるじゃないかって。天国でお母さんと会ってしっぽりやっ てなさい。おしっこの世話するときおちんちん見たけど、なかなか立派だったわよ。だ から頑張るのよ。おやすみ」 我々交代で風呂に入り、パジャマに着がえた。僕は彼女の父親が少しだけ 使った新品同様のパジャマを借りた。いくぶん小さくはあったけれど、何もないよりは ましだった。緑は仏壇のある部屋に客用の布団を敷いてくれた。 「仏壇の前だけど怖くない」と緑は訊いた。 「怖かないよ。何も悪いことしてないもの」僕は笑って言った。 「でも私が眠るまでそばにいて抱いてくれるわよね」 「いいよ」 僕は緑の小さなベッドの端っこで何度も下に転げ落ちそうになりながら、ずっと 彼女の体を抱いていた。緑は僕の胸に鼻を押しつけ、僕の腰に手を置いていた。 僕は右手を彼女の背中にまわし、左手でベッドの枠をつかんで落っこちないように 体を支えていた。性的に高揚する環境とはとてもいえない。僕の鼻先に緑の頭が あって、その短くカットされた髪がときどき僕の鼻をむずむずさせた。 「ねえ、ねえ、ねえ、何か言ってよ」と緑が僕の胸に顔を埋めたまま言った。 「どんなこと」 「なんだっていいわよ。私が気持よくなるようなこと」 「すごく可愛いよ」 「ミドリ」と彼女は言った。「名前をつけて言って」 「すごく可愛いよ、ミドリ」と僕は言いなおした。 「すごくってどれくらい」 「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」 緑は顔を上げて僕を見た。「あなたって表現がユニークねえ」 「君にそう言われると心が和むね」と僕は笑って言った。 「もっと素敵なこと言って」 「君が大好きよ、ミドリ」 「どれくらい好き」 「春の熊くらい好きだよ」 「春の熊」と緑はまた頭を上げた。「それ何よ、春の熊って」 「春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロードみないな毛並み の目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日 は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱 きあってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そうい うのって素敵だろ」
「すごく素敵」 「それくらい君のことが好きだ」 緑は僕の胸にしっかり抱きついた。「最高」と彼女は言った。「そんなに好きな ら私の言うことなんでも聞いてくれるわよね怒らないわよね」 「もちろん」 「それで、私のことずっと大事にしてくれるわよね」 「もちろん」と僕は言った。そして彼女の短くてやわらかい小さな男の子のよう な髪を撫でた。「大丈夫、心配ないよ。何もかもうまくいくさ」 「でも怖いのよ、私」と緑は言った。 僕は彼女の肩をそっと抱いていたが、そのうちに肩が規則的に上下しはじ め、寝息も聞こえてきたので、静かに緑のベッドを抜け出し、台所に行ってビールを 一本飲んだ。まったく眠くはなかったので何か本でも読もうと思ったが、見まわしたと ころ本らしきものは一冊として見あたらなかった。緑の部屋に行って本棚の本を何 か借りようかとも思ったがばたばたとして彼女を起こしたくなかったのでやめた。 しばらくぼんやりとビールを飲んでいるうちに、そうだ、ここは書店なのだ、と僕 は思った。僕は下に下りて店の電灯を点け、文庫本の棚を探してみた。読みたい と思うようなものは少なく、その大半は既に読んだことのあるものだった。しかしとに かく何か読むものは必要だったので、長いあいだ売れ残っていたらしく背表紙の変 色したヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を選び、その分の金をレジスターのわきに置 いた。少くともこれで小林書店の在庫は少し減ったことになる。 僕はビールを飲みながら、台所のテーブルに向って『車輪の下』を読みつづけ た。最初に『車輪の下』を読んだのは中学校に入った年だった。そしてそれから八 年後に、僕は女の子の家の台所で真夜中に死んだ父親の着ていたサイズの小さ いパジャマを着て同じ本を読んでいるわけだ。なんだか不思議なものだなと僕は 思った。もしこういう状況に置かれなかったら、僕は『車輪の下』なんてまず読みか えさなかっただろう。 でも『車輪の下』はいささか古臭いところはあるにせよ、悪くない小説だった。 僕はしんとしずまりかえった深夜の台所で、けっこう楽しくその小説を一行一行ゆっ くりと読みつづけた。棚にはほこりをかぶったブラディーが一本あったので、それを少 しコーヒ ー・カップに注いで飲んだ。ブラディーは体を温めてくれたが、眠気の方は さっぱり訪ねてはくれなかった。 三時前にそっと緑の様子を見に行ってみたが、彼女はずいぶん疲れていたら しくぐっすりと眠りこんでいた。窓の外に立った商店街の街灯の光が部屋の中を月 光のようにほんのりと白く照らしていて、その光に背を向けるような格好で彼女は 眠っていた。緑の体はまるで凍りついたみたいに身じろぎひとつしなかった。耳を近 づけると寝息が聞こえるだけだった。父親そっくりの眠り方だなと僕は思った。 ベッドのわきには旅行鞄がそのまま置かれ、白いコートが椅子の背にかけて
あった。机の上はきちんと整理され、その前の壁にはスヌーピ ーのカレンダーがか かっていた。僕は窓のカーテンを少し開けて、人気のない商店街を見下ろした。ど の店もシャッターを閉ざし、酒屋の前に並んだ自動販売機だけが身をすくめるよう にしてじっと夜明けを待っていた。長距離トラックのタイヤのうなりがときおり重々しく あたりの空気を震わせていた。僕は台所に戻ってブラディーをもう一杯飲み、そして 『車輪の下』を読みつづけた。 その本を読み終えたとき、空はもう明るくなりはじめていた。僕はお湯をわかし てインスタント・コーヒ ーを飲み、テーブルの上にあったメモ用紙にボールペンで手紙 を書いた。ブラディーをいくらかもらった、『車輪の下』を買った、夜が明けたので帰 る、さよなら、と僕は書いた。そして少し迷ってから、「眠っているときの君はとても可 愛い」と書いた。それから僕はコーヒ ー・カップを洗い、台所の電灯を消し、階段を 下りてそっと静かにシャッターを上げて外に出た。近所の人に見られて不審に思わ れるんじゃないかと心配したが、朝の六時前にはまだ誰も通りを歩いてはいなかっ た。例によって鴉が屋根の上にとまってあなりを睥睨しているだけだった。僕は緑の 部屋の淡いピンクのカーテンのかかった窓を少し見上げてから都電の駅まで歩き、 終点で降りて、そこから寮まで歩いた。朝食を食べさせる定食屋が開いていたの で、そこであたたかいごはんと味噌汁と菜の漬けものと玉子焼きを食べた。そして 寮の裏手にまわって一階の永沢さんの部屋の窓を小さくノックした。永沢さんはす ぐに窓を開けてくれ、僕はそこから彼の部屋に入った。 「コーヒ ーでも飲むか」と彼は言ったが、いらないと僕は断った。そして礼を言っ て自分の部屋の引き上げ、歯をみがきズボンを脱いでから布団の中にもぐりこんで しっかりと目を閉じた。やがて夢のない、重い鉛の扉のような眠りがやってきた。 僕は毎週直子に手紙を書き、直子からも何通か手紙が来た。それほど長 い手紙ではなかった。十一月になってだんだん朝夕が寒くなってきたと手紙には あった。 「あなたが東京に帰っていなくなってしまったのと秋が深まったのが同時だった ので、体の中にぽっかり穴をあいてしまったような気分になったのはあなたのいない せいなのかそれとも季節のもたらすものなのか、しばらくわかりませんでした。レイコさ んとよくあなたの話をします。彼女からもあなたにくれぐれもよろしくということです。レ イコさんは相変わらず私にとても親切にしてくれます。もし彼女がいなかったら、私 はたぶんここの生活に耐えられなかったと思います。淋しくなると私は泣きます。泣 けるのは良いことだとレイコさんは言います。でも淋しいというのは本当に辛いもの です。私が淋しがっていると、夜に闇の中からいろんな人が話しかけてきます。夜の 樹々が風でさわさわと鳴るように、いろんな人が私に向って話しかけてくるのです。 キズキ君やお姉さんと、そんな風にしてよくお話をします。あの人たちもやはり淋し がって、話し相手を求めているのです。
ときどきそんな淋しい辛い夜に、あなたの手紙を読みかえします。外から入っ てくる多くのものは私の頭を混乱させますが、ワタナベ君の書いてきてくれるあなた のまわりの世界の出来事は私をとてもホッとさせてくれます。不思議ですね。どうし てでしょう。だから私も何度も読みかえし、レイコさんも同じように何度か読みます。 そしてその内容について二人で話しあったりします。ミドリさんという人のお父さんの ことを書いた部分なんて私とても好きです。私たちは週に一度やってくるあなたの 手紙を数少ない娯楽のひとつとして――手紙は娯楽なのです、ここでは――楽 しみにしています。 私もなるべく暇をみつけて手紙を書くように心懸けてはいるのですが、便箋を 前にするといつもいつも私の気持は沈みこんでしまいます。この手紙も力をふりし ぼって書いています。返事を書かなくちゃいけないとレイコさんに叱られたからです。 でも誤解しないで下さい。私はワタナベ君に対して話したいことや伝えたいことが いっぱいあるのです。ただそれをうまく文章にすることができないのです。だから私に は手紙を書くのが辛いのです。 ミドリさんというのはとても面白そうな人ですね。この手紙を読んで彼女はあな たのことを好きなんじゃないかという気がしてレイコさんにそう言ったら、『あたり前じゃ ない、私だってワタナベ君のこと好きよ』ということでした。私たちは毎日キノコをとっ たり栗を拾ったりして食べています。栗ごはん、松茸ごはんというのがずっとつづいて いますが、おいしくて食べ飽きません。しかしレイコさんは相変わらず小食で煙草ば かり吸いつづけています。鳥もウサギも元気です。さよなら」 僕の二十回目の誕生日の三日あとに直子から僕あての小包みが送られて きた。中には葡萄色の丸首のセーターと手紙が入っていた。 「お誕生日おめでとう」と直子は書いていた。「あなたの二十歳が幸せなもの であることを祈っています。私の二十歳はなんだかひどいもののまま終ってしまいそ うだけれど、あなたが私のぶんもあわせたくらい幸せになってくれると嬉しいです。こ れ本当よ。このセーターは私とレイコさんが半分ずつ編みました。もし私一人でやっ ていたら、来年のバレンタイン・デーまでかかったでしょう。上手い方の半分が彼女 で下手な方の半分が私です。レイコさんという人は何をやらせても上手い人で、 彼女を見ていると時々私はつくづく自分が嫌になってしまいます。だって私には人 に自慢できることなんて何もないだもの。さようなら。お元気で」 レイコさんからの短いメッセージも入っていた。 「元気あなたにとって直子は至福の如き存在かもしれませんが、私にとっては ただの手先の不器用な女の子にすぎません。でもまあなんとか間にあうようにセー ターは仕上げました。どう、素敵でしょう色とかたちは二人で決めました。誕生日お めでとう」
第十章 一九六九年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一 歩足を動かすたびに靴がすっぽり脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬか るみだ。そんな泥土の中を、僕はひどい苦労をしながら歩いていた。前にもうしろに も何も見えなかった。ただどこまでもその暗い色をしたぬかるみが続いているだけ だった。 時さえもがそんな僕の歩みにあわせてたどたどしく流れた。まわりの人間はとっ くに先の方まで進んでいて、僕と僕の時間だけがぬかるみの中をぐずぐずと這いま わっていた。僕のまわりで世界は大きく変ろうとしていた。ジョン・コルトレーンやら誰 やら彼やら、いろんな人が死んだ。人々は変革を叫び、変革はすぐそこの角まで やってきているように見えた。でもそんな出来事は全て何もかも実体のない無意 味な背景画にすぎなかった。僕は殆んど顔も上げずに、一日一日と日々を送って いくだけだった。僕の目に映るのは無限につづくぬかるみだけだった。左足を前にお ろし、左足を上げ、そして右足をあげた。自分がどこにいるのかも定かではなかっ た。正しい方向に進んでいるという確信もなかった。ただどこかに行かないわけには いかないから、一歩また一歩と足を運んでいるだけだった。 僕は二十歳になり、秋は冬へと変化していったが、僕の生活には変化らしい 変化はなかった。僕は何の感興もなく大学に通い、週に三日アルバイトをし、時 折『グレート・ギャツピイ』を読みかえし、日曜日が来ると洗濯をして、直子に長い 手紙を書いた。ときどき緑と会って食事をしたり、動物園に行ったり、映画を見たり した。小林書店を売却する話はうまく進み、彼女と彼女の姉は地下鉄の茗荷谷 のあたりに2DKのアパートを借りて二人で住むことになった。お姉さんが結婚したら そこを出てどこかにアパートを借りるのだ、と緑は言った。僕は一度そこに呼ばれて 昼ごはんを食べさせてもらったが、陽あたりの良い綺麗なアパートで、緑も小林書 店にいるときよりはそこでの生活の方がずっと楽しそうだった。 永沢さんは何度か遊びに行こうと僕を誘ったが、僕はそのたびに用事がある からと言って断った。僕はただ面倒臭かったのだ。もちろん女の子と寝たくないわけ ではない。ただ夜の町で酒を飲んで、適当な女の子を探して、話をして、ホテルに 行ってという過程を思うと僕はいささかうんざりした。そしてそんなことを延々とつづけ ていてうんざりすることも飽きることもない永沢さんという男にあらためて畏敬の念を 覚えた。ハツミさんに言われたせいもあるかもしれないけれど、名前も知らないつま らない女の子と寝るよりは直子のことを思い出している方が僕は幸せな気持にな れた。草原のまん中で僕を射精へと導いてくれた直子の指の感触は僕の中に何 よりも鮮明に残っていた。 僕は十二月の始めに直子に手紙を書いて、冬休みにそちらに会いに行って かまわないだろうかと訪ねた。レイコさんが返事を書いてきた。来てくれるのはすごく 嬉しいし楽しみにしている、と手紙にはあった。直子は今あまりうまく手紙が書けな
いので私がかわりに書いています。でもとくに彼女の具合がわるいというのでもない からあまり心配しないように。波のようなものがあるだけです。 大学が休みに入ると僕は荷物をリュックに詰め、雪靴をはいて京都まで出か けた。あの奇妙な医者が言うように雪に包まれた山の風景は素晴らしく美しいも のだった。僕は前と同じように直子とレイコさんの部屋に二泊し、前とだいたい同じ ような三日間を過ごした。日が暮れるとレイコさんがギターを弾き、我々は三人で 話をした。昼間のピクニックのかわりに我々は三人でクロス・カントリー・スキーをし た。スキーをはいて一時間も山の中を歩いていると息が切れて汗だくになった。暇 な時間にはみんなが雪かきをするのを手伝ったりもした。宮田というあの奇妙な医 者はまた我々の夕食のテーブルにやってきて「どうして手の中指は人さし指より長 く、足の方は逆なのか」について教えてくれた。門番の大村さんはまた東京の豚肉 の話をした。レイコさんは僕が土産がわりに持っていたレコードをとても喜んでくれ て、そのうちの何曲かを譜面にしてギターで弾いた。 秋にきたときに比べて直子はずっと無口になっていた。三人でいると彼女は 殆んど口をきかないでソファーに座ってにこにこと微笑んでいるだけだった。そのぶん レイコさんがしゃべった。「でも気にしないで」と直子は言った。「今こういう時期な の。しゃべるより、あなたたちの話を聞いてる方がずっと楽しいの」 レイコさんが用事を作ってどこかに行ってしまうと、僕と直子はベッドで抱きあっ た。僕は彼女の首や肩や乳房にそっと口づけし、直子は前と同じように指で僕を 導いてくれた。射精しおわったあとで、僕は直子を抱きながら、この二ヶ月ずっと君 の指の感触のことを覚えてたんだと言った。そして君のことを考えながらマスターペー ションしてた、と。 「他の誰とも寝なかったの」と直子が訪ねた。 「寝なかったよ」と僕は言った。 「じゃあ、これも覚えていてね」と彼女は言って体を下にずらし、僕のペニスに そっと唇をつけ、それからあたたかく包みこみ、舌をはわせた。直子のまっすぐな髪が 僕の下腹に落ちかかり、彼女の唇の動きにあわせてさらさらと揺れた。そして僕は 二度めの射精をした。 「覚えていられる」とそのあとで直子が僕に訊ねた。 「もちろん、ずっと覚えているよ」と僕は言った。僕は直子を抱き寄せ、下着の 中に指を入れてヴァギナにあててみたが、それは乾いていた。直子は首を振って、 僕の手をどかせた。我々はしばらく何も言わずに抱きあっていた。 「この学年が終ったら寮を出て、どこかに部屋を探そうと思うんだ」と僕は言っ た。「寮暮らしもだんだんうんざりしてきたし、まあアルバイトすれば生活費の方はな んとかなると思うし。それで、もしよかったら二人で暮らさないか前にも言ったように」 「ありがとう。そんな風に言ってくれてすごく嬉しいわ」と直子は言った。 「ここは悪いところじゃないと僕も思うよ。静かだし、環境も申しぶんないし、レ
イコさんは良い人だしね。でも長くいる場所じゃない。長くいるにはこの場所はちょっ と特殊すぎる。長くいればいるほどここから出にくくなってくると思うんだ」 直子は何も言わずに窓の外に目をやっていた。窓の外には雪しか見えなかっ た。雪雲がどんよりと低くたれこめ、雪におおわれた大地と空のあいだにはほんの少 しの空間しかあいていなかった。 「ゆっくり考えればいいよ」と僕は言った。「いずれにせよ僕は三月までには引 越すから、君はもし僕のところに来たいと思えばいつでもいいから来ればいいよ」 直子は肯いた。僕は壊れやすいガラス細工を持ち上げるときのように両腕で 直子の体をそっと抱いた。彼女は僕の首に腕をまわした。僕は裸で、彼女は小さ な白い下着だけを身に着けていた。彼女の体は美しく、どれだけ見ていても見飽 きなかった。 「どうして私濡れないのかしら」と直子は小さな声で言った。「私がそうなったの は本当にあの一回きりなのよ。四月のあの二十歳のお誕生日だけ。あのあなたに 抱かれた夜だけ。どうして駄目なのかしら」 「それは精神的なものだから、時間が経てばうまくいくよ。あせることないさ」 「私の問題は全部精神的なものよ」と直子は言った。「もし私が一生濡れる ことがなくて、一生セックスができなくても、それでもあなたずっと私のこと好きでいら れるずっとずっと手と唇だけで我慢できるそれともセックスの問題は他の女の人と寝 て解決するの」 「僕は本質的に楽天的な人間なんだよ」と僕は言った。 直子はベッドの上で身を起こして、Tシャツを頭からかぶり、フランネルのシャツ を着て、ブルージーンズをはいた。僕も服を着た。 「ゆっくり考えさせてね」と直子は言った。「それからあなたもゆっくり考えてね」 「考えるよ」と僕は言った。「それから君のフェラチオすごかったよ」 直子は少し赤くなって、にっこり微笑んだ。「キズキ君もそう言ってたわ」 「僕とあの男とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」と僕は言って、そして笑っ た。 そして我々は台所でテーブルをはさんで、コーヒ ーを飲みながら昔の話をし た。彼女は少しずつキズキの話ができるようになっていた。ぽつりぽつりと言葉を選 びながら、彼女は話した。雪は降ったりやんだりしていたが、三日間一度も晴れ間 は見えなかった。三月に来られると思う、と僕は別れ際に言った。そしてぶ厚いコー トの上から彼女を抱いて、口づけした。さよなら、と直子が言った。 一九七十年という耳馴れない響きの年はやってきて、僕の十代に完全に終 止符を打った。そして僕は新しいぬかるみへ足を踏み入れた。学年末のテストが あって、僕は比較的楽にそれをパスした。他にやることもなくて殆んど毎日大学に 通っていたわけだから、特別な勉強をしなくても試験をパスするくらい簡単なこと
だった。 寮内ではいくつかトラブルがあった。セクトに入って活動している連中が寮内 にヘルメットや鉄パイプを隠していて、そのことで寮長子飼いの体育会系の学生た ちとこぜりあいがあり、二人が怪我をして六人が寮を追い出された。その事件はか なりあとまで尾をひいて、毎日のようにどこかで小さな喧嘩があった。寮内にはずっ と重苦しい空気が漂っていて、みんながピリピリとしていた。僕もそのとばっちりで体 育会系の連中に殴られそうになったが、永沢さんが間に入ってなんとか話をつけて くれた。いずれにせよ、この寮を出る頃合だった。 試験が一段落すると僕は真剣にアパートを探しはじめた。そして一週間かけ てやっと吉祥寺の郊外に手頃な部屋をみつけた。交通の便はいささか悪かった が、ありがたいことには一軒家だった。まあ掘りだしものと言ってもいいだろう。大き な地所の一角に離れか庭番小屋のようにそれはぽつんと建っていて、母屋とのあ いだにはかなり荒れた庭が広がっていた。家主は表口を使い、僕は裏口を使うか らプライヴァシーを守ることもできた。一部屋と小さなキッチンと便所、それに常識で はちょっと考えられないくらい広い押入れがついていた。庭に面して縁側まであっ た。来年もしかしたら孫が東京に出てくるかもしれないので、そのときは出ていくの は条件で、そのせいで相場からすれば家賃はかなり安かった。家主は気の好さそ うな老夫婦で、別にむずかしいことは言わんから好きにおやりなさいと言ってくれた。 引越しの方は永沢さんが手伝ってくれた。どこかから軽トラックを借りてきて僕 の荷物を運び、約束どおり冷蔵庫とTVと大型の魔法瓶をプレゼントしてくれた。 僕にとってはありがたいプレゼントだった。その二日後に彼も寮を出て三田のアパー トに引越すことになっていた。 「まあ当分会うこともないと思うけど元気でな」と別れ際に彼は言った。「でも 前にいつか言ったように、ずっと先に変なところでひょっとお前に会いそうな気がする んだ」 「楽しみにしてますよ」と僕は言った。 「ところであのときとりかえっこした女だけどな、美人じゃない子の方が良かっ た」 「同感ですね」と僕は笑って言った。「でも永沢さん、ハツミさんのこと大事にし たほうがいいですよ。あんな良い人なかなかいないし、あの人見かけより傷つきやす いから」 「うん、それは知ってるよ」と彼は肯いた。「だから本当を言えばだな、俺のあと をワタナベがひきうけてくれるのがいちばん良いんだよ。お前とハツミならうまくいくと 思うし」 「冗談じゃないですよ」と僕は唖然として言った。 「冗談だよ」と永沢さんは言った。「ま、幸せになれよ。いろいろとありそうだけ れど、お前も
相当に頑固だからなんとかうまくやれると思うよ。ひとつ忠告していいかな、俺 から」 「いいですよ」 「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のや ることだ」 「覚えておきましょう」と僕は言った。そして我々は握手をして別れた。彼は新 しい世界へ、僕は自分のぬかるみへと戻っていた。 引越しの三日後に僕は直子に手紙を書いた。新しい住居の様子を書き、 寮のごたごたからぬけだせ、これ以上下らない連中の下らない思惑にまきこまれな いで済むんだと思うととても嬉しくてホッとする。ここで新しい気分で新しい生活を 始めようと思っている。 「窓の外は広い庭になっていて、そこは近所の猫たちの集会所として使われ ています。僕は暇になると縁側に寝転んでそんな猫を眺めています。いったい何匹 いるのかわからないけれど、とにかく沢山の数の猫がいます。そしてみんなで寝転ん で日なたぼっこをしています。彼らとしては僕がここの離れに住むようになったことは あまり気に入らないようですが、古いチーズをおいてやると何匹かは近くに寄ってき ておそるおそる食べました。そのうちに彼らとも仲良くなるかもしれません。中には一 匹耳が半分ちぎれた縞の雄猫がいるのですが、これが僕の住んでいた寮の寮長 にびっくりするくらいよく似ています。今にも庭で国旗を上げ始めるんじゃないかとい う気がするくらいです。 大学からは少し遠くなりましたが、専門課程に入ってしまえば朝の講義も ずっと少なくなるし、たいした問題はないと思います。電車の中でゆっくり本を読め るからかえって良いかもしれません。あとは吉祥寺の近辺で週三、四日のそれほど きつくないアルバイトの口を探すだけです。そうすればまた毎日ねじを巻く生活に戻 ることができます。 僕としては結論を急がせるつもりはないですが、春という季節は何かを新しく 始めるには都合の良い季節だし、もし我々が四月から一緒に住むことができると したら、それがいちばん良いじゃないかなという気がします。うまくいけば君も大学に 復学できるし。一緒に住むのに問題があるとしたらこの近くで君のためにアパートを 探すことも可能です。いちばん大事なことは我々がいつもすぐ近くにいることができ るということです。もちろんとくに春という季節にこだわっているわけではありません。 夏が良いと思うなら、夏でオーケーです。問題はありません。それについて君がどう 思っているか、返事をくれませんか 僕はこれから少しまとめてアルバイトをしようかと思っています。引越しの費用 を稼ぐためです。一人暮しをはじめると結構なんのかのとお金がかかります。鍋やら 食器やらも買い揃えなくちゃなりませんしね。でも三月になれば暇になるし、是非
君に会いに行きたい。都合の良い日を教えてくれませんか。その日にあわせて京 都に行こうと思います。君に会えることを楽しみにして返事を待っています」 それから二、三日、僕は吉祥寺の町で少しずつ雑貨を買い揃え、家で簡単 な食事を作りはじめた。近所の材木店で材木を買って切断してもらい、それで勉 強机を作った。食事もとりあえずはそこで食べることにした。棚も作ったし、調味料 も買い揃えた。生後半年くらいの雌の白猫は僕になついて、うちでごはんを食べる ようになった。僕はその猫に「かもめ」という名前をつけた。 一応それだけの体裁が整うと僕は町に出てペンキ屋のアルバイトを見つけ二 週間ぶっとおしでペンキ屋の助手として働いた。給料は良かったが大変な労働 だったし、シンナーで頭がくらくらした。仕事が終ると一膳飯屋で夕食を食べてビー ルを飲み家に帰って猫と遊び、あとは死んだように眠った。二週間経っても直子か らの返事は来なかった。 僕はペンキを塗っている途中でふと緑のことを思いだした。考えてみれば僕は もう三週間近く緑と連絡をとっていないし、引越したことさえ知らせていなかったの だ。そろそろ引越ししようかと思うんだと僕が言って、そうと彼女が言ってそれっきりな のだ。 僕は公衆電話に入って緑のアパートの番号をまわした。お姉さんらしい人が 出て僕が名前を告げると「ちょっと待ってね」と言った。しかしいくら待っても緑は出 てこなかった。 「あのね、緑はすごく怒ってて、あなたとなんか話したくないんだって」とお姉さ んらしい人が言った。「引越すときあなたあの子に何の連絡もしなかったでしょう行 き先も教えずにぷいといなくなっちゃって、そのままでしょ。それでかんかんに怒ってる のよ。あの子一度怒っちゃうとなかなかもとに戻らないの。動物と同じだから」 「説明するから出してもらえませんか」 「説明なんか聞きたくないんだって」 「じゃあちょっと今説明しますから、申しわけないけど伝えてもらえませんか、緑 さんに」 「嫌よ、そんなの」とお姉さんらしい人は突き放すように言った。「そういうことは 自分で説明しなさいよ。あなた男でしょ自分で責任持ってちゃんとやんなさい」 仕方なく僕は礼を言って電話を切った。そしてまあ緑が怒るのも無理はない と思った。僕は引越しと、新しい住居の整備と金を稼ぐために労働に追われて緑 のことなんて全く思いだしもしなかったのだ。緑どころか直子のことだって殆んど思い 出しもしなかった。僕には昔からそういうところがあった。何かに夢中にするとまわり のことが全く目に入らなくなってしまうのだ。 そしてもし逆に緑が行く先も言わずにどこかに引越してそのまま三週間も連 絡してこなかったとしたらどんな気がするだろうと考えてみた。たぶん僕は傷ついただ ろう。それもけっこう深く傷ついただろう。何故なら僕らは恋人ではなかったけれど、
ある部分ではそれ以上に親密にお互いを受け入れあっていたからだ。僕はそう思う とひどく切ない気持になった。他人の心を、それも大事な相手の心を無意味に傷 つけるというのはとても嫌なものだった。 僕は仕事から家に戻ると新しい机に向って緑への手紙を書いた。僕は自分 の思っていることを正直にそのまま書いた。言い訳も説明もやめて、自分が不注 意で無神経であったことを詫びた。君にとても会いたい。新しい家も見に来てほし い。返事を下さい、と書いた。そして速達切手を貼ってポストに入れた。 しかしどれだけ待っても返事は来なかった。 奇妙な春のはじめだった。僕は春休みのあいだずっと手紙の返事を待ちつづ けていた。旅行にも行けず、帰省もできず、アルバイトもできなかった。何日頃に 会いに来て欲しいという直子からの手紙がいつ来るかもしれなかったからだ。僕は 昼は吉祥寺の町に出て二本立ての映画をみたり、ジャズ喫茶で半日、本を読ん でいた。誰とも会わなかったし、殆んど誰とも口をきかなかった。そして週に一度直 子に手紙を書いた。手紙の中では僕は返事のことには触れなかった。彼女を急か すのが嫌だったからだ。僕はペンキ屋の仕事のことを書き、「かもめ」のことを書き、 庭に桃の花のことを書き、親切な豆腐屋のおばさんと意地のわるい惣菜屋のおば さんのことを書き、僕が毎日どんな食事を作っているかについて書いた。それでも 返事はこなかった。 本を読んだり、レコードを聴いたりするのに飽きると、僕は少しずつ庭の手入 れをした。家主のところで庭ぽうきと熊手とちりとりと植木ばさみを借り、雑草を抜 き、ぼうぼうにのびた植込みを適当に刈り揃えた。少し手を入れだだけで庭はけっ こうきれいになった。そんなことをしていると家主が僕を呼んで、お茶でも飲みませ んか、と言った。僕は母屋の縁側に座って彼と二人でお茶を飲み、煎餅を食べ、 世間話をした。彼は退職してからしばらく保険会社の役員をしていたのだが、二 年前にそれもやめてのんびりと暮らしているのだと言った。家も土地も昔からのもも だし、子供もみんな独立してしまったし、何をせずとものんびりと老後を送れるのだ と言った。だからしょっちょう夫婦二人で旅行をするのだ、と。 「いいですね」と僕は言った。 「よかないよ」と彼は言った。「旅行なんてちっとも面白くないね。仕事してる 方がずっと良い」 庭をいじらないで放ったらかしておいたのはこのへんの植木屋にろくなのがいな いからで、本当は自分が少しずつやればいいのだが最近鼻のアレルギーが強くなっ て草をいじることができないのだということだった。そうですか、と僕は言った。お茶を 飲み終ると彼は僕に納屋を見せて、お礼というほどのこともできないが、この中にあ るのは全部不用品みたいなものだから使いたいものがあったらなんでも使いなさい と言ってくれた。納屋の中には実にいろんなものがつまっていた。風呂桶から子供 用プールから野球のバッドまであった。僕は古い自転車とそれほど大きくない食卓
と椅子を二脚と鏡とギターをみつけて、もしよかったらこれだけお借りしたいと言っ た。好きなだけ使っていいよと彼は言った。 僕は一日がかりで自転車の錆をおとし、油をさし、タイヤに空気を入れ、ギヤ を調整し、自転車屋でクラッチ・ワイヤを新しいものにとりかえてもらった。それで自 転車は見ちがえるくらい綺麗になった。食卓はすっかりほこりを落としてからニスを 塗りなおした。ギターの弦も全部新しいものに替え、板のはがれそうになっていたと ころは接着剤でとめた。錆もワイヤ・ブラシできれいに落とし、ねじも調節した。たい したギターではなかったけれど、一応正確な音は出るようになった。考えて見れば ギターを手にしたのなんて高校以来だった。僕は縁側に座って、昔練習したドリフ ターズの『アップ・オン・ザ・ルーフ』を思い出しながらゆっくりと弾いてみた。不思議に まだちゃんと大体のコードを覚えていた。 それから僕は余った材木で郵便受けを作り、赤いペンキを塗り名前を書いて 戸の前に立てておいた。しかし四月三日までそこに入っていた郵便物といえば転 送されてきた高校のクラス会の通知だけだったし、僕はたとえ何があろうとそんなも のにだけは出たくなかった。何故ならそれは僕とキズキのいたクラスだったからだ。僕 はそれをすぐに屑かごに放り込んだ。 四月四日の午後に一通の手紙が郵便受けに入っていたが、それはレイコさ んからのものだった。封筒の裏に石田玲子という名前が書いてあった。僕ははさみ できれいに封を切り、縁側に座ってそれを読んだ。最初からあまり良い内容のもの ではないだろうという予感はあったが、読んでみると果たしてそのとおりだった。 はじめにレイコさんは手紙の返事が大変遅くなったことを謝っていた。直子は あなたに返事を書こうとずっと悪戦苦闘していたのだが、どうしても書きあげることが できなかった。私は何度もかわりに書いてあげよう、返事が遅くなるのはいけないか らと言ったのだが、直子はこれはとても個人的なことだしどうしても自分が書くのだと 言いつづけていて、それでこんなに遅くなってしまったのだ。いろいろ迷惑をかけたか もしれないが許してほしい、と彼女は書いていた。 「あなたもこの一ヶ月手紙の返事を待ちつづけて苦しかったかもしれません が、直子にとってもこの一ヶ月はずいぶん苦しい一ヶ月だったのです。それはわかっ てあげて下さい。正直に言って今の彼女の状況はあまり好ましいものではありませ ん。彼女はなんとか自分の力で立ち直ろうとしたのですが、今のところまだ良い結 果は出ていません。 考えて見れば最初の徴候はうまく手紙が書けなくなってきたことでした。十一 月のおわりか、十二月の始めころからです。それから幻聴が少しずつ始まりました。 彼女が手紙を書こうとすると、いろんな人が話しかけてきて手紙を書くのを邪魔す るのです。彼女が言葉を選ぼうとすると邪魔をするわけです。しかしあなたの二回 目の訪問までは、こういう症状も比較的軽度のものだったし、私も正直言ってそれ ほど深刻には考えていませんでした。私たちにはある程度そういう症状の周期のよ
うなものがあるのです。でもあなたが帰ったあとで、その症状はかなり深刻なものに なってしまいました。彼女は今、日常会話するのにもかなりの困難を覚えていま す。言葉が選べないのです。それで直子は今ひどく混乱しています。混乱して、怯 えています。幻聴もだんだんひどくなっています。 私たちは毎日専門医をまじえてセッションをしています。直子と私と医師の三 人でいろんな話をしながら、彼女の中の損われた部分を正確に探りあてようとして いるわけです。私はできることならあなたを加えたセッションを行いたいと提案し、医 者もそれには賛成したのですが、直子が反対しました。彼女の表現をそのまま伝 えると『会うときは綺麗な体で彼に会いたいから』というのがその理由です。問題は そんなことではなく一刻も早く回復することなのだと私はずいぶん説得したのです が、彼女の考えは変りませんでした。 前にもあなたに説明したと思いますがここは専門的な病院ではありません。 もちろんちゃんとした専門医はいて有効な治療を行いますが、集中的な治療をす ることは困難です。ここの施設の目的は患者が自己治療できるための有効な環 境を作ることであって、医学的治療は正確にはそこには含まれていないのです。だ からもし直子の病状がこれ以上悪化するようであれば、別の病院なり医療施設 に移さざるを得ないということになるでしょう。私としても辛いことですが、そうせざる をえないのです。もちろんそうなったとしても治療のための一時的な『出張』というこ とで、またここに戻ってくることは可能です。あるいはうまくいけばそのまま完治して退 院ということになるかもしれませんね。いずれにせよ私たちも全力を尽くしています し、直子も全力を尽くしています。あなたも彼女の回復を祈っていて下さい。そし てこれまでどおり手紙を書いてやって下さい。 三月三十一日 石田玲子 」 手紙を読んでしまうと僕はそのまま縁側に座って、すっかり春らしくなった庭を 眺めた。庭には古い桜の木があって、その花は殆んど満開に近いところまで咲いて いた。風はやわらかく、光はぼんやりと不思議な色あいにかすんでいた。少しすると 「かもめ」がどこからやってきて縁側の板をしばらくかりかりとひっかいてから、僕の隣 りで気持良さそうに体をのばして眠ってしまった。 何かを考えなくてはと思うのだけれど、何をどう考えていけばいいのかわからな かった。それに正直なところ何も考えたくなかった。そのうちに何かを考えざるをえな い時がやってくるだろうし、そのときにゆっくり考えようと僕は思った。少なくとも今は 何も考えたくはない。 僕は縁側で「かもめ」を撫でながら柱にもたれて一日庭を眺めていた。まるで 体中の力が抜けてしまったような気がした。午後が深まり、薄暮がやってきて、や がてほんのりと青い夜の闇が庭を包んだ。「かもめ」はもうどこかに姿を消したしまっ
ていたが、僕はまだ桜の花を眺めていた。春の闇の中の桜の花は、まるで皮膚を 裂いてはじけ出てきた爛れた肉のように僕には見えた。庭はそんな多くの肉の甘く 重い腐臭に充ちていた。そして僕は直子の肉体を思った。直子の美しい肉体は 闇の中に横たわり、その肌からは無数の植物の芽が吹き出し、その緑色の小さな 芽はそこから吹いてくる風に小さく震えて揺れていた。どうしてこんなに美しい体が 病まなくてはならないのか、と僕は思った。何故彼らは直子をそっとしておいてくれ ないのだ 僕は部屋に入って窓のカーテンを閉めたが、部屋の中にもやはりその春の香 りは充ちていた。春の香りはあらゆる地表に充ちているのだ。しかし今、それが僕に 連想させるのは腐臭だけだった。僕はカーテンを閉めきった部屋の中で春を激しく 憎んだ。僕は春が僕にもたらしたものを憎み、それが僕の体の奥にひきおこす鈍い 疼きのようなものを憎んだ。生まれてこのかた、これほどまで強く何かを憎んだのは はじめてだった。 それから三日間、僕はまるで海の底を歩いているような奇妙な日々を送っ た。誰かが僕に話しかけても僕にはうまく聞こえなかったし、僕が誰かに何かを話し かけても、彼はそれを聞きとれなかった。まるで自分の体のまわりにぴったりとした膜 が張ってしまったような感じだった。その膜のせいで、僕はうまく外界と接触すること ができないのだ。しかしそれと同時に彼らもまた僕の肌に手を触れることはできない のだ。僕自身は無力だが、こういう風にしてる限り、彼らもまた僕に対しては無力 なのだ。 僕は壁にもたれてぼんやりと天井を眺め、腹が減るとそのへんにあるものをか じり、水を飲み、哀しくなるとウィスキーを飲んで眠った。風呂にも入らず、髭も剃ら なかった。そんな風にして三日が過ぎた。 四月六日に緑から手紙が来た。四月十日に課目登録があるから、その日 に大学の中庭で待ち合わせて一緒にお昼ごはんを食べないかと彼女は書いてい た。返事はうんと遅らせてやったけれど、これでおあいこだから仲直りしましょう。だっ てあなたに会えないのはやはり淋しいもの、と緑の手紙には書いてあった。僕はそ の手紙を四回読みかえしてみたが、彼女の言わんとすることはよく理解できなかっ た。この手紙は何を意味しているのだ、いったい僕の頭はひどく漠然としていて、ひ とつの文章と次の文章のつながりの接点をうまく見つけることができなかった。どうし て「課目登録」の日に彼女と会うことが「おあいこ」なのだ何故彼女は僕と「お昼ご はん」を食べようとしているのだなんだか僕の頭までおかしくなるつつあるみたいだ な、と僕は思った。意識がひどく弛緩して、暗黒植物の根のようにふやけていた。こ んな風にしてちゃいけないな、と僕はぼんやりとした頭で思った。いつまでもこんなこ としてちゃいけない、なんとかしなきゃ。そして僕は「自分に同情するな」という永沢 さんの言葉を突然思いだした。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」 やれやれ永沢さん、あなたは立派ですよ、と僕は思った。そしてため息をつい
て立ち上がった。 僕は久しぶりに洗濯をし、風呂屋に行って髭を剃り、部屋の掃除をし、買物 をしてきちんとした食事を作って食べ、腹を減らせた「かもめ」に餌をやり、ビール以 外の酒を飲まず、体操を三十分やった。髭を剃るときに鏡を見ると、顔がげっそり とやせてしまったことがわかった。目がいやにぎょろぎょろとしていて、なんだか他人の 顔みたいだった。 翌朝僕は自転車に乗って少し遠出をし、家に戻って昼食を食べてから、レイ コさんの手紙をもう一度読みかえしてみた。そしてこれから先どういう風にやってい けばいいのかを腰を据えて考えて見た。レイコさんの手紙を読んで僕が大きな ショックを受けた最大の理由は、直子は快方に向いつつあるという僕の楽観的観 測が一瞬にしてひっくり返されてしまったことにあった。直子自身、自分の病いは根 が深いのだと言ったし、レイコさんも何か起るかはわからないわよといった。しかしそ れでも僕は二度直子に会って、彼女はよくなりつつあるという印象を受けたし、唯 一の問題は現実の社会に復帰する勇気を彼女がとり戻すことだという風に思って いたのだ。そして彼女さえその勇気をとり戻せば、我々は二人で力をあわせてきっ とうまくやっていけるだろうと。 しかし僕が脆弱な仮説の上に築きあげた幻想の城はレイコさんの手紙によっ てあっという間に崩れおちてしまった。そしてそのあとには無感覚なのっぺりとした平 面が残っているだけだった。僕はなんとか体勢を立てなおさねばならなかった。直 子がもう一度回復するには長い時間がかかるだろうと僕は思った。そしてたとえ回 復したにせよ、回復したときの彼女は以前よりもっと衰弱し、もっと自信を失くして いるだろう。僕はそういう新しい状況に自分を適応させねばならないのだ。もちろん 僕が強くなったところで問題の全てが解決するわけではないということはよくわかって いたが、いずれにせよ僕にできることと言えば自分の士気を高めることくらいしかな いのだ。そして彼女の回復をじっと待ちつづけるしかない。 おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺な りにきちんと生きると決めたんだ。お前だってきっと辛かっただろうけど、俺だって辛い んだ。本当だよ。これというのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。で も俺は彼女を絶対に見捨てないよ。何故なら俺は彼女が好きだし、彼女よりは 俺の方が強いからだ。そして俺は今よりももっと強くなる。そして成熟する。大人に なるんだよ。そうしなくてはならないからだ。俺はこれまでできることなら十七や十八 のままでいたいと思っていた。でも今はそうは思わない。俺はもう十代の少年じゃな いんだよ。俺は責任というものを感じるんだ。なあキズキ、俺はもうお前と一緒にい た頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生きつづける ための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。 「ねえ、どうしたのよ、ワタナベ君」と緑は言った。「ずいぶんやせちゃったじゃな
い、あなた」 「そうかな」と僕は言った。 「やりすぎたんじゃない、その人妻の愛人と」 僕は笑って首を振った。「去年の十月の始めから女と寝たことなんて一度も ないよ」 緑はかすれた口笛を吹いた。「もう半年もあれやってないの本当」 「そうだよ」 「じゃあ、どうしてそんなにやせちゃったの」 「大人になったからだよ」と僕は言った。 緑は僕の両肩を持って、じっと僕の目をのぞきこんだ。そしてしばらく顔をしか めて、やがてにっこり笑った。「本当だ。たしかに何か少し変ってるみたい、前に比べ て」 「大人になったからだよ」 「あなたって最高ね。そういう考え方できるのって」と彼女は感心したように 言った。「ごはん食べに行こう。おなか減っちゃったわ」 我々は文学部の裏手にある小さなレストランに行って食事をすることにした。 僕はその日のランチの定食を注文し、彼女もそれでいいと言った。 「ねえ、ワタナベ君、怒ってる」と緑が訊いた。 「何に対して」 「つまり私が仕返しにずっと返事を書かなかったことに対して。そういうのってい けないことだと思うあなたの方はきちんと謝ってきたのに」 「僕の方が悪かったんだから仕方ないさ」と僕は言った。 「お姉さんはそういうのっていけないっていうの。あまりにも非寛容で、あまりに も子供じみてるって」 「でもそれでとにかくすっきりしたんだろう仕返しして」 「うん」 「じゃあそれでいいじゃないか」 「あなたって本当に寛容なのね」と緑は言った。「ねえ、ワタナベ君、本当にも う半年もセックスしてないの」 「してないよ」と僕は言った。 「じゃあ、この前私を寝かしつけてくれた時なんか本当はすごくやりたかったん じゃない」 「まあ、そうだろうね」 「でもやらなかったのね」 「君は今、僕のいちばん大事な友だちだし、君を失いたくないからね」と僕は 言った。 「私、あのときあなたが迫ってきてもたぶん拒否できなかったわよ。あのときすご
く参ってたから」 「でも僕のは固くて大きいよ」 彼女はにっこり笑って、僕の手首にそっと手を触れた。「私、少し前からあな たのこと信じようって決めたの。百パーセント。だからあのときだって私、安心しきって ぐっすり眠っちゃったの。あなたとなら大丈夫だ、安心していいって。ぐっすり眠ってた でしょう私」 「うん。たしかに」と僕は言った。 「そうしてね、もし逆にあなたが私に向って『おい緑、俺とやろう。そうすれば何 もかもうまく行くよ。だから俺とやろう』って言ったら、私たぶんやっちゃうと思うの。でも こういうこと言ったからって、私があなたのことを誘惑してるとか、からかって刺激して るとかそんな風には思わないでね。私はただ自分の感じていることをそのまま正直 にあなたに伝えたかっただけなのよ」 「わかってるよ」と僕は言った。 我々はランチを食べながら課目登録のカードを見せあって、二つの講義を共 通して登録していることを発見した。週に二回彼女に顔を合わせることになる。そ れから彼女は自分の生活のことを話した。彼女のお姉さんも彼女もしばらくのあい だアパート暮しになじめなかった。何故ならそれは彼女たちのそれまでの人生に比 べてあまりにも楽だったからだ。自分たちは誰かの看病をしたり、店を手伝ったりし ながら毎日を忙しく送ることに馴れてしまっていたのだ、と緑は言った。 「でも最近になってこれでいいんだと思えるようになってきたのよ」と緑は言っ た。「これが私たち自身のための本来の生活なんだって。だから誰かに遠慮するこ ともなく思う存分手足をのばせばいいんだって。でもそれはすごく落ちつかなかった のよ。体が二、三センチ宙に浮いているみたいでね、嘘だ、こんな楽な人生が現 実の人生として存在するわけないといった気がしていたの。今にどんでん返しがあ るに違いないって二人で緊張してたの」 「苦労性の姉妹なんだね」と僕笑って言った。 「これまでが過酷すぎたのよ」と緑は言った。「でもいいの。私たち、そのぶんを これから先でしっかりとり戻してやるの」 「まあ君たちならやれそうな気がするな」と僕は言った。「お姉さんは毎日何を してるの」 「彼女のお友だちが最近表参道の近くでアクセサリーのお店始めたんで、週 に三回くらいその手伝いに行ってるの。あとは料理を習ったり、婚約者とデートした り、映画を見に行ったり、ぼおっとしたり、とにかく人生を楽しんでいるわね」 彼女が僕の新しい生活のことを訊ね、僕は家の間取りやら広い庭やら猫の かもめやら家主のことやらを話した。 「楽しい」 「悪くないね」と僕は言った。
「でもそのわりに元気がないのね」 「春なのにね」と僕は言った。 「そして彼女が編んでくれた素敵なセーター着てるのにね」 僕はびっくりして自分の着ている葡萄色のセーターに目をやった。「どうしてそ んなことはわかったのかな」 「あなたって正直ねえ。そんなのあてずっぽうにきまってるじゃない」と緑はあき れたように言った。「でも元気がないのね」 「元気を出そうとしているんだけれど」 「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」 僕は何度か頭を振ってから緑の顔を見た。「たぶん僕の頭がわるいせいだと 思うけれど、ときどき君が何を言ってるのかよく理解できないことがある」 「ビスケットの缶にいろんなビスケットがつまってて、好きなのとあまり好きじゃな いのがあるでしょそれで先に好きなのどんどん食べちゃうと、あまり好きじゃないの ばっかり残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくとあ とになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって」 「まあひとつの哲学ではあるな」 「でもそれ本当よ。私、経験的にそれを学んだもの」と緑は言った。 コーヒ ーを飲んでいると緑のクラスの友だちらしい女の子が二人店に入ってき て、緑と三人で課目登録カードを見せあい、昨日のドイツ語の成績がどうだったと か、なんとか君が内ゲバで怪我をしただとか、その靴いいわねどこで買ったのだと か、そういうとりとめのない話をしばらくしていた。聞くともなく聞いていると、そういう 話はなんだか地球の裏側から聞こえてくるような感じがした。僕はコーヒ ーを飲み ながら窓の外の風景を眺めていた。いつもの春の大学の風景だった。空はかす み、桜が咲き、見るからに新入生という格好をした人々が新しい本を抱えて道を 歩いていた。そんなものを眺めているうちに僕はまた少しぼんやりとした気分になっ てきた。僕は今年もまた大学に戻れなかった直子のことを思った。窓際にはアネモ ネの花をさした小さなグラスが置いてあった。 女の子たち二人がじゃあねと言って自分たちのテーブルに戻ってしまうと、緑と 僕は店を出て二人で町を散歩した。古本屋をまわって本を何冊か買い、また喫 茶店に入ってコーヒーを飲み、ゲーム・センターでピンボールをやり、公園のベンチに 座って話をした。だいたいは緑がじゃべり、僕はうんうんと返事をしていた。喉が乾 いたと緑が言って、僕は近所の菓子屋でコーラをニ本買ってきた。そのあいだ彼女 はレポート用紙にボールペンでこりこりと何かを書きつけていた。なんだいと僕は聴く と、なんでもないわよと彼女は答えた。 三時半になると彼女は私そろそろ行かなきゃ、お姉さんと銀座で待ち合わせ してるの、と言った。我々は地下鉄の駅まで歩いて、そこで別れた。別れ際に緑は
僕のコートのポッケトに四つに折ったレポート用紙をつっこんだ。そして家に帰ってか ら読んでくれと言った。僕はそれを電車の中で読んだ。 「前略。 今あなたがコーラを買いに行ってて、そのあいだにこの手紙を書いています。 ベンチの隣りに座っている人に向って手紙を書くなんて私としてもはじめてのことで す。でもそうでもしないことには私の言わんとすることはあなたに伝わりそうもありませ んから。だって私が何が言ってもほとんど聞いてないんだもの。そうでしょう ねえ、知ってますかあなたは今日私にすごくひどいことしたのよ。あなたは私の 髪型が変っていたことにすら気がつかなかったでしょう私少しずつ苦労して髪をのば してやっと先週の終りになんとか女の子らしい髪型に変えることができたのよ。あな たそれにすら気がつかなかったでしょうなかなか可愛くきまったから久しぶりに会って 驚かそうと思ったのに、気がつきもしないなんて、それはあまりじゃないですかどうせ あなたが私がどんな服着てたかも思いだせないんじゃないかしら。私だって女の子 よ。いくら考え事をしているからといっても、少しくらいきちんと私のことを見てくれたっ ていいでしょう。たったひとこと『その髪、可愛いね』とでも言ってくれれば、そのあと何 してたってどれだけ考えごとしてたって、私あなたのことを許したのに。 だから今あなたに嘘をつきます。お姉さんと銀座で待ち合わせているなんて嘘 です。私は今日あなたの家に泊るつもりでパジャマまで持ってきたんです。そう、私 のバッグの中にはパジャマと歯ブラシが入っているのです。ははは、馬鹿みたい。 だってあなたは家においでよとも誘ってくれないんだもの。でもまあいいや、あなたは 私のことなんかどうでもよくて一人になりたがってるみたいだから一人にしてあげま す。一所懸命いろんなことを心ゆくまで考えていなさい。 でも私はあなたに対してまるっきり腹を立ててるというわけではありません。私 はただただ淋しいのです。だってあなたは私にいろいろと親切にしてくれたのに私が あなたにしてあげられることは何もないみたいだからです。あなたはいつも自分の世 界に閉じこもっていて、私がこんこん、ワタナベ君、こんこんとノックしてもちょっと目を 上げるだけで、またすぐもと戻ってしまうみたいです。 今コーラを持ってあなたが戻って来ました。考えごとしながら歩いているみたい で、転べばいいのにと私は思ってたのに転びませんでした。あなたは今隣りに座って ごくごくとコーラを飲んでいます。コーラを買って戻ってきたときに『あれ、髪型変った んだね』と気がついてくれるかなと思って期待していたのですが駄目でした。もし気 がついてくれたらこんな手紙びりびりと破って、『ねえ、あなたのところに行きましょう。 おししい晩ごはん作ってあげる、それから仲良く一緒に寝ましょう』って言えたのに。 でもあなたは鉄板みたいに無神経です。さよなら。 PS この次教室で会っても話かけないで下さい」
吉祥寺の駅から緑のアパートに電話をかけてみたが誰も出なかった。とくにや ることもなかったので、僕は吉祥寺の町を歩いて、大学に通いながらやれるアルバ イトの口を探してみた。僕は土・日が一日あいていて、月・水・木は夕方の五時 から働くことができたが、僕のそんなスケジュールにぱったりと合致する仕事というの はそう簡単に見つからなかった。僕はあきらめて家に戻り、夕食の買物をするつい でにまた緑に電話をかけてみた。お姉さんが電話に出て、緑はまだ帰ってないし、 いつ帰るかはちょっとわからないと言った。僕は礼を言って電話を切った。 夕食のあとで緑に手紙を書こうとしたが何度書きなおしてもうまく書けなかっ たので、結局直子に手紙を書くことにした。 春がやってきてまた新しい学年が始まったことを僕は書いた。君に会えなくて とても淋しい、たとえどのようなかたちにせよ君に会いたかったし、話がしたかった。し かしいずれにせよ、僕は強くなろうと決心した。それ以外に僕のとる道はないように 思えるからだ、と僕は書いた。 「それからこれは僕自身の問題であって、君にとってはあるいはどうでもいいこ とかもしれないけれど、僕はもう誰とも寝ていません。君が僕に触れてくれていたと きのことを忘れたくないからです。あれは僕にとっては、君が考えている以上に重要 なことなのです。僕はいつもあのときのことを考えています」 僕は手紙を封筒に入れて切手を貼り、机の前に座ってしばらくそれをじっと 眺めていた。いつもよりはずっと短い手紙だったが、なんとなくその方が相手に意が うまく伝わるだろうという気がした。僕はグラスに三センチくらいウィスキーを注ぎ、そ れをふた口で飲んでから眠った。 翌日僕は吉祥寺の駅近くで土曜日と日曜日だけのアルバイトをみつけた。 それほど大きくないイタリア料理店のウェイターの仕事で、条件はまずまずだった が、昼食もついたし、交通費も出してくれた。月・水・木の遅番が休みをとるときは ―― 彼らはよく休みをとった――かわりに出勤してくれてかまわないということで、そ れは僕としても好都合だった。三ヶ月つとめたら給料は上げる。今週の土曜日か ら来てほしいとマネージャーが言った。新宿のレコード店のあのろくでもない店長に 比べるとずいぶんきちんとしたまともそうな男だった。 緑のアパートに電話するとまたお姉さんが出て、緑は昨日からずっと戻ってな いし、こちらが行き先を知りたいくらいだ、何か心あたりはないだろうかと疲れた声で 訊いた。僕が知っているのは彼女がバッグにパジャマと歯ブラシを入れていたという ことだけだった。
水曜日の講義で、僕は緑の姿を見かけた。彼女はよもぎみたいな色のセー ターを着て、夏によくかけていた濃い色のサングラスをかけていた。そしていちばんう しろの席に座って、前に一度見かけたことのある眼鏡をかけた小柄の女の子と二 人で話をしていた。僕はそこに行って、あとで話がしたいんだけどと緑に言った。眼 鏡をかけた女の子がまず僕を見て、それから緑が僕を見た。緑の髪は以前に比べ るとたしかにずいぶん女っぽいスタイルになっていた。いくぶん大人っぽくも見えた。 「私、約束があるの」と緑は少し首をかしげるようにして言った。 「そんなに時間とらせない。五分でいいよ」と僕は言った。 緑はサングラスをとって目を細めた。なんだか百メートルくらい向うの崩れかけ た廃屋を眺めるときのような目つきだった。「話したくないのよ。悪いけど」 眼鏡の女の子が彼女話したくないんだって、悪いけどという目で僕を見た。 僕はいちばん前の右端の席に座って講義を聴きテネシー・ウィリアムズの戯 曲についての総論。そのアメリカ文学における位置、講義が終わるとゆっくり三つ 数えてからうしろを向いた。緑の姿はもう見えなかった。 四月は一人ぼっちで過ごすには淋しすぎる季節だった。四月にはまわりの 人々はみんな幸せそうに見えた。人々はコートを脱ぎ捨て、明るい日だまりの中で おしゃべりをしたり、キャッチボールをしたり、恋をしたりしていた。でも僕は完全な一 人ぼっちだった。直子も緑も永沢さんも、誰もがみんな僕の立っている場所から離 れていってしまった。そして今の僕には「おはよう」とか「こんにちは」を言う相手さえい ないのだ。あの突撃隊でさえ僕には懐かしかった。僕はそんなやるせない孤独の中 で四月を送った。何度か緑に話かけてみたが、返ってくる返事はいつも同じだっ た。今話したなくないのと彼女は言ったし、その口調から彼女が本気でそう言って いることがわかった。彼女はだいたいいつも例の眼鏡の女の子といたし、そうでない ときは背の高くて髪の短い男と一緒にいた。やけに脚の長い男で、いつも白いバス ケットボール・シューズをはいていた。 四月が終わり、五月がやってきたが、五月は四月よりもっとひどかった。五月 になると僕は春の深まりの中で、自分の心が震え、揺れはじめるのを感じないわけ にはいなかった。そんな震えはたいてい夕暮れの時刻にやってきた。木蓮の香りが ほんのりと漂ってくるような淡い闇の中で僕の心はわけもなく膨み、震え、揺れ、痛 みに刺し貫かれた。そんなとき僕はじっと目を閉じて歯をくいしばった。そしてそれが 通りすぎていってしまうのを待った。ゆっくりと長い時間をかけてそれは通り過ぎ、あ とにも鈍い痛みを残していた。 そんなとき僕は直子に手紙を書いた。直子への手紙の中で僕は素敵なこと や気持の良いことや美しいもののことしか書かなかった。草の香り、心地の良い春 の風、月の光、観た映画、好きな唄、感銘を受けた本、そんなものについて書い た。そんな手紙を読みかえしてみると、僕自身が慰められた。そして自分はなんと いう素晴らしい世界の中に生きているのだろうと思った。僕はそんな手紙を何通も
書いた。直子からもレイコさんからも手紙は来なかった。 アルバイト先のレストランで僕は伊東という同じ年のアルバイト学生と知り 合ってときどき話をするようになった。美大の油絵科にかよっているおとなしい無口 な男で話をするようになるまでにずいぶん時間がかかったが、そのうちに僕らは仕事 が終わると近所の店でビールを一杯飲んでいろんな話をするようになった。彼も本 を読んだり音楽を聴いたりするのが好きで、僕らはだいたいそんな話をした。伊東 はほっそりとしたハンサムな男で、その当時の美大の学生にしては髪も短かく、清 潔な格好をしていた。あまり多くを語らなかったけれど、きちんとした好みと考え方 を持っていた。フランスの小説が好きでジョルジェ・バタイユとポリス・ヴィアンを好ん で読み、音楽ではモーツァルトとモーリス・ラヴェルをよく聴いた。そして僕と同じよう にそういう話のできる友だちを求めていた。 彼は一度僕を自分のアパートに招待してくれた。井の頭公園の裏手のある ちょっと不思議なつくりの平屋だてのアパートで、部屋の中は画材やキャンパスで いっぱいだった。絵を見たいと僕は言ったが、恥ずかしいものだからと言って見せてく れなかった。我々は彼が父親のところから黙って持ってきたシーバス・リーガルを飲 み、七輪でししゃもを焼いて食べ、ロベール・カサドゥシェの弾くモーツァルトのピア ノ・コンチェルトを聴いた。 彼は長崎の出身で、故郷の町に恋人を置いて出てきていた。彼は長崎に 帰るたびに彼女と寝ていた。でも最近はなんだかしっくりといかないんだよ、と言っ た。 「なんとなくわかるだろ、女の子ってさ」と彼は言った。「二十歳とか二十一に なると急にいろんなことを具体的に考えはじめるんだ。すごく現実的になりはじめる んだ。するとね、これまですごく可愛いと思えていたところが月並みでうっとうしく見え てくるんだよ。僕に会うとね、だいたいあのあとでだけどさ、大学出てからどうするのっ て訊くんだ」 「どうするんだい」と僕も訊いてみた。 彼はししゃもをかじりながら頭を振った。「どうするったって、どうしようもないよ、 油絵科の学生なんて。そんなこと考えたら誰もアブラになんて行かないさ。だってそ んなところ出たってまず飯なんて食えやしないもの。そういうと彼女は長崎に戻って 美術の先生になれっていうんだよ。彼女、英語の教師になるつもりなんだよ。やれ やれ」 「彼女のことがもうそれほど好きじゃないんだね」 「まあそうなんだろうな」と伊東は認めた。「それに僕は美術の教師なんかなり たくないんだ。猿みたいにわあわあ騒ぎまわるしつけのわるい中学生に絵を教えて 一生を終えたくないんだよ」 「それはともかくその人と別れた方がいいんじゃないかなお互いのために」と僕 は言った。
「僕もそう思う。でも言い出せないだよ、悪くて。彼女は僕と一緒になる気で いるんだもの。別れよう、君のこともうあまり好きじゃないからなんて言い出せない よ」 僕らは氷を入れずストレートでシーバスを飲み、ししゃもがなくなってしまうと、 キウリとセロリを細長く切って味噌をつけてかじった。キウリをぽりぽりと食べていると 亡くなった緑の父親のことを思いだした。そして緑を失ったことで僕の生活がどれほ ど味気のないものになってしまったかと思って、切ない気持になった。知らないうちに 僕の中で彼女の存在がどんどん膨らんでいたのだ。 「君には恋人いるの」と伊東が訊いた。 いることはいる、と僕は一呼吸置いて答えた。でも事情があって今は遠く離 れているんだ。 「でも気持は通じているんだろう」 「そう思いたいね。そう思わないと救いがない」と僕は冗談めかして言った。 彼はモーツァルトの素晴らしさについて物静かにしゃべった。彼は田舎の人々 が山道について熟知しているように、モーツァルトの音楽の素晴らしさを熟知してい た。父親が好きで三つの時からずっと聴いてるんだと彼は言った。僕はクラシック音 楽にそれほど詳しいわけではなかったけれど、彼の「ほら、ここのところが――」とか 「どうだい、この――」といった適切で心のこもった説明を聴きながらモーツァルトの コンチェルトに耳を傾いていると、本当に久しぶりに安らかな気持になることができ た。僕らは井の頭公園の林の上に浮かんだ三日月を眺め、シーバス・リーガルを 最後の一滴まで飲んだ。美味い酒だった。 伊東は泊っていけよと言ったが、僕はちょっと用事があるからと言って断り、 ウィスキーの礼を言って九時前に彼のアパートを出た。そして帰りみち電話ボックス に入って緑に電話をかけてみた。珍しく緑が電話に出た。 「ごめんなさい。今あなたと話したくないの」と緑は言った。 「それはよく知ってるよ。何度も聞いたから。でもこんな風にして君との関係を 終えたくないんだ。君は本当に数の少ない僕の友だちの一人だし、君に会えない のはすごく辛い。いつになったら君と話せるのかなそれだけでも教えてほしいんだよ」 「私の方から話しかけるわよ。そのときになったら」 「元気」と僕は訊いてみた。 「なんとか」と彼女は言った。そして電話を切った。 五月の半ばにレイコさんから手紙が来た。 「いつも手紙をありがとう。直子はとても喜んで読んでいます。私も読ませても らっています。いいわよね、読んでも 長いあいだ手紙を書けなくてごめんなさい。正直なところ私もいささか疲れ気 味だったし、良いニュースもあまりなかったからです。直子の具合はあまり良くありま
せん。先日神戸から直子のお母さんがみえて、専門医と私をまじえて四人でいろ いろと話しあい、しばらく専門的な病院に移って集中的な治療を行い、結果を見 てまたここに戻るようにしてはどうかという合意に達しました。直子もできることなら ずっとここにいて治したいというし、私としても彼女と離れるのは淋しいし心配でもあ るのですが、正直言ってここで彼女をコントロールするのはだんだん困難になってき ました。普段はべつになんということもないのですが、ときどき感情がひどく不安定に なることがあって、そういうときには彼女から目を離すことはできません。何が起るか わからないからです。激しい幻聴があり、直子は全てを閉ざして自分の中にもぐり こんでしまいます。 だから私も直子はしばらく適切な施設に入ってそこで治療を受けるのがいち ばん良いだろうと考えています。残念ですが、仕方ありません。前もあなたに言った ように、気長にやるのがいちばんです。希望を捨てず、絡みあった糸をひとつひとつ ほぐしていくのです。事態がどれほど絶望的に見えても、どこかに必ず糸口はあり ます。まわりが暗ければ、しばらくじっとして目がその暗闇に慣れるのを待つしかあり ません。 この手紙があなたのところに着く頃には直子はもうそちらの病院に移っている はずです。連絡が後手後手にまわって申し分けないと思いますが、いろんなことが ばたばたと決まってしまったのです。新しい病院はしっかりとした良い病院です。良 い医者もいます。住所を下に書いておきますので、手紙をそちらに書いてやって下 さい。彼女についての情報は私の方にも入ってきますから、何かあったら知らせるよ うにします。良いニュースが書けるといいですね。あなたも辛いでしょうけれど頑張り なさいね。直子がいなくてもときどきでいいから私に手紙を下さい。さようなら」 その春僕はずいぶん沢山の手紙を書いた。直子に週一度手紙を書き、レイ コさんにも手紙を書き、緑にも何通か書いた。大学の教室で手紙を書き、家の机 に向って膝に「かもめ」をのせながら書き、休憩時間にイタリア料理店のテーブルに 向って書いた。まるで手紙を書くことで、バラバラに崩れてしまいそうな生活をようや くつなぎとめているみたいだった。 君と話ができなかったせいで、僕はとても辛くて淋しい四月と五月を送った、 と僕は緑への手紙に書いた。これほど辛くて淋しい春を体験したのははじめてのこ とだし、これだったら二月が三回つづいた方がずっとましだ。今更君にこんなことを いっても始まらないとは思うけれど、新しいヘア・スタイルはとてもよく君に似合って いる。とても可愛い。今イタリア料理店でアルバイトしていて、コックからおいしいス パゲティーの作り方を習った。そのうちに君に食べさせてあげたい。 僕は毎日大学に通って、週に二回か三回イタリア料理店でアルバイトをし、 伊東と本や音楽の話をし、彼からボリス・ヴィアンを何冊か借りて読み、手紙を書
き、「かもめ」と遊び、スパゲティーを作り、庭の手入れをし、直子のことを考えなが らマスタペーションをし、沢山の映画を見た。 緑が僕に話しかけてきたのは六月の半ば近くだった。僕と緑はもう二ヶ月も 口をきいていなかった。彼女は講義が終ると僕のとなりの席に座って、しばらく頬杖 をついて黙っていた。窓の外には雨が降っていた。梅雨どき特有の、風を伴わない まっすぐな雨で、それは何もかもまんぺんなく濡らしていた。他の学生がみんな教 室を出ていなくなっても緑はずっとその格好で黙っていた。そしてジーンズの上着の ポッケトからマルボロを出してくわえ、マッチを僕の渡した。僕はマッチをすって煙草 に火をつけてやった。緑は唇を丸くすぼめて煙を僕の顔にゆっくりと吹きつけた。 「私のヘア・スタイル好き」 「すごく良いよ」 「どれくらい良い」と緑が訊いた。 「世界中の森の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ」と僕は言った。 「本当にそう思う」 「本当にそう思う」 彼女はしばらく僕の顔を見ていたがやがて右手をさしだした。僕はそれを握っ た。僕以上に彼女の方がほっとしたみたいに見えた。緑は煙草の灰を床に落とし てからすっと立ち上がった。 「ごはん食べに行きましょう。おなかペコペコ」と緑は言った。 「どこに行く」 「日本橋の高島屋の食堂」 「何でまたわざわざそんなところまで行くの」 「ときどきあそこに行きたくなるのよ、私」 それで我々は地下鉄に乗って日本橋まで行った。朝からずっと雨が降りつづ いていたせいか、デパートの中はがらんとしてあまり人影がなかった。店内には雨の 匂いが漂い、店員たちもなんとなく手持ち無沙汰な風情だった。我々は地下の 食堂に行き、ウィンドの見本を綿密に点検してから二人とも幕の内弁当を食べる ことにした。昼食どきだったが、食堂もそれほど混んではいなかった。 「デパートの食堂で飯食うなんて久しぶりだね」と僕はデパートの食堂でしか まずお目にかかれないような白くてつるりとした湯のみでお茶を飲みながら言った。 「私好きよ、こういうの」と緑は言った。「なんだか特別なことをしているような 気持になるの。たぶん子供のときの記憶のせいね。デパートに連れてってもらうなん てほんのたまにしかなかったから」 「僕はしょっちゅう行ってたような気がするな。お袋がデパート行くの好きだった からさ」 「いいわね」 「べつに良くもないよ。デパートなんか行くの好きじゃないもの」
「そうじゃないわよ。かまわれて育ってよかったわねっていうこと」 「まあ一人っ子だからね」 「大きくなったらデパートの食堂に一人できて食べたいものをいっぱい食べてや ろうと思ったの、子供の頃」と緑は言った。「でも空しいものね、一人でこんなところ でもそもろごはん食べたって面白くもなんともないもの。とくにおいしいというものでも ないし、ただっ広くて混んでてうるさいし、空気はわるいし。それでもときどきここに来 たくなるのよ」 「このニヶ月淋しかったよ」と僕は言った。 「それ、手紙で読んだわよ」と緑は無表情な声で言った。「とにかくごはん食べ ましょう。私今それ以外のこと考えられないの」 我々は半円形の弁当箱に入った幕の内弁当をきれいに食べ、吸い物を飲 み、お茶を飲んだ。緑は煙草を吸った。煙草を吸い終ると彼女は何も言わずに すっと立ち上がって傘を手にとった。僕も立ち上がって傘を持った。 「これからどこに行くの」と僕は訊いてみた。 「デパートに来て食堂でごはんを食べたんだもの、次は屋上に決まってるで しょう」と緑は言った。 雨の屋上には人は一人もいなかった。ペット用品売り場にも店員の姿はな く、売店も、乗り物切符売り場もシャッターを閉ざしていた。我々は傘をさしてぐっ しょりと濡れた木馬やガーデン・チェアや屋台のあいだを散策した。東京のどまん中 にこんなに人気のない荒涼とした場所があるなんて僕には驚きだった。緑は望遠 鏡が見たいというので、僕は硬貨を入れてやり、彼女が見ているあいだずっと傘を さしてやっていた。 屋上の隅の方に屋根のついたゲーム・コーナーがあって、子供向けのゲーム 機がいくつか並んでいた。僕と緑はそこにあった足台のようなものの上に並んで腰を 下ろし、二人で雨ふりを眺めた。 「何か話してよ」と緑が言った。「話があるんでしょ、あなた」 「あまり言い訳したくないけど、あのときは僕も参ってて、頭がぼんやりしてたん だ。それでいろんなことがうまく頭に入ってこなかったんだ」と僕は言った。「でも君と 会えなくなってよくわかったんだ。君がいればこそ今までなんとかやってこれたんだって ね。君がいなくなってしまうと、とても辛くて淋しい」 「でもあなた知らないでしょ、ワタナベ君あなたと会えないことで私がこのニヶ月 どれほど辛くて淋しい想いをしたかということを」 「知らなかったよ、そんなこと」と僕はびっくりして言った。「君は僕のことを頭に きていて、それで会いたくないんだと思ってたんだ」 「どうしてあなたってそんなに馬鹿なの会いたいに決まってるでしょうだって私あ なたのこと好きだって言ったでしょう私そんなに簡単に人を好きになったり、好きじゃ なくなったりしないわよ。そんなこともわかんないの」
「それはもちろんそうだけど――」 「そりゃね、頭に来たわよ。百回くらい蹴とばしてやりたいくらい。だって久し振 りに会ったっていうのにあなたはボオッとして他の女の人のことを考えて私のことなん か見ようともしないんだもの。それは頭に来るわよ。でもね、それとはべつに私あなた と少し離れていた方がいいんじゃないかという気がずっとしてたのよ。いろんなことを はっきりさせるためにも」 「いろんなことって」 「私とあなたの関係のことよ。つまりね、私あなたといるときの方がだんだん楽 しくなってきたのよ、彼と一緒にいるときより。そういうのって、いくらなんでも不自然 だし具合わるいと思わないもちろん私は彼のこと好きよ、そりゃ多少わかままで偏 狭でファシストだけど、いいところはいっぱいあるし、はじめて真剣に好きになった人 だしね。でもね、あなたってなんだか特別なのよ、私にとって。一緒にいるとすごく ぴったりしてるって感じするの。あたなのことを信頼してるし、好きだし、放したくない の。要するに自分でもだんだん混乱してきたのよ。それで彼のところに行って正直 に相談したの。どうしたらいいだろうって。あなたともう会うなって彼は言ったわ。もし あなたと会うなら俺と別れろって」 「それでどうしたの」 「彼と別れたよ、さっぱりと」と言って緑はマルボロをくらえ、手で覆うようにして マッチで火をつけ、煙を吸いこんだ。 「どうして」 「どうして」と緑は怒鳴った。「あなた頭おかしいんじゃないの英語の仮定法が わかって、数列が理解できて、マルクスが読めて、なんでそんなことわかんないのよ なんでそんなこと訊くのよなんでそんなこと女の子に言わせるのよ彼よりあなたの方 が好きだからにきまってるでしょ。私だってね、もっとハンサムな男の子好きになりた かったわよ。でも仕方ないでしょ、あなたのこと好きになっちゃったんだから」 僕は何か言おうとしたが喉に何かがつまっているみたいに言葉がうまく出てこ なかった。 緑は水たまりの中に煙草を投込んだ。「ねえ、そんなひどい顔しないでよ。悲 しくなっちゃうから。大丈夫よ、あなたに他に好きな人がいること知ってるから別に何 も期待しないわよ。でも抱いてくれるくらいはいいでしょ私だってこのニヶ月本当に 辛かったんだから」 我々はゲーム・コーナーの裏手で傘をさしたまま抱きあった。固く体をあわせ、 唇を求めあった。彼女の髪にも、ジーンズのジャケットの襟にも雨の匂いがした。女 の子の体ってなんてやわらかくて温かいんだろうと僕は思った。ジャケット越しに僕は 彼女の乳房の感触をはっきりと胸に感じた。僕は本当に久し振りに生身の人間 に触れたような気がした。 「あなたとこの前に会った日の夜に彼と会って話したの。そして別れたの」と緑
は言った。 「君のこと大好きだよ」と僕は言った。「心から好きだよ。もう二度と放したくな いと思う。でもどうしようもないんだよ。今は身うごきとれないんだ」 「その人のことで」 僕は肯いた。 「ねえ、教えて。その人と寝たことあるの」 「一年前に一度だけね」 「それから会わなかったの」 「二回会ったよ。でもやってない」と僕は言った。 「それはどうしてなの彼女はあなたのこと好きじゃないの」 「僕にはなんとも言えない」と僕は言った。「とても事情が混み入ってるんだ。 いろんな問題が絡みあっていて、それがずっと長いあいだつづいているものだから、 本当にどうなのかというのがだんだんわからなくなってきているんだ。僕にも彼女に も。僕にわかっているのは、それがある種の人間として責任であるということなんだ。 そして僕はそれを放り出すわけにはいかないんだ。少なくとも今はそう感じているん だよ。たとえ彼女が僕を愛していないとしても」 「ねえ、私は生身の血のかよった女の子なのよ」と緑は僕の首に頬を押し付 けて言った。「そして私はあなたに抱かれて、あなたのことを好きだってうちあけてい るのよ。あなたがこうしろって言えば私なんだってするわよ。私多少むちゃくちゃなと ころあるけど正直でいい子だし、よく働くし、顔だってけっこう可愛いし、おっぱいだっ て良いかたちしているし、料理もうまいし、お父さんの遺産だって信託預金にして あるし、大安売りだと思わないあなたが取らないと私そのうちどこかよそに行っちゃう わよ」 「時間がほしいんだ」と僕は言った。「考えたり、整理したり、判断したりする 時間がほしいんだ。悪いとは思うけど、今はそうとしか言えないんだ」 「でも私のこと心から好きだし、二度と放したくないと思ってるのね」 「もちろんそう思ってるよ」 緑は体を離し、にっこり笑って僕の顔を見た。「いいわよ、待ってあげる。あな たのことを信頼してるから」と彼女は言った。「でお私をとるときは私だけをとってね。 そして私を抱くときは私のことだけを考えてね。私の言ってる意味わかる」 「よくわかる」 「それから私に何してもかまわないけれど、傷つけることだけはやめてね。私こ れまでの人生で十分傷ついてきたし、これ以上傷つきたくないの。幸せになりたい のよ」 僕は彼女の体を抱き寄せて口づけした。 「そんな下らない傘なんか持ってないで両手でもっとしっかり抱いてよ」と緑は 言った。
「傘ささないとずぶ濡れになっちゃうよ」 「いいわよ、そんなの、どうでも。今は何も考えずに抱きしめてほしいのよ。私 二ヶ月間これ我慢してたのよ」 僕は傘を足もとに置き、雨の中でしっかりと緑を抱きしめた。高速道路を行く 車の鈍いタイヤ音だけがまるでもやのように我々のまわりを取り囲んでいた。雨は 音もなく執拗に降りつづき、僕の黄色いナイロンのウィンド・ブレーカ ーを暗い色に 染めた。 「そろそろ屋根のあるところに行かない」と僕は言った。 「うちにいらしゃいよ。今誰もいないから。このままじゃ風邪引いちゃうもの」 「まったく」 「ねえ、私たちなんだか川を泳いで渡ってきたみたいよ」と緑が笑いながら言っ た。「ああ気持良かった」 僕らはタオル売り場で大きめのタオルを買い、かわりばんこに洗面所に入って 髪を乾かした。それから地下鉄を乗りついで彼女の茗荷谷のアパートまで行った。 緑はすぐに僕にシャワーを浴びさせ、それから自分も浴びた。そして僕の服が乾くま でバスローブを貸してくれ、自分はポロシャツとスカートに着がえた。我々は台所の テーブルでコーヒ ーを飲んだ。 「あなたのこと話してよ」と緑は言った。 「僕のどんなこと」 「そうねえ......どんなものが嫌い」 「鳥肉と性病としゃべりすぎ床屋が嫌いだ」 「他には」 「四月の孤独な夜とレースのついた電話機のカバーが嫌いだ」 「他には」 僕は首を振った。「他にはとくに思いつかないね」 「私の彼は――つまり前の彼は――いろんなものが嫌いだったわ。私がすごく 短いスカートはくこととか、煙草を吸うこととか、すぐ酔払うこととか、いやらしいこと言 うこととか、彼の友だちの悪口言うこととか......だからもしそういう私に関することで 嫌なことあったら遠慮しないで言ってね。あらためられるところはちゃんとあらためる から」 「別に何もないよ」と僕は少し考えてからそう言って首を振った。「何もない」 「本当」 「君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も酔払い 方も、何でも好きだよ」 「本当にこのままでいいの」 「どう変えればいいのがかわからないから、そのままでいいよ」 「どれくらい私のこと好き」と緑が訊いた。
「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」と 僕は言った。 「ふうん」と緑は少し満足したように言った。「もう一度抱いてくれる」 僕と緑は彼女の部屋のベッドで抱きあった。雨だれの音を聞きながら布団の 中で我々は唇をかさね、そして世界の成りたち方からゆで玉子の固さの好みに至 るまでのありとあらゆる話をした。 「雨の日には蟻はいったい何をしているのかしら」と緑が質問した。 「知らない」と僕は言った。「巣の掃除とか貯蔵品の整理なんかやってるん じゃないかな。蟻ってよく働くからさ」 「そんなに働くのにどうして蟻は進化しないで昔から蟻のままなの」 「知らないな。でも体の構造が進化に向いてないんじゃないかな。つまり猿な んかに比べてさ」 「あなた意外にいろんなこと知らないのね」と緑は言った。「ワタナベ君って、世 の中のことはたいてい知ってるのかと思ってたわ」 「世界は広い」と僕は言った。 「山は高く、海は深い」と緑は言った。そしてバスローブの裾から手を入れて僕 の勃起しているペニスを手にとった。そして息を呑んだ。「ねえ、ワタナベ君、悪いけ どこれ本当に冗談抜きで駄目。こんな大きくて固いのとても入らんないわよ。嫌 だ」 「冗談だろう」と僕はため息をついて言った。 「冗談よ」とくすくす笑って緑は言った。「大丈夫よ。安心しなさい。これくらい ならなんとかちゃんと入るから。ねえ、くわしく見ていい」 「好きにしていいよ」と僕は言った。 緑は布団の中にもぐりこんでしばらく僕のペニスをいじりまわした。皮をひっぱっ たり、手のひらで睾丸の重さを測ったりしていた。そして布団から首を出してふうっと 息をついた。「でも私あなたのこれすごく好きよ。お世辞じゃなくて」 「ありがとう」と僕は素直に礼を言った。 「でもワタナベ君、私とやりたくないでしょいろんなことがはっきりするまでは」 「やりたくないわけがないだろう」と僕は言った。「頭がおかしくなるくらいやりた いよ。でもやるわけにはいかないんだよ」 「頑固な人ねえ。もし私があなただったらやっちゃうけどな。そしてやっちゃって から考えるけどな」 「本当にそうする」 「嘘よ」と緑は小さな声で言った。「私もやらないと思うわ。もし私があなただっ たら、やはりやらないと思う。そして私、あなたのそういうところ好きなの。本当に本 当に好きなのよ」 「どれくらい好き」と僕は訊いたが、彼女は答えなかった。そして答えるかわり
に僕の体にぴったりと身を寄せて僕の乳首に唇をつけ、ペニスを握った手をゆっくり と動かしはじめた。僕が最初に思ったのは直子の手の動かし方とはずいぶん違うな ということだった。どちらも優しくて素敵なのだけれど、何かが違っていて、それでまっ たく別の体験のように感じられてしまうのだ。 「ねえ、ワタナベ君、他の女の人のこと考えてるでしょ」 「考えてないよ」と僕は嘘をついた。 「本当」 「本当だよ」 「こうしてるとき他の女の人のこと考えちゃ嫌よ」 「考えられないよ」と僕は言った。 「私の胸かあそこ触りたい」と緑が訊いた。 「さわりたいけど、まださわらない方がいいと思う。一度にいろんなことやると刺 激が強すぎる」 緑は肯いて布団の中でもそもそとパンティーを脱いでそれを僕のペニスの先に あてた。「ここに出していいからね」 「でも汚れちゃうよ」 「涙が出るからつまんないこと言わないでよ」と緑は泣きそうな声で言った。「そ んなの洗えばすむことでしょう。遠慮しないで好きなだけ出しなさいよ。気になるん なら新しいの買ってプレゼントしてよ。それとも私のじゃ気に入らなくて出せないの」 「まさか」と僕は言った。 「じゃあ出しなさいよ。いいのよ、出して」 僕が射精してしまうと、彼女は僕の精液を点検した。「ずいぶんいっぱい出し たのね」と彼女は感心したように言った。 「多すぎたかな」 「いいのよ、べつに。馬鹿ね。好きなだけ出しなさいよ」と緑が笑いながら言っ て僕にキスした。 夕方になると彼女は近所に買物に行って、食事を作ってくれた。僕らは台所 のテーブルでビールを飲みながら天ぷらを食べ、青豆のごはんを食べた。 「沢山食べていっぱい精液を作るのよ」と緑は言った。「そしたら私がやさしく 出してあげるから」 「ありがとう」と僕は礼を言った。 「私ね、いろいろとやり方知ってるのよ。本屋やってる頃ね、婦人雑誌でそう いうの覚えたの。ほら妊娠中の女の人ってあれやれないから、その期間御主人が 浮気しないようにいろんな風に処理してあげる方法が特集してあったの。本当にい ろんな方法あるのよ。楽しみ」 「楽しみだね」と僕は言った。
緑と別れたあと、家に帰る電車の中で僕は駅で買った夕刊を広げてみた が、そんなもの考えてみたらちっとも読みたくなかったし、読んでみたところで何も理 解できなかった。僕はそんなわけのわからない新聞の紙面をじっと睨みながら、いっ たい自分はこれから先どうなっていくんだろう、僕をとりかこむ物事はどう変っていくん だろうと考えつづけた。時折、僕のまわりで世界がどきどきと脈を打っているように 感じられた。僕は深いため息をつき、それから目を閉じた。今日いちにち自分の行 為に対して僕はまったく後悔していなかったし、もしもう一回今日をやりなおせると しても、まったく同じことをするだろうと確信していた。やはり雨の屋上で緑をしっかり 抱き、びしょ濡れになり、彼女のベッドの中で指で射精に導かれることになるだろ う。それについては何の疑問もなかった。僕は緑が好きだったし、彼女が僕のもとに 戻ってきてくれたことはとても嬉しかった。彼女となら二人でうまくやっていけるだろう と思った。そして緑は彼女自身言っていたように血のかよった生身の女の子で、そ のあたたかい体を僕の腕の中にあずけていたのだ。僕としては緑を裸にして体を開 かせ、そのあたたかみの中に身を沈めたいという激しい欲望を押しとどめるのがやっ とだったのだ。僕のペニスを握った指はゆっくりと動き始めたのを止めさせることなん てとてもできなかった。僕はそれを求めていたし、彼女もそれを求めていたし、我々 はもう既に愛しあっていたのだ。誰にそれを押しとどめることができるだろうそう、僕は 緑を愛していた。そして、たぶんそのことはもっと前にかわっていたはずなのだ。僕は ただその結果を長いあいだ回避しつづけていただけなのだ。 問題は僕が直子に対してそういう状況の展開をうまく説明できないという点 にあった。他の時期ならともかく、今の直子に僕が他の女の子を好きになってしまっ たなんて言えるわけがなかった。そして僕は直子のこともやはり愛していたのだ。どこ かの過程で不思議なかたちに歪められた愛し方であるにはせよ、僕は間違いなく 直子を愛していたし、僕の中には直子のためにかなり広い場所が手つかず保存さ れていたのだ。 僕にできることはレイコさんに全てをうちあけた正直な手紙を書くことだった。 僕は家に戻って縁側に座り、雨の降りしきる夜の庭を眺めながら頭の中にいくつか の文章を並べてみた。それから机に向って手紙を書いた。「こういう手紙をレイコさ んに書かなくてはならないというのは僕にとってはたまらなく辛いことです」と僕は最 初に書いた。そして緑と僕のこれまでの関係をひととおり説明し、今日二人のあい だに起ったことを説明した。 「僕は直子を愛してきたし、今でもやはり同じように愛しています。しかし僕と 緑のあいだに存在するものは何かしら決定的なものなのです。そして僕はその力に 抗しがたいものを感じるし、このままどんどん先の方まで押し流されていってしまい そうな気がするのです。僕は直子に対して感じるのはおそらく静かで優しく澄んだ 愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは 立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです。
僕はどうしていいかわからなくてとても混乱しています。決して言いわけをするつもり ではありませんが、僕は僕なりに誠実に生きてきたつもりだし、誰に対しても嘘はつ きませんでした。誰かに傷つけたりしないようにずっと注意してきました。それなのに どうしてこんな迷宮のようなところに放りこまれてしまったのか、僕にはさっぱりわけが わからないのです。僕はいったいどうすればいいのでしょう僕にはレイコさんしか相談 できる相手がいないのです」 僕は速達切手を貼って、その夜のうちに手紙をポストに入れた。 レイコさんから返事が来たのはその五日後だった。 「前略。 まず良いニュース。 直子は思ったより早く快方に向っているそうです。私も一度電話で話したの ですが、しゃべる方もずいぶんはっきりしてました。あるいは近いうちにここに戻ってこ られるかもしれないということです。 次にあなたのこと。 そんな風にいろんな物事を深刻にとりすぎるのはいけないことだと私は思いま す。人を愛するというのは素敵なことだし、その愛情が誠実なものであるなら誰も 迷宮に放りこまれたりはしません。自信を持ちなさい。 私の忠告はとても簡単です。まず第一に緑さんという人にあなたが強く魅か れるのなら、あなたが彼女と恋に落ちるのは当然のことです。それはうまくいくかもし れないし、あまりうまくいかないかもしれない。しかし恋というのはもともとそういうもの です。恋に落ちたらそれに身をまかせるのが自然というものでしょう。私はそう思いま す。それも誠実さのひとつのかたちです。 第二にあなたが緑さんとセックスするかしないかというのは、それはあなた自身 の問題であって、私にはなんとも言えません。緑さんとよく話しあって、納得のいく 結論を出して下さい。 第三に直子にはそのことを黙っていて下さい。もし彼女に何か言わなくてはな らないような状況になったとしたら、そのときは私とあなたの二人で良策を考えま しょう。だから今はとりあえずあの子には黙っていることにしましょう。そのことは私にま かせておいて下さい。 第四にあなたはこれまでずいぶん直子の支えになってきたし、もしあなたが彼 女に対して恋人としての愛情を抱かなくなったとしても、あなたが直子にしてあげら れることはいっぱいあるのだということです。だから何もかもそんなに深刻に考えない ようにしなさい。私たちは私たちというのは正常な人と正常ならざる人をひっくるめた 総称です不完全な世界に住んでいる不完全な人間なのです。定規で長さを 測ったり分度器で角度を測ったりして銀行預金みたいにコチコチと生きているわけ
ではないのです。でしょう 私の個人的感情を言えば、緑さんというのはなかなか素敵な女の子のようで すね。あなたが彼女に心を魅かれるというのは手紙を読んでいてもよくわかります。 そして直子に同時に心を魅かれるというのもよくかわります。そんなことは罪でもな んでもありません。このただっ広い世界にはよくあることです。天気の良い日に美し い湖にボートを浮かべて、空もきれいだし湖も美しいと言うのと同じです。そんな風 に悩むのはやめなさい。放っておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだ けベストを尽くしても人は傷つくときは傷つくのです。人生とはそういうものです。偉 そうなことを言うようですが、あなたもそういう人生のやり方をそろそろ学んでいい頃 です。あなたはときどき人生を自分のやり方にひっぱりこもうとしすぎます。精神病 院に入りたくなかったらもう少し心を開いて人生の流れに身を委ねなさい。私のよ うな無力で不完全な女でもときには生きるってなんて素晴らしいんだろうと思うの よ。本当よ、これだからあなただってもっともっと幸せになりなさい。幸せになる努力 をしなさい。 もちろん私はあなたと直子がハッピー・エンディングを迎えられなかったことは残 念に思います。しかし結局のところ何が良かったなんて誰にかわるというのですかだ からあなたは誰にも遠慮なんかしないで、幸せになれると思ったらその機会をつか まえて幸せになりなさい。私は経験的に思うのだけれど、そういう機会は人生に二 回か三回しかないし、それを逃すと一生悔やみますよ。 私は毎日誰に聴かせるともなくギターを弾いています。これもなんだかつまら ないものですね。雨の降る暗い夜も嫌です。いつかまたあなたと直子のいる部屋 で葡萄を食べながらギターを弾きたい。 ではそれまで。 六月十七日 石田鈴子 」 第十一章 直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書いてきて、 それは僕のせいではないし、誰のせいでもないし、それは雨ふりのように誰にもとめ ることのできないことなのだと言ってくれた。しかしそれに対して僕は返事を書かな かった。なんていえばいいのだそれにそんなことはもうどうでもいいことなのだ。直子 はもうこの世界に存在せず、一握りの灰になってしまったのだ。 八月の末にひっそりとした直子の葬儀が終わってしまうと、僕は東京に戻っ て、家主にしばらく留守にしますのでよろしくと挨拶し、アルバイト先に行って申し 訳ないが当分来ることができないと言った。そして緑に今何も言えない、悪いと思 うけれどもう少し待ってほしいという短い手紙を書いた。それから三日間毎日、映 画館をまわって朝から晩まで映画を見た。東京で封切られている映画を全部観
てしまったあとで、リュックに荷物をつめ、銀行預金を残らずおろし、新宿駅に行っ て最初に目についた急行列車に乗った。 いったいどこをどういう風にまわったのか、僕には全然思い出せないのだ。風 景や匂いや音はけっこうはっきりと覚えているのだが、地名というものがまったく思い だせないのだ順番も思いだせない。僕はひとつの町から次の町へと列車やバスで、 あるいは通りかかったトラックの助手席に乗せてもらって移動し、空地や駅や公園 や川辺や海岸やその他眠れそうなところがあればどこにでも寝袋を敷いて眠った。 交番に泊めてもらったこともあるし、墓場のわきで眠ったこともある。人通りの邪魔 にならず、ゆっくり眠れるところならどこだってかまわなかった。僕は歩き疲れた体を 寝袋に包んで安ウィスキーごくごくのんで、すぐ寝てしまった。親切な町に行けば 人々は食事を持ってきてくれたたり、蚊取線香を貸してくれたりしたし、不親切な 町では人々は警官を呼んで僕を公園から追い払わせた。どちらにせよ僕にとって はどうでもいいことだった。僕が求めていたのは知らない町でぐっすり眠ることだけ だった。 金が乏しくなると僕は肉体労働を三、四日やって当座の金を稼いた。どこに でも何かしらの仕事はあった。僕はどこにいくというあてもなくただ町から町へとひと つずつ移動していった。世界は広く、そこには不思議な事象や奇妙な人々充ち 充ちていた。僕は一度緑に電話をかけてみた。彼女の声がたまらく聞きたかったか らだ。 「あなたね、学校はもうとっくの昔に始まってんのよ」と緑は言った。「レポート 提出するやつだってけっこうあるのよ。どうするのよ。いったいあなたこれでも三週間 の音信不通だったのよ。どこにいて何をしてるのよ」 「わるいけど、今は東京に戻れないんだ。まだ」 「言うことはそれだけなの」 「だから今は何も言えないんだよ、うまく。十月になったら――」 緑は何も言わずにがっちゃんと電話を切った。 僕はそのまま旅行をつづけた。ときどき安宿に泊まって風呂に入り髭を剃っ た。鏡を見ると本当にひどい顔をしていた。日焼けのせいで肌はかさかさになり、目 がくぼんで、こけた頬にはわけのわからないしみや傷がついていた。ついさっき暗い 穴の底から這いあがってきた人間のとうに見えたが、それはよく見るとたしかに僕の 顔だった。 僕がその頃歩いていたの山陰の海岸だった。鳥取か兵庫の北海岸かそのあ たりだった。海岸に沿って歩くのは楽だった。砂浜のどこかには必ず気持よく眠れる 場所があったからだ。流木をあつめてきた火をし、魚屋で買ってきた干魚をあぶっ て食べたりすることもできた。そしてウィスキーを飲み、波の音に耳を澄ませながら 直子のことを思った。彼女が死んでしまってもうこの世界に存在しないというのはと ても奇妙なことだった。僕にはその事実がまだどうしても呑みこめなかった。僕には
そんなことはとても信じられなかった。彼女の棺のふたに釘を打つあの音まで聞いた のに、彼女が無に帰してしまったという事実に僕はどうしても順応することができず にいた。 僕はあまりにも鮮明に彼女を記憶しすぎていた。彼女が僕のベニスをそっと 口で包み、その髪が僕の下腹に落ちかかっていたあの光景を僕はまだ覚えてい た。そのあたたかみや息づかいや、やるせない射精の感触を僕は覚えていた。僕は それをまるで五分前のできごとのようにはっきり思い出すことができた。そしてとなり に直子がいて、手をのばせばその体に触れることができるように気がした。でも彼 女はそこにいなかった。彼女の肉体はもうこの世界のどこにも存在しないのだ。 僕はどうしても眠れない夜に直子のいろんな姿を思いだした。思い出さない わけにはいかなかったのだ。僕の中には直子の思い出があまりにも数多くつまって いたし、それらの思い出はほんの少しの隙間をもこじあけて次から次へ外にとびだ そうとしていたからだ。僕にはそれらの奔出を押しとどめることはとてもできなかった。 僕は彼女があの雨の朝に黄色い雨合羽を着て鳥小屋を掃除したり、えさの 袋を運んでいた光景を思い出した。半分崩れたバースデー・ケーキと、あの夜僕の シャツを濡らした直子の涙の感触を思いだした。そうあの夜も雨が降っていた。冬 には彼女はキャメルのオーバーコートを着て僕の隣りを歩いていた。彼女はいつも 髪どめをつけて、いつもそれを手で触っていた。そして透きとおった目でいつも僕の 目をのぞきこんでいた。青いガウンを着てソファーの上で膝を折りその上に顎をのせ ていた。 そんな風に彼女のイメージは満ち潮の波のように次から次へと僕に打ち寄 せ、僕の体を奇妙な場所へと押し流していった。その奇妙な場所で、僕は死者と ともに生きた。そこでは直子が生きていて、僕と語りあい、あるいは抱きあうこともで きた。その場所では死とは生をしめくくる決定的な要因ではなかった。そこで死とは 生を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。直子は死を含んだままそこ で生きつづけていた。そして彼女は僕にこう言った。「大丈夫よ、ワタナベ君、それ はただの死よ。気にしないで」と。 そんな場所では僕は哀しみというものを感じなかった。死は死であり、直子は 直子だからだった。ほら大丈夫よ、私はここにいるでしょうと直子は恥ずかしそうに 笑いながら言った。いつものちょっとした仕草が僕の心をなごませ、癒してくれた。そ して僕はこう思った。これが死というものなら、死も悪くないものだな、と。そうよ、死 ぬのってそんなたいしたことじゃないのよ、と直子は言った。死なんてただの死なんだ もの。それに私はここにいるとすごく楽なんだもの。暗い波の音のあいまから直子は そう語った。 しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。僕は無力で、どこ にも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。そんなとき、僕はよく一人で 泣いた。泣くというよりまるで汗みたいに涙がぼろぼろとひとりでにこぼれ落ちてくる
のだ。 キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。そしてそれを諦観 として身につけた。あるいは身につけようと思った。それはこういうことだった。 「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」 たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育くんで いるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。直子 の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような心理をもってしても愛するもの を亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さ も、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。 我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そ してその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも 立たないのだ。僕はたった一人でその夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませなが ら、来る日も来る日もじっとそんなことを考えつづけていた。ウィスキーを何本も空に し、パンをかじり、水筒の水を飲み、髪を砂だらけにしながら初秋の海岸をリュック を背負って西へ西へと歩いた。 ある風の強い夕方、僕は廃船の陰で寝袋にくるまって涙を流していると若い 漁師がやってきて煙草をすすめてくれた。僕はそれを受けとって十何ヶ月かぶりに 吸った。どうして泣いているのかと彼は僕に訊いた。母が死んだからだと僕は殆んど 反射的に嘘をついた。それで哀しくてたまらなくて旅をつづけているのだ、と。彼は 心から同情してくれた。そして家から一升瓶とグラスをふたつ持ってきてくれた。 風の吹きすさぶ砂浜で、我々は二人で酒を飲んだ。俺も十六で母親をなく したとその漁師は言った。体がそんなに丈夫ではなかったのに朝から晩まで働きづ めで、それで身をすり減らすように死んだ、と彼は話した。僕はコップ酒を飲みなが らぼんやりと彼の話を聞き、適当に相槌を打った。それはひどく遠い世界の話であ るように僕には感じられた。それがいったいなんだっていうんだと僕は思った。そして 突然この男の首を締めてしまいたいような激しい怒りに駆けられた。お前の母親が なんだっていうんだ俺は直子を失ったんだあれはど美しい肉体がこの世界から消え 去ってしまったんだぞそれなのにどうしてお前はそんな母親の話なんてしているんだ でもそんな怒りはすぐに消え失せてしまった。僕は目を閉じて、際限のない漁 師の話を聞くともなくぼんやりと聞いていた。やがて彼は僕にもう飯は食べたかと訊 ねた。食べてないけれど、リュックの中にパンとチーズとトマトとチョコレートが入って いると僕は答えた。昼には何を食べたのかと彼が訊いたので、パンとチーズとトマト とチョコレートだと僕は答えた。すると彼はここで待ってろよと言ってどこかに行ってし まった。僕は止めようとしたけれど、彼は振りかえもせずにさっさと闇の中に消えてし まった。 僕は仕方なく一人でコップ酒を飲んでいた。砂浜には花火の紙屑が一面に
広がり、波はまるで怒り狂ったように轟音を立てて波打ち際で砕けていた。やせこ けた犬が尾を振りながらやてきて何か食べものはないかと僕の作った小さなたき火 のまわりをうろうろしていたが、何もないとわかるとあきらめて去っていった。 三十分ほどあとでさっきの若い漁師が寿司折をふたつと新しい一升瓶を持っ て戻ってきた。これ食えよ、と彼は言った。下の方のは海苔巻きと稲荷だから明日 のぶんにしろよ、と彼は言った。彼は一升瓶の酒を自分のグラスに注ぎ、僕のグラ スにも注いた。僕は礼を言ってたっぷりと二人分はある寿司を食べた。それからま た二人で酒を飲んだ。もうこれ以上飲めないというところまで飲んでしまうと、彼は 自分の家に来て泊まれと僕に言ったが、ここで一人で寝ている方がいいと言うと、 それ以上は誘わなかった。そして別れ際にポケットから四つに折った五千円札を出 して僕のシャツのポケットにつっこみ、これで何か栄養のあるものでも食え、あんたひ どい顔してるから、と言った。もう十分よくしてもらったし、これ以上金までもらうわけ にはいかないと断ったが、彼は金を受けとろうとはしなかった。仕方なく礼を言って 僕はそれを受け取った。 漁師が行ってしまったあとで、僕は高校三年のとき初めて寝たガール・フレン ドのことをふと考えた。そして自分が彼女に対してどれほどひどいことをしてしまった かと思って、どうしようもなく冷えびえとした気持になった。僕は彼女が何をどう思 い、そしてどう傷つくかなんて殆んど考えもしなかったのだ。そして今まで彼女のこと なんてロクに思い出しもしなかったのだ。彼女はとても優しい女の子だった。でもそ の当時の僕はそんな優しさをごくあたり前のものだと思って、殆んど振り返りもしな かったのだ。彼女は今何をしているだろうか、そして僕を許してくれているのだろう か、と僕は思った。 ひどく気分がわるくなって、廃船のわきに僕は嘔吐した。飲み過ぎた酒のせい で頭が痛み、漁師に嘘をついて金までもらったことで嫌な気持になった。そろそろ 東京に戻ってもいい頃だなと僕は思った。いつまでもいつまでも永遠にこんなことつ づけているわけにはいかないのだ。僕は寝袋を丸めてリュックの中にしまい、それを かついで国鉄の駅まで歩き、今から東京に帰りたいのだがどうすればいいだろうと 駅員に訊いてみた。彼は時刻表を調べ、夜行をうまくのりつげば朝に大阪に着け るし、そこから新幹線で東京に行けると教えてくれた。僕は礼を言って、男からも らった五千円札で東京までの切符を買った。列車を待つあいだ、僕は新聞を買っ て日付を見てみた。一九七○年十月二日とそこにあった。ちょうど一ヶ月旅行をつ づけていたわけだった。なんとか現実の世界に戻らなくちゃな、と僕は思った。 一ヶ月の旅行は僕の気持はひっぱりあげてはくれなかったし、直子の死が僕 に与えた打撃をやわらげてもくれなかった。僕は一ヶ月前とあまり変りない状態で 東京に戻った。緑に電話をかけることすらできなかった。いったい彼女にどう切り出 せばいいのかがわからなかった。なんて言えばいいのだ全ては終わったよ、君と二人
で幸せになろ――そう言えばいいのだろうかもちろん僕にはそんなことは言えなかっ た。しかしどんな風に言ったところで、どんな言い方をしたところで、結局語るべき 事実はひとつなのだ。直子は死に、緑は残っているのだ。直子は白い灰になり、 緑は生身の人間として残っているのだ。 僕は自分自身を穢れにみちた人間のように感じた。東京に戻っても、一人 で部屋の中に閉じこもって何日かを過ごした。僕の記憶の殆んどは生者にではな く死者に結びついていた。僕が直子のためにとって置いたいくつかの部屋の鎧戸を 下ろされ、家具は白い布に覆われ窓枠にはうっすらとほこりが積っていた。僕は一 日の多くの部分をそんな部屋の中で過ごした。そして僕はキズキのことを思った。 おいキズキ、お前はとうとう直子を手に入れたんだな、と僕は思った。まあいいさ、 彼女はもともとお前のものだったんだ。結局そこが彼女の行くべき場所だったのだろ う、たぶん。でもこの世界で、この不完全な生者の世界で、俺は直子に対して俺 なりのベストを尽くしたんだよ。そして俺は直子と二人でなんとか新しい生き方をう ちたてようと努力したんだよ。でもいいよ、キズキ。直子はお前にやるよ。直子はお 前の方を選んだんだものな。彼女自身の心みたいに暗い森の奥で直子は首をく くったんだ。なあキズキ、お前は昔俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。 そして今、直子が俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。ときどき俺は自 分が博物館の管理人になったような気がするよ。誰一人訪れるものもないがらん とした博物館でね、俺は自身のためにそこの管理人をしているんだ。 東京に戻って四日目にレイコさんからの手紙が届いた。封筒には速達切手 が貼ってあった。手紙の内容は至極簡単なものだった。あなたとずっと連絡がとれ なくてとても心配している。電話をかけてほしい。朝の九時と夜の九時にこの電話 番号の前で待っている。 僕は夜の九時にその番号をまわしてみた。すぐにレイコさんが出た。 「元気」と彼女が訊いた。 「まずまずですね」と僕は言った。 「ねえ、あさってにでもあなたに会いに行っていいかしら」 「会いに来るって、東京に来るんですか」 「ええ、そうよ。あなたと二人で一度ゆっくりと話がしたいの」 「じゃあ、そこを出ちゃうんですか、レイコさんは」 「出なきゃ会いに行けないでしょう」と彼女は言った。「そろそろ出てもいい頃 よ。だってもう八年もいたんだもの。これ以上いたら腐っちゃうわよ」 僕はうまく言葉が出てこなくて少し黙っていた。 「あさっての新幹線で三時ニ十分に東京に着くから迎えに来てくれる私の顔 はまだ覚えてるそれとも直子が死んだら私になんて興味なくなっちゃったかしら」 「まさか」と僕は言った。「あさっての三時二十分に東京駅に迎えに行きます」
「すぐわかるわよ。ギター・ケース持った中年女なんてそんなにいないから」 たしかに僕は東京駅ですぐレイコさんをみつけることができた。彼女は男もの のツイードのジャケットに白いズボンをはいて赤い運動靴をはき、髪をあいかわらず 短くてところどころとびあがり、右手に茶色い革の旅行鞄を持ち、左手は黒いギ ター・ケースを下げていた。彼女は僕を見ると顔のしわをくしゃっと曲げて笑った。レ イコさんの顔を見ると僕も自然に微笑んでしまった。僕は彼女の旅行鞄を持って 中央線の乗り場まで並んで歩いた。 「ねえワタナベ君、いつからそんなひどい顔してるそれとも東京では最近そうい うひどい顔がはやってるの」 「しばらく旅行してたせいですよ。あまりロクなもの食べなかったから」と僕は 言った。「新幹線はどうでした」 「あれひどいわね。窓開かないんだもの。途中でお弁当買おうと思ってたのに ひどい目にあっちゃった」 「中で何か売りに来るでしょう」 「あのまずくて高いサンドイッチのことあんなもの飢え死にしかけた馬だって残す わよ。私ね、御殿場で鯛めしを買って食べたのが好きだったの」 「そんなこと言ってると年寄り扱いされますよ」 「いいわよ、私年寄りだもの」とレイコさんは言った。 吉祥寺まで行く電車の中で、彼女は窓の外の武蔵野の風景を珍しそうに じっと眺めていた。 「八年もたつと風景も違っているものですか」と僕は訊いた。 「ねえワタナベ君。私が今どんな気持かわかんないでしょう」 「怖くって怖くって気が狂いそうなのよ。どうしていいかわかんないのよ。一人で こんなところに放り出されて」とレイコさんは言った。「でも気が狂いそうって素敵な 表現だと思わない」 僕は笑って彼女の手を握った。「でも大丈夫ですよ。レイコさんはもう全然心 配ないし、それに自分の力で出てきたんだもの」 「私があそこを出られたのは私の力のせいじゃないわよ」とレイコさんは言った。 「私があそこを出られたのは、直子とあなたのおかげなのよ。私は直子のいないあ の場所に残っていることに耐えられなかったし、東京にきてあなたと一度ゆっくり話 しあう必要があったの。だからあそこを出てきちゃったのよ。もし何もなければ、私は 一生あそこにいることになったんじゃないかしら」 僕は肯いた。 「これから先どうするんですか、レイコさん」 「旭川に行くのよ。ねえ旭川よ」と彼女は言った。「音大のとき仲の良かった 友だちが旭川で音楽教室やっててね、手伝わないかって二、三年前から誘われ
てたんだけど、寒いところ行くの嫌だからって断ってたの。だってそうでしょ、やっと自 由の身になって、行く先が旭川じゃちょっと浮かばれないわよ。あそこなんだか作り そこねた落とし穴みたいなところじゃない」 「そんなひどくないですよ」僕は笑った。「一度行ったことあるけれど、悪くない 町ですよ。ちょっと面白い雰囲気があってね」 「本当」 「うん、東京にいるよりはいいですよ、きっと」 「まあ他に行くあてもないし、荷物ももう送っちゃったし」と彼女は言った。「ね えワタナベ君、いつか旭川に遊びに来てくれる」 「もちろん行きますよ。でも今すぐ行っちゃうんですかその前に少し東京にいる でしょう」 「うん。二、三日できたらゆっくりしていきたいのよ。あなたのところに厄介に なっていいかしら迷惑かけないから」 「全然かまいませんよ。僕は寝袋に入って押入れで寝ます」 「悪いわね」 「いいですよ。すごく広い押入れなんです」 レイコさんは脚のあいだにはさんだギター・ケースを指で軽く叩いてリズムをとっ ていた。「私たぶん体を馴らす必要があるのよ、旭川に行く前に。まだ外の世界に 全然馴染んでないから。かわらないこともいっぱいあるし、緊張もしてるし。そういう の少し助けてくれる私、あなたしか頼れる人いないから」 「僕で良ければいくらでも手伝いますよ」と僕は言った。 「私、あなたの邪魔をしてるんじゃないかしら」 「僕のいったい何を邪魔しているんですか」 レイコさんは僕の顔を見て、唇の端を曲げて笑った。そしてそれ以上何も言 わなかった。 吉祥寺で電車を降り、バスに乗って僕の部屋に行くまで、我々はあまりたい した話をしなかった。東京の街の様子が変ってしまったことや、彼女の音大時代の 話や、僕が旭川に行ったときのことなんかをぽつぽつと話しただけだった。直子に関 する話は一切出なかった。僕がレイコさんに会うのは十ヶ月ぶりだったが、彼女と 二人で歩いていると僕の心は不思議にやわらぎ、慰められた。そして以前にも同 じような思いをしたことがあるという気がした。考えてみれば直子と二人で東京の 街を歩いていたとき、僕はこれとまったく同じ思いをしたのだ。かつて僕と直子がキ ズキという死者を共有していたように、今僕とレイコさんは直子という死者を共有し ているのだ。そう思うと、僕は急に何もしゃべれなくなってしまった。レイコさんはしば らく一人で話していたが、僕が口をきかないことがわかると彼女も黙って、そのまま 二人で無言のままバスに乗って僕の部屋まで行った。
秋のはじめの、ちょうど一年前に直子を京都に訪ねたときと同じようにくっきり と光の澄んだ午後だった。雲は骨のように白く細く、空はつき抜けるように高かっ た。また秋が来たんだな、と僕は思った。風の匂いや、光の色や、草むらに咲いた 小さな花や、ちょっとした音の響き方が、僕にその到来を知らせていた。季節が 巡ってくるごとに僕と死者たちの距離はどんどん離れていく。キズキは十七のままだ し、直子は二十一のままなのだ。永遠に。 「こういうところに来るとホッとするわね」バスを降り、あたりを見まわしてレイコさ んは言った。 「何もないところですからね」と僕は言った。 僕は裏口から庭に入って離れに案内するとレイコさんはいろんなものに感心 してくれた。 「すごく良いところじゃない」と彼女は言った。「これみんなあなたが作ったのこう いう棚やら机やら」 「そうですよ」と僕は湯をわかしてお茶を入れながら言った。 「けっこう器用なのね、ワタナベ君。部屋もずいぶんきれいだし」 「突撃隊のおかげですね。彼が僕を清潔好きにしちゃったから。でもおかげで 大家さんは喜んでますよ。きれいに使ってくれるって」 「あ、そうそう。大家さんに挨拶してくるわね」とレイコさんは言った。「大家さん お庭の向うに住んでるでしょ」 「挨拶挨拶なんてするんですか」 「あたり前じゃない。あなたのところに変な中年女が転がりこんでギターを弾い たりしたら大家さんだって何かと思うでしょこういうのは先にきちんとしといた方がいい の。そのために菓子折りだってちゃんと持ってきたんだから」 「ずいぶん気がきくんですねえ」と僕は感心して言った。 「年の功よ。あなたの母方の叔母で京都から来たってことにしとくから、ちゃん と話をあわせといてよ。でもアレね、こういう時、年が離れてると楽だわね。誰も変 な風に疑わないから」 彼女が旅行鞄から菓子折りを出して行ってしまうと、僕は縁側に座ってもう 一杯お茶を飲み、猫と遊んだ。レイコさんは二十分くらい戻ってこなかった。彼女 は戻ってくると旅行鞄から煎餅の缶を出して僕へのおみやげだと言った。 「二十分もいったい何話してたんですか」と僕は煎餅をかじりながら訊いてみ た。 「そりゃもちろんあなたのことよ」と彼女は猫を抱きあげ頬ずりして言った。「き ちんとしてるし、真面目な学生だって感心してたわよ」 「僕のことですか」 「そうよ、もちろんあなたのことよ」とレイコさんは笑って言った。そして僕のギ
ターをみつけて手にとり、少し調弦してからカルロス・ジョビンの『デサフィナード』を弾 いた。彼女のギターを聴くのは久しぶりだったが、それは前と同じように僕の心をあ たためてくれた。 「あなたギター練習してるの」 「納屋に転がってたのを借りてきて少し弾いてるだけです」 「じゃ、あとで無料レッスンしてあげるわね」とレイコさんは言ってギターを置き、 ツイードの上着を脱いで縁側の柱にもたれ、煙草を吸った。彼女は上着の下にマ ドラス・チェックの半袖のシャツを着ていた。 「ねえ、これこれ素敵なシャツでしょう」とレイコさんが言った。 「そうですね」と僕も同意した。たしかにとても洒落た柄のシャツだった。 「これ、直子のなのよ」とレイコさんは言った。「知ってる直子と私って洋服のサ イズ殆んど一緒だったのよ。とくにあそこに入った頃はね。そのあとであの子少し肉 がついちゃてサイズが変わったけれど、それでもだいたい同じって言ってもいいくらい だったのよ。シャツもズボンも靴も帽子も。ブラジャーくらいじゃないかしら、サイズが 違うのは。私なんかおっばいないも同然だから。だから私たちいつも洋服とりかえっ こしてたのよ。というか殆んど二人で共有してたようなものね」 僕はあらためてレイコさんの体を見てみた。そう言われてみればたしかに彼女 の背格好は直子と同じくらいだった。顔のかたちやひょろりと細い手首なんかのせい で、レイコの方が直子よりやせていて小柄だという印象があったのだが、よく見てみ ると体つきは意外にがっしりとしているようでもあった。 「このズボンも上着もそうよ。全部直子の。あなたは私が直子のものを身につ けてるの見るの嫌」 「そんなことないですよ。直子だって誰かに着てもらっている方が嬉しいと思い ますね。とくにレイコさんに」 「不思議なのよ」とレイコさんは言って小さな音で指を鳴らした。「直子は誰に あてても遺書を書かなかったんだけど、洋服のことだけはちゃんと書き残していった のよ。メモ用紙に一行だけ走り書きして、それが机の上に置いてあったの。『洋服 は全部レイコさんにあげて下さい』って。変な子だと思わない自分がこれから死のう と思ってるときにどうして洋服のことなんか考えるのかしらね。そんなのどうだっていい じゃない。もっと他に言いたいことは山ほどあったはずなのに」 「何もなかったのかもしれませんよ」 レイコさんは煙草をふかしながらしばらく物思いに耽っていた。「ねえ、あなた、 最初からひとつ話を聞きたいでしょう」 「話して下さい」と僕は言った。 「病院での検査の結果がわかって、直子の病状は一応今のところ回復して いるけれど今のうちに根本的に集中治療しておいた方があとあとのために良いだろ
うってことになって、直子はもう少し長期的にその大阪の病院に移ることになった の。そこまではたしか手紙に書いたわよね。たしか八月の十日前後に出したと思っ たけど」 「その手紙は読みました」 「八月二十四日に直子のお母さんから電話がかかってきて、直子が一度そ ちらに行きたいと言っているのだが構わないだろかと言うの。自分で荷物も整理し たいし、私とも当分会えないから一度ゆっくり話もしたいし、できたら一泊くらいでき ないかっていうことなの。私の方は全然かまいませよって言ったの。私も直子にはす ごく会いたかったし、話したかったし。それで翌日の二十五日に彼女はお母さんと 二人でタクシーに乗ってやってきたの。そして私たち三人で荷物の整理をしたわ け。いろいろ世間話をしながら。夕方近くになると直子はお母さんにもう帰っていい わよ、あと大丈夫だからって言って、それでお母さんはタクシーを呼んでもらって帰っ ていったの。直子はすごく元気そうだったし、私もお母さんもそのとき全然気にもし なかったのよ。本当はそれまで私はすごく心配してたのよ。彼女はすごく落ちこんで がっくりしてやつれてるんじゃないかなって。だてああいう病院の検査とか治療ってず いぶん消耗するものだってことを私はよく知ってるからね、それで大丈夫かなあって 心配してたわけ。でも私ひと目見て、ああこれならいいやって思ったの。顔つきも 思ったより健康そうだったし、にこにこして冗談なんかも言ってたし、しゃべり方も前 よりずっとまともになってたし、美容院に行ったんだって新しい髪型を自慢してたし、 まあこれならお母さんがいなくて私と二人でも心配ないだろうって思ったわけ。ねえ レイコさん、私この際だから病院できちんと全部なおしゃおうと思うのっていうから、 そうね、それがいいかもしれないわねと私も言ったの。それで私たち外を二人で散 歩していろんなお話をしたの。これからどうするだの、そんないろんな話ね。彼女こ んなこと言ったわ。二人でここを出られて、一緒に暮らすことができたらいいでしょう ねって」 「レイコさんと二人でですか」 「そうよ」とレイコさんは言って肩を小さくすぼめた。「それで私言ったのよ。私は べつにかまわないけど、ワタナベ君のこといいのって。すると彼女こう言ったの、『あの 人のことは私きちんとするから』って。それだけ。そして私と二人でどこに住もうだの、 どんなことしようだのといったようなこと話したの。それから鳥小屋に行って鳥と遊ん で」 僕は冷蔵庫からビールを出して飲んだ。レイコさんはまた煙草に火をつけ、猫 は彼女の膝の上でぐっすりと眠りこんでいた。 「あの子もう始めから全部しっかりと決めていたのよ。だからきっとあんなに元 気でにこにこして健康そうだったのね。きっと決めちゃって、気が楽になってたのよ ね。それから部屋の中のいろんなものを整理して、いらないものを庭のドラム缶に 入れて焼いたの。日記がわりしていたノートだとか手紙だとか、そういうのみんな。あ
なたの手紙もよ。それで私変だなと思ってどうして焼いちゃうのよって訊いたの。だっ てあの子、あなたの手紙はそれまでずっと、とても大事に保管してよく読みかえして たんだもの。そしたら『これまでのものは全部処分して、これから新しく生まれ変わ るの』って言うから、私はふうん、そういうものかなってわりに単純に納得しちゃった の。まあ筋はとおってるじゃない、それなりに。そしてこの子も元気になって幸せにな れるといいのにな、と思ったの。だってその日直子は本当に可愛いかったのよ。あな たに見せたいくらい。 それから私たちいつものように食堂で夕ごはん食べて、お風呂入って、それか らとっておきの上等のワインあけて二人で飲んで、私がギターを弾いたの。例によっ てビートルス。『ノルウェイの森』とか『ミシェル』とか、あの子の好きなやつ。そして私 たちけっこう気持良くなっって、電気消して、適当に服脱いで、ベットに寝転んでた の。すごく暑い夜でね、窓を開けてても風なんて殆んど入ってきやしないの。外は もう墨で塗りつぶされたみたいに真っ暗でね、虫の音がやたら大きく聞こえてたわ。 部屋の中までムっとする夏草の匂いでいっばで。それから急にあなたの話を直子が 始めたの。あなたとのセックスの話よ。それもものすごくくわしく話すの。どんな風に 服を脱がされて、どんな風に体を触られて、自分がどんな風に濡れて、どんな風に 入れられて、それがどれくらい素敵だったかっていうようなことを実に克明に私にしゃ べるわけ。それで私、ねえ、どうして今になってそんな話するのよ、急にって訊いた の。だってそれまであの子、セックスのことってそんなにあからさまに話さなかったんで すもの。もちろん私たちある種の療法みたいなことでセックスのこと正直に話すわ よ。でもあの子はくわしいことは絶対に言わなかったの、恥ずかしがって。それを急 にべらべらしゃべり出すんだもの私だって驚くわよ、そりゃ。『ただなんとなく話したく なったの』って直子は言ったわ。『べつにレイコさんが聞きたくないならもう話さないけ ど』 『いいわよ、話したいことあるんなら洗いざらい話しちゃいなさいよ。聞いてあげ るから』って私は言ったの。 『彼のが入ってきたとき、私痛くて痛くてもうどうしていいかよくわかんないくらい だったの』って直子が言ったわ。『私始めてだったし。濡れてたからするっと入ったこと は入ったんだけど、とにかく痛いのよ。頭がぼおっとしちゃうくらい。彼はずっと奥の方 まで入れてもうこれくらいかなと思ったところで私の脚を少し上げさせて、もっと奥ま で入れちゃったの。するとね、体中がひやっと冷たくなったの。まるで氷水につけられ みたいに。手と脚がじんとしびれて寒気がするの。いったいどうなるんだろう、私この まま死んじゃうのかしら、それならそれでまあかまわないやって思ったわ。でも彼は私 が痛がっていることを知って、奥の方に入れたままもうそれ以上動かさないで、私の 体をやさしく抱いて髪とか首とか胸とかにずっとキスしてくれたの、長いあいだ。する とね、だんだん体にあたたかみが戻ってきたの。そして彼がゆっくりと動かし始め て......ねえ、レイコさん、それが本当に素晴らしいのよ。頭の中がとろけちゃいそう
なくらい。このまま、この人に抱かれたまま、一生これやってたいと思ったくらいよ。本 当にそう思ったのよ』 『そんなに良かったんならワタナベ君と一緒になって毎日やってればよかったん じないの』って私言ったの。 『でも駄目なのよ、レイコさん』って直子は言ったわ。『私にはそれがわかるの。 それはやって来て、もう去っていってしまったものなの。それは二度と戻ってこないの よ。何かの加減で一生に一度だけ起こったことなの。そのあとも前も、私何も感じ ないのよ。やりたいと思ったこともないし、濡れたこともないのよ』 もちろん私はちゃんと説明したわよ、そういうのは若い女性には起こりがちなこ とで、年を取れば自然になおっていくのが殆んどなんだって。それに一度うまく行っ たんだもの心配することないわよ。私だって結婚した当初はいろいろとうまくいかな いで大変だったのよって。 『そうじゃないの』と直子は言ったわ。『私何も心配してないのよ、レイコさん。 私はただもう誰にも私の中に入ってほしくないだけなの。もう誰にも乱されたくない だけなの』」 僕はビールを飲んでしまい、レイコさんは二本目の煙草を吸ってしまった。猫 がレイコさんの膝の上でのびをし、姿勢をかえてからまた眠ってしまった。レイコさん は少し迷っていたが三本目をくわえて火をつけた。 「それから直子はしくしく泣き出したの」とレイコさんは言った。「私は彼女の ベットに腰かけて頭撫でて、大丈夫よ、何もかもうまく行くからって言ったの。あなた みたいに若くてきれいな女の子は男の人に抱かれて幸せになんなきゃいけないわ よって。暑い夜で直子は汗やら涙やらでぐしょぐしょに濡れてたんで、私はバスタオ ル持ってきて、あの子の顔やら体やらを拭いてあげたの。パンツまでぐっしょりだたか ら、あなたちょっと脱いじゃなさいよって脱がせて......ねえ、変なんじゃないのよ。 だって私たちずっと一緒にお風呂だって入ってるし、あの子は妹みたいなものだし」 「わかってますよ、それは」と僕は言った。 「抱いてほしいって直子は言ったの。こんな暑いのに抱けやしないわよって言っ たんけど、これでもう最後だからって言うんだで抱いたの。体をバスタオルでくるん で、汗がくっつかないようにして、しばらく。そして落ちついてきたらまた汗を拭いて、 寝巻を着せて、寝かしつけたの。すぐにぐっすり寝ちゃったわ。あるいは寝たふりした のかもしれないけど。でもまあどっちにしても、すごく可愛い顔してたわよ。なんだか 生まれてこのかた一度も傷ついたことのない十三か十四の女の子みたいな顔して ね。それを見てから私も眠ったの、安心して。 六時に目覚ましたとき彼女はもういなかったの。寝巻を脱ぎ捨ててあって、服 と運動靴と、それからいつも枕もとに置いてある懐中電灯がなくなってたの。まずい なって私そのとき思ったわよ。だってそうでしょ、懐中電灯持って出てったってことは 暗いうちにここを出ていったっていうことですものね。そして念のために机の上なんか
を見てみたら、そのメモ用紙があったのよ。『洋服は全部レイコさんにあげて下さ い』って。それで私すぐみんなのところに行って手わけして直子を探してって言った の。そして全員で寮の中からまわりの林までしらみつぶしに探したの。探しあてるの に五時間かかったわよ。あの子、自分でちゃんとロープまで用意してもってきていた のよ」 レイコさんはため息をついて、猫の頭を撫でた。 「お茶飲みますか」と僕は訊いてみた。 「ありがとう」と彼女は言った。 僕はお湯を沸かしてお茶を入れ、縁側に戻った。もう夕暮に近く、日の光ず いぶん弱くなり、木々の影が長く我々の足もとにまでのびていた。僕はお茶を飲み ながら、山吹やらつつじやら南天やらを思いつきで出鱈目に散らばしたような奇妙 に雑然とした庭を眺めていた。 「それからしばらくして救急車が来て直子をつれていって、私は警官にいろい ろと事情を訊かれたの。訊くだってたいしたこと訊かないわよ。一応遺書らしき書き 置きはあるし、自殺だってことははっきりしてるし、それあの人たち、精神病の患者 なんだから自殺くらいするだろうって思ってるのよ。だからひととおり形式的に訊くだ けなの。警察が帰ってしまうと私すぐ電報打ったの、あなたに」 「淋しい葬式でしたね」と僕は言った。「すごくひっそりして、人も少なくて。家 の人は僕が直子の死んだことどうして知ったのかって、そればかり気にしていて。きっ とまわりの人に自殺だってわかるのが嫌だったんですね。本当はお葬式なんて行く べきじやなかったんですよ。僕はそれですごくひどい気分になっちゃって、すぐ旅行に 出ちゃったんです」 「ねえワタナベ君、散歩しない」とレイコさんが言った。「晩ごはんの買物でも 行きましょうよ。私おなか減ったきちゃったわ」 「いいですよ、何か食べたいものありますか」 「すき焼き」と彼女は言った。「だって私、鍋ものなんて何年も何年も食べて ないんだもの。すき焼きなんて夢にまで見ちゃったわよ。肉とネギと糸こんにゃくと焼 豆腐と春菊が入って、ぐつぐつと――」 「それはいいんですけどね、すき焼鍋ってものがないんですよ、うちには」 「大丈夫よ、私にまかせなさい。大家さんのところで借りてくるから」 彼女はさっさと母屋の方に行って、立派なすき焼鍋とガスこんろと長いゴム・ ホースを借りてきた。 「どうたいしたもんでしょう」 「まったく」と僕は感心して言った。 我々は近所の小さな商店街で牛肉や玉子や野菜や豆腐を買い揃え、酒 屋で比較的まともそうな白ワインを買った。僕は自分で払うと主張したが、彼女が 結局全部払った。
「甥に食料品の勘定払わせたなんてわかったら、私は親戚中の笑いものだわ よ」とレイコさんは言った。「それに私けっこうちゃんとお金持ってるのよ。だがら心配 しないでいいの。いくらなんでも無一文で出てきたりはしないわよ」 家に帰るとレイコさんは米を洗って炊き、僕はゴム・ホースをひっぱって縁側で すき焼を食べる準備をした。準備が終わるとレイコさんハギター・ケースから自分の ギターをとりだし、もう薄暗くなった縁側に座って、楽器の具合をたしかめるように ゆっくりとバッハのフーガを弾いた。細かいところをわざとゆっくりと弾いたり、速く弾い たり、ぶっきら棒に弾いたり、センチメンタルに弾いたりして、そんないろんな音にい かにも愛しそうに耳を澄ませていた。ギターを弾いているときのレイコさんは、まるで 気に入ったドレスを眺めている十七か十八の女の子みたいに見えた。目がきらきら として、口もとがきゅっとひきしまったり、微かなほほえみの影をふと浮かべたりした。 曲を弾き終えると、彼女は柱にもたれて空を眺め、何か考えごとをしていた。 「話しかけていいですか」と僕は訊いた。 「いいわよ。おなかすいたなあって思ってただけだから」とレイコさんは言った。 「レイコさんは御主人や娘さんに会いに行かないんですか東京にいるでしょう」 「横浜。でも行かないわよ、前にも言ったでしょあの人たち、もう私とは関りあ わない方がいいのよ。あの人たちにはあの人たちの新しい生活があるし、私は会え ば会っったで辛くなるし。会わないのがいちばんよ」 彼女は空になったセブンスターの箱を丸めて捨て、鞄の中から新しい箱をとり だし、封を切って一本くわえた。しかし火はつけなかった。 「私はもう終わってしまった人間なのよ。あなたの目の前にいるのはかつての 私自身の残存記憶にすぎないのよ。私自身の中にあったいちばん大事なものは もうとっくの昔に死んでしまっていて、私はただその記憶に従って行動しているにす ぎないのよ」 「でも僕は今のレイコさんがとても好きですよ。残存記憶であろうが何であろう がね。そしてこんなことどうでもいいことかもしれないけれど、レイコさんが直子の服 を着てくれていることは僕としてはとても嬉しいですね」 レイコさんはにっこり笑って、ライターで煙草に火をつけた。「あなた年のわりに 女の人の喜ばせ方よく知っているのね」 僕は少し赤くなった。「僕はただ思っていること正直に言ってるだけですよ」 「わかってるわよ」とレイコさんは笑って言った。 そのうちにごはんが炊きあがったので、僕は鍋に油をしいてすき焼の用意を始 めた。 「これ、夢じゃないわよね」とレイコさんはくんくんと匂いをかぎながら言った。 「百パーセントの現実のすき焼ですね。経験的に言って」と僕は言った。 我々はどちらかというとろくに話もせず、ただ黙々とすき焼をつつき、ビールを 飲み、そしてごはんを食べた。かもめが匂いをかぎつけてやってきたので肉をわけて
やった。腹いっぱいになるとと、僕らは二人で縁側の柱にもたれ、月を眺めた。 「満足しましたか、これで」と僕は訊いた。 「とても。申しぶんなく」とレイコさんは苦しそうに答えた。「私こんなに食べたの はじめてよ」 「これからどうします」 「一服したあとで風呂屋さんに行きたいわね。髪がぐしゃぐしゃで洗いたいの よ」 「いいですよ、すぐ近くにありますから」と僕は言った。 「ところでワタナベ君、もしよかったら教えてほしいんだけど、その緑さんっていう 女の子ともう寝たの」とレイコさんが訊いた。 「セックスしたかっていうことですかしてませんよ。いろんなことがきちんとするまで はやらないって決めたんです」 「もうこれできちんとしたんじゃないかしら」 僕はよくわからないというように首を振った。「直子が死んじゃったから物事は 落ちつくべきところに落ちついちゃったってこと」 「そうじゃないわよ。だってあなた直子が死ぬ前からもうちゃんと決めてたじゃな い、その緑さんという人とは離れるわけにはいかないんだって。直子は死ぬことを選 んだのよ。あなたもう大人なんだから、自分の選んだものにはきちんと責任を持た なくちゃ。そうしないと何もかも駄目になっちゃわよ」 「でも忘れられないですよ」と僕は言った。「僕は直子にずっと君を待ってい るって言ったんですよ。でも僕は待てなかった。結局最後の最後で彼女を放り出し ちゃった。これは誰のせいだとか誰のせいじゃないとかいう問題じゃないんです。僕 自身の問題なんです。たぶん僕が途中で放り出さなくても結果は同じだったと思 います。直子はやはり死を選んだだろうと思います。でもそれとは関係なく、僕は自 分自身に許しがたいものを感じるんです。レイコさんはそれが自然な心の動きであ れば仕方ないって言うけれど、僕と直子の関係はそれほど単純なものではなかっ たんです。考えてみれば我々は最初から生死の境い目で結びつきあってたんで す」 「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あな たはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。そしてもし学べるもの なら、そこから何かを学びなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさ い。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ。これ以上彼女を傷つけたりし たら、もうとりかえしのつかないことになるわよ。だから辛いだろうけれど強くなりなさ い。もっと成長して大人になりなさい。私はあなたにそれを言うために寮を出てわざ わざここまできたのよ。はるばるあんた棺桶みたいな電車に乗って」 「レイコさんの言ってることはよくわかりますよ」と僕は言った。「でも僕にはまだ その準備ができてないんですよ。ねえ、あれは本当に淋しいお葬式だったんだ。人
はあんな風に死ぬべきじゃないですよ」 レイコさんは手をのばして僕の頭を撫でた。「私たちみんないつかそんな風に 死ぬのよ。私もあなたも」 僕らは川べりの道を五分ほど歩いて風呂屋に行き、少しさっぱりとした気分 で家に戻ってきた。そしてワインの栓を抜き、縁側に座って飲んだ。 「ワタナベ君、グラスもう一個持ってきてくれない」 「いいですよ。でも何するんですか」 「これから二人で直子のお葬式するのよ」とレイコさんは言った。「淋しくないや つさ」 僕はグラスを持ってくると、レイコさんはそれになみなみとワインを注ぎ、庭の灯 籠の上に置いた。そして縁側に座り、柱にもたれてギターを抱え、煙草を吸った。 「それからマッチがあったら持ってきてくれるなるべく大きいのがいいわね」 僕は台所から徳用マッチを持ってきて、彼女のとなりに座った。 「そして私が一曲弾いたら、マッチ棒をそこに並べてってくれる私いまから弾け るだけ弾くから」 彼女はまずヘンリー・マンシーニの『ディア・ハート』をとても綺麗に静かに弾い た。「このレコードあなたが直子にプレゼントしたんでしょう」 「そうです。一昨年のクリスマスにね。あの子はこの曲がとても好きだったから」 「私も好きよ、これ。とても優しくて」彼女は『ディア・ハート』のメロディーをもう 一度何小節か軽く弾いてからワインをすすった。「さて酔払っちゃう前に何曲弾ける かな。ねえ、こういうお葬式だと淋しくなくていいでしょう」 レイコさんはビートルズに移り、『ノルウェイの森』を弾き、『イエスタディ』を弾 き、『ミシェン・ザ・ヒル』を弾き、『サムシング』を弾き、『ヒア・カムズ・ザ・サン』を唄い ながら弾き、『フール・オン・ザ・ヒル』を弾いた。僕はマッチ棒を七本並べた。 「七曲」とレイコさんは言ってワインをすすり、煙草をふかした。「この人たちは たしかに人生の哀しみとか優しさとかいうものをよく知っているわね」 この人たちというのはもちろんジョン・レノンとボール・マッカートニー、それに ジョージ・ハリソンのことだった。 彼女は一息ついて煙草を消してからまたギターをとって『ペニー・レイン』を弾 き、『ブランク・バード』を弾き、『ジュリア』を弾き、『六十四になったら』を弾き、 『ノーホエア・マン』を弾き、『アンド・アイ・ラブ・ハー』を弾き、『ヘイ・ジェード』を弾い た。 「これで何曲になった」 「十四曲」と僕は言った。 「ふう」と彼女はため息をついた。「あなた一曲くらい何か弾けないの」 「下手ですよ」
「下手でいいのよ」 僕は自分のギターを持ってきて『アップ・オン・ザ・ルーフ』をたどたどしくではあ るけれど弾いた。レイコさんはそのあいだ一服してゆっくり煙草を吸い、ワインをす すっていた。僕が弾き終わると彼女はぱちぱちと拍手した。 それからレイコさんはギター用に編曲されたラヴェルの『死せる女王のためのバ ヴァーヌ』とドビッシーの『月の光』を丁寧に綺麗に弾いた。「この二曲は直子が死 んだあとでマスターしたのよ」とレイコさんは言った。「あの子の音楽の好みは最後ま でセンチメンタリズムという地平をはなれなかったわね」 そして彼女はバカラックを何曲か演奏した。『クロース・トゥ・ユー』『雨に濡れ ても』『ウォーク・オン・バイ』『ウェディングベル・ブルース』。 「二十曲」と僕は言った。 「私ってまるで人間ジューク・ボックスみたいだわ」とレイコさんは楽しそうに言っ た。「音大のとき先生がこんなのみたらひっくりかえっちゃうわよねえ」 彼女はワインをすすり、煙草をふかしながら次から次へと知っている曲を弾い ていった。ボサ・ノヴァを十曲近く弾き、ロジャース=ハートやガーシュインの曲を弾 き、ボブ・ディランやらレイ・チャールズやらキャロル・キングやらビーチボーイスやら ティービー・ワンダーやら『上を向いて歩こう』やら『ブルー・ベルベット』やら『グリーン・ フールズ』やら、もうとにかくありとあらゆる曲を弾いた。ときどき目を閉じたり軽く首を 振ったり、メロディーにあわせてハミングしたりした。 ワインがなくなると、我々はウィスキーを飲んだ。僕は庭のグラスの中のワイン を灯籠の上からかけ、そのあとにウィスキーを注いだ。 「今これで何曲かしら」 「四十八」と僕は言った。 レイコさんは四十九曲目に『エリナ・リグビー』を弾き、五十曲目にもう一度 『ノルウェイの森』を弾いた。五十曲弾いてしまうとレイコさんは手を休め、ウィスキー を飲んだ。「これくらいやれば十分じゃないあしら」 「十分です」と僕は言った。「たいしたもんです」 「いい、ワタナベ君、もう淋しいお葬式のことはきれいさっぱり忘れなさい」とレ イコさんは僕の目をじっと見て言った。「このお葬式のことだけを覚えていなさい。素 敵だったでしょう」 僕は肯いた。 「おまけ」とレイコさんは言った。そして五十一曲目にいつものバッハのフーガを 弾いた。 「ねえワタナベ君、私とあれやろうよ」と弾き終わったあとでレイコが小さな声で 言った。 「不思議ですね」と僕は言った。「僕も同じこと考えてたんです」
カーテンを閉めた暗い部屋の中で僕とレイコさんは本当にあたり前のことのよ うに抱きあい、お互いの体を求めあった。僕は彼女のシャツを脱がせ、下着をとっ た。 「ねえ、私けっこう不思議な人生送ってきたけど、十九歳年下の男の子にパ ンツ脱がされることになると思いもしなかったわね」とレイコさんは言った。 「じゃあ自分で脱ぎますか」と僕は言った。 「いいわよ、脱がせて」と彼女は言った。「でも私しわだらけだからがっかりしな いでよ」 「僕、レイコさんのしわ好きですよ」 「泣けるわね」とレイコさんは小さな声で言った。 僕は彼女のいろんな部分に唇をつけ、しわがあるとそこを舌でなぞった。そし て少女のような薄い乳房に手をあて、乳首をやわらかく噛み、あたたかく湿ったヴァ ギナに指をあててゆっくりと動かした。 「ねえ、ワタナベ君」とレイコさんが僕の耳もとで言った。「そこ違うわよ。それた だのしわよ」 「こういうときにも冗談しか言えないんですか」と僕はあきれて言った。 「ごめんなさい」とレイコさんは言った。「怖いのよ、私。もうずっとこれやってない から。なんだか十七の女の子が男の子の下宿に遊びに行ったら裸にされちゃったみ たいな気分よ」 「ほんとうに十七の女の子を犯してるみたいな気分ですよ」 僕はそのしわの中に指を入れ、首筋から耳にかけて口づけし、乳首をつまん だ。そして彼女の息づかいが激しくなって喉が小さく震えはじめると僕はそのほっそり とした脚を広げてゆっくりと中に入った。 「ねえ、大丈夫よね、妊娠しないようにしてくれるわよね」とレイコさんは小さな 声で僕に訊いた。「この年で妊娠すると恥かしいから」 「大丈夫ですよ。安心して」と僕は言った。 ペニスを奥まで入れると、彼女は体を震わせてため息をついた。僕は彼女の 背中をやさしくさするように撫でながらペニスを何度か動かして、そして何の予兆も なく突然射精した。それは押しとどめようのない激しい射精だった。僕は彼女にし がみついたまま、そのあたたかみの中に何度も精液を注いだ。 「すみません。我慢できなかったんです」と僕は言った。 「馬鹿ねえ、そんなこと考えなくてもいいの」とレイコさんは僕のお尻を叩きな がら言った。「いつもそんなこと考えながら女の子とやってるの」 「まあ、そうですね」 「私とやるときはそんなこと考えなくていいのよ。忘れなさい。好きなときに好き なだけ出しなさいね。どう、気持良かった」 「すごく。だから我慢できなかったんです」
「我慢なんかすることないのよ。それでいいのよ、。私もすごく良かったわよ」 「ねえ、レイコさん」と僕は言った。 「なあに」 「あなたは誰かとまた恋をするべきですよ。こんなに素晴らしいのにもったいな いという気がしますね」 「そうねえ、考えておくわ、それ」とレイコさんは言った。「でも人は旭川で恋な んてするものなのかしら」 僕は少し後でもう一度固くなったペニスを彼女の中に入れた。レイコさんは僕 の下で息を呑みこんで体をよじらせた。僕は彼女を抱いて静かにペニスを動かしな がら、二人でいろんな話をした。彼女の中に入ったまま話をするのはとても素敵 だった。僕が冗談を言って彼女がすくすく笑うと、その震動がペニスにつたわってき た。僕らは長いあいだずっとそのまま抱きあっていた。 「こうしてるのってすごく気持良い」とレイコさんは言った。 「動かすのも悪くないですよ」と僕は言った。 「ちょっとやってみて、それ」 僕は彼女の腰を抱き上げてずっと奥まで入ってから体をまわすようにしてその 感触を味わい、味わい尽くしたところで射精した。 結局その夜我々は四回交った。四回の性交のあとで、レイコさんは僕の腕 の中で目を閉じて深いため息をつき、体を何度か小さく震わせていた。 「私もう一生これやんなくていいわよね」とレイコさんは言った。「ねえ、そう言っ てよ、お願い。残りの人生のぶんはもう全部やっちゃったから安心しなさいって」 「誰にそんなことがわかるんですか」と僕は言った。 僕は飛行機で行った方が速いし楽ですよと勧めたのだが、レイコさんは汽車 で行くと主張した。 「私、青函連絡船って好きなのよ。空なんか飛びたくないわよ」と彼女は言っ た。それで僕は彼女を上野駅まで送った。彼女はギター・ケースを持ち、二人でプ ラットフォームのベンチに並んで座って列車が来るのを待っていた。彼女は東京に 来たときと同じツイードのジャケットを着て、白いズボンをはいていた。 「旭川って本当にそれほど悪くないと思う」とレイコさんが訊いた。 「良い町です」と僕は言った。「そのうちに訪ねていきます」 「本当」 僕は肯いた。「手紙書きます」 「あなたの手紙好きよ。直子は全部焼いちゃったけれど。あんないい手紙だっ たのにね」 「手紙なんてただの紙です」と僕は言った。「燃やしちゃっても心に残るものは
残るし、とっておいても残らないものは残らないんです」 「正直言って私、すごく怖いのよ。一人ぼっちで旭川に行くのが。だから手紙 書いてね。あなたの手紙を読むといつもあなたがとなりにいるような気がするの」 「僕の手紙でよければいくらでも書きます。でも大丈夫です。レイコさんならど こにいてもきっとうまくやれますよ」 「それから私の体の中で何かがまだつっかえているような気がするんだけれど、 これは錯覚かしら」 「残存記憶です、それは」と僕は言って笑った。レイコさんも笑った。 「私のこと忘れないでね」と彼女は言った。 「忘れませんよ、ずっと」と僕は言った。 「あなたと会うことは二度とないかもしれないけれど、私どこに行ってもあなたと 直子のこといつまでも覚えているわよ」 僕はレイコさんの目を見た。彼女は泣いていた。僕は思わず彼女に口づけし た。まわりを通りすぎる人たちは僕たちのことをじろじろとみていたけれど、僕にはも うそんなことは気にならなかった。我々は生きていたし、生きつづけることだけを考え なくてはならなかったのだ。 「幸せになりなさい」と別れ際にレイコさんは僕に言った。「私、あなたに忠告 できることは全部忠告しちゃったから、これ以上もう何も言えないのよ。幸せになり なさいとしか。私のぶんと直子のぶんをあわせたくらい幸せになりなさい、としかね」 我々は握手をして別れた。 僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことがいっぱいあ る。話さなくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君以外に求めるものは何も ない。君と会って話したい。何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。 緑は長いあいだ電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界 中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。僕がそのあいだガラス窓に ずっと押しつけて目を閉じていた。それからやがて緑が口を開いた。「あなた、今ど こにいるの」と彼女は静かな声で言った。 僕は今どこにいるのだ 僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわし てみた。僕は今どこにいるのだでもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当も つかなかった。いったいここはどこなんだ僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きす ぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中で緑を呼びつ づけていた。 全文完結